
百人一首の続きです。
今回は、4番から6番歌です。
前回の記事は↓にあります。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2149.html
この4番歌から6番歌は、最初の1〜3を受けて、やや技巧的というか和歌の可能性を示した難しい歌になっています。
続く7番歌からは、逆にストレートな意味のとり易い、わかりやすい歌です。
さて日本は、7世紀に行われた大化の改新という大改革によって、明確に中華文明と決別し、わが国独自の道を歩み始めました。
西暦645年は「大化元年」ですが、これがわが国における元号の始まりです。
元号は、自国が独立国であるという証です。
そうでない国(属国)は、宗主国の元号を用います。
ですから、中華への朝貢国、中華による被支配国は、中華の元号を用いていました。
この中華文明との決別を推進したのが、若き日の天皇の位に就かれる前の中大兄皇子、つまり後の天智天皇です。
百人一首は、その大化の改新から約500年後の12世紀に編纂されたものですが、古今の名歌を集めた百人一首の、その筆頭歌が、まさにこの天智天皇の御製であったわけです。
その天智天皇の一番歌は、大化の大改革を成し遂げて天皇の位に就かれた天智天皇が、自ら田植えや稲刈りをし、藁を乾かし、その藁で荒いゴザを編まれているという御製でした。
国の最高位に就かれた御方が、率先して民(たみ)とともに朝早くから夜遅くまで労働に精を出す。
そんなありがたい御歌が、百人一首の筆頭歌です。
二番歌は、その天智天皇の娘であり、天武天皇の妻であり、わが国で最初に「日本」という国号を世界に向けて発信された女性天皇、持統天皇の御製でした。
この御製では、清々しい初夏の透き通った川でお洗濯をされた持統天皇が、初夏となって冷たくて気持ちの良い清流で、おもわずお洗濯に力がはいり、真っ白に洗い上がったその洗濯物を「てふてふ(チョウチョ)」のように太陽のもとに干しながら、遠くに見える香具山を夫の天武天皇に見立てて、「あなた、わたし今日もこうしてがんばっているわよ」と、歌われている御製でした。
一番歌が男性の労働なら、二番歌は、それを支える女性の労働と変わらぬ夫婦愛をやさしく高らかに謳い上げているわけです。
そして三番歌は、なんと柿本人麻呂でした。
日本が中華のような厳格な身分制の国なら、三番目にくる歌は、皇太子殿下か親王殿下もしくは御皇族か、百歩譲っても政治の最高権力者である太政大臣の歌がくるはずです。
ところが百人一首では、なんと三番に、おそらく百人一首に登場する人物の中では、もっとも低い身分の出身である人麻呂なのです。
これは身分よりも努力や才能を、そして政治権力よりも伝統文化を重んじるという我が国の形を明瞭にあらわしたものだといえます。
その三番の人麻呂の歌は、天才と呼ばれた歌人ですら、一首の歌を詠むために、夜も寝ないで真剣に考え抜く姿が描かれた歌でした。
一首の歌を詠むというのは、まるで険しい山奥に分け入って、そこでめったに見られない孔雀を見付けるような難事であり、このことは、何事かを必死になって考えに考え抜いたご経験をお持ちの方なら、誰しも納得できることだろうと思います。
つまり、和歌というものは、一言一句、考えに考え抜いて出来上がっているものなのだから、読む人も、そこを心得て、歌を詠んだ人の気持ちや情景などをしっかりと受け止めてほしいという選者の姿勢も、この歌が三番歌となっている理由でもあるわけです。
そして、歌は四番歌へと続きます。
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四番歌 山部赤人
田子の浦ゆうち出でて見れば白妙の
富士の高嶺に雪は降りつつ
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この歌は、もう有名すぎるくらい有名な歌で、暗誦できる方も多いかと思います。
百人一首の選者である藤原定家が、なぜこの歌を四番歌にもってきたか。
それが、この歌の視覚性にあります。
おそらく、この歌を読まれた方は、まぶたの内側に真っ白い雪をいただいた富士山や、田子ノ浦の青い海原を容易に想像できるのではないでしょうか。
その、みなさまの網膜の内側にくっきりと浮かぶ富士は、きっと総天然色&デジタルハイビジョン&3Dの映像なのではないでしょうか。
人麻呂の歌が、「歌というものは考えに考え抜いて作っているんだよ」というメッセージなら、この「田子ノ浦ゆ・・・」の歌は、「歌というのは、たった31文字でここまでビジュアル的な表現が可能なんですよ」と言っているのです。
さて、この歌ですが、ひとつ不思議なことがあります。
「田子ノ浦ゆうちいでてみれば」は、わかりやすいと思います。
ちなみに、私などが子供の頃は、「田子ノ浦ゆ」と「ゆ」となっていたのですが、最近の解説本などでは、なぜか田子ノ浦「に」と書かれています。
たぶん、「田子ノ浦に」の方が、わかりやすいからなのではないかと思うのですが、「ゆ」と「に」で何が違うかというと、「田子ノ浦に」なら、ただ、「田子ノ浦に出た」という意味にしかなりませんが、「田子ノ浦ゆ」ですと、「そこが富士山が美しく見えるという観光名所の有名な田子ノ浦だから」という、ちょっと深い意味になります。
「うちいでて」の「うち」というのは強調語ですから、山部赤人は、田子ノ浦の浜辺に、富士の名所というので、元気いっぱい、のっしのっしと出ていったのかもしれません。
そしたら「富士の高嶺に」、「雪は降りつつ」だったというのです。
ここが難問です。
「降りつつ」というのは、普通は「今まさに降っている最中」です。
そして雪が降っている最中なら、富士山は見えません。
富士山の山頂付近に雪が降っている最中なら、富士山の山頂付近は雪雲に隠れていて、ふもとからは見えないし、ふもとの田子ノ浦に雪が降っていたなら、なおのこと富士山は、そこからは見えません。
見えないはずの富士が、この歌では「見えた」というのです。
実は、こういう一見して意味不明に感じられるところに、歌の詠み手は、重要なメッセージを込めてることが多いです。
では、ほんとうは「雪は降りつつ」がどういう意味かというと、実は、季節感とそのときの富士の姿をあらわしているのです。
そうとしかいいようがないです。
なぜなら「雪が降りつつ」あったら、富士は見えないからです。
つまり、ここで言っているのは、「いままさに雪が降りつつある」という情景ではなくて(それでは富士は見えないから)、「雪が積もりつつある季節の富士ですよ」といっていることになります。
つまり、「山頂付近に雪がつもりつつある富士」のことをいっているわけです。
夏富士は、山頂に雪はありません。
その夏富士が、初秋の頃になると、山頂付近にうっすらと白い雪がかぶりはじめます。
そして冬には、富士は真っ白に雪化粧します。
つまり、赤人が詠んた富士は、「雪はふりつつ」で、真っ白に雪化粧した冬の富士ではなく、ちょうど雪をかぶりつつある富士、ですから「初秋の富士」だ、ということがわかります。
つまりこの歌は、たった31文字の中で、美しい田子ノ浦と富士という場所と情景を美しくビジュアル的に見せると同時に、その富士がいつ頃の季節の富士かまでを、やさしくそっと詠み込んだ歌なのです。
いかがでしょう。
小倉百人一首の選者である藤原定家の、「歌ってのは、こんなことまでできちゃうんですよ!すごいですねえ」という笑顔が見えてきそうな感じさえします。
もしこの歌の末尾が、田子の浦ゆうち出でて見れば白妙の富士の高嶺に「雪が積もりつ」なら、なにやら豪雪か吹雪です。
「富士の高嶺の白妙の雪」なら、真っ白に雪化粧した富士山にみえます。
田子の浦ゆうち出でて見れば白妙の富士の高嶺に「雪はない」なら、夏富士です。
やはり「雪は降りつつ」であることに、美しさがあります。
田子の浦ゆうち出でて見れば白妙の
富士の高嶺に雪は降りつつ
とても美しい歌、ビジュアルにも優れた歌だと思いませんか?
そしてなにより、富士山は日本の象徴です。
四番歌に富士山がきたのも、国を愛するという定家の心が、明瞭に現れています。
この歌を読んだ山部赤人(やまべのあかひと)は、奈良時代の歌人です。
やはり身分の低い出自の方ですが、努力して外従六位下にまで昇進し、三十六歌仙のひとりに数えられていて、歌聖といわれるようになりました。
小野小町を、我が国最高の美女と讃えた紀貫之は、山部赤人を「人麻呂よりもすごい歌人だ」と讃えていますが、百人一首では人麻呂の歌が先に来ています。
それは、やはり人麻呂の歌詠みとしての苦悶の姿をまず先に提示することで、歌の深さを知り、その上で、この「田子ノ浦」の歌を鑑賞してもらいたいという定家からのメッセージなのかもしれません。
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5 番歌 猿丸大夫
奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の
声聞く時ぞ秋は悲しき
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この歌も、最近の解説本などを読むと「奥山で紅葉を踏み分けて鳴いている鹿の声を聞くと、秋の悲しさを感じるね」みたいな意味の歌だと書いているものがほとんどです。
でも、本当にそうなのでしょうか。
そもそも、鹿の声や紅葉といったら、どちらかというと鹿はおめでたいものだし、紅葉は美しさの象徴です。
それがどうして「悲しい」のでしょうか。
さて、この歌を読んだ、猿丸大夫(さるまるたゆう)は、「大夫(たゆう)」ですから、五位より上の高位の官人です。
天皇もしくは太政大臣の側近ともいえる高官であることがわかります。
「猿丸(さるまる)」というのは、本名ではなくて、いまでいったらペンネーム(ネットならハンドルネーム)です。
ということは、実は皇子か親王殿下か、太政大臣のご子息か、いずれにせよ、相当、位の高い高貴な御方であろうと想像できます。
そういう高位高官が、あえてご自身の身分は隠さず、名前だけを隠して「猿」と名乗っています。
猿丸が誰なのか、歴史は闇の中ですが、すくなくとも、猿丸が実は高位高官だというところ、あえて、名前を隠してこの歌を詠んだというところに、この歌を読み解く鍵があるかもしれません。
そして小倉百人一首の選者である藤原定家は、この歌を山部赤人のビジュアル歌のすぐ後ろにもってきています。
五番歌としてのこの歌は、赤人の「田子ノ浦に」の歌と同じく、たいへんビジュアル性に富んだ歌といわれますが、はたしてそうなのでしょうか。
まず「奥山」ですが、これは人里離れた奥深い山です。
その人里離れた奥深い山奥で「紅葉を踏みわけて鹿が鳴いて」います。
秋の紅葉は、樹々の葉が真っ赤に色付いたものをいいますが、ここでは「踏み分けて」いるくらいですから、その紅葉は、地面にも、まるで真っ赤な絨毯(じゅうたん)を敷き詰めたようになっています。
つまり山奥で紅葉が、上も下も真っ赤に染まっている。
実に見事な情景です。
「踏み分けて」いるのは、人なのか鹿が踏み分けているのか、これは判然としません。
後ろに「悲しき」とありますから、鹿の啼いている様子を、そこで見ている人がいることはたしかなようですが、私は、素直に「鹿が踏み分けて出て来た」と読んで良いと思います。
そして「鳴く鹿の」です。
この時代、秋になると牡鹿が牝鹿を求めて求愛のために鳴くとされていました。
そのように歌っている歌は、他にもたくさんありますから、求愛、つまり鹿の鳴き声に、愛する人を恋い慕う感情が重ねられているのかもしれません。
つまり、人里離れた山奥で、紅葉が咲乱れ、地面までまるで真っ赤な絨毯を敷き詰めたようになっているところで、鹿が愛を求めてケーンと鳴く、とここまでが上の句です。
そこで、ちょっとその光景をまぶたに浮かべてみてください。
場所は人里離れた山奥です。
真っ赤な紅葉が咲き乱れています。
その紅葉が落ち葉にもなっていて、まるで真っ赤な絨毯を敷き詰めたようです。
上も下も、真っ赤です。
そこに一頭の牡鹿(おじか)が、奥の方から出てきます。
ご存知の通り、牡鹿は、立派な角を生やしています。
よく日本刀の刀掛に用いられている、あの角です。
そして牡鹿には、白くてふさふさとした胸毛がはえていたかもしれません。
イメージ的には、宮崎アニメの「もののけ姫」に出て来た「しし神様」みたいな感じの立派な鹿かもしれません。
その立派な牡鹿が、真っ赤に染まった樹木の紅葉に、落ち葉の紅葉絨毯を踏みしめて、紅葉の真ん中に出てくるわけです。
これはまさに極彩色の世界です。
まさに、豪華絢爛、秀麗華美、ゴージャスそのものの、この世の贅沢を尽くしぬいたような情景です。
そんな情景のもとで、牡鹿が牝鹿を求めて鳴いています。
立派な牡鹿が一声鳴けば、そこに美しい牝鹿が現れて、二頭で愛の行為に及ぶのかもしれません。
それはそれで結構なことなのですが、ここまで豪華絢爛な舞台装置なると、これにお酒でも添えられたら、まるで史記に出てくる殷(いん)の紂王(ちゅうおう)と、その愛人の妲己(だっき)の伝説にある、酒池肉林のような華美な世界です。
この上の句に対し、下の句は、なんと「声聞くときぞ秋は悲しき」と続いています。
これを、「ぞ」は強意だから、「鹿の鳴き声を聞くときこそ」という意味です。
それを猿丸は、「悲しき」、つまり「物悲しい」と詠んでいるわけです。
なぜ「秋が悲しい」のでしょうか。
なぜ「鹿の声が悲しい」のでしょうか?
紅葉が悲しいのですか?
鹿が悲しいのですか?
鹿の求愛の行動が悲しいのですか?
鹿の声が悲しいのですか?
どうしてですか?
愛が悲しいのですか?
おかしくないですか?
ここまで読まれたみなさまには、もう、大夫の地位にある猿丸が、秋や恋が悲しいといっているのではないということがおわかりになると思います。
彼は、高位高官が、絢爛豪華な贅を求めることの愚かしさを歌っているのです。
そういう愚かしさなど、所詮は人里離れた山奥の、つまり井の中の蛙の贅沢でしかない、と歌っているのです。
そういうことを、猿丸は、きわめて美しい真っ赤なビジュアルの中に見事に表現しているわけです。
誰だって贅沢はしたいです。
それを身分の低い貧しい人が言うのなら、それはただの痩せ我慢にしかならないかもしれません。
しかし、その歌を、我が国のトップレベルにある高位高官の「大夫」が詠んでいるわけです。
その方が匿名で、猿丸とだけ名乗って、贅沢の愚かしさを歌っているわけです。
小倉百人一首の一番、二番は、陛下自らが一般庶民とおなじように働くお姿でした。
三番は、和歌の持つ深みでした。
四番は、そのビジュアル版の好例でした。
そして五番歌は、ただビジュアルだけではなくて、ビジュアルから得られるメッセージの深さ、そして贅沢や華美を嫌い、質素に生きることの大切さを私たちに教えてくれています。
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6番歌 中納言大伴家持
鵲(かささき)の渡せる橋に置く霜の
白きを見れば夜ぞ更けにける
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この歌は、解説書などをみると、「かささぎが連なって渡したという橋のように白く霜が降りている。もう夜もふけてしまったのだなあ」のような意味の歌だとされているようです。
「かささぎが連なって渡したという橋」といのは、すこし説明が必要です。
これは、Chinaの故事にある、織姫(おりひめ)と牽牛(けんぎゅう)の七夕伝説にある物語です。
織姫と牽牛は、天の川の両岸に離ればなれにされ、年に一度、七夕の日だけに逢うことが許されています。
そしてこの日、二人が逢うために、鵲(かささぎ)が、並んで連なり、橋を作ってくれるわけです。
かささぎたちがつくる橋は、一列縦隊ではないことでしょう。
横に何列かしりませんが、すくなくとも5〜10列で、それが隊列を組んで天の川に架かる大きな橋となってくれるわけです。
ですので、「七夕の日にかささぎたちが連なって渡す橋のように、白く霜が降りている。もう夜もふけてしまったのだなあ」となるのですが、ちょっと待って下さい。
七夕は7月です。夏です。
夏に霜は降りません。
霜が降るのは、冬です。
そこでまた、歌の順番をみてが、また問題になります。
一番は、天皇御自ら働いてらっしゃる。二番歌は女性の天皇が夫を愛して女性らしいお仕事をしていてらっしゃる。三番歌は人麻呂の歌の深み、四番歌は歌でできるビジュアルの可能性(可視性)、五番歌は贅沢はよろしくないという歌でした。
では、贅をきらい、真剣に考え、男女ともに上下心をひとつにして働くのは、何のためでしょうか。
それは人々の幸せのため、みんなが安心して暮らせる共同体としての国のためではないでしょうか。
そしてこの時代、白村江の戦いで唐と新羅の大軍に敗れた日本は、いまこそ国をひとつにまとめ、外圧に屈しない、日本を築こうと、国の体制も抜本的に改めて大化の改新を行っていました。
その時代の中にあって、六番歌の詠み手である中納言家持は、本名を大伴家持(おおとものやかもち)といいます。
そして大伴家持がどのような人だったのかというと、簡単に言ったら、いまの陸上自衛隊の最高幹部、幕僚長クラスの人、あるいは旧日本軍なら軍令部長や大将クラス、しかも当時は海軍や空軍はありませんから、いわば陸海空全軍の総指揮官のような人であったわけです。
この家持が詠んだ歌で有名なのが、「海行かば」で、この歌については、過去記事で以前ご紹介させていただきました。
この歌の中で家持は、「大君の辺にこそ死なめ、かへり見はせじ」と歌っていました。
大将自らが、私たちの国、そのありがたい国風を護りぬくために、率先して死にますと歌っているのです。
そして小倉百人一首に所蔵された六番歌は、まさにその大伴家持の歌なのです。
五番歌は、贅沢は敵だと歌った歌でした。
それに次ぐこの六番歌は、実は、国のために働く姿勢をあらわした歌なのです。
どういうことかというと、「かささぎの渡せる橋」つまり、織姫と牽牛が、年に一度逢うという逸話は、愛し合う男女を意味します。
この世には男と女しかいないのですから、男女は「この世のすべて」という意味につながります。
その男女のために、カササギは隊列をなして川幅の広大な天の川の橋となります。
その隊列は、五列縦隊なのか、十列縦隊なのか、とにかく人が渡る橋となるくらいですから、一列縦隊でないことだけはたしかなようです。
そして隊列から想像されるのは、軍隊の行進です。
つまり、「かささぎの渡せる橋」は、国の男女を護るための軍隊の行進をイメージさせます。
その軍隊の総指揮官である大伴家持は、その軍の維持や国防のために、毎夜遅くまで補給のための兵站から部隊の編成、あるいは部隊の移動や宿泊の手当、軍隊内部の調整、戦死者への追悼や給付、軍装や兵器などの装備強化のための各種手配など、ありとあらゆる計画を練る人でもあります。
そして家持はそのために、毎夜、霜の降るような寒い冬でさえも、欄干に霜がかかる時間帯といえば、夜中をすぎて早朝です。
そんな時間まで、仕事をしているわけです。
その仕事の帰り道、官舎を出てふと夜空を見上げると、そこには満天の星があり、天空には美しくかかる天の川がくっきりと浮かんでいます。
まだ空気のきれいな古代のことです。
さぞかしきれいな夜空であったろうと拝せます。
その冬の寒い夜空を、そして冬の美しい天の川を見上げ、家持は、
「織姫と牽牛は、年に一度、カササギたちがつくる橋を渡って逢うという。俺たちはそのカササギだ。そのカササギたちが国を護り、そしてそのカササギたちが決して困らぬよう、俺たちはこうして明け方まで仕事をしているんだなあ」と詠んでいるわけです。
ちなみに、冬の星空も、明け方近くの星座は、ご存知のとおり夏の星座になります。
夜空の星が夏の星座になる時間帯、そんな時間帯まで、家持は全軍の指揮官として仕事をしているわけです。
この時代、古代における東亜最大の国際戦争である白村江の戦いが終わったばかりです。
油断をすれば、唐と新羅の大軍が、いつ攻め込んでくるかわからない。
そんななかで、国防のために全力を尽くして働く武人であり、国の官僚である大伴家持が、必死になって明け方近くまで、毎夜、仕事をしているわけです。
だからこそ、この歌の詠み手の名前は、「大伴家持」ではなく、「中納言家持」としているわけです。
大伴家持という個人ではなく、政府の武門の指揮官としての役名で、この歌を詠んでいる。
それが、小倉百人一首の六番歌です。
けっしてミヤビなばかりではない。
しっかりと、全力をあげて国を護ろうとする決意と行動が、この歌に込められているわけです。
さて、前回に引き続き、四番歌から六番歌までの3つの歌をご紹介させていただきました。
みなさまはいかがおかんじだったでしょうか。
ひとついえることは、この四番歌から六番歌までの3つの歌が、小倉百人一首だったとしたなら、歌に込められた思いや意味を読み解くのに、相当な苦心が必要となる、ということです。
一番歌から、順に歌が紹介されることによって、ひとつひとつの歌が、「ああ、なるほどなあ」と万感が迫ってくる。わかりやすくなる。
選者の藤原定家が、百人一首を子供たちにもわかるようにと、苦心して選歌し、そしてできるだけわかりやすくなるようにと配慮しながら、歌を並べていることが、きっとおわかりいただけるのではないかと思います。
さて、次は七番歌です。
天の原ふりさけ見れば春日なる
三笠の山に出でし月かも
これは安倍仲麿 の歌です。
とびっきりの美男子で、頭脳明晰、遣唐使に参加し、なんと唐の都で世界一の難関といわれた科挙の試験にまで合格してしまった超秀才の歌です。
さて、この歌には、どのような意味が隠されているのでしょうか。
続きは、また今度。
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