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■書 名:ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人!
■ISBN-13: 978-4434184727
■著 者:小名木善行、出版社:彩雲出版
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みなさんのご家庭のなかには、犬や猫をお飼いになっておいでの方もおありになろうかと思います。
もしかすると、豚や牛などを飼っておいでの方もおいでになるかもしれません。
そのペットや家畜には、どれだけ家族のために奉仕したとしても、当然のことながら、みなさまがそのペットや家畜に給料が払われることはありません。
なぜならそのペットや家畜は、動産であり、所有物にすぎないからです。
ペットや家畜は、売買の対象になります。
そして餌を与えられ、飼われ、なかには農業牛のように、農作業に使われるもの、あるいは食用にされるものなどがあります。
食用家畜の場合、それは人に食べられるために育てられ、殺され、食肉にされます。
労働馬や、労働牛などの場合には、その労働のために育てられ使役されますが、それによって賃金が払われることはありません。
そうしたペットや家畜の様態が、そのまま人間にあてはめられたものが「奴隷」です。
ですから、奴隷には給料はありません。
奴隷は無給で使役されるものであり、生産物は飼い主によって奪われます。
それが奴隷であり、近世にいたって、米国南部綿花栽培の黒人奴隷のように多少の給金が払われるようになったケースもありますが、それにしても、その給金は、子供のお小遣い程度のものでしかありませんでした。
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ですから、世界中、奴隷というのは、原則として無給もしくは、きわめて無給に近い状態で使役されるのが奴隷という存在です。
このことからすれば、日本が朝鮮半島で「女性たちを性奴隷にした」などというまやかしが、いかに馬鹿げているか、わかります。
彼女たちは、我々庶民など足もとにも及ばないほどの高級を食んでいたのですから。
それはともかくとして、日本にも、かつて奴隷が存在したといわれる時代がありました。
2世紀のはじめには、「倭国王帥升が生口160人を(支那の)安帝に献上した(後漢書東夷伝)」という記述がありますし、魏志倭人伝にも3世紀の倭国が支那の魏王に生口を何度か献上したという記述があります。
ただし、ここでいう「生口」は、無給の私有物を意味する奴隷ではなく、有給の技術者集団であったという説もありますので、必ずしも奴隷ではなかったのかもしれません。
このあたりは、論争のあるところです。
ただし、こうした生口も、7世紀の大化の改新以降は、人々は身分の別なく天皇の民(皇民)とされることによって、自然と消滅し、人身売買そのものも延喜7年(907)の延喜格で、正式に禁止されています。
そして日本は、民衆の誰もが「公民(おおみたから)」とされるという、人が人を私有し奴隷化し使役することがない国風を、これ以降築いていったわけです。
このような国は、世界に類例がないとさえいえます。
世界のほとんどの国が、人を飼って使役し、飼い主は何もしなくても、なんでも奴隷たちがやってくれるという社会を築いたのに対し、日本では、先般の百人一首の天智天皇、持統天皇の御製にも明らかな通り、国の最高権威である天皇自らが労働に精を出し、みんながみんなのために働くことで、みんなが幸せになれる社会を営んできたわけです。
そうした社会では、互いが人として対等な社会ですから、そのなかで秩序を生むためには、人々に高い教養が求められます。高い民度と言っても良いです。
誰も見ていなくても、しっかりと勤めを果たす。
責任をもって仕事をする。
互いの信頼関係を大切にし、その信頼のために、ひとりひとりが身を律して清く正しく生きる。
そうしたこと実現するためには、国民のひとりひとりに高い道義心が求められるわけです。
このことは、正反対の状況を考えたら、誰にでも簡単に納得できることです。
誰もが無法者で、道義を解せず、自ら率先して働くことを苦痛と考えるような我儘な社会では、誰かが何かをするためには、周囲の者に大義名分を与えて協力を得るなどということはできません。
何らかの圧力を加えて、強制するしかないのです。
部下が自ら率先して会社のために働こうとしないなら、働かない部下を見せしめのために、極めて残虐な方法で長時間かけて血祭りにあげたり、あらゆる苦痛を与えてみせしめに殺したり、あるいはその部下が愛する家族を人質にとって、言う通りにしなければその家族を殺すぞ、と圧力をかける。
それしか方法がないのです。
いくら諭しても、それを理解し、納得し、行動に結びつける力のない者に対しては、厳罰主義をもってするしかない。
福沢諭吉はこのことを称して著書『学問のススメ』のなかで次のように書いています。
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およそ世の中に無知文盲の民ほど哀れなものはない。知恵のない者は、恥さえも知らない。自分が馬鹿で貧窮に陥れば、自分の非を認めるのではなく、富める人を怨み、徒党を組んで乱暴をはたらく。
恥を知らざるとや言わん。
法を恐れずとや言わん。
(中略)
こういう愚民を支配するには、とてもじゃないが、道理をもって諭(さと)そうとしても無駄なことである。
馬鹿者に対しては、ただ威をもっておどすしかない。
西洋のことわざに、愚民の上に苛(から)き政府あり、とはこのことである。
これは政府の問題ではない。愚民がみずから招くわざわいである。
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戦後教育や劣化したマスメディアの影響、そして通名を名乗る外国人の影響などによって、昨今の日本では、まさに「恥を知らざるとや言わん、法を恐れずとや言わん」人々が増えています。
一昔前なら考えられないような日々起こる犯罪の増加もそうですし、
選挙などにおいても、
お社のお地蔵さんを覆うように選挙ポスターを貼る候補者、
猪瀬前知事が5千万円の授受の問題で失脚したのに、1億円を超える不正献金の問題を追求されて政界から身を引いたのに、そのことを曖昧にしたまま都知事に立候補する候補者、
あるいは借金返済に使うことを禁じられている政党助成金や立法事務費で借金返済を行って問題にされていながら、平然と立候補する候補者、
あるいは、それを公然と応援するマスメディアなど、昨今の日本の民度の低下は、まさに目を覆わんばかりです。
いまどきの左巻きの政治家は、「恥を知らざり、法を恐れず」日本を愚民の厳罰主義国にでもしたいのでしょうか。
あるいは、日本人自身が「苛(から)き政府」を望んでいるのでしょうか。
昔、西洋の中世の王様たちは、どの王様も「近衛兵」を持っていました。
近衛兵は、常に王の側にあって、王をお守りする最精鋭部隊という位置づけであることは、みなさまご承知の通りです。
ただし、その近衛兵というのは、全員が、貴族たちの後継ぎの男子たちであったことは、あまり知られていません。
要するに、近衛兵というのは、王のボディガード的な存在であるというだけでなく、貴族が王に逆らわないように、常に王の手元に置いた人質でもあったわけです。
日本にも、舎人(とねり)とか、北面、西面武士とか、名称は様々だけれど、古来近衛兵はありました。
明治以降は、近衛師団とか、皇宮警察などが置かれたりもしています。
けれど時代を越えて、その近衛兵たちが、貴族の後継ぎの男子だった時代は、ひとつもありません。
そうではなくて、そうした役割を担うことを名誉と考え、むしろ自前で自腹をきってまで、近衛の役割を担おうとしてきたのが、日本です。
それだけ、人々の教養と民度が高かったということです。
不平等条約の解消をして世界の列強と対等な国になろうとしたのが、幕末明治維新から明治の日本でした。
そしてようやく不平等条約を解消し終えたのが明治44年(1911)です。
翌年、大正時代を迎えた日本は、世界と対等になった日本と、日本国内のデモクラシーを満喫しました。
けれどその頃から、日本が統治した朝鮮半島の民度の低い人々が大陸へと進出し、日本人という虎の威を借りて、好き放題に暴れ回りました。
結果として日本は、福沢諭吉が脱亜論で予測した通り、西欧のみならず大陸の人々からも反感を買うようになり、そのことが共産主義勢力によってあおり立てられ、ついには尼港事件や通州事件のような悲惨な被害をもたらし、大陸出兵を余儀なくされたのが昭和12年です。
そしてこのことがきっかけとなり、日本は今度は世界を相手にして戦わざるを得ないところまで追いつめられるようになりました。
「惡友を親しむ者は共に惡友を免かる可らず」
これは、福沢諭吉の『脱亜論』の結びにある言葉です。
悪友と仲良くする者は、共に悪名をまぬがれない。
諭吉は続けて「心において、もはやアジア東方の悪友である支那朝鮮とは、絶交を宣言する」と述べました。
いま日本は、戦後という歪みを修整する時期に至りました。
修正には、戦後のきわめて特殊な利権を得た人たちにとって、大きな痛みが伴います。
しかし、かつて日本の持つ高い民度や道義心を理解できなかった支那朝鮮以外の世界の人々は、ここへきて、ものすごい勢いで日本的精神を理解し、吸収しようとするようになってきています。
それは、ようやく世界の先進国の民度が、日本に追いつき出したということなのかもしれません。
大学まで出た者が、あらためて幼稚園に入り直す必要がないように、高い民度を備えた道義国家が、いまさら非道国家に身をやつす必要はありません。
日本は、世界にむけて堂々と、人を大切にする、ひとりひとりが高い教養と民度を持つことで、世界は素晴らしくなる、そういう和と絆と結いの日本を、国の内外に向けて高らかに主張すべきときに来ています。
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