
このところ、百人一首の解説をポツポツかいているのですが、今日は、ちょっと脱線して、「歌会始(うたかいはじめ)」のことを書いてみたいと思います。
「歌会始」は、鎌倉時代中期の亀山天皇の文永4年(1267)1月15日にその記録があり、以来800年、ほぼ毎年行われている宮中行事です。
明治7年(1874)には、一般の国民の和歌も詠進(えいしん)が許されるようになり、貴賎を問わない庶民参加の歌会始となって、現在に至っています。
こうした皇室の文化行事が、一般の国民参加で催されるというのは、世界に類例のないことです。
和歌は、日本のあらゆる伝統文化の中心をなすものといわれています。
なぜなら和歌は、31文字という短い言葉のなかに、万感を込めるものだからです。
和歌は、表面上の字面にあらわれたもの自体が、ひとつのメッセージとなることもありますが、多くの場合、その文字に書かれていないところに、その歌の持つ真意があります。
言葉にできない思いを、言葉で伝える。
それは、考えてみればとってもむつかしいことです。
なぜなら、人の思いはタテヨコ斜めの立体的なものだし、時間軸もプラスされます。
つまり四次元です。
その四次元のものを、一次元の「ことば」で伝えるわけです。
そのために千万言を費やして、縷々(るる)説明するという方法もあろうかと思いますが、そうではなく、短い言葉のやり取りのなかで、受け手にその真意を察してもらう。
そして察することのできた、その瞬間に、その詠み手の思いや感動が、まるで怒濤のように、受け手に伝わる。
そうすることによって、互いにその心を理解しあう。
これは、バカにはできないことです。
ですから、ご皇室や陛下の思いを、政治や庶民が受け止めるためには、受け止め得るだけの受け手の側に教育、教養が必要です。
それが「シラス」国の根幹です。
だからこそ、わたしたちの国では、古来、庶民に高い教育を授けてきました。
そこが諸外国の諸民族と、わたしたちの国、日本の大きく異なる点です。
諸外国や諸民族では、統治は「支配」を意味しました。
これが「ウシハク」で、私有です。
ですから統治者は、できるだけ支配しやすいように、民衆から教育を奪いました。
ところがわたしたちの国では、民が統治者の思いを受け止め、民と統治者が一体となって、みんなが良くなれる国を作ろうと、努力が続けられてきました。
そういう統治が、なんと今年で2674年続いているわけです。
世界最古です。素晴らしいことです。
だからこそ、世界中に、いろいろな国が興っては消えて行ったなかにあって、日本だけが2674年、日本のままでいます。
さて、昭和21年の1月といえば、終戦から、まだ半年目のことです。
終戦の焼け野原のなかでも、歌会始は、行われました。
歌会始には、毎年「勅題」がもうけられます。
この年の「勅題」は、「松上雪(しょうじょうのゆき)」でした。
この歌会で、昭和天皇がお詠みになられた御製です。
ふりつもる み雪にたへて いろかへぬ
松ぞ ををしき 人もかくあれ
ご記憶にある方もおいでになろうかと思います。
まさに国中が焼け野原となり、食べ物も不足し、しかも敗戦のショックがあるところに加えて、見たこともない白人や黒人さんのMPが、国中を走り回っていたときのことです。
「ふりつもる」は、「み=身」と「雪」にかけられています。
そして冷たい雪にも耐えて色を変えない松になぞらえて、その雄々しい姿に、陛下は国民に「人もかくあれ」とお詠みになりました。
松は、よく砂浜などに破風林として植えられています。
下が砂地という、草さえも成育しにくい厳しい環境でも、すくすくと成長してくれるからです。
その松に見立てての昭和天皇の御製は、まさに、負けるな!くじけるな!日本人!という、力強く、そして温かなメッセージでした。
続く昭和22年の御製は、
たのもしく よはあけそめぬ 水戸の町
うつ つちのおとも たかくきこえて
水戸は、黄門様で有名な水戸光圀公ゆかりの徳川御三家ひとつです。
その水戸徳川家は代々、光圀の皇室尊崇を我が国の基礎とする大日本史の編纂事業に取り組みました。
そしてその水戸藩の教えが、幕末明治維新の引き金となり、そのことから明治天皇も、水戸徳川家を親しくお尋ねになられています。
明治維新は、一面においては、官軍と徳川の戦いのように見受けられたり、武家政治の崩壊のように語られますが、実は、明治維新によって叩き壊されたのは、武家政治ばかりではなく、摂政、関白といった朝廷政治も白紙に戻されています。
つまり明治維新は、すべてを白紙にして、新たな建国を図ったわけで、その根幹には、実は水戸学が大きな影響を持っていました。
昭和天皇は、終戦の1年後に水戸を行幸され、まだ夜が明けない早朝のうちから、焼け野原となった水戸の街に、新たな建設の槌音が高く聞こえる、そのさまをご覧になり、それを、再びゼロから再出発しようとする日本の復興のたのもしさとして、歌会始の御製とされたのです。
その昭和天皇が、70歳の御誕生日をお迎えになられた昭和45年の御製が、次の歌です。
よろこびも かなしみも 民と共にして
年はすぎゆき いまは ななそぢ
陛下の御心は、常に「民とともに」あられたのです。
平成26年、つまり今年の歌会始の今上陛下の御製が、次の歌です。
慰霊碑の 先に広がる水俣の
海青くして 静かなりけり
天皇、皇后両陛下は、昨年10月27日、熊本県の水俣湾に臨む「水俣病慰霊の碑」を行幸され、慰霊碑に供花され、また症状の重い患者と懇談をされました。
そしてこのときに、陛下が述べられたお言葉が、次のお言葉です。
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やはり、真実に生きるということができる社会を、みんなで作っていきたいものだと改めて思いました。
今後の日本が、自分が正しくあることができる社会になっていく、そうなればと思っています。
みながその方に向かって進んでいけることを願っています。
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このお言葉は、単に水俣病のことだけを述べられたものではなく、わたしたちの国が開闢以来培って来た、わたしたちの国の基本となるカタチを述べられたものでもあると拝します。
カネのためにと、間違っていることと知りながら、嘘偽りを述べて民を操り、国を亡国に導く。
そういうことが戦後、学会においても、また、マスコミにおいても、あるいは企業においても、まかり通ってきました。
それで良いのでしょうか。
戦後の日本は、ある意味、おカネだけがすべての価値に優先する、あるいはすべての価値は、お金に換算されるという社会を築いてきました。
そしてそれが、客観的なことであり、正しいことであるかのように、教育も、社会も築かれてきました。
けれど、そういう社会は、本当にわたしたちにとって幸せな社会といえるのでしょうか。
太古の昔からかわらない、水俣の先に広がる青い海原。
それは、単に水俣の海だけのことを述べられているのではなく、わたしたちが日本人として、忘れてはならないもの、そのものを指しておいでなのではないでしょうか。
ならば、現代版の水俣病とは、いったい何でしょうか。
水俣病事件が発生した当時、政府も行政も企業も、公害が出ようがどうしようが、儲かればいいんだ、という戦後的考え方に完全に傾倒していました。
それと似たことが、現代日本に、またはびこっていないでしょうか。
政治や経済は、常に正邪が変遷するものです。
立場が変われば、正義は不義となり、不義は正義となります。
しかし、わたしたちの人の世には常に、変えてはいけないもの、たいせつにしなければならないものが、まちがいなく存在します。
我が子、我が孫の大切さは、いつの時代も、どの民族にも共通するものです。
そういう変わらないもの、変えてはいけないものを、昔は「国体」と呼びました。
国として、国家として、人として、民族として、変えてはいけないもの。
それが「国体」です。
そして政治は、常に変化します。
ですから、これを「政体」と呼んで、区別しました。
わたしたちの国、日本は、政体と国体を分離することで、常に国が原点に還ることができる国つくりをしてきたのです。
そして、そのことのありがたさを、誰もが知ることができるように、和歌を通じて「察する」という文化を育成し、そこから「おもいやり」という文化をもたいせつに育ててきました。
わたしも、和歌を詠むなんて、まったくできない性分ですし、残念ながらそのような才能もありません。
ただ、古くからの名歌と呼ばれる歌や、陛下の御製を謙虚に、受け止め、自分のなかで理解していきたいと思っています。
そういう日本の文化を、もっともっと、国をあげて大切に育んでいけたらいいなと思っています。

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