
多くの方が、現生人類の始祖は、クロマニョン人と思っています。
フランスのラスコーに壁画を残している、あのクロマニョン人です(冒頭の絵)。
このクロマニョン人が登場したのが、いまから約4万年ほど前です。
同時期の現代型サピエンスの始祖とされているものには、もうひとつ、Chinaの北京郊外の周口店にある竜骨山の頂上付近の洞窟から発見された上洞人(じょうどうじん)があります。
この上洞人は、北京原人が発見されたのと同じエリアで発見されたものですが、いまのところ私は、Chinaは何でもどこかの国で古いものが発見されると、毎度のことですが、必ず「それよりも古いものがChinaで発見された」と突然新発見される国ですから、こちらの上洞人が本物なのかどうか、やや眉にツバをつけてみています。
それはともかく、4万年前のクロマニョン人以降が現生人類としての「新人類」で、それ以前の人類は「旧人類」として分離されています。
「旧人類」の代表格がネアンデルタール人で、大体20万年くらい前に出現し、2万数千年前に絶滅したとされる種です。
「旧人類」であるネアンデルタール種は、現生人類よりも頭頂部が低くて、顔立ちはややサルに近いようです。
遺骨から得られたミトコンドリアDNAの解析結果によれば、ネアンデルタール人のDNAは現生人類のDNAとは異なり、一般にはネアンデルタール種と、現生人類は別種であり、混血はできなかったとされています。最近の学説では、そうともいえないという説も出されていますが、諸説あって、これはこれで今後の研究が楽しみな分野といえます。
ちなみに、このネアンデルタール人、イラクのシャニダール洞窟で見つかったのですが、その見つかった場所からは、大量の花の花粉が見つかっているのだそうです。
どうやらこれはお葬式をした痕跡だったのではないかというのが有力説で、ということは、きわめて高い知能があった、ということになります。
ついでに申し上げると、人類の始祖は
1 猿人(約600万年前〜130万年前)
2 原人(約150万年前〜20万年前)
3 旧人類(約20万年前〜約2万年前)
4 新人類(約4万年前〜現代)
と大別されています。
では日本ではどうだったかというと、人骨では、沖縄県那覇市山下町の第一洞穴で、昭和43年(1968)に発見された。子供の大腿骨と脛骨が、約3万2千年前もので、これが国内では最古級とされています。
内地では、静岡県浜松市浜北区の根堅(ねがた)で発見された浜北人の、約2万年前のものがあります。
昨年2013年6月7日、島根県出雲市の砂原遺跡の調査をしていた学術発掘調査団が、同日までにこの遺跡から出土した石器36点について、この石器が約11万~12万年前の石器であると結論づける結果を発表しました。
年代測定方法に関しては、詳細なデータを公表しているので、これはほぼ間違いのない調査結果です。
つまり、我が国では、分類上は旧人類の時代となる石器が発見されている、そしてそれは、旧人類のうちから、日本には人が住んでいたという証拠なのです。
そして群馬県みどり市笠懸町にある岩宿遺跡(いわじゅくいせき)からは、約3万年前の磨製石器が発見されました。
人の手によって磨きがかけられた石器としては、これが「世界最古」の石器です。
青森県の大平山元1遺跡からは、いまから1万6500年前の土器(これは世界最古の土器です)が発掘され、2010年5月29日には粥見井尻遺跡から、縄文時代草創期(約1万3千年前)の国内最古級の土偶が出土したことが報じられました。
この土偶は、高さ3.1cm、最大幅2.7cmのもので、日本最古の土偶です。
ごらんいただいてわかるのですが、豊満な胸をしており、ひと目で女性とわかるものです。

首のところに穴が空いていて、説明などによると、この穴を「顔に見立てたのではないか」といわれていますが、むしろコケシ人形のように、この穴に頭部が挿し込まれていたと考えた方がしっくりくる気がします。
そして、福井県若狭町の鳥浜貝塚から発見された漆の木の枝は、約1万2600年前のものであることが確認されました。
漆は、植えただけでは育ってくれない木です。
下草を刈り、毎年手入れをしながら最低10年の歳月をかけて育て、漆を採取します。
つまり、日本列島では、
11万年前には、石器が使われ
3万年前には、加工した石器(磨製石器)が使われ、
1万6500年前には、世界最古の土器がつくられ、
1万3000年前には、人の形をした土偶がつくられ、
1万2500年前には、漆が栽培され、使われていたわけです。
日本の歴史は、とても長くて古いのです。
そしてその日本での約1万7000年前から約3000年前までの時代が、縄文時代です。
この縄文時代の遺跡からは、対人用の武器が見つかっていません。
ということはつまり、日本に人が住むようになってから、長い長い間、日本人は、人が人を殺すよりも、人と人とが協力しあって、食料や生きるために必要なものをつくるという文化を、ずっと熟成させてきた、ということです。
古事記では、もろもろの天の神様たちが、最初の男女神であるイザナキノミコト(伊耶那岐命)とイザナミノミコト(伊耶那美命)に、「下界に漂っている混沌を有るべき姿につくり(修理)、固め(固成)なせ」と命じ、天の沼矛(アメノヌボコ)をお授けになったとされています。
これを「修理固成」と書いて「つくりかためなせ」と読みます。
そこでお二柱の神様が天の浮き橋にお立ちになられて、その沼矛で下界をかき回し、沼矛を引き揚げたときに、沼矛の先から滴った潮でできたのがオノコロ島です。
滴った雫(しずく)というのは、球体です。
その球体が、潮でできていて、オノずとコロがる島といえば、それはどうみても地球です。
ちなみに、夜空にかかる大きな橋といえば、天の川です。
そしてお二柱の神様は、オノコロ島に降り立たれ、そこで結ばれて(結い)、日本列島を産みます。
これが「国生み神話」です。
そしてそのあとに、天照大神(あまてらすおおみかみ)様がお生まれになられます。
その天照大神(あまてらすおおみかみ)様の直系の御子孫が、統(す)メル国が、日本です。
ですから天皇のことを、私たちは「スメラミコト」と呼びます。
その天照大神(あまてらすおおみかみ)様の御神意は、国譲り神話に明らかな通り、私たちの国を「シラス国」とせよ、というものでした。
そしてその「シラス」という権威と権力を切り離した統治が、私たちの国では、はるか太古の昔から行われてきたわけです。
お隣の半島にあったような、権力者による収奪のない日本では、古くから「技術」がとても大切にされてきました。
技術のひとつは、モノ作りです。
勾玉(まがたま)の多くは、ヒスイでできていますが、ヒスイの硬度は6.5で、鉄の5.0よりもはるかに硬いものです。
その硬いヒスイを、まだ鉄さえもなかった時代に、美しく研磨し、穴まで通してできたのが勾玉です。
そしてわたしたちの国では、そうしたモノづくりの技術を、ただ作ることだけに注ぐのではなく、それを修理しながら大切に使うという文化を熟成させてきました。
その「修理しながら」という概念は、人間関係の共同体でも同じスタイルが講じられました。
人間関係が壊れたときは、どちらか一方が殺された、諸外国と異なり、わたしたちの祖先は、一度こわれた関係でも、それをなんとか修理して復す努力が行われてきました。
日本人が、先に謝るという文化をもっているのも、このことによります。
私たちは、とてつもない国、そして誇るべき文化を熟成させてきた国の住人なのです。
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