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筑波山
筑波山0215

百人一首の順番は、巷間言われるような、ただ古い順というのではなくて、和歌を理解するために必要な知識が、順を追って解釈していくと、自然と身に付くような構成になっています。
とりわけ百人一首には、天皇の御製が、1、2、13、15、68、77番歌と6首出てきますが、いわばこれが百人一首の「章建て」の節目となっています。
つまり、1番歌の天智天皇、2番歌の持統天皇にはじまる12番までの歌は、いわば「第一章、和歌の技術と可能性」とでも題するもので、それぞれに深い意味をもった歌と、それを読み解く楽しさを楽しく学べる名歌が並んでいます。
次の13番歌と、14番歌は、いわば第二章で、技術や可能性ではなくて、もっと純粋に、和歌そのものをたのしめる、そんな歌になっています。
さて、ではさっそく次の第二章、13番の陽成天皇の御製から観てまいりたいと思います。


==========
13番歌 陽成院
筑波嶺の峰より落つるみなの川
恋ぞ積もりて淵となりぬる

 つくはねの
 みねよりおつる
 みなのかわ
 こひそつもりて
 ふちとなりぬる
==========
この御製の作者は、陽成院(ようぜいいん)となっています。
陽成院というお人はけっこう御長命で、80歳で没した方なのですが、実は、清和天皇の皇子としてお生まれになり、10歳で、第57代陽成天皇に即位されました。
ところがご病気のため、御公務が継続できないからと、17歳で天皇の位を譲位されて、陽成院となられた方です。
勅撰集にある陽成院の御製は、この歌だけです。
要するに、生涯のただ一首が、小倉百人一首に収録されているわけです。
お歌の内容から、この歌は陽成天皇の時代の御作ではなく、陽成院となられてからの御製と拝せられます。
さてその一首は、何を詠んだものなのでしょうか。
「筑波嶺(つくはね)」というのは、茨城県にある筑波山(つくばさん)です。
関東平野からですと、天気の良い日などには、北東の方角にポツンとひとつ、てっぺんのデコボコした山が見えますが、これが筑波山です。
筑波山は、山頂にとんがった頂と、まるい頂きのふたつがあります。
それぞれ男体山と女体山です。
頭が男女の二つで、体がひとつ。
そんなところから、古くから男女交合を象徴した、めでたい山とされました。
筑波山では古くから農閑期の行事として、春と秋に近隣から多数の男女が集まって歌を交わし、舞い、踊り、性交をする習慣があったのだそうです。
これは、豊穣を喜び祝い、来る年の豊穣を祈り、また子を産む産霊(うぶす)という意味がこめられた神事でもあったのだとか。
祭りのあとに、見知らぬ男女が交合におよぶというのは、いまの人たちにとっては多少抵抗感があるかもしれませんが、農業社会で地縁血縁が濃く、村々の移動の少ない社会においては、近親婚による奇形を避けるためには、むしろこうした習慣が、よりよい子を得るために必要な行事でもあったわけです。
これはある意味、とても理に叶ったものであったといえます。
もちろん、男女が互いに納得のうえで交わるものです。
続く、「峰より落つるみなの川」は、漢字で書くと、「峰より落つる男女の川」です。ここでも男女が出てきます。
「みなの川」は、「水無乃川」とも書きます。
これは筑波山の男体山、女体山の峰から流れ出る川です。
麓に流れて桜川に合流し、筑波山のふもとの農地にきれいな水を供給して、平野部に多くの稔り(みのり)を与えるありがたい川で、さいごは霞ヶ浦に流れ込みます。
つまりここでも、男女の交合による「稔り」が象徴されているわけです。
そして下の句は、「恋ぞつもりて」と続きます。
これは、「恋心がつのって」という意味と、「たくさんの男女のそれぞれの恋がつもって」という2つの意味に掛けられているようにもみえます。
そして上の句の「峰より落つるみなの川」に続くことで、はじめは細かった川の流れが、やがて太くて大きな川の流れになるというイメージにも、掛けられているように見受けられます。
そして最後の「淵となりぬる」は、「淵」が、流れがたまって深くなっている場所をいいますから、恋心がつのる気持ちと、たくさんの愛の結晶をイメージしています。
歌を通解すると、
「男女の愛を寿ぐ筑波山の峰から、流れ落ちる男女川(みなのがわ)が、はじめの細々とした流れでも、次第に大きな川となり、人々に恵みを与える深い淵となるなあ」となります。
けれど問題は、歌の最後にある「淵となりぬる」の、「ぬる」です。
「ぬる」は、完了の助動詞「ぬ」の連体形で、これは思い詰めたような強い感覚をあらわしています。
この歌が掲載された後撰集の詞書には、「釣殿(つりどの)の皇女(みこ)につかわしける」とあります。
「釣殿の皇女」というのは、光孝天皇の娘の綏子(すいし)内親王のことで、この方は後に陽成院のお后となられています。
つまり、陽成院の恋は、ちゃんと実ったわけです。
ということは、この歌の解釈は、なるほど下の句で「恋ぞつもりて」とありますが、これは「たくさんの男女のそれぞれの恋がつもって」という意味ではなくて、詞書に「釣殿の皇女につかわしける」とありますから、むしろ素直に「私の恋心がつのって」と解釈したほうが、詠み人の心に叶います。
つまりこの歌は、病のため、若くして天皇を引退して上皇となられた陽成院が、恋心を寄せる綏子内親王に、その想いを歌に託して届けられたものです。
そうするとこの歌は、
「男女の愛を象徴している筑波山、その筑波山の頂きから流れ落る男女川(みなのがわ)も、はじめは細い流れであったかもしれないけれど、次第に水かさを増して深い淵をつくるように、私の貴女を愛する恋心は、ますます深くなっています」と、素直に、ストレートに解釈すれば良いということになります。
百人一首は、天智天皇の一番歌から、僧正遍昭の十二番歌まで、和歌のテクニカルな技巧や、高度な技術性や、その深みを学ぶ歌となっていました。
ここまでが第一章で、この陽成院の十三番歌と、次にご紹介する十四番歌の二つは第二章として、もっと気楽にというか、技巧的でなく、ストレートに気持ちや思いを伝える歌、すなわち、歌そのものの楽しさを伝える代表的歌として紹介されているわけです。
それにしても、積もる恋心を、相手の女性に「筑波嶺の峰より落つるみなの川 恋ぞ積もりて淵となりぬる」と、山や川、そして淵にたとえて詠むなんて、なんだかすごくロマンチックです。
それと、もうひとつ大切なポイントとして、この歌を詠んだのは、元天皇で、いまは引退して上皇となられている陽成院という立派な御身分の御方です。しかも独身です。
しかもこの御歌をみれば、相当な教養人であったことがわかります。
家柄良し、身分良し、収入多し、しかも教養があって、独身です。
ある意味、それだけの身分の男性なら、よその国なら、欲しいと思った女性は権力にモノをいわせて、いくらでも強引に自分のものにできたことでしょう。
ところがわたしたちの国では、古代の昔から、たとえどのように高い御身分の方であれ、どれだけ実権を持っている人であても、女性に対して、素直に想いをぶつけ、そして相手の女性が承諾してくれなければ、勝手に自分の女性にしたりすることはできないという社会であったことを、この歌は見事に象徴しています。
筑波山は、なるほど頂上は男体山と女体山にわかれています。
写真をみたらわかりますが、筑波山は、まるで男女が同衾して、ふたりが頭だけを布団から出しているかのような姿をしています。
そして、筑波山は、はるか昔から、男女の交合と、子孫繁栄を願う山でもありました。
ですから、陽成院のこの歌は、単につのる恋心を謳い上げたというだけでなく、筑波山と主張することで、もう一歩踏み込んで綏子(すいし)内親王に、「私の妻となり、私の子を産んで下さい」というダイレクトメッセージとなっています。
まさにプロポーズの歌です。
そして、このストレートすぎるほどストレートなラブレターを、綏子内親王は、真っ直ぐに受け止められ、お二人は結ばれ、綏子内親王は、陽成院の妻になられています。
まさに「実る恋」を象徴した御製であると思います。
そう思って、この歌をもういちど眺めると、なんだかとってもあたたかくて、おおらかな感じがしてきます。
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十四番歌 河原左大臣(かわらのさだいじん)
陸奥のしのぶもぢずりたれゆえに
乱れそめにしわれならなくに

 みちのくの
 しのふもちすり
 たれゆゑに
 みたれそめにし
 われならなくに
=========
陽成院の歌が、「叶う恋」であり、結婚の成立したおめでたい恋の歌なら、この河原左大臣の歌は、「しのぶ恋」、叶わぬ恋、秘めた恋心がテーマの歌です。
歌を詠んだ河原左大臣というのは、嵯峨天皇の皇子(みこ)の、源融(みなもとのとおる)です。
古来、我が国では、すべての国民に姓があります。
けれど、天皇にだけは姓がありません。
その天皇の皇子の融(とおる)が、臣籍降下して、「源(みなもと)」の姓を賜ったことで、お名前が「源融(みなもとのとおる)」となりました。
その源融が、京の都の六条河原にお住いだったことから、通称が河原左大臣(かわらのさだいじん)です。
ちなみに、この河原左大臣の別邸が、いまの平等院です。
さて、歌です。
まず「陸奥」というのは、いまの東北地方です。
「しのぶもぢずり」は、その東北地方のなかの、福島市あたりのことを、昔は信夫(しのぶ)地方と呼ばれ、その信夫地方の特産品が、乱れ模様に染めあげた「信夫摺り(しのぶずり)」と呼ばれる染め物だったのです。
その見事な「乱れ模様」に、「忍ぶ想い」を掛けています。
「誰ゆえに」は、単純に「誰のせいで?」という意味です。
そして下の句は、「乱れそめにし われならなくに」です。
「乱れそめにし」の「そめ」は、信夫摺りの染め物の「染め」と、はじめてのという意味の「初め」の二つの意味に掛けられています。
「われならなくに」は、「私のせいでは無く、あなたのせいですよ」といった意味になります。
ですので、通解すれば、
「陸奥の国の信夫摺り染め物の模様のように、私の心が乱れ初めたのは、私のせいでは無く、あなたのせいですよ」です。
「信夫(しのぶ)摺り」の染め物の乱れ模様のように千々に乱れる恋心。
それはあなたのせいだ、というのです。
実はこの歌には、元歌があって、それが在原業平(ありわらのなりひら)の
 春日野の 若紫の 摺り衣
 しのぶの乱れ 限り知られず
です。業平(なりひら)のこの歌は「伊勢物語」の最初の段に出てくる歌です。
元服直後の若い男性が、奈良の春日で偶然に出会った若くて美しい姉妹に、思わず着ていた信夫摺りの狩衣(かりぎぬ)の裾を切り、そこにこの歌をとっさに書いて贈ったというのです。
この業平の物語の恋も、実らぬ恋がテーマです。
このように実らないとわかっていながら、つのる思いが、「しのぶ恋」です。
世の中には、陽成院のように、明るくさわやかに、しかも直球勝負で見事に結ばれる恋もあれば、つのる想いを誰にも打ち明けられず、結ばれぬ恋もたくさんあります。
天皇の皇子であり、役職は左大臣という、高い身分にあっても実らぬ恋、しのぶ恋というのですから、やはりここでも、権力にものをいわせて、女性を我が物にするような非道とは、全然異なる世界が象徴されています。
この歌を詠んだ源融は、源氏物語の光源氏のモデルのひとりとも言われる人です。
ですから、いま風にいえば「モテ系男子」です。
家柄もよく、教養もあり、身分も高く、財力もあり、顔良し、頭良しです。
しかも河原左大臣、源融は、「源(みなもと)」姓に明らかな通り、嵯峨源氏の初代となられた方です。
そして源融の子孫が、後に武家となり、渡辺氏、滝口氏、瀬戸内村上水軍や、松浦氏、蒲池氏となっています。
もしこの文をお読みの方で、それらの苗字をお持ちの方がおいでなら、まさに1100年前の9世紀に生き、しのぶ恋を歌ったこの河原左大臣源融につながるお血筋なのかもしれません。
つまり、何をいいたいかというと、女性から見たら、おそらくこれ以上はないという良縁であり、しかも一夫一婦制ではなかった時代であり、養う財力があれば、ある程度複数の女性を妻にできた時代にあり、それだけの財力、資力、権力があって、しかもこの上ない家柄で、最高のDNAを持った男性であっても、「しのぶ恋」、「実らぬ恋」に身を焦がした、ということです。
しかもこの源融、のちには、侍従、右衛門督、大納言などを歴任しています。まさに超のつく大物です。
なんでも手に入れることができそうな大物さんです。
それでも、しのぶ恋に心乱れることがある。
前の段にも書きましたが、それだけの権力者であっても、思いを遂げられないということは、古来日本では、女性の気持ちがとても大切にされてきたということですし、それは、女性が「人として」たいせつにされてきたということでもあります。
男女の仲というのは、不思議なものです。
晴れて実る恋もあれば、道ならぬ恋に心が乱れることもあります。
そして不思議なことに、そうした道ならぬ恋、不実な恋、しのぶ恋の方が、心を強く乱したりします。
13番の陽成院の御製と、14番の河原左大臣の歌は、いわば対になっていて、恋の明と恋の暗を歌っています。
この百人一首の解説を書きはじめたとき、昨今の百人一首解説本の多くが、「歌の順番は、単に古いものから順番に並べたもので、なかには順番が前後しているものもあるから、歌の順には何の意味もない」と解説していることをご紹介させていただきました。
けれど、この13番の陽成院の御製と、14番の河原左大臣の歌を見ただけでも、意図的に対をなす歌を配置したりと、選者の藤原定家が、歌を学ぶのに、ほんとうにわかりやすいようにと、意図的に歌をならべたものであることが、明白にわかろうかと思います。
ちなみに、たいへんおもしろいことに、13番の陽成院の御製は古来、未婚の男女に人気があり、14番の河原左大臣の歌は、大人たちに人気があるのだそうです。
これもまた、おもしろいところです。
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十五番歌 光孝天皇
君がため春の野に出でて若菜摘む
わが衣手に雪は降りつつ

 きみかため
 はるののにいてて
 わかなつむ
 わかころもてに
 ゆきはふりつつ
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百人一首は、順番に読み解くことで、和歌のもつ素晴らしさや、和歌の読み方が理解でき、しかも国を愛する心が自然と熟成されて行くという仕組みになっています。
そして、順番の中に天皇の御製が登場するところが、いわば章立ての境目にあたるところであるということを、前に申し上げました。
そして一番歌から十二番歌までが第一章で「歌の読み方」、第二章の陽成天皇と河原左大臣の二首は、わかりやすい、いわば単刀直入な、恋の明暗の歌でした。
そしてこの十五番歌からが、次の第三章のはじまりです。
この光孝天皇の御製は、いっけん「貴女のために、まだ雪の残る春の野に出て、我が衣手を雪に濡らしつつ若菜を摘んでいますよ」といった、恋歌のようにもみえます。
そのように解説している本も、数多くみかけます。
ところがそういう単刀直入な恋の歌は第二章の歌であって、この十五番歌からは第三章にはいっているわけです。
そしてこの第三章からは、第一章で学んだ「上の句と下の句で、詠み手が本当に言いたかったことを読み解く」という本来の歌の読み方の、いわば実践編になります。
ですから、そうそう単純な歌ではなく、その意味で、この歌はしっかり読み解いていかなければわからない御製となっています。
さて、この光孝天皇の御製ですが、この歌は古今集の詞書には「仁和(にんな)の帝(みかど)、皇子(みこ)におはしましけるとき、人に若菜たまひける御歌」と書かれています。
つまり光孝天皇が天皇の位に就かれてからの御製ではなくて、まだ時康親王(ときやすしんのう)と呼ばれていた頃の歌だというのです。
ところが百人一首では、この歌を光孝天皇の御製として紹介しています。
百人一首では、中納言家持とか、参議篁(たかむら)とか、あるいは陽成院とか、河原左大臣とか、実名ではなく、役名やあだ名で、詠み手の名を付しているときには、そこに歌を詠み説く鍵が隠されているということを、わたしたちは学びました。
ということは、この十五番歌も、本当ならば「時康親王」と書かなければならないところを、あえて、後の位である光孝天皇(こうこうてんのう)のお名前にしているわけですから、そこに歌を読み解く鍵が隠されているわけです。
では、この歌の真意は、いったいどこにあるのでしょうか。
まず、冒頭の「君がため」が気になります。
ここでいう「君(きみ)」とはいったい誰なのでしょうか。
「君(きみ)」というのは、いまでこそ二人称の「you」と同じような意味に用いられる語ですが、当時は「君」といえば、目上の人です。
「きみ」というのは、「き」が「翁(おきな)」の「き」、「み」が「嫗(おみな)」の「み」です。
つまり「きみ」は、男と女を意味します。
そして男と女のはじまりは、イザナキ、イザナミの二神です。
そしてわたしたちの国は、国土も神々も、そしてわたしたちの国の最高神であられるアマテラス様も、この二神から産まれ、そしてそのアマテラス様からの直系の御子孫が天皇です。
ですから「君」は、男女であるとともに、この世には男と女しかないわけですから、世のすべての人々であり、直系のお血筋としての天皇の意味にも掛けられます。
その代表的例が「君が代」です。
ですから君が代は江戸時代までは、結婚式などで歌われる男女の祝いの賀歌の代表歌とされてきましたし、明治以降は国歌として、天皇を意味する歌となっています。
さて、光孝天皇の御製の「君がため」は、誰なのでしょうか。
古今集の詞書には、「人に若菜たまひける」としか書いてありません。
その「人」が、男なのか女なのか、はたまた友人なのか同僚なのか、目上の人なのか民衆なのか、それさえもわかりません。
次に、「春の野に出でて若菜摘む」です。
摘んでいるのは「若菜」です。
「若菜」というくらいですから、それは特定の植物の名前ではなくて、春に、雪の下から芽生えてきた、どういう草かはわからないけれど、若い葉であるようです。
ただ、「春の若菜」にはもうひとつの意味があって、春の七草としてお正月にこれを食べると「邪気がはらわれる」とされていたのだそうです。
では、「邪気がはらわれる」という意味で、「春の若菜」と述べたのでしょうか。
下の句は、「我が衣手に雪は降りつつ」です。
このくだりは、天智天皇の一番歌にある「わが衣手は露にぬれつつ」によく似ています。
天智天皇の御製は、粗末な庵の中で、朝露の出る時刻から、夜露に濡れる刻限まで、天皇ご自身が、粗末なゴザを編んでおられるという、たいへんにありがたい御製でした。
そして親王殿下であった頃の光孝天皇も、冷たい雪の降りしきる中で、「我が衣手を」雪に濡らしながら、若菜を摘んでおられるわけです。
そして百人一首の選者である藤原定家は、この御製を、あえて、親王殿下とせず、光孝天皇の御製として、第三章の筆頭歌として、ここに掲載しているわけです。
ひとついえることは、この歌は、「君がため、春の野、若菜」と穏やかな単語を並べ、これを冷たいであろう「雪」と対比させていることです。
ということは、あたたかさ、やさしさについて、何かを言おうとしているのであろうということがわかります。
そういう目で、この歌をもう一度観てみます。
 君がため春の野に出でて若菜摘む
 わが衣手に雪は降りつつ
        光孝天皇
実は、この歌には、異なる二つの意味があるのです。
はじめに光孝天皇が、まだ親王殿下であられた頃にこの歌を詠まれたとき、そのときにこの歌の意味は、一般の解釈にあるように、相手の方が誰かはわかりませんが、どなたか目上の方のために「まだ小雪の舞う春の野に出て「わが衣手」を雪に濡らしながら若菜を摘みましたよ」という意味の御歌でありました。
けれど、55歳という、当時としては晩年に至って天皇の位にお就きになられた光孝天皇は、あらためてこの歌をもう一度天皇の御製として、世に問われているわけです。
そしてそのときのこの御製は、まったく別な意味を込めた歌となっています。
どういうことかというと、天皇は、この世の最上位におわす方です。
その最上位におわす天皇陛下にとって、それよりも上の「君」は、もはや神々しかありません。
けれども、その天皇が、人の身である誰かのことを「君(きみ)」と呼びかけているわけです。
君が代の「君(きみ)」は天皇を指しますが、民にとっての最上位の目上の人は天皇です。
けれどこの歌は、詠み手が天皇ですから、消去法で、「君=天皇」という解釈は消えます。
そして「君(きみ)」とは、目上の人という意味だけではなくて、男女であり、この世には男と女しかいませんから、そうなると、天皇にとっての「君」は、「この世のすべての人々」という意味になります。
そしてその「この世のすべての人々」のために、天皇が「若菜を摘む」わけです。
けれどその「若菜」は、具体的にどの植物なのかの特定がありません。
つまり、植物を指しているかどうかも、わかりません。
であるとするならば、この場合の「若菜」は、植物ではなく、「若い人」を意味しているのかもしれないと読むことができます。
どういうことかというと、わたしたちの国では、古来、優秀な才能を持った人は、積極的に人材として朝廷の政治に登用されました。
冒頭に申し上げました柿本人麻呂も、身分は賎しい出身です。
けれども、才能がある人、世の中に役に立つ人であれば、家柄や門閥に関係なく、どんどん人を採用したのも、また日本の社会の特徴でもあります。
その意味で、「君がため春の野に出でて若菜摘む」というのは、人々、つまり民衆の幸せのために、野にいでて、積極的に若い人材を登用する、という意味ととることができます。
そしてそれが決して「悪い意味」ではないことには、「君がため」、「春の野」、「若菜」と、やわらかで暖かな意味合の言葉が重ねられていることでもわかります。
ところが下の句になりますと、語調が一変して、「わが衣手に雪は降りつつ」と、冷たい雪であり、衣手が濡れるとは、自らの手を汚す、という、非情な感じになっています。
光孝天皇は、陽成(ようぜい)天皇の後に、関白である藤原基経(もとつね)に擁立されて、55歳という、当時としては平均寿命を10歳もすぎてから天皇に即位されました。
この時代、ある意味、権謀術数が渦巻いた時代です。
そうした中にあって、若くて才能のある人材を、政治のために抜擢すること自体は、決して悪いことではないのだけれど、そういう人材を、権謀術数渦巻く政治の世界に巻き込んでしまう、そのかなしさを、光孝天皇は、自らの責任として「我が衣手に雪は降りつつ」と詠まれたのです。
和歌は、「表面上の意味ではなく、常に真意が別にある」というのが、和歌の持つ特徴です。
もちろん、陽成院や河原左大臣の歌のように、率直に愛を謳い上げた歌も数多く存在しますが、この十五番歌から、ふたたび別な章立てとなると考えるならば、この光孝天皇の御製には、表面上に見える歌意とは別に、大身心のあたたかさと深さを感じさせる名歌となっています。
さて、続く十六番歌と十七番歌は、天才歌人である在原の行平、業平兄弟の歌です。
 立ち別れいなばの山の峰に生ふる
 まつとし聞かば今帰り来む (行平)
 ちはやぶる神代も聞かず竜田川
 からくれなゐに水くくるとは (業平)
さて、この歌には、どんな意味が隠されているのでしょうか。
次回をお楽しみに♪
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