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■書 名:ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人!
■ISBN-13: 978-4434184727
■著 者:小名木善行、出版社:彩雲出版

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みなさんは、日本を取り戻すための教育の改革の必要性は、もう充分すぎるくらいおわかりのことと思います。
また新しい歴史教科書をつくる会へのご支援なども、たいへんありがたく思っています。
現在、安倍内閣では、文科省の下村博文文科大臣を筆頭に、学習指導要綱の見直し、教科書の採択体制の見直しに至るまで、まさに抜本改革の最中でもあります。
これもまた、みなさまのご支援あってのものだと、ありがたく思います。
ただ、今日は別な切り口から一点申し述べたいと思います。
それは、教育の改革は、子供たちへの教育の改革だけでは、実は片手落ちだ、ということです。
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教育改革において、真に必要なことは、むしろ大学の改革です。
大学の、特に文系の大学の左前指向を変えない限り、事態は一向に進展しないのです。
たとえば先日来、百人一首の解説をこのブログで行っていますが、この歌の解釈は、わたしの家ではあたりまえの解釈で、むしろそれ以外には、あり得ない解釈だし、戦前の日本においてもごくあたりまえの解釈でした。
それだけの深みと面白さがあったからこそ、百人一首は多くの人に愛され、また和歌を詠む人もたくさんいたし、大昔も戦時中も、遺書とともに辞世の句を詠まれる方がたくさんいたのです。
あの百人一首が、持統天皇が部下に、洗濯物を遠くに見えている香具山まで無理矢理干しに行かせただとか、天智天皇の着ているものが露に濡れたから、そこにお連れした担当者は首を刎ねられたのではないかだとか、小野小町が、私は婆さんになっちまったわ、とか、まるで戯言(たわごと)といえるありえない解釈を、現実に大学の国文学の著名な教授たちが行っているわけです。
もし和歌がその程度の幼稚ものなら、いにしえの我が国を代表する英才たちが真剣になって和歌を学んだり、研究したりしたり、あるいはそれを自分の死という人生の一大事を前に詠むなどありえません。
歌にはそれだけの価値があったし、だからこそ、多くの先人達が、自分の生涯の最後の言葉として、辞世の句などを詠んだりもしているのです。
文学だけではありません。
歴史認識が最低なことは、みなさまもご存知の通りですが、法学や憲法学、教育学、経済学、経営学、いずれをとっても、信じられないような低レベルで、無自覚で批判的で、支那や朝鮮におもねり、我が国の尊厳を破壊するような論がまかり通っています。
一例を申し上げれば、天皇の存在です。
天皇の存在を、ただの象徴だという。
なぜ象徴かといえば、日本国憲法にそのように書いてあるからだという。
条文主義を一歩も出ずに、そもそも憲法とは何ぞやという議論がすっぽり抜け落ちてしまっているのです。
また、古代における天皇は、支那の皇帝のような絶対的権力者であったとか、中世や近世には、天皇の存在を一般の民衆は誰も認識していなかったとか、大日本帝国憲法は一握りの人が勝手に作った作文だとか、申し訳ないけれど、「あなた、それでも学者さん?」と首をかしげたくなるような論調があまりにも目立ちすぎます。
こんなものは、何も学究の徒でなくても、素人だってわかることです。
古事記には国譲りのところに、「汝(大国主神)がウシハケル葦原中国(あしばらのなかつくに)は、我が御子のシラス国ぞ」と書いてあります。
「ウシハケル」というのは、「主人(うし)はける」で、土地や民衆を主人が私的に支配し領有するという意味です。
大国主神は、まさに大いなる国の主人として、古代の他の国王と同様に、出雲の国を私的に支配し領有していたわけだけれど、そういう私的な支配よりも、君民一体となって民衆とともい国造りをする(シラス=シラメル=公平に知らしめる)」という天皇の統治の方が、はるかに清く正しく、みんなのためになるということを理解したからこそ、彼は私有財産を天皇に禅譲したのだし、その心を奇特に思ったからこそ、天皇は伊勢神宮よりもはるかに立派に出雲大社を建立して大国主を讃えているのです。
この「シラス」と「ウシハケル」は、上の古事記の文にも明らかな通り、我が国では明確に区別されてきたことで、これが国体(変えてはならない伝統文化)と、政体(臨機応変に時代に即して変化させる政治組織)という国体政体二元論として、大日本帝国憲法の基礎構造になっているのです。
親は子を、絶対的に可愛く、愛おしく思っているものです。これがいわば「国体」です。
けれど親は子に対し、ときに厳しく叱ることもあれば、無理矢理夜遅くまで勉強させることもあります。
ときには押し入れに閉じ込めて反省を促すこともあれば、叩くこともあります(私の子供の頃など、年中やられました)。
この叱ったり、叩いたり、励ましたり、褒めたり、その時々に応じていろいろ変化する。それが「政体」です。
諸外国では、この国体の存在がなく、常に政体だけに傾倒し、その結果、国自体がなくなったり、いわゆる革命が起こってその都度、多くの血が流されているのです。
日本にそれがなかった、あったとしてもわずかな血だけで済んだのは、まさに変えてはならない国体が、わが国の根底に存在したからです。
戊辰戦争だって、あれだけの国論を二分した大内戦でありながら、わずか3万の犠牲で済んだというのは、世界的にみれば奇跡に近いことです。
中世や近世においては、民衆は天皇の存在を知らなかったに至っては、噴飯ものです。
ならばどうして一般民衆の家庭におひな様があったのでしょうか。
あのひな人形は、天皇皇后両陛下です。
百人一首は、貴族、武家、農民、職人、商人全部の階層における、いわば定番カルタですが、その第一番は天智天皇です。
加えて、日本全国、普通に元号が使われていました。
赤穂浪士の討入りといえば、「時は元禄十四年」です。
昔も今も誰でも知っている。
その元号を決めているのは朝廷です。
そんなことは、お寺の小僧でも知っていたことです。
全国津々浦々の祭りは、どれれも神社が主催です。
そしてその神社には、天皇家のご先祖の神様が必ず祀られています。
そんなことは、ちょっと考えればすぐにわかることで、それでも「民衆は天皇の存在など知らなかった」と、偉い学者の先生が言っているから、「天皇の存在は民衆はしらなかった」ということになってしまうのです。
学者が間違っている。
挙げ句の果てが、我が国を代表する偉い憲法学者が、「大日本帝国憲法は一握りの人が勝手に作った作文だ」というけれど、ではなぜ、大日本帝国憲法施行前に、全国から様々な憲法草案が寄せられたのか。
曲学阿世の徒(きょくがくあせいのと)という言葉があるけれど、ここまでくると、もはや病気に近いことです。
理系ではそんなことはないようだけれど、文系の学会の程度の低さは、もはや常軌を逸するレベルに至っているといえます。
GHQは、約6千人の民間検閲支隊を設けて約20万人の公職追放を行ったけれど、いまの日本は、それと同じだけの総合的検閲による大がかりな大掃除が必要になってきているといえるかもしれません。
すくなくとも、大学教育の分野において、少なくとも国立大学における学長以下、教授陣の総入れ替えを含めた抜本的な見直しが、必要になってきているといえるのではないでしょうか。
まして、在日枠による教授の肩書きなど、まさにもっての他だと私は思います。
教育の改革は、小中幼年教育の大改革も必要です。
けれど、それと同時に、大学、とくに文系大学教授陣の思想的偏向の一層といった思い切った大鉈(おおなた)も、また必要なことであると思います。
具体的には、国立大学、それもとくに旧帝大系の抜本的教授陣の大改革が必要と思います。
このことは、実は民主党内閣時代に、現実に(逆の意味で)行われていたことです。
民主党内閣時代、政府は各大学および各研究室等に、毎年多額の補助金や研究資金を出しているのですが、その支給に関し、思想的に保守系と目される教授や助手がいる研究室や大学に対しては、事業仕分けと称してドラスティックな補助金の削減またはカットを断行しました。
なんと当時、補助金の申請書には、教授やスタッフ全員の思想に関する調査項目がはいっていた。それが事実です。
民主党の行為は日本の破壊を一層推進するためのものでしたが、それは逆の意味で使える方法でもあろうかと思います。
つまり、思想的左傾化教授、左傾化スタッフ、反日的教育者、研究者の公職追放と補助金打切りは、もはや喫緊の課題と思います。
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