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菅原道真公
菅原道真公2

さて、百人一首のねず版解説も、いよいよ8回目を迎えました。
一回に3歌ずつとして、百番が終わるまでにあとまだ25回。まだまだ先が長いです。
けれど、是非ともこれは最後までやり遂げたいです。
なぜならあまりにも、現在市販されている百人一首の解説本の解釈が、浅薄にすぎると思うからです。
私は、古典の専門家ではありませんし、歌詠みでもありません。
しかし、和歌というのは、日本のあらゆる伝統文化の中心をなすものです。
わずか31文字という短い言葉のなかに万感を込め、伝えたい思いを伝える。
先日も書きましたが、人の思いはタテヨコ斜めの立体的なものです。つまり三次元です。
時間軸もプラスしたら四次元といえるかもしれません。
その四次元のものを、一次元の「ことば」で伝えるわけです。


西洋文学では、そのために千万言を費やして、縷々(るる)説明するという方法をとりました。
ですから背景となる情景描写だけで、何ページも費やされるということも、西洋古典にはよくあります。
これは足し算によくたとえられます。
ところが和歌は、引き算です。
わずか31文字という制約の中に万感を込め、短い言葉のなかで、受け手にその真意を察してもらう。
いっけん、どういう意味かわからない歌でも、その意味がわかった瞬間に、詠み手の思いや感動が、まるで怒濤のように、受け手にメッセージとして伝わる。
はっきりいって、これはバカにはできないことです。
ですから、歌の真意を理解するためには、詠み手には伝えるだけの高い教養と技能が、受け手にはそれを受け止めるだけの高い教養と知性が必要です。
これを国の頂点におわす天皇と、庶民が「一体になって」行って来たのが、日本です。
つまり日本人はバカではない。
世界中、どこの国でも、施政者は、施政のために民から教育を奪いました。
西洋においてさえ中世までは、たとえば文字の読み書きさえも、特殊な人だけに与えられた特権とされてきました。
多くの庶民を、政治のいいなりにするためには、まともな情報を与えない。
庶民には、施政者にとって都合の良い情報だけを与え、しかも庶民がその情報を加工したり考えたり評価したりすることを禁止する。
施政者の与える情報に、文句を言うような者がいれば、その者を逮捕投獄し、殺してしまう。
中世ヨーロッパのみならず、近代以降のChinaでは、むしろそれが当たり前のことだったし、朝鮮半島では、なんといまだにそのような愚民政策が政治の根本とされています。
ところが日本では、有史以来、ずっと和歌を通じて、上下が心をひとつにして国つくりをするという統治が行われてきました。
そしてそのために民が高い教養を得ることが奨励されてきました。
それが「シラス国」です。
そこが諸外国の諸民族と、わたしたちの国日本が、まったく異なる点です。
諸外国や諸民族では、統治は「支配」を意味しました。
これが「ウシハク」です。私有です。
ですから統治者は、できるだけ支配しやすいように、民衆から教育を奪いました。
ところがわたしたちの国では、民が統治者の思いを受け止め、民と統治者が一体となって、みんなが良くなれる国を作ろうと、努力が続けられてきました。
そういう統治が、なんと今年で2674年続いているわけです。世界最古です。
だからこそ、世界中に、いろいろな国が興っては消えて行ったなかにあって、日本だけが2674年、日本のままでいます。素晴らしいと思います。
なぜ素晴らしいのか。
2674年分の知恵が蓄積されているということだからです。
諸外国における王朝の交替は、前の王朝のすべての文化を奪い、抹殺するというものでした。
ですから、過去が残りません。
消され、なくなる。それが王朝の交替です。
さて、今回は22番歌の文屋康秀(ぶんやのやすひで)、23番歌の大江千里(おおえちさと)、そして24番の菅家の歌です。
菅家というのは、菅原道真公のことです。
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22番歌 文屋康秀(ぶんやのやすひで)
吹くからに秋の草木のしをるれば
むべ山風をあらしといふらむ
ふくからに
あきのくさきの
しをるれは
むへやまかせを
あらしといふらむ
=========
文屋康秀は、紀貫之が六歌仙のひとりに選んだほどの人で、小倉百人一首でも22番目にその名を連ねる人なのですが、身分は決して高い人ではありません。
身分ではなく、歌の才能で、こうして千年の時を超えて、人々に愛され続けているわけです。
こういう人が人々に記憶されているということだけでも、日本がいかに良い国だといえるかという、ひとつの証になろうかと思います。
さてこの歌は、「古今集」の詞書には「是貞(これさだ)の親王の家の歌合の歌」と書かれています。
歌合(うたあわせ)というのは、歌人が集まって左右二組にわかれ、その詠んだ歌を一番ごとに比べて優劣を競う平安時代の遊びです。
遊びとはいっても、出世に影響があったりもしましたから、真剣勝負です。
「吹くからに」は、吹くと同時に、吹くやいなや、です。
「秋の草木のしをるれば」の「しおる」は、しおれるで、秋風が吹いて、草木がしおれてくるさまとなります。
「むべ山風を」の「むべ」は、なるほど、といった意味です。
ですので通解すると、「秋風が吹く季節となり、草木がしおれてくる季節となりました。なるほど山風と書いて嵐という字になりますな」といったものになります。
なるほど秋は、落葉の季節でもありますし、夏に青々としていた草木が枯れ、風が吹けば樹々の葉が舞い落ちます。
だから、山から吹く風と書いて「嵐」という字になりますな、という句ではありますが、では、この歌のどこが名歌なのでしょうか。
なるほど、たしかに百人一首のかるたとりゲームでは、覚え易い歌として、人気の歌ではあります。
けれど、そのことと歌の持つ深みとか意味とは、何の関係もありません。
おもしろいのは、この文屋康秀について、古今集の序で紀貫之は、「詞たくみにて、そのさま身におよばず。いはば商人のよき衣着たらむがごとし」と書いています。
文屋康秀の歌は、言葉の使い方が巧みなだけで、内容がともなわなわず、いわば商人が見た目だけ立派な衣装に身を飾ったようなものだ」というわけです。ボロクソです。
しかもこの歌自体、実は文屋康秀の作ではなくて、倅の朝康(ともやす)の作品ではないか、などとさえ言われると言う、酷い扱いです。
けれど不思議なのは、その文屋康秀が、なぜ六歌仙のひとりであり、しかもその歌が、どうして我が国を代表する名歌集である百人一首にも挿入されたのかということです。
ひとついえそうなことは、もしかするとこの歌は、言ってはならないことを、実に飄々と、あっさりと言ってのけた歌なのかもしれない、ということです。
そう考えてみると、この歌には不思議なところがあります。
というのは、秋に樹木の葉を散らし、草花を枯れさせる風が「山から吹いてくる」から「嵐」だというのだけれど、秋の嵐といえば、時期的に台風のシーズンです。
そしてその台風は、山からではなく、海からやっててきます。
では、「山から来る嵐」というのは、何を指しているのでしょうか。
ここで、もうひとつ注意しなければならないことは、文屋康秀は、小野小町が惚れるほど、男ぶりの良い男性でした。
時代を代表するほどの女性が、恋するほどの男性です。
おそらくは、相当な色男であったでしょうし、もっというなら、女性がほっておかないほど、男としての自信にあふれた男性でもあったことであろうと思います。
その文屋康秀が、「山から来る風だから嵐だ」というのです。
秋の嵐(台風)は海から来ます。
では、山から来る嵐は、何をさしているのでしょうか。
京都の西には嵐山があり、北東には比叡山があります。
そして山には、仏教の大きなお寺がありす。
仏教寺院が、比較的おとなしい宗教施設となったのは、実は織田信長の比叡山延暦寺の焼き討ちや、秀吉の刀狩りがあってから以降のことです。
それまでは、6世紀(538年)の仏教伝来以来、仏教勢力は僧兵を養う武闘勢力であり、政治に強い影響力を持った政治勢力でもありました。
兵を養い、女犯や深酒はあたりまえ、そのくせ政治的にはおおいに口を出し、時代はずっと下りますが、それだけの武力を持ちながら、元寇という国の大難のときには加持祈祷をするだけで、元と高麗の大軍がやってくるというときに、兵のひとりも出そうとしない。
もちろん、学もあり、また民衆の幸せを本当に願う立派な僧もたくさんいますし、日本全国に寺子屋という形で教育を普及させることに一役も二役もかったりと、我が国にたいへんな貢献をなしてくれた勢力でもあります。
けれどもその一方で、渡来勢力であっただけに、不逞渡来人たちのいわば駆け込み寺となっていたという側面もあったわけで、奈良、平安の昔には、こうした仏教勢力は、ある意味国を荒らす、たいへん困った存在であるという一面もあったわけです。
しかし、さりとてタテマエ上は、人々の幸せを願う仏教施設であるわけですし、多くの民間人の信仰も集めている。
そしてもっといえば、全国からの多額の寄進を集めた、たいへんなお金持ち勢力でもあったわけで、ですからたとえ朝廷の貴族といえども、表立っては、仏教勢力に対する非難や攻撃はできない。
昨今の与党内の二つの政党の関係ともよく似ています。
もし攻撃的な発言でもしようものなら、僧兵たちが音をなしてやってきて、屋敷の前で大騒ぎされてしまうのです。
それに、貴族の中にも、仏教の信者はたくさんいます。
ですから、表立っての非難はできない。
さりとて、中には、そうした武力や宗教的信条を盾にとって、いらぬ騒ぎ立てをする困った僧侶たちが跋扈したということも事実であったわけです。
そうした仏教勢力の過激分子、もしくは不逞仏教勢力とでもいうべき人たちについて、もしかすると文屋康秀は、実にあっさりと、「山から来る嵐」と実に軽妙にしゃれてみせながら、返す刀で「あいつらは草木を枯らす」と、しらっと言ってのけたわけです。
文屋康秀は、冒頭で偉くはなれなかった人であると述べました。
才能があり、能力もあり、自信家でもあり、小町が惚れ込むほどの男です。
才能があれば、それなりの高官に取り立てられた、中世の日本において、それだけの才気がありながら康秀は、決して高位高官に登ることがなかった人でもあります。
それはもしかすると、この歌にあるように、康秀がその自己の才能を過信するあまり、人の言えないこと、言いにくいことでも、さらっと言ってのけてしまうだけの才人であり、その才人であるがゆえに、朝廷中枢からは、かえって危険人物とみなされてしまい、中央から遠ざけられてしまうということだったのではなかったのではないかと、思えます。
朝廷といっても、組織です。
そして組織において、才能のある者が、その才能をいかんなく発揮し、善政のために貢献することは、誰もが望むことです。
けれども、人間、いいときはいいのです。
人の世は、いいときもあれば、逆風のときもある。
とりわけ政治の世界というのは、昨日までの正義が今日は悪となり、昨日までの悪が今日は正義となる。
そのようなことが日常的に起こるのが、政治の世界です。
そしてそのことは、およそ組織と名がつく機構においては、どんな組織にも起こりうることです。
ですから、良いときは良いけれど、ひとたび逆風となったとき、才能のある人がその才気に溺れ、その才能を悪用して世間や組織に牙を剥いてしまう。
こうした事例は、古今に多数の事例があります。
ですから、徳川幕府などでもそうなのですけれど、才能がある自信家だからといって、必ずしも出世できるとは限らない。
なぜなら、その才気が、もし悪い方に向かったら、世が荒れるもとになるからです。
文屋康秀のこの歌は、文屋康秀の才能を如何なく発揮した名歌であるけれど、同時にこの歌は図らずも、言ってはならない一線を、彼が才気のあまり平気で踏み越えてしまう性格の持ち主であることを、はからずも吐露してしまった歌となりました。
藤原定家の百人一首は、元将軍であった素性法師が、戦死した若者の御霊を靖んじた歌のあとに、この、才気あふれる文屋康秀の歌をもってきています。
そしてそのあとに、大江千里、そして本当の本物の才人である菅原道真の歌を配置しています。
そういったことからも、この文屋康秀の歌を通じて、藤原定家が伝えたかったメッセージが、なにやら伝わってくる感じがします。
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23番歌 大江千里(おおえのちさと)
月見れば千々に物こそ悲しけれ
わが身ひとつの秋にはあらねど
つきみれは
ちちにものこそ
かなしけれ
わかみひとつの
あきにはあらねと
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作者は、大江千里と書いて、「おおえのちさと」と読みます。
同じ漢字を書いて「おおえせんり」という現代ミュージシャンがいますが、別人です。
大江千里は、第51代平城天皇の曾孫にあたる人で、父親は高名な漢学者である大江音人(おおえのおとひと)、そして在原業平の甥にあたる人です。
父の影響で、本人も漢学者であったとのことですが、大江千里自身の作となる漢詩は伝えられていません。
むしろ、その漢詩をもとにした和歌が有名な人です。
この歌は、通解すると、「月を見上げると、心が千路に乱れて悲しくなる。わたし一人の秋ではないのだけれど」となります。
歌そのものは、白居易の燕子楼という三首の漢詩の中の、最初の詩を基にしたものといわれています。
その燕子楼です。
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滿窗明月滿簾霜  
被冷燈殘払臥床  
燕子樓中霜月夜  
秋來只爲一人長  
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読み下すと、次のようになります。
満窓(まんそう)の明月、満簾(まんれん)の霜
被(ひ)は冷やかに、燈(とう)は残(うす)れて臥床(ふしど)を払う
燕子楼(えんしろう)の中の霜月(さうげつ)の夜
秋、来(きた)って只一人(いちじん)の為に長し
この歌は、燕子楼で暮らしていた国司の愛妓が、月の美しい秋寒の夜に、残されたわたし一人のため、こうも秋の夜は長いのか、と詠んだ詩です。
この詩を踏まえて大江千里は、わが身ひとりの秋ではないけれど、月を観ると物悲しくなりますなあと詠んだわけです。
秋という季節に、物悲しさを感じるという風情は、むしろ夏の燃えるような恋の季節があり、その夏の終わりとともに、ひと夏の恋が終わる。
そして虫の声がひびき、月が明るく天の高い秋という季節の流れの中に、物悲しい感傷を味わう。
そんな歌といえるかもしれません。
藤原定家が、百人一首の中で、この歌を22番の文屋康秀のあとに、あえてもってきたことには、私は意味があると思います。
というか、この歌があることで、逆に22番の文屋康秀の歌が、わかりやすくなる、といえるかもしれません。
大江千里のこの歌は、大江千里自身が、たいへんな学者であり、優秀な官僚でもあった人でありながら、自分をひけらかしたり、あえて才気に溺れるのではなくて、漢詩を題材に、その中に自分をすこしだけ表現するという、ちょっぴり控えめな性格が良くあらわれた歌ということができるからです。
才気に走るのではなく、自分を抑えて、控える。
自分から私は才能があります、と自慢、自薦するのではなく、他の優秀な人をちゃんと立てながら、その中で、自分の分(ぶ)をわきまえる。
そういうことの、大切さを、歌の順番から感じとらせてくれているように思います。
大江千里は、宇多天皇の歌合に参加して才能を認められ、寛平6(894)年には、宇多天皇から、直々の勅命によって大江家の家集「句題和歌」を撰集し、献上する栄誉に授かりました。
また、菅原是善とともに、「貞観格式」の選者ともなっています。
大江千里は、立派に家名を上げ、家名も遺したのです。
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24番歌 菅家
このたびは幣も取りあへず手向山
紅葉の錦神のまにまに
このたひは
ぬさもとりあへす
たむけやま
もみちのにしき
かみのまにまに
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最高に栄達し、遣唐使の廃止を行うことで歴史に名を残し、死後は学問の神様、天満天神様として、いまなお高い人気を誇り、信仰を集めている菅原道真公の歌です。
百人一首では、名をあえて「菅家(かんけ)」と書いています。
これは、「高貴な人には名前を呼ばない」という古来の伝統に従ったものです。
簡単にいうと、身分の高いAさんと、身分の低いBさんがいた場合、Bさんは、なんのたろべいと、自分の本名を名乗らなければなりませんが、位の高いAさんは、仮名や通称で名乗れば良いという、これは古代からのしきたりです。
和歌山県の隅田(すだ)八幡神社に「人物画像鏡(じんぶつがぞうきょう)」という国宝があります。
そこには、次の文字がきざまれています。
「癸未の年八月、孚弟王、意柴沙加の宮に在す時、斯麻、長く奉えんと念い、中費直・穢人今州利の二人の尊を遣わし、白す所なり」。
文中にある孚弟王(ふとおう)というのは、第26代継体天皇のことです。
その継体天皇のところに、斯麻(しま)という人が、長く使えようと思って使いをよこした、というわけです。
ではその斯麻(しま)という人が誰かと言うと、百済の武寧王(ぶねいおう)のことです。
斯麻(しま)は、武寧王の本名です。
本名を名乗るということは、下座につく、下位につく、ということです。
上のものは本名を名乗らず、下の者が本名を名乗る。
それが古代のしきたりです。
文中の癸未の年というのは、西暦503年で、継体天皇が即位されたのは507年のことです。
つまり朝鮮の百済王が、即位前の継体天皇に、これは明らかに臣下の礼をとっていたことを表わします。
このように、高貴な人については、本名を言わない。書かない。
小倉百人一首が成立したのは、13世紀の前半、菅原道真公がお亡くなりになったのが903年で10世紀のはじめです。
つまり、菅原道真公がお亡くなりになって300年も後の世になって、なお、道真公は本名を呼ぶことがはばかれるほどの高貴なお方とされていた、ということを、この「菅家」という表現は意味しています。
さて、その菅家の歌です。
「このたびは、幣(ぬさ)も取りあへず手向山」が上の句です。
「このたびは」は、「この度は」と、「この旅は」の両方の意味に掛かっています。
「幣(ぬさ)」というのは、昔、道中の安全のために、布や紙で作った紙幣のようなものを、神に捧げたもののことです。
その幣(ぬさ)も「とりあへず」というのは、「取り揃える間がなかった」あるいは、下の句の紅葉の錦とのかかわりから、「持参した御幣など、捧げものになりませんが」という二つの意味にかかっています。
次の「手向山(たむかやま)」というのは、奈良市雑司町にある手向山八幡宮であるともいわれていますが、はっきりとはしていないようです。
むしろ、「神に御幣を捧げる山」という意味で使われたというのが一般的な解釈です。
下の句は、「紅葉(もみぢ)の錦 神のまにまに」とあります。
「神のまにまに」は、「神の御心のままに」というような意味とされています。
通解しますと、「この度の旅では、道中の安全を願って神に捧げる御幣も取り揃える間がなかったけれど、かわりに見事な錦のような紅葉を神々の御心のままに手向けますね」といった意味になります。
菅家ほどの人物が、御幣を持参しなかったとも考えられませんし、位の高い方ですから、お付きの人もいたことでしょうから、御幣を「取り揃える間がなかった」というのは、ちょっと「?」です。
そもそもこの歌は、道真の才能を見出し、右大臣にまで取り立ててくれた宇田上皇(朱雀院)が、奈良県吉野郡吉野町の宮滝(みやたき)に行幸されたときに、お伴した道真が詠んだ歌です。
この行幸は、たいへん盛大なものだったようで、多数の高官がお供をしていました。
ですから、それだけの行幸に際して、単に道真公が、出発前に御幣を「忘れました」というのは、いかにも、ありえない解釈と言わざるを得ません。
ということは、「幣も取りあへず 手向山」というのは、むしろ下の句にある「見事な錦のような紅葉を神々に手向ける」といったシチューションと理解したほうが、むしろ正しいのではないかと思います。
そしてこの歌の、もっとも大切なことが、最後の「神のまにまに」です。
神の御心のままに、というこの言葉は、道真公が、まるで錦のような見事な紅葉を、自分たちが楽しむというのではなく、神への捧げものと詠んでいる点に注意が必要だと思うのです。
道真公は、若くして宇多天皇の信任を得て、醍醐天皇代には、右大臣にまで大抜擢された人物です。
そして長年の懸案であった遣唐使の廃止を断行しました。
遣唐使は、藤原一門の富の源泉です。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠んだのは、道真よりも少し後の時代の藤原道長ですが、藤原一門は、遣唐使を経由して巨額の富みを貯え、その富みをもって朝廷に深く食い込み、権勢を誇っていたわけです。
けれど遣唐使は、旅そのものの成功率が5割程度でしかない危険な旅であることに加え、遣唐使を経由して、あまりよろしくないものも日本に多数はいってくる。
その結果、巷には、意味不明な残酷な殺人事件や、窃盗、強盗、強姦などが頻発し、民の暮らしがおびやかされる。
一部の人たちの栄耀栄華のためだけに、遣唐使を続行するのか、むしろ国を閉ざしてでも、民が平和に安心して暮らせる社会を築くのかと問えば、誰がどうみても、正義は後者にあります。
けれど、そこに利権が絡むと、正義は正義として通用せず、民の苦しみは無視し隠され、利権と権力のある者たちだけが肥え太る。
これまた今も昔もかわらぬ現実です。
とりわけ、ChinaやKoreaというきわめて特殊な人種を隣国とする日本は、明治の中頃に福沢諭吉が脱亜論を明確に説いていたにもかかわらず、その後もずるずるとChinaやKoreaに翻弄され、日清、日露、China事変、そして戦後も相変わらずChina朝鮮に翻弄され続けています。
菅原道真公は、遣唐使の廃止を断行し、その後幕末の開国までおよそ千年の鎖国を実現しましたが、しかしこのことは同時に、China利権を牛耳る藤原一門を敵にまわすということでもありました。
道真公は、藤原氏による排斥運動に遭い、遣唐使廃止の二年後には大宰権帥に左降され、宇多上皇の弁護も空しく太宰府でお亡くなりになっています。
ところがその後、左大臣藤原時平やその子供たちが相次いで早世し、また清涼殿に雷が落ちるなどの凶事が立て続けに起きたため、これは民のため、国のために正しいことをした道真公の怨霊のなせるわざに違いないといという噂が広がり、道真公は、太政大臣を追贈され、さらに北野天満宮に天神として祀られるようになりました。
すこし考えたらわかることなのですが、怨霊となって祟った人が、なぜ天満宮の天満様になるのでしょうか。
天満様とは、天に満ちるありがたい神様です。
怨霊なら、ちっともありがたくない。
つまり、どれだけ多くの人が、当時、ChinaやKoreaとの国家的断行を待ち望み、また喜んだのか、ということを、この名前は、見事に象徴しているといえます。
それだけのすごいことをした道真公が、この歌を詠んだのは、ある意味道真公の全盛期に、道真公をもっとも可愛がってくれた宇多上皇の秋の紅葉狩りの行幸のときのことです。
その、歴史に残る偉業を成し遂げた菅原道真公の、その全盛期のときの歌が、「神のまにまに」、つまり、「神の御心のままに」であり、そして御幣などではなく、目の前に広がる素晴らしい紅葉をこそ、神に捧げますと、詠んでいるわけです。
そこにはっきりとあらわれているのは、道真公が、どこまでも「俺が俺が」ではなくて、あくまでも神々の御心に忠実であろうとしたという、その姿勢です。
道真公は、若くして高官に取り立てられただけでなく、素晴らしい業績を残した大政治家です。
いわば、超大物です。
それだけの超大物が、「俺が」ではなく、あくまで「神のまにまに」という姿勢でいる、ということなのです。
ここにいたるまでの百人一首の歌の順番を、すこしさかのぼってみます。
21番の素性法師は、戦いで亡くなった兵のために、大将軍みずからが僧となり、亡くなった部下の御霊を弔うという歌でした。
22番の文屋康秀は、素晴らしい才能を持ちながら、ある意味才に溺れ、言ってはならないことを言ってしまった男の歌でした。
23番の大江千里は、分をわきまえ、「自分が」ではなく、あくまで白居易という詩人を立てながら、自己を表現することで、大江家の名を後世に残した人でした。
そして24番は、あえて「菅家」として、菅原道真公の「神のまにまに」と、自身の才能も学問も、すこしも鼻にかけることなく、どこまでも謙虚に、そして民のためにやるべきことを果敢に実行した大政治家の歌と続いています。
謙虚であること、政治は民のためにこそあるということ、献上の美徳、そして西洋的な意味における「神の御心のままに」と異なり、日本の神は、八百万の神々です。
およそ自然そのもの、森羅万象のすべてが、我が国では、神々そのものと解されます。
そして「神のまにまに」という言葉の中には、人も、そうした森羅万象の中のひとつに他ならないこと、自然界の中にあって、自然界とともに、人々が自然に自然体で過ごし生きることができることの幸せ、そのためにこそ、政治も、才能もあるということを、道真公のこの歌は、道真公の意図や歌意からさえもはなれて、わたしたちに教えてくれている。
そんな気がします。
素晴らしい歌です。
さて、お固い歌の次は、三条右大臣の逢坂山の歌です。
そこには、どんな意味が隠されているのでしょうか。
次回乞うご期待です。
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