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komachi3-1

百人一首は、中盤、恋の歌が増えてきます。
私は恋愛にはいい歳をしていまだにオクテで、実はとっても苦手なところです。
恋達者の人からみたら、もしかすると解釈に違いがあるかもしれません。
ただ、先般ご紹介した18番歌の藤原敏行朝臣のように、秩序観からたとえどんなに好きでも、その恋心は夢の中だけにして、決して表には出さない、そんな気持ちの歌は、なんだかいかにも男の歌という感じがして、とてもよくわかる気がします。
百人一首は、順番にみて行くと、歌そのものが理解しやすくなるように、ほんとうに良く名歌を並べた歌集だと思うのですが、実は、この18番歌の藤原敏行朝臣の男の恋歌の次に来るのが、女性の恋歌である伊勢の歌です。
この18番歌と19番の伊勢の歌の対比は、恋に不器用な男の歌と、恋に生きた女性の歌という、これまた明確な対比となっていて、実に興味深いものがあります。


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19番歌 伊勢
 難波潟短き蘆のふしの間も
 逢はでこの世を過ぐしてよとや

なにはかた
みしかきあしの
ふしのまも
あはてこのよを
すくしてよとや
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この歌の解説にあたっては、先に、伊勢という女性について書いておく必要があるかもしれません。
伊勢は、9世紀の中流貴族である伊勢守藤原継蔭(ふじわらのつぐかげ)の娘です。
宇多天皇の中宮温子(おんし)に仕えたのですが、その中宮温子の実兄の藤原仲平(ふじわらのなかひら)と大恋愛の上、恋に破局してしまいます。
その後、仲平の兄弟の時平や、平貞文と交際の後、宇多天皇の寵愛を受け、天皇の皇子を生み、伊勢の御息所(みやすどころ)と呼ばれる女性となりました。
ところが、その皇子が、まだ幼いうちに早世してしまいます。
悲しみの中、こんどは宇多天皇の皇子である敦慶親王と結ばれ、女流歌人の中務(なかつかさ)を生んでいます。
恋多き女性ともいわれますが、ものすごい文才に恵まれた女性で、自分の歌集である「伊勢集」を遺しています。
その伊勢集となると、もう恋の歌のオンパレードで、この歌集が、後に「和泉式部日記」などの女流日記文学へと発展する基礎を担ったといわれています。
ただ、恋の歌をたくさん遺したから、恋多き女性というのは、いささか短絡的すぎるようにも思います。
我田引水になりますが、恋が苦手だからこそ、恋の歌をたくさん遺した、実際にはそんなものじゃないかな、と思うのです。
恋への憧れと、恋をすることは、また違います。
そして人は、手に入らないからこそ、なおさら求めてしまう。
そういうことってあると思うのです。
というか、世の中って、そういうものなのではないでしょうか。
さて、19番歌です。
はじめの「難波潟(なにわかた)」というのは、大阪湾の入り江のことです。
いまでは工業地帯になっていますが、昔は遠浅で干潟が広がる入江で、そこにはたくさんの芦(あし)が生えていました。
「みじかき芦の」の「芦(あし)」は、「葦(あし)」とも書きます。
「あし」という呼び名が「悪し」に通じるというので、「よし」とも呼ばれ、これを使った代表的な道具に「よしず」があります。
葦は、高さが2〜3メートルにもなる草で、古来日本人は、この葦をさまざまなことに役立ててきました。
次の「みじかき芦の」というのは、葦そのものが短いというだけでなく、「ふしの間も」にかかり、短い時の間という意味にもかかっています。
葦には節がありますが、その節と節の、短い間というところに、「逢っている間のほんのわずかな時間」という意味が掛けられているわけです。
下の句は、「逢はでこの世を過ぐしてよとや」で、「逢わないでいて、この世の一生を過ごしてしまえとあなたはおっしゃるのですか?」という意味です。
「過ごしてよ、とや?」です。
通解すると、「難波潟に生い茂っている芦の節と節との間の短さのようなほんの短い時間も、あなたは、逢わずに、一生を過ごしてしまえと、おっしゃるのですか?」といった意味になります。
ほんのわずかな間も、ピトッとくっついていたい。
ずっと側にいたい。
ほんの一瞬でも離れていたくない。
ぴったり寄り添っていたい。
好きな人といるときに、そういう気持ちというか衝動に駆られるのは、女性のある意味、本能なのだそうです。
それにしても、伊勢のような美しい女性と一緒にいて、その女性からちょっと上目遣いに「みじかき芦のふしの間も逢はでこの世を過ぐしてよとや?」なんて言われたら、言われた側の男性は、もうメロメロです。
もぉ〜〜、この男殺しぃ!!みたいな感じかもです。
男性は、遠く離れていても、変わらぬ愛を保ち続けます。
戦いに臨み、故郷を遠く離れていても、家族のために、愛する人のために、命を的に戦う。
それが男という生き物だからです。
そういう男性と一緒にすごす時間を、どこまでも大切にしたいと願う、これまた女性の古来変わらぬ女心というものかもしれません。
千年前も千年後も、人は人です。
伊勢のこの歌には、共感する女性も多いのではないでしょうか。
そして男性にとって、この伊勢の歌は、いわば永遠の憧れのシーンといえるかもしれません。
=========
20番歌 元良親王(もとよししんのう)
 わびぬれば今はたおなじ難波なる
 みをつくしても逢はむとぞ思ふ

わひぬれは
いまはたおなし
なにはなる
みをつくしても
あはむとそおもふ  
==========
大阪市にお住まいの方なら、この歌は常識歌となっていてもよい歌です。
というのは、この歌にある「みをつくし」は、「身を尽くし」と「澪漂(みおつくし)」の掛詞で、「澪漂」というのは、海上での船舶用の標識で、大阪市の市章にもなっているマークだからです。

大阪市市章

また「身を尽くし」は、朝の連続テレビ小説で沢口靖子が主演した「澪(みを)つくし」がありました。
このタイトルも、大阪の市章も、この元良親王の歌がもとになっているものです。
「わびぬれば」というのは、「想いわずらえば」という意味です。相当、せっぱつまった気持ちを表します。
「今、はた同じ」の「はた」は、「また」と同じで、「今となっては同じこと」という意味です。
「難波なる」の「難波(なにわ)」は、大阪のことで、次の「澪漂(みおつくし)」に掛かります。
澪標というのは、港などの海上で、海が浅くて船に座礁の危険があって通れないところと、水深が深くて航行が可能な場所(澪)との境に並べて設置する、航路を示す海上標識です。
ですから、想い煩い、いまとなってはドン詰まりの切羽詰まったギリギリの状態にあり、それはまるで海上標識の澪標識のある場所と同じ、ある種の境界線上だけれど、そこで「わが身を尽くす」、つまり「わが身をたとえ滅ぼしたとしても」、と続くわけです。
で、「わが身をたとえ滅ぼしたとしても」、何をしたいのかといえば、「貴女に逢いたい」のです。
なんだか、ものすごく緊迫感のある歌ですが、それもそのはず、この歌は、元良親王が、時の宇多法皇の愛妃である京極御息所との不倫の関係が発覚したときに詠んだ歌とされています。
世間のすべてを敵にまわしても、それでも愛する貴女に逢いたい。
そんな強い熱情を謳いあげているわけです。
なんだかとてもロマンチックです。
ところが現実は、ちょっと厳しいです。
元良親王(もとよししんのう)と言う人は、10世紀の初頭の人で、陽成天皇の第一皇子で、生涯に30人以上もの女性と関係を持ったという色男です。
まさに愛のために生きたような男性です。
元良親王は、皇子ですし、歌もたいへんにお上手で、知的な男性ですから、まさに家柄良し、頭良し、経済力ありと三拍子揃った貴公子です。
性格もきっとやさしかったのでしょう。
たくさんの女生と関係をもったそうです。
きっと見た目もいい男だったのだろうと思います。
多くの場合、こうしたモテ系男子というのは、さみしがりやさんが多いようです。
いつもみんなと一緒にいたい。
そして女性との接点が多くて、女性に対しても積極的だから、たいへんによくモテます。
歌を詠んだのが元良親王なら、歌のお相手は、京極御息所(きょうごくのみやすどころ)です。
この女性は、宇多法皇の子を3人も産んだ藤原褒子(ふじわらのほうし)といわれています。
この女性の美しさは、志賀寺上人という生涯女性と付き合わなかった90歳の名僧さえも、恋狂いにさせてしまったほどだというくらいですから、相当なものです。
学識が高く、見目麗しく、情もこまやかで、ちょっとした仕草も、まるで舞を舞うような優美さと気品があり、修行を積んだ高僧さえもうっとりさせてしまう。
そんな魅力のある女性だったのでしょう。
一般に言われていることは、この二人が出会い、恋に落ち、逢瀬を重ね、けれど二人が出会ったときの、藤原褒子は、すでに宇多法王の子を産んだ御息所で、二人は、宇多法皇の目を避けながら、イケナイことと知りつつ、逢瀬を重ね、それがついに露見してしまう。
元良親王は、謹慎処分となり、二人の逢瀬も禁じられ、そのときに元良親王が、その熱情を詠んだのが、この歌とされています。
ここまであなたを想いわずらってしまったけれど、今となっては、難波の海の澪漂と同じこと。たとえ私の身が滅んでしまったとしても、いまはただただ貴女に逢いたい、というわけですから、なんともまあ、情熱的な恋歌です。
気持ちとしては、あるいは歌としては、心に残る名歌です。
ただ、事実関係となると、だいぶ様子が異なるようです。
まず藤原褒子は、遣唐使の廃止を行った菅原道真を政界から追放した藤原時平の娘です。
一方、宇多上皇は、菅原道真を起用し、まさに遣唐使の廃止のために尽力した上皇です。
この遣唐使の廃止というのは、ものすごく簡単に図式化すると、まず唐との交易は、船の往来が成功すれば、莫大な富みをもたらすものです。
古来、政治と利権は切り離せないものです。
当然、そこには巨額の利権を得る貴族たち、つまり藤原一族がいます。
けれどChinaとの交易というのは、今も昔も変わりません。
巨額の利益がある一方で、ろくでもない、来てほしくない不良外国人がもれなく付いてきます。
そうすると、古来の日本社会ではあり得ないような犯罪が頻発するし、富みというのは一定のパイの奪い合いですから、一部の人たちが巨利をむさぼるということは、他の多くの民衆は貧しくなるわけです。
この、民の安心できる暮らしをとるか。一部貴族の欲得と利権をとるかということは、古来変わらぬ、政治の永遠のテーマです。
貴族の欲をとれば、民が苦しむ。
民の安寧をとれば、一部の権力のある大金持ち貴族が、ありとあらゆる抵抗勢力となる。
なにせ、巨利を得ていた人たちが、その利権を失うのです。
当然、大きな抵抗が生まれる。
そんな中にあって、民こそ国の宝という日本古来の伝統に従って、断固遣唐使廃止に踏み切ったのが菅原道真公です。
そしてその菅原道真公を重用したのが宇多上皇です。
一方、このことによって、遣唐使利権を失い、怒り心頭だったのが、藤原時平であったわけです。
藤原時平にしてみれば、交易利権を失ったとしても、政治権力を失うわけにはいきません。
そこで、美人の誉れ高い娘の藤原褒子を、上手に宇多上皇に近づけ、宇多上皇の妻にしてしまうわけです。
もともとは藤原褒子は、それこそ産まれたときから、醍醐天皇の女御として入内することが決まっていたのです。
これを時平は、家を残すために、見事にひっくり返したわけです。
これはまさに政略婚そのものです。
ですが、藤原褒子は、とんでもない美人です。
宇多上皇は、褒子をたいへん気に入られます。
そして褒子を六条京極の河原院に置いて寵愛し、3人も子をもうけます。
ところが、この褒子に、女好きの元良親王が、横恋慕してしまったというわけです。
問題はこの元良親王です。
実は、宇多上皇に対しては、腹に一物があります。
というのは、宇多上皇は、妹の子の陽成院を、天皇に就けてしまうのです。
もし、陽成院が陽成天皇とならなければ、もしかすると元良親王が、元良天皇となったかもしれなかったのです。
元良親王は、女性とみれば見境なく、恋歌を送って口説こうとした男です。
もしかすると、自分が天皇になれなかった腹いせに、宇多上皇が寵愛する藤原褒子を口説き落すことで、宇多上皇に恥をかかせようとしたのかもしれません。
ところが、その横恋慕が、バレてしまう。
そして元良親王は、謹慎処分となるわけですが、ここが実は問題で、歌だけみると、「身を尽くし(身を破滅させてでも)」というのですが、その後、特段、元良親王が、身を破滅させたという記録はないのです。
どうやら結論からいうと、あらぬ歌を詠んだということで、一時的な謹慎になっただけで、元良親王と褒子との間には、実は何もなかったようなのです。
というのは、藤原褒子は、
 墨染めの濃きも薄きも見るときは
 重ねて物ぞかなしかりける
という歌を遺しています。
この歌は、むしろ夫である宇多上皇へのやさしい気遣いを詠んだ歌です。
もっというなら、褒子が、元良親王への思慕をにおわせるような歌さえありません。
普通に考えたらわかるのですが、宇多上皇の子を三人も産んだ藤原褒子にしてみれば、愛する人は、宇多上皇です。
ハナから元良親王など、眼中にないのです。
まして幼い子のいる母親です。
愛情の全ては、宇多上皇と3人の子に注がれ、ハナから元良親王など、そもそもまったく眼中にない。
つまり、藤原褒子と元良親王の不倫の恋の物語というのは、現実にはただの元良親王の独り相撲だったということです。
褒子は、最初から、元良親王のことを、まるで相手にしていなかったし、おそらくは不倫の関係そのものも、まったくなかったというのが、どうやら現実です。
この点については、諸説ありますが、すくなくとも、前後の歴史の経緯からするに、この見方、つまり、お二人には、何もなかったというのが、実際のところであったように思います。
宇多上皇と藤原褒子との結婚が、たとえ政略結婚であったとしても(正妻ではありませんが、わかりやすくするためにあえて結婚と書きます)、宇多上皇が美しい褒子を愛したのは事実だし、子を持つ女性として、褒子がそんな宇多上皇を、生涯愛し続けたというのも、また事実です。
そもそも美しさというのは、年齢とともに、生き方やその人の人生が、顔に出てしまうものです。
90歳の老僧をして、心を打たせるだけの美しさというのは、褒子が、どれだけまっすぐな善い人生を送って来た女性であるかを象徴しているといえるのではないか。そのように思います。
一方、宇多上皇は、なるほど菅原道真を抜擢し、彼をして遣唐使廃止という大英断をふるい、その後、かつての遣唐使推進派の恨みを買った菅原道真が失脚したとしても、宇多上皇には、その後の政治を安定させていかなければならないという責務があります。
国の乱れは、民の生活を圧迫するからです。
だからこそ、宇多上皇は、反対派の藤原時平の政略にあえて乗って、彼の娘の褒子を河原町にかこったし、また宇多上皇が褒子を愛し、子をもうけることは、そのまま、菅原道真を追った藤原一門への大きな懐柔にもなったのです。
そういう高度な政治的配慮の中にあって、元良親王は、ただおのれの欲望のためにだけ、褒子を口説き、我が物にしようとしました。
なるほど、歌は、不倫がバレても「みをつくしても逢はむとぞ思ふ」と情熱的ですが、これは、あくまで、歌の世界だけでのことです。
実際には、元良親王は、身もつくしてないし、そもそも純粋に「わびぬれば(=想いわずらえば)」といえる恋が根っこにあったのかといえば、かなり疑わしい。
百人一首は、18番に藤原敏行朝臣の「夢の通ひ路人目よくらむ」の歌を配し、秩序を大切に、自分の恋心を押さえる理性をまず指し示しました。
次いで、19番歌では、愛のために「短き蘆のふしの間も 逢はでこの世を過ぐしてよとや」と詠み上げる伊勢の恋歌を掲げました。
この2つは、まさに真実の恋といえるものであったろうと思います。
けれど、続く20番の元良親王の歌は、歌は「みをつくしても逢はむとぞ思ふ」という、たいへんロマンチックで情熱的な歌ですが、これはただのお芝居でした。
恋に焦がれてロマンを求めても、そこには落とし穴もあるんだよ。なんだか選者、藤原定家のそんな声が聞こえてきそうです。
「ロマンは、歌の中、想像の中だけ。
実際に起こってしまったら、本当に経験してしまうのは、実は、野暮。
想像の世界だからこそ、そこにロマンもあれば激情もあるのだけれど、大人の恋はリアルに手を伸ばしてしまえばそれまで、ということなのかもしれません。
もっとも、どうしてせっかくの元良親王の、こんなにロマンチックな愛の歌に、こんな落とし穴を言うのかと、お怒りの方もおいでになるかもしれません。
実は、その答えが、次の次の21番の素性法師(そせいほうし)の歌にあります。
=========
21番歌 素性法師(そせいほうし)
 今来むといひしばかりに長月の
 有明の月を待ち出でつるかな

いまこむと
いひしはかりに
なかつきの
ありあけのつきを
まちいてつるかな
=========
素性法師(そせいほうし)というのは、あまり詳しい事はわかっていない人です。
ただ、もとは俗名を良岑玄利(よしみねのはるとし)といって、左近将監(さこんのしょうかん)です。
左近将監というのは、近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)の一角です。
同じ役職をいただいた歴史上の人物といえば、徳川家康がこれにあたります。
まさに、武門のトップだった人なのです。
ところが、この良岑玄利は、その近衛大将という要職を捨て、出家して、権律師(ごんのりっし)となりました。
お坊さんとしては、僧正、大僧都(だいそうず)に続く高官ですが、出家するというのは、この世の生を捨てて、生まれ変わって別な存在(仏に帰依した僧)となるということを意味します。
なぜ、良岑玄利は、身分を捨て、家を捨て、出家して素性法師となられたのでしょう。
実は、良岑玄利は、大きな戦いを責任者として遂行し、多くの仲間の命を失い、戦いには勝利したものの、その責任を取って出家して、亡くなられた敵、味方の御霊の供養に生涯を捧げられた方です。
この歌の通解で、よく最近の本に書かれているのは、歌の意味は「今すぐに参りますよ、とあなたが言ったので、秋の夜長にひたすら待っていたら、有明海に、夜明けの月が出て来てしまいました」と、女性の立場で詠んだ歌だというものです。
なにやらそれだけ聞くと、素性法師がいわゆるホモの「おねえ」で、好きな男に騙されて、みたいな歌に聞こえてしまいます。
間違いではないかもしれませんが、そういう解釈では、歌が泣きます。
さきほども書きましたように、もとももとは素性法師は、近衛大将です。
9~10世紀初頭にかけて生きた人で、10世紀初頭といえば、藤原純友の乱などがあった時代ですが、素性法師が良岑玄利(よしみねのはるとし)という名の左近将監をしていた時代の戦が、具体的にどの戦を指すものなのかは、はっきりとはわかりません。
ただ、有明というくらいですから、九州北部で大きな戦があり、良岑玄利は、その戦の最高責任者として、陣頭指揮を執ったのでしょう。
そして多くの血が流れたわけです。
戦いは、良岑玄利の名指揮によって、勝利に終わりました。
けれど事件後、良岑玄利は、出家し、仏教界の大御所である権律師という立派な役名をもらって、戦でお亡くなりになられた兵たちの家を一軒一軒、尋ねてまわり、その家の仏壇に手を合わせ、経を唱える旅をされたのではないかと思えるのです。
そんなある日、尋ねて行った兵の家で、亡くなった兵士の、それは妻なのか、母なのかはわかりませんが、その女性が、
「あの人(子)は、戦に出発するときに、今度の戦いは、簡単な戦だから、きっとすぐに帰れるよ(今来むと)と言いのこして出て行ったんですよ。だからきっと帰ってくるって信じて待っていたんです。けれど、あれから何ヶ月も経って、有明の夜明けに月が出る季節になってしまいました。なのにまだ帰って来ないんです。」
そう言って、涙をこらえる女性の前で、ただ黙ってうなだれるしかなかった、出家した元近衛将軍。
この歌は、そんな情景、あるいは実話を、詠んだ歌なのです。
実際、同様の話は、日清、日露、あるいはChina事変や大東亜戦争のときにも、たくさん残っています。
有名なもののひとつが、China事変のときの松井岩根大将で、彼は興亜観音を寄進していますし、また乃木大将は、日露戦争の戦没者のために、全国の神社に「忠魂碑」を寄進されています。
少し古い話ならば、戦国時代の名将が、出家して仏門に入り、なくなった将兵の御霊を安んじることに生涯を捧げたという話なども、たくさん残っています。
似たような話があります。
大東亜戦争で、特攻隊の指揮官だった玉井浅一司令は、戦争が終わった昭和22年の猛暑の日、愛媛県の関行男大尉の実家に、大尉の母のサカエさんを訪ねたのです。
玉井元司令は、関大尉の母に両手をついて深く頭を下げると、次のように言いました。
「自己弁護になりますが、簡単に死ねない定めになっている人間もいます。私は若いころ、空母の艦首に激突しました。
ですから散華された部下たちの、張りつめた恐ろしさは、少しはわかるような気がします。
せめてお経をあげて部下たちの冥福を祈らせてください。祈っても罪が軽くなるわけじゃありませんが。」
この後、玉井司令は、日蓮宗のお坊さんになりました。
そして海岸で平たい小石を集め、そこに亡き特攻隊員ひとりひとりの名前を書いて、仏壇に供えました。
そしてお亡くなりになるその日まで、彼らの供養を続けられています。
武将であれば、国を護るために戦わなければなりません。
けれど戦えば、敵味方を問わず、尊い命をたくさん失うことになる。
戦えば、人が死ぬのは当たり前という、人の命をなんとも思わない将軍や王が、世界の歴史にはたくさん登場しますけれど、日本の将は、古来、部下たちの命を、どこまでも大切にしたのです。
そしてそういう日本人の武人の心を、この歌は、見事に象徴しているように思います。
そして良岑玄利(よしみねのはるとし)左近将監は、この歌の詠み手の名前に、元の左近将監だった頃の名前ではなく、そっと「素性法師」とだけ添えました。
その心。
それが、古来変わらぬ、日本人の心なのだと思います。
18番に藤原敏行朝臣の「夢の通ひ路人目よくらむ」という秩序を大切する心、19番歌に女性である伊勢の恋歌、そして20番は、元良親王の「みをつくしても逢はむとぞ思ふ」といいながら、実はウソという人の世のこわさ。
そして続く21番では、素性法師と名乗る元左近将監が、戦死した子(もしくは戦死した愛する夫)の帰りをいつまでも待つ愛が配されています。
真実ってなんだろう。
本当にたいせつなことってなんだろう。
そういうことを、読み手に考えさせずにおかない、実に凄味のある百人一首の歌の配置に思えます。
さて、次の22番歌は、文屋康秀(ふんやのやすひで)です。
文屋康秀は、小野小町の彼氏としても有名な人です。
彼は三河に赴任が決まったときに、小町に、一緒に三河に行かないかと誘っています。
そのときに小町が答えて詠んだ歌は、
 わびぬれば 身を浮草の 根を絶えて 
 誘う水あらば いなむとぞ思ふ
というのです。
浮き草のように私の根を断ち切ってあなたが誘い流してくれるなら、私はあなたについて行きますわ、つまり小町は康秀に、「私、あなたに付いていきます」と答えているのです。
こう返された文屋康秀は、結局、小町を連れず、単身で三河に赴任しました。
小町は、「一緒に行く」と言ってくれたのです。
康秀は、涙が出るほど嬉しかったにちがいありません。
けれど、なんでも揃っている都会暮らしと異なり、草深い田舎の三河の暮らしは、愛する小町にとって、きっと難儀な暮らしになる。
康秀は、三河に行ったときの小町の難儀を思い、ひとり黙って三河に旅立ちました。いい男じゃないですか。
そんな文屋康英の歌として、藤原定家が百人一首に選んだのが、
 吹くからに
 秋の草木(くさき)の しをるれば 
 むべ山風を 嵐といふらむ
という歌です。
さて、この歌には、どんな思いが隠されているのでしょうか。
続きは、また次回。
お楽しみに♪
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