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■書 名:ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人!
■ISBN-13: 978-4434184727
■著 者:小名木善行、出版社:彩雲出版

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チャンネル桜の防人の道に、昨日出演させていただきました。

日心会中部ブロックのHPから、ひとつの記事をご紹介します。
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いよいよ今日出撃する。この期に及んで何も言うことなし。よく尽くしてくれたお前の心を大切に持って行く。君ありて我れ幸せなりし。
http://d.hatena.ne.jp/nissinnkaicyubu/touch/20140206
2月1日、とある老人ホームに行ってきた。自分と紹介者、そして岩井鉞男さんと3人だ。
岩井さんは前にもふれたが戦没者遺族の方で、長男はコロンバンガラ島で戦死、二男は特攻隊へ志願し知覧から飛び立った。その弟さんでもう80歳を超えている。まだまだお元気で車の運転やトラクターなど乗って野菜などを作っておられる。
今回は94歳の女性に会うために一緒に来ていただいた。女性の名は「小栗楓子(ふうこ)」さん、戦没者遺族ではない。遺族ではないということは妻ではない。実は第105振武隊隊長の林義則大尉(最終階級)の婚約者、つまり許嫁である。
しかし知る人ぞ知る方で、知覧の慰霊祭では
「亡き人の今はの際の足跡を 遺し給ひし知覧恋しく」
という有名な詩を詠んでいる。
行き先の老人ホームは小奇麗で、デイサービスの方たちがお年寄りを集め何やら運動を楽しくやっていた。その光景を尻目にとある部屋に向かった。
部屋は小さいが1人暮らしにはちょうど良さそうで、ちょこんとお年を召した女性が座っていた。彼女が小栗楓子さんである。
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昔は何度も岩井さんと共に知覧へ戦没者慰霊に行っていた。しかし高齢もありもう何年も知覧へは行ってない。老人ホームに入って4年だそうだ。最初は同行者の方のことも覚えていなかったし、岩井さんのことも忘れていた。しかし同行者の方が持ってきた写真を見て少しづつ記憶が戻っていった。
「ここに入って4年。お年寄りばかりですけど皆戦争の話はしないのです。私も自分からは致しません。そのうち少しづつ当時を忘れていきました。でも義則さんのことだけは忘れたことはありません。」
かすれるような声でそう語り始めた。
耳が遠く、か細い声の為、彼女の著書「愛は終わり無く~沖縄の空に消えた人の御霊に捧ぐ~」を参考に話を伺った。
林少尉と楓子さんは同じ村で生まれた同級生である。小学校は同じだったし2,3,4年は同じクラスだったそうだ。しかし5年生のある日、林少尉は引っ越していった。
その後彼女は県立高校を出て役場に勤めた。今は高校卒業は当たり前かもしれないが、当時高校を卒業するなんて大変なことだったそうだ。
一方林少尉は教師を目指していた。今の筑波大で農業を先行し、秋田県で教員になった。ところが直後に招集令状を受けた。
昭和19年3月、彼女が戸籍係りとして働いていた役場に林少尉がやってきた。戦闘機の訓練を受けるために満州へ行くことになり挨拶に来たそうだ。当時は出征が決まると役場に声をかけるのが慣わしだったそうだ。12~3年ぶりの再会である。
久しぶりに見る林少尉はすっかり軍人の威風を備えていた。助役との会話に聞き耳をたてていた彼女は「戦闘機」という言葉を何度か聞いたそうだ。そしてものの2~30分して帰るという。楓子さんは役場の玄関へ見送りにでた。すると、
「結婚はどうなの」
林少尉が囁くように訪ねた。
「まだです」
そう答え、思いついた短歌を書いた紙を渡した。
大空を御楯と翔ける雄姿にも
いとけなき日の面影残る
そう書かれた紙を受け取ると読まずにポケットにしまい「じゃあ」と言った瞬間、二人の目と目があった。ほんの一瞬だったそうだ。にっこりとした笑顔だった。そしてバス停に走って行った。
「ああ、もうこの人は帰ってこないんだ」
バス停に走る後姿を見送り楓子さんはそう感じたそうだ。
そしてその直感は的中する。
約2日後ぐらいに楓子さんに電報が届いた。
ワレトニツクキミサチアレヨシノリ(我 途につく 君 幸あれ 義則)
この電報をきっかけに2人の文通が始まる。期間は林少尉が出撃するまでの1年間である。
数日後には軍事郵便の絵葉書が届いた。内容は「郷土を立つ前に君に逢うとは思いがけぬことであった。」と書いていた。それから立て続けに3通の葉書が届き、軍人調な文面で日記のようだったそうだ。
その後手紙は毎日届くこともあり、また2,3日おきか1週間後とか、頻繁にやりとりを交わす間柄となった。
ある日、封筒の便りが届いた。中には戦友と一緒に神社前で撮った1枚の写真が同封されていた。楓子さんは無性に林少尉の居場所が知りたくなり写真を隅々まで眺めると、神社の鳥居に「白城子神社」の文字を見つけた。彼女は満州事変で陸軍大尉が殺された場所が白城子であることを思い出し、地図を広げ探した。場所を見つけるとほっと安堵したそうだ。
この郵便を機に手紙が来るたびに地図を広げ林少尉の居場所を確認するようになった。手紙が来るたびに地図とにらめっこし、彼の居場所を追いかけた。楓子さんは彼のそばにいつも居る感覚になり幸せだったそうだ。だがまだこの時は自分の恋心に気が付いていなかった。
しかし満州から帰国した林少尉の戦友からの手紙が気づかせてくれた。内容は近況の他に「戦場の男子とて烈しい恋に身を焼くこともありましょう。太く短く生きようとしている彼らに、願わくば優しき大和撫子の御心もて、その恋を全うさせてやって下さらんことを願います。」とあった。
楓子さんは心打たれた。そして同時に彼が少尉になっていたことを知ったという。
それ以来、楓子さんは彼の身を心配するばかりであった。
ある日、彼が着陸の際に霧が深くて電線に翼を引っ掛けて大破したという内容の手紙が届いた。眼帯をした写真を見て、失明すれば彼がどんなに落胆するだろう、そして同時に失明して帰ってきてほしいという気持ちが交差したそうだ。
楓子さんには彼に死が近づいているように感じた。すぐに返事を書きその身を心配した。手紙は便箋5枚ほど、余白と裏面びっしりと想いを書きつぶした。
「死なないでください。死んではいやです。」
悲痛の叫びを文字にした。現在のように交通の便が良いわけもなく電話ですぐ連絡できる時代ではない。飛んで行って抱きつきたい気持ちを抑え耐えるしかない。そんな時代だったのだ。
「君の悲願で塗りつぶされた手紙入手。只、暗涙を飲むばかり。然し任務は遂行せねばならぬ。許せ。」
との返事が来た。楓子さんは涙が止まらなかったそうだ。
2人は手紙だけでなく、すでに心も交わしていた。
今のように気持ちをそのまま言えることもなく、恥じらいがあった時代だ。しかし交わした数ある手紙の中には、
「落し者を拾い当てた気持ちである。」
「学校で逢いし時、君、姉の如く。今軍に入りて、君、妹の如く思ほゆるも我ながらおかし。」
と楓子さんを愛おしく思っている。そして、
「何通かの手紙をやりとりして、心打たれるものがあり、今は心に決めたので両親にも手紙を出しておいた。今は内地へ帰る余裕はないので、日時を定めてお互いに身を清め、神社に詣でることにしよう。」
と、楓子さんを妻に迎える決心をしている。楓子さんは嬉しい反面、どうして良いのか分からなかったらしい。なにせ手紙のやり取りだけで交際期間もないのだ。戸惑っていると次の手紙が届いた。
「遠く離れているために意思の疎通を欠き、早合点から迷惑をかけた。全便のこと全て取り消し。誠に恥じ入る。」
楓子さんは別れの手紙が来てしまったと感じた。
このままでは後悔すると思い、自分の胸の内を書いた手紙を出した。すると今度は返事が来ない。楓子さんは焦って仕事も手につかないほどだった。実は林少尉は転進しており届くのに時間がかかったのだ。
テガミハイケンバンジリョウカイ(手紙拝見 万事了解)
と電報が届き、続いて、
「廻り廻って届いたこの手紙、長い旅をしてやっと我が懐に君が飛び込んでくれた様なものだ。それにしても俺の気持ちを良く理解している。自分たちの心を大切にして無理をしないで、自然に従おう。」
という手紙が来た。このやり取りでお互いの気持ちを確認し合っているのだ。
さらにある手紙では、
「雛を連れて一回りするとさすがに疲れる。そんな時お前の便り見るといっぺんに疲れもどこへやら。そしてしみじみ思う。ワイフと言うものは有り難いものだなぁ、と」
雛とは未熟な訓練兵を指す。雛への指導で疲れても楓子さんが疲れを癒してくれている。そして「ワイフ」の意味するところは妻である。この時既に2人は一緒になっていたのだ。
楓子さんにとって林少尉は将来を誓った夫であり、また林少尉も楓子さんが生きる支え、戦う意義となっていた。
しかし戦局は日に日に悪くなっていった。
「戦局はいよいよ厳しくなっている。覚悟新たにされたし。」
と手紙が届く。さらに昭和20年2月、初めて手紙に「特攻隊」の文字が書かれていた。
楓子さんも覚悟はしていた。しかし気が動転したのは言うまでもない。いよいよという時が近づいたのだ。
昭和20年3月、林少尉は特攻隊隊長に抜擢される。兵を率いる部隊長である以上、生きては帰れまい。
同年4月、第105振武隊と名称を改称。
同月22日、97式戦闘機で少年飛行兵と計6名で知覧から出撃。沖縄西方洋上に立ちはだかる敵艦隊に向け猛特攻、その命を散らせた。
最後の葉書は4月に届いた。
「いよいよ今日出撃する。この期に及んで何も言うことなし。よく尽くしてくれたお前の心を大切に持って行く。君ありて我れ幸せなりし。体を大切にして平和に暮らしてくれることを祈る。では。」
楓子さんはもうこれで最後と覚悟した。
それでもどこかの島に不時着してないか、どこかで捕虜となっていないかと生きていることへの望みを捨てなかった。しかしほぼ毎日と言っていい程届いていた手紙は以後届くことはなかった。
半年後、職場にて悲しみを引きずる楓子さんは上司から仕事の書類を受け取った。楓子さんはその書類を見て全身が震えた。彼女の仕事は戸籍係である。その仕事内容は戸籍末梢の朱線を引くことであり、書類の名前欄に「林義則」とあった。
なんという運命だろう。残酷とも言うべきか。楓子さんは婚約者の戸籍を抹消することで死に水を取ったのだ。
昭和21年、遺骨が遺族の元に帰ってきた。といっても白い木箱の中には何も入ってはいない。林少尉の自宅に安置された木箱の前で楓子さんは「おかえりなさい。」と両手をついた。
思えば13年前、役場に顔を出した林少尉と一瞬目が合ったのを最後に写真以外に姿を見ていないし声も聞いてはいない。たった1年間の文通のみである。その間、お互いの気持ちは愛し合い、将来をも誓った。
楓子さんはこみ上げる気持ちを抑えつつも木箱の前で顔が上げられなかった。葬式では誘われたが遺族席には座らなかった。婚約はしたが籍を入れて無いために遠慮して近所の人達の参列の後ろに加わった。どんな心境だったのだろう。
楓子さんの部屋には幾つかの写真が飾られている。いずれも林大尉の写真だ。
子犬を抱いている写真がある。基地に迷いこんだ子犬を「コロ」と名付け出撃まで可愛がったそうだ。
直筆で書いたペスタロッチの言葉もある。「生活は陶冶する」である。陶冶とは人間形成を指す古い言葉である。その人の生活環境が人格を磨き自分自身を作るという意味だ。林大尉の生活の重きは軍にある。彼は軍人として生き、隊長となり国防に命を捧げたのだ。
しかし平和な世の中なら楓子さんの夫として生活し、よき家族を築けたに違いない。
またペスタロッチは小学校の基礎を築いた人物である。そう、林大尉は教師を目指していた。
彼は教育者になれなかったと思うだろうか?
とんでもない!彼は国防とはどういうものか、友人、家族、そして愛する人の為に未来を残そうとその身をもって我々に教えてくれたのだ。わざと故障といって不時着して帰国、結婚する道もあったかもしれない。しかしその選択肢は帝国軍人には無かったのだ。まさに大和魂、軍人魂が陶冶していたのだ。
しかし残された者には悲しみが積もる。楓子さんには林大尉が全てだった。
1年間の文通の手紙も伊勢湾台風によって風に飛ばされた。だが想いは日に日に強くなる。
あの日一瞬目と目が合った、あの一瞬が永遠になったのだ。
帰り際、足が悪いのに見送りに立ち上がろうとして手を貸したとき、
「私が死んだら巡霊となって義則さんを捜します。義則さんを捜します。」
と言って泣き出した。もう94歳、戦後1度結婚をしているがすぐに離婚。身寄りもない。
そして70年近く林大尉のことを想い続けている。自分も胸が熱くなり言葉が見つからなかった。

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