
靖国神社への総理参拝に関して、批判をする人が多くあると伝えられています。
私は、そういったお人は、実際には声が大きいだけで、ごく少数でしかないと観ていますが、あまりにウルサイようですので、ひとこと書いておこうと思います。
この総理靖国参拝そのものについて、戦没者への慰霊という点については、表立って反対する人は、ごく少数であると思います。
ごく少数のおかしな人たちが、大きな声を出しているだけで、騒いでいるのは、実はほんのひとにぎりの馬鹿者たちにすぎないということです。
お亡くなりになられた方への慰霊についてまで文句を言ったら、世論を敵にまわすとわかっているからです。
ですから、靖国参拝への批判は、「そこにA級戦犯が合祀されている」からというのが、その批判の最大の鍵となっているようです。
しかし、不思議なことがあります。
A級戦犯合祀がいけないかというと、先の戦争に関する「国の」責任者だったからというわけです。
ということは、合祀がまずいと言っている人たちは、「国」を大切なものと思っているわけです。
なぜなら「国」が大事でないなら、国の責任者の処分など、関係のないことだからです。
ところがそうなると、国が大事というわけですから、その国を護るためにお亡くなりになられた英霊をお祀りする靖國神社は、国と同等に大切な存在となります。
国を護るために戦い散っていった英霊たちは、大切な存在だし、東条英機元首相以下、A級戦犯と呼ばれる方々も、その総責任者として、さらにもっと大切にお祀りしなければならない存在ということになります。
なぜなら護国の勇士であったからこそ、戦勝国側による一方的な裁判によって報復的に断罪されているからです。
そこまでしなければならない大きな存在だったということは、私たちの国にとって、それだけ大きな存在です。
その大きな存在を、祀ってはいけないということは、これは「国を守ること」「国を大切なものと考えること」を、いけないということになります。
そうすると、大切でない国を護るために命を捧げられた方々も大切な存在ではなくなりますから、祀ろうが祀らなかろうが、問題にすべきことではないし、私たちにとっても、国にとっても関係ないことということになります。
ですから、A級戦犯の合祀に異を唱える人というのは、国が大事だから異を唱えていながら、国を大事なものではないと言っているわけです。
これは、論理矛盾です。
さらにいうと、分祀論者の言っている意味がわからないという点もあげられます。
「靖国の存在は認める。ただしA級戦犯の合祀は許せないから、分祀すべき」とおっしゃられているわけですが、これは陰陽師陰陽会さんのメルマガで私もはじめて知ったのですが、分祀というのは、たとえば天照大神をお祀りしているのはお伊勢様ですが、全国の神社にも天照大神の社があります。
それが分祀ということで、神様をお祀りする祠が全国に散らばっているわけです。
つまり、「分祀」というのは、神様をお祀りする場所を増やすことに他ならず、ですから靖国から別などこかに分祀したら、靖国とその場所と複数の箇所でお祀りすることになり、靖国でのお祀りがなくなることを意味しないのです。
A級戦犯分祀というのは、靖国神社だけではなくて、他にもお祀りするところを増やすという意味なのです。
分祀論者の中には、特定の大手宗教団体の方もおいでのようですが、こうした方々は、宗教人でありながら用語の意味をわからずに分祀という言葉を使っているというわけです。
宗教家にとって、神様や死者の問題は、とても大きくて大切な事柄だと思うのですが、宗教家であるにも関わらず、宗教用語をはき違えているわけです。
なんとも無責任な話です。
そういう人たちは、ほんとうに本物の宗教家なのでしょうか。
そもそもA級戦犯といいますけれども、昭和27年(1952)のサンフランシスコ講和条約の発効直後である5月1日に、木村篤太郎法務大臣から戦犯拘禁による死者はすべて「公務死」として扱うことが公式に発表されています。
また、A級戦犯として起訴されて死刑・終身刑・有期刑などの有罪判決を受けた人、裁判が途中で終了した人、不起訴になった人たちについても、勲一等旭日大綬章が叙勲されています。
しかもこれら一連の決議については、当時社会党が中心となって、なんと4千万人の日本国民の署名を集めています。
要するにわが国では、国をあげて、A級もB級もC級もなく、「戦犯」という処遇にについて、完全に否定されているのです。
もっといえば、たとえば重光葵(しげみつまもる)は、A級戦犯として禁固七年の有罪判決を受けているけれど、その後の講和条約の発効と恩赦後には、衆議院議員に3回も当選し、昭和29年(1954)には、鳩山内閣の副総理兼外務大臣となり、昭和31年(1956)の国連総会で、日本の国連加盟が全加盟国の賛成で承認されたときには、重光葵が受諾演説をして、この演説が加盟国代表団から絶大な拍手で迎えられています。
つまり、世界からも否定されているのです。
また、賀屋興宣はA級戦犯として終身刑を受けたけれど、その後池田内閣で法務大臣を務めています。
つまり、A級戦犯としての起訴ならびに有罪判決については、日本が国家として否定したのみならず、当時国連に加盟していた全ての国から、犯罪者であること、戦犯であることが否定されているのです。
それをいまになって、大東亜戦争時代には、存在さえしていなかった中共や韓国政府が、国連加盟全国家の賞賛さえも否定するということは、これは全世界の国家的良心に対する挑戦です。
もっというなら、世界に対する戦争挑発行為であるとさえいえることがらです。
挑発を受けてアタック(攻撃)することは、正当な国家行為である、というのが世界の常識だからです。
ですから、挑発行為を行った国家は、宣戦布告をしたことと同じです。
それが現実に戦争になっていないのは、日本が、日本人が古来より平和を愛し、争いを避けたいという日本の一方的な良心に基づくものです。
そもそも一国の総理が国内の慰霊施設に行くことを「まかりならない」と強制、強要する権利は、世界中、どこの国にもありません。
そもそも日本の総理が、日本国内に立ち入ってはならない場所があるということのほうが、異常な出来事なのです。
靖国神社は、神社であるから宗教施設であり、政教分離の憲法の原則に反するという議論もあるようです。
これは宗教法人法に「神社」の文言もあることから、首相の神社参拝自体が、違憲であるというのです。
これもおかしな話です。
なぜならば、わが国における神社という存在は、「宗教」なる言葉ができた幕末期よりも、はるかに古い時代、少なく見積もっても二千年以上の古い歴史と伝統を持つ、日本の代表的文化施設です。
「宗教」という言葉が生まれるよりも、はるか以前からある日本の文化的存在なのです。
神社を「宗教施設」であり、神道を「宗教」とみなすことのほうが、実は異常事態なのです。
神道というのは、幕末期に「Religion」の訳語として造語された「宗教」とは、まったく異なる存在です。
ですから、昔の家では、仏壇がちゃんとあって、そこにご先祖のお位牌などがあって、宗旨は浄土宗や真宗、あるいは禅宗や日蓮宗であっても、それらのご家庭にはちゃんと神棚が、仏壇とは別にあり、お正月にはみんなが初詣に行ったわけです。
つまり、神社は、慣習法的にも、法的にも、歴史的にも、幕末以降の造語である「宗教」とはまったく異なる、わが国固有の文化の源泉です。
わが国では、死者を神として祀り、死者の尊厳をとても大切にします。
縄文時代の住居遺跡群をみると、住居の真ん中に墓地があったりするわけです。
つまり、死者の尊厳を大切にし、死者を神様として、生者がそれと共存するという思想、もしくは文化は、わが国では、1万年以上の歴史と伝統がある事柄なのです。
1万年といえば、西洋では、まだ旧石器時代です。
そして日本では、神代の昔からの万世一系のお血筋にあられ、その祭祀の中心におわすのが天皇陛下です。
大日本帝国憲法を持ち出すまでもなく、現行憲法に照らしても、天皇が国民統合の象徴というのなら、神道も、国民統合の文化的象徴です。
もちろん課税台帳の関係で、宗教法人と看做すといった配慮は必要なことと思います。
これは、あくまで税法上の配慮の問題であって、歴史伝統文化の問題とは異なります。
本来ならば、神社は、日本人が後世に伝え遺すべき、重要かつ貴重な世界的文化遺産なのです。
靖国は、その神社です。
従って、戦没者を英霊として祀る靖國神社は、まさにわが国の歴史と文化に根ざした重要文化施設です。
祀られた英霊に感謝と慰霊を捧げることは、わが国固有の伝統であり、国の文化です。
そして国のために命をささげた方々に、敬意を表するのは、一国の代表者の勤めです。
そして戦没者への慰霊は、中共や韓国のような戦後に誕生したごく一部の新興国を除いて、世界中の歴史ある国家に共通する歴史的文化でもあります。
そうであれば、本来、すべての国会議員と両院議長、国会職員、すべての内閣閣僚と国家公務員、最高裁判所判事から全国の司法裁判員のすべてが、お参りすべきものです。
わたしたちは、もういちど靖国という存在、戦犯について、そして神道というわが国の文化の源泉について、しっかりと考え直すべきときにきていると思います。

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