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■書 名:ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人!
■ISBN-13: 978-4434184727

■著 者:小名木善行、出版社:彩雲出版
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仁義なき戦い

昔、「仁義なき戦い」という映画が大ヒットし、これがずいぶんとシリーズ化されました。
一作目が公開されたのが昭和48(1973)年ですから、もう40年以上も昔のことです。
この映画が登場するまでのヤクザ映画は、いわゆる任侠映画で、仁義と義理人情の世界を描くいわばヒーローものであったわけです。
で、たいへんおもしろい点なのですが、「仁義なき戦い」シリーズは、義理人情も仁義もない、抗争そのものを描いた映画だったのですけれど、実は、血まみれになるようなスプラッターなシーンというのは、昔の任侠映画の方が、むしろ派手に描写していて、「仁義なき」シリーズの方には、実はそうしたシーンは、あまりありません。
では、何が視聴者に衝撃を与えたかというと、画面のえげつなさではなくて、そのストリーそのもので、まさに仁義も筋目もない、義理人情のカケラもなく、ただ人の上に立つこと、否応なく抗争に引きずりこまれてしまう姿に、それまで任侠映画しかなかった観客たちが衝撃を受けたわけです。
もちろん、主演の菅原文太さんがかっこよかった、なんてこともあったかもしれません。
いきなり、どうしてこんな古い話を持ち出したかといいますと、実は、この「映画・仁義なき戦い」に描かれているのとうりふたつで、まったく同じ世界が、かつての朝鮮半島にあったという事実なのです。


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仁義は秩序です。
そして義理人情は、人を大切にしていこうとする大御宝(おおみたから)から出発します。
ですから、たとえば世話になった恩人が殺され、子分たちが酷い眼に遭わされれば、暴力はいけないと我慢しながらも、最後はたったひとりで殴り込みをする、つまり義理と人情の世界になるわけです。
子分を我が子のようにたいせつに思う気持ちというのは、預かっている子分が、自分の私有物ではなくて、親御さんと、そして陛下からお預かりしている大切な宝物という意識が、その根底にあるわけです。
日本では、再三このブログに書いていますように、遅くとも7世紀の昔から、権威と権力とは別なものとされ、民衆は権威のもとにおかれましたから、権力者の自由にはされませんでした。
そのために日本人はひとりひとりが互いに助け合い共同する和絆結(ゆ)いの国となりました。
これが日本のカタチです。
ところがお隣の朝鮮半島では、民衆はあくまでも権力者の私物とされました。
権力者は自分のためだけに我儘勝手のし放題でした。
ですから、朝鮮半島では、村という共同体さえも、成立しませんでした。
なぜなら、官吏の苛酷な徴税によって、民衆はいつでも逃散できる状態を選ばざるをえなかったからです。
これは、年末に行われた松木國俊先生の日本史検定講座での講義で教えていただいて、ああ、なるほどと思ったことなのですが(日本史検定講座はほんとうに毎回おもしろいです)、日韓併合に至るまでの朝鮮半島の実情について、実に納得できるお話を伺いました。
松木先生のお話をもとに、私の考えも加えて、朝鮮半島版「仁義なき戦い」を見てみたいと思います。
☆☆☆☆☆
そもそも明治維新以降、日本が朝鮮に一番望んだことは、朝鮮半島の近代化でした。
ロシアの南下という脅威に対し、朝鮮半島がちゃんと自立していてくれないと、日本まで危なくなってしまうからです。
ところが世界の情勢がまったく眼にはいらず、清国を世界の中心と考えていた李氏朝鮮は、これをあっさりと拒否してしまいます。
そこで明治27年に起こったのが日清戦争です。
日清戦争の目的は、朝鮮の独立です。
朝鮮が旧態然とした清の属国のままでは、瞬く間にロシアに蹂躙されてしまう。
そうなれば日本だって危ない。
ですから日清戦争後に清国と締結された下関条約は、その第一条が「朝鮮の独立」です。
その日清戦争は7月に始まるのですが、同じ年の秋には朝鮮に、金弘集(きむこうしゅう)という首相が誕生しています。
金弘集首相は、身分制度の廃止や拷問禁止、人身売買の廃止、罪人連座法の廃止など、朝鮮の近代化のために必死の努力をしました。
これをこれが甲午改革(こうごかいかく)といいます。
成功していたら、韓国はすごく良い国に生まれ変わっていたことでしょう。
もちろん朝鮮内部にこうした息吹が誕生した背景には、日本と同様、ロシアの脅威を感じていた朝鮮人がいたことも事実ですし、日本の近代化を目の当たりにしたことへの憧憬があったことも事実でしょう。
そして日本が日清戦争に勝利すると、この改革は、一気に前進していったのです。
ところが、戦争後の三国干渉(さんごくかんしょう)によって、ロシアが横槍をいれて下関条約を反故にすると、朝鮮王の高宗(こうそう)とその妃の閔妃(みんぴ)は、態度をひるがえしました。
彼らは、日本よりもロシアを「強い」と感じたのです。
そしてロシアになびき、金弘集首相の改革をことごとく邪魔しました。
そこには、そもそも朝鮮が近代化したら、自分たちの権力が弱まってしまうという危機感もありました。
けれどよく考えればわかることなのです。
たとえ一時的に権力が弱まったとしても、朝鮮自体が近代化して豊かな国になれば、相対的にそれまでよりももっと大きな権力を国王も閔妃(みんぴ)も得ることができるのです。
それに、いくら朝鮮内部の権力云々を言ってみたところで、朝鮮そのものがなくなってしまったら、権力も何もないのです。
でも、そんなことは、高宗にも閔妃にもわかりませんでした。
彼らは、ただ今の権力が弱くなることだけを問題視したのです。
そしてついに、金弘集を失脚させてしまいました。
せっかく日清戦争に勝ち、朝鮮もやっと独立して近代化の道を歩み始めたと思った矢先に、朝鮮国王らが裏切ってロシアに媚を売り、金弘集首相まで失脚してしまった。
朝鮮半島の状況は、朝鮮が清国の属国だったときよりも、悪化してしまったのです。
なにせ、ロシアに接近したわけです。
これでは、日本は、日本人の血を流してまで戦争を戦った意味が何もなくなってしまう。
そこでこれはたいへんだということで、日本から朝鮮に三浦梧楼(ごろう)という公使が赴任しました。
当時の朝鮮には、高宗の父親で大院君(だいいんくん)という権力者がいました。
高宗はただの女好きな飲んだくれ。閔妃は権力志向の贅沢三昧、一方、高宗王の父親の大院君は、とにかく息子の嫁の閔妃が大嫌いという三角関係です。
とりわけ大院君は、閔妃が大嫌いで、この二人は、同じ朝鮮王宮の中にいながら、まるで積年の宿敵同士のような関係にありました。
そして三浦梧楼が公使として赴任してきたことを奇貨として、大院君は日本人の反抗に見せかけて閔妃を殺害してしまったのです。
これを乙未事変(いつみじへん)といいます。
日本が日清戦争に勝った年である、明治28(1895)年10月の出来事です。
 
閔妃が暗殺されたとき、ソウルの住民たちは万歳を叫んだそうです。
それほどまでに、ひとり贅沢三昧をして権力を振りかざす閔妃は、民衆から蛇蝎の如く嫌われていたのです。
そして閔妃暗殺によって、金弘集は再び首相に返り咲き、朝鮮近代化の続きを再開したのです。
ところが、です。
嫁の閔妃を殺害された国王の高宗は、今度は自分が大院君に殺されると恐怖しました。
そしてあろうことか、ロシアの公使館に逃げ込んでしまったのです。
これが「露館播遷(ろかんはせん)」で、明治29(1896)年2月の出来事です。
露西亜(ロシア)館に逃げ込んだから「露館播遷」です。
ロシアの公使館に逃げ込んだ高宗は、なんとロシア公使館の中から、金弘集首相の捕殺(ほさつ)命令を出しました。
捕殺(ほさつ)というのは、つかまえて殺すということです。ひどい話です。
この命令によって金弘集首相は路上で極めて残酷な方法で虐殺されてしまいました。
そして、それまで行われた素晴らしい朝鮮の近代化の改革は、すべて水に流されてしまいました。
朝鮮半島は、属国相手が清国からロシアに変わっただけで(ということは日本にとっても朝鮮にとっても、状況はさらに悪化したということなのですが)、まったくもとの中世的体制に戻ってしまったのです。
それだけではありません。
高宗は、ロシアに対して、日本が日本のお金で朝鮮に作ってあげた鉄道や様々な施設を、次々にロシアに進呈してしまったのです。
そしてついにロシアは、朝鮮半島の一番南にある馬山(まさん)に軍港を作る準備を始めました。
つまり、当時のロシアからみれば、国王を籠絡することで、朝鮮は完全に支配下に置いた。
次は、日本への攻略だというわけです。
そんなことをされたら、元寇の再来です。
日本は何のために多くの血を流して清国と戦い、朝鮮の独立を図ったのか、まるで意味がなくなります。
この時点ですでにロシアは、朝鮮北部に軍事基地を建設し、世界最強と謳われるロシア陸軍の兵力を、続々と増強させていました。
ロシアの陸軍兵力は、日本の10倍です。
日本は、ロシアに対し、満州のロシア支配は認めるから、せめて朝鮮には手を出さないでくれとほとんど懇願しました。
けれどロシアは聞く耳をもちません。
あたりまえです。ロシアは日本も滅ぼすつもりでいるのです。
そこでやむを得ず、乾坤一擲の大勝負に出たのが、明治37(1904)年2月の日露戦争です。
激しい戦いでしたが、日本はロシアに連戦連勝しました。
しかしたとえ日本がロシアとの戦争に勝ったとしても、高宗がロシアに籠絡されていたら意味がありません。
そこで戦いが日本有利となった8月、日本は朝鮮との間で、第一次日韓協約を締結しました。
ここで何をしたかというと、まず、アメリカの駐日公使館顧問であったダーハム・ホワイト・スティーヴンスに、韓国の外交顧問に就任してもらったのです。
要するにアメリカの助けを借りて、ロシアを牽制し、同時に高宗へも圧力をかけようとしたのです。
そして外交案件については日本と協議し処理することを韓国との間に取り決めました。
さらに日本は、大蔵省主税局長の目賀田種太郎(めがたたねたろう)を李氏朝鮮の財務顧問に派遣しました。
当時の李氏朝鮮は、宮廷経費と国家財政がごちゃごちゃです。
この頃の朝鮮は、大韓帝国を名乗っていましたが、帝国とは名前ばかりで、実体は李王の私有物に他なりません。
ですから、国の財政という概念そのものがないのです。
国の財政=高宗王の個人財産です。
どこまでが王族のカネで、どこまでが国のお金かもまるでわからない。
そこで目賀田種太郎は、朝鮮の財政立て直しに奮闘し、国家財政の健全化を図ろうとしたのです。
ところが、です。
ここからが、いまの朴槿恵大統領とまったく同じなのですが、韓国王の高宗は、私有国家が近代的国民国家となることで自分の権力がそがれることに恐怖し、日本がロシアと戦っているその最中に、ロシア皇帝ニコライ2世宛に密使を送るのです。
要するに告げ口外交です。
高宗は、まさか日本がロシアに勝つとは思ってもみなかったのでしょう。
この密書事件が、翌年の明治38(1905)年3月26日に発覚しました。
日本は激怒しましたが、高宗は、そんなことにおかまいなく、7月には再びロシアへ、そしてフランスへ、10月にはアメリカ、イギリスにまで密使を送って、韓国を助けてくれ〜とやったのです。
考えてもみてください。
当時の韓国が独立国となれたのは、日本のおかげです。
普通なら、独立国となるためには、その国の若者達の多くの血が流れたりするわけだけれども、韓国の場合、自分の国からは一滴の血も流さず、上げ膳据え膳で、全部日本にやってもらったのです。
そして朝鮮半島に鉄道をひいたり、街のインフラを整備したりすることも、法制度を整えることも、財政の健全化を図ることも、全部、日本にやってもらい、さらには日本は、日本の10倍の兵力を持つロシアとまで戦っている、その最中なのです。
その状況で、高宗王は、へいきで日本を裏切り、列強各国に告げ口外交を行っていたのです。
こう書くと、朝鮮には朝鮮の都合があり、日本という他国が干渉したこと自体が問題だという人もいるかもしれません。
けれど、よく考えていただきたいのは、欧米列強によって植民地化された国は、そのすべての国が、植民地化されたときから、10〜20年で人口の8〜9割を失っているのです。
そして国の財のすべてを奪われているのです。
朝鮮は、それはいいかもしれません。
なにせ朝鮮には、奪うべき資源も工業生産物も、めだつ農業生産物も何もありません。
清王朝の属国だった時代には、他の諸国は朝貢する際に、必ずその国の名産品や物産品を清国皇帝に届けていましたが、朝鮮には朝貢に持参できる産物が何もない。
何もないから朝鮮の女性を毎年、まさに性奴隷として献上していたというのが李氏朝鮮時代の朝鮮です。
その女性を受け取るために、毎年、清国から使者がやってくる。
すると李氏朝鮮王が南大門の前までその使者を出迎え、そこで三跪九叩頭といって、四つん這いになって額を三回地面に叩き付ける仕草を三回繰り返すという礼をしていました。
国王が、女を差し出すために、使者にひざまづいて額を地面に打ち付けて挨拶をするわけです。
そんなことが500年続いて来たのが、李氏朝鮮です。
ちなみに、こうして毎年、韓国女性が清王朝に献上されていましたが、清国皇帝が朝鮮人女性との間に子をもうけ、その子が清国皇帝になったという事例は、歴史上、ただの一件もありません。
献上された女性が、どのように使われていたのか、推して知るべしです。
ついでに申し上げると、大東亜戦争が終わったとき、日本は、朝鮮にある日本の資産を、民間人の所有物までふくめて、全部、朝鮮に置いてきました。
その額は、いまのお金にして国家資産で16兆円、民間資産で5兆円、合計21兆円にのぼります。
これは朝鮮の人口を5000万人としても、ひとりあたり4200万円という途方もない大金です。
それだけの大金を置き土産にしてもらいながら、朝鮮は、戦後、そのお金で南北に別れた朝鮮戦争に浪費しただけで、国家インフラをまったく整えることができず、日本が復興の目処が着きはじめた昭和30年頃においてさえ、朝鮮は世界の最貧国となっていました。
そもそも大東亜戦争の頃の韓国経済は、対日輸出が国の経済の78%です。
その日本を追い出した結果、韓国はじり貧になり、せっかくの21兆円もの財産さえも、なにひとつ国の経済の進展のために使うことができなかった、そういう国です。
戦前の日韓併合統治時代の韓国の経済や社会の大発展も、戦後の漢江の奇跡も、全部日本によってもたらされたものです。
そしていまの韓国輸出経済も、部品は全部日本製。韓国はそれを組み立てるだけという安直な方法で、輸出を伸ばしていましたが、そうやって儲けたお金さえも、国内での金融資産にはまったく貢献せず、ですからいまだに国内金融がまったく育っていない。
なにもかも、日本が面倒みてくれなければ、どうにもならないのに、なぜか国をあげて反日に走っているというのですから、哀れを通り越して、あきれ果てます。
話が脱線しました。
日露戦争に話を戻します。
高宗は、日本が戦っている相手と、戦いの最中に裏で手を結ぼうとしたわけです。
こんな裏切り行為が、許されるはずもありません。
そこで日本はやむなく、日露戦争終結後の明治38(1905)年11月17日に第二次日韓協約を結び、韓国の外交権の一切を取り上げました。
つまり、日本は韓国を、このときになって、ようやく保護国にしたのです。
ところが、ここまでされても、まだ懲りずに、明治40(1907)年6月の第二回万国平和会議の際にも、高宗はまたまた密使を派遣しました。第二次日韓協約は無効だというのです。
列強は日韓の第二次協約を承認していましたので、どの国も笑って高宗の訴えをまったく相手にしませんでした。
さらに韓国内でも、当時の李完用(いわんよん)首相以下の閣僚たちも激怒し、閣僚全員で高宗に退位を迫りました。
これにより高宗は強制退位させられ、息子の純宗(じゅんそう)が大韓帝国皇帝に即位しました。
そこで日本は、あらためて明治40(1907)年7月に、韓国との間で皇帝の権力を制限した第三次日韓協約を締結したのです。
そして韓国内閣は、日本人の高級官吏の任官も認め、なんとかして韓国の近代化を図ろうと、努力しました。
あまりにもひどい残虐な刑罰や拷問を廃止し、近代的法治国家となるために警察や司法制度の改革にも着手しました。
またそうした改革に必要な資金は、日本からほとんど無尽蔵に提供されました。
ところが、日本から高官を派遣し、無尽蔵といって良いほどのお金をつぎ込んでも、朝鮮の改革は一向に進まない。
進むわけがないのです。
昔も今も同じです。
政府高官の間で汚職や賄賂が横行していて、誰も民衆を省みようとしないのです。
日本では、民衆は天皇の宝物(大御宝/おおみたから)と認識されます。
朝鮮ではそれが、ただの収奪対象でしかないのです。
こうした状況に、ついに朝鮮の民衆も立ち上がりました。
明治42(1909)年、李容九(りようきゅう)が当時の大韓帝国最大与党(自称100万人)の一進会(いっしんかい)のが、「日韓の合邦を要求する」という声明を出したのです。
これは、朝鮮人民衆の悲鳴でした。
けれど、日本では、これに対して否定的でした。
とりわけ初代韓国統監を勤めた伊藤博文は「あくまで、朝鮮の改革は、朝鮮の人々が自分たちで行うべき。むしろ異民族がはいってくると、日本がたいへんなことになる」(よくご存知で)と、朝鮮の併合には真っ向から反対の意思を表明していました。
要するに、朝鮮の合邦論者にとって、まさに(朝鮮併合に反対する)伊藤博文が、敵になったのです。
そして、伊藤博文は、朝鮮人テロリストの安重根(あんじゅうこん)によってハルピン駅頭で暗殺されました。
状況を知る日本にいた欧米列強の公使たちは、白人です。
この時代、白人以外の有色人種は、本当に「人」であるかが、真面目に議論されていた時代です。
要するに有色人種は人ではなくて、ヒトモドキ、もしくはサルかケモノであり、だから殴っても斬っても、有色人種は痛みを感じることがない、などと、真剣かつ真面目に思われていた時代です。
そうし時代下にあって、日本は、パリ講和会議で、人種の平等を国際連盟憲章の第一条に入れるべきだ、などと大真面目に提案していたのです。
欧米の白人たちからしてみれば、朝鮮のサルかヒトモドキが、当時ようやく人の仲間入りを果たした日本と「対等に合邦」などと言い出したものだから、これはもう大笑いです。
なにせ当時の日本は、世界最強の大帝国、七つの海を支配する大英帝国と対等な同盟国です。
ということは、その日本と韓国が対等に合邦するということは、韓国は英国とも対等だというわけです。
他国との約束さえ守ることができず、国王自らが平気で裏切り行為をして密書を送り、王家の歳費と国家財政との区別さえもできないサルが、天下の大英帝国と対等?、ということは、俺たちは、それ以下?、これはもう大爆笑以外の何ものでもない。
だから欧米各国は、「おいおい日本さんよ、あんたがそこまでして有色人種も人間だというのなら、あの韓国サルの面倒をみてみなよ」という話になった。
結果、日本は引っ込みがつかなくなって、明治43(1910)年8月に、日韓併合が行われるわけです。
韓国は、これに大喜びしました。
李完用を首相をはじめとする、閣僚以下全員(病欠していた文部大臣の李容植(りようしょく)を除く)が、そして韓国民衆までもが日韓併合を、まさに「大歓喜」したのです。
そして韓国は、経済も、教育も産業までもが発展し、わずかの間に人口が倍増し、朝鮮半島の共通語である韓国語ができ、近代化が一気に進むわけです。
ところがそこまでしてもらった恩義を忘れ、戦後は、反日にシフトし、いまや国をあげて日本を悪者視して、大統領からして率先して世界中に告げ口外交をしています。
要するに、なんの美意識も持ち合わせていない。
いまのままでは、韓国は未来永劫、仁義なき戦いの世が続くことになることでしょう。
私はひとつ思うことがあります。
数年来、韓国右翼と呼ばれる人たちの盛んな反日パフォーマンスが話題になっています。
日本の国鳥であるキジを生きたまま引き裂いて殺したり、日の丸を焼いたり、慰安婦像の前で泣きわめいたり等々です。
けれど、あれらは、すべてスポンサーがついて、儲かるからやっていることです。
できるだけ派手なパフォーマンスをして、その写真を撮ると、その写真を韓国メディアが高い値段で買ってくれるのです。
ようするに、できるだけ派手であればあるほど、お金になる。
だからやっているだけです。
あの国に、民衆の意思なるものは存在しません。
あるのは、力ある者、財力のある者による支配だけです。
ですからご覧なさい。
政権が変わって、親日国に生まれ変わったら、その日からまるで手のひらを返したように、親日パフォーマンスのオンパレードになります。
それだけのことです。
仁義なき戦いの世界では、力とカネがすべてなのです。
だからといって、私は、いまさら韓国に親日国になってもらいたいとも思いません。
日本もいい加減、目を覚ますべきです。
大戦前、満洲には、たくさんの韓国人(日本国籍の韓国人)がいました。
彼らは、支那人から蛇蝎の如く嫌われていました。
なぜなら、朝鮮人は日本国民であることで嵩にかかって、現地の人々に悪さのし放題だったのです。
お得意の強姦や、窃盗、強盗、暴力行為、あまりのひどさに、現地の人たちが匪賊や馬賊を組織して立ち上がりました。
哀れなのは、そうした韓国人を日本人としていた、内地から来た日本人です。
通州事件などの惨劇は、こうして起こりました。
日本だけではありません。
ベトナムでは、米兵が現地の村人を皆殺しにしたり、現地女性を強姦したといった事件がさかんに宣伝されましたが、なるほどソンミ村事件もあったけれど、そうした悪さをしでかしていたのは、たった5万人の韓国兵でした。
それが証拠に、米国をはじめ、ほとんどすべての国から派遣された兵隊さんとベトナム人女性との混血私生児はほとんどいません。
いるのは、韓国兵との間にできたライダハンだけです。
野蛮人は野蛮人でしかないのです。
一方で、日本に住みまっとうな日本人としてしっかりと生きようとしている数多くの韓国人がいるのも事実です。
ですから民族として蔑視することには、私は反対です。
ただ、上に述べたような歴史がある、ということだけは、私たちは、しっかりと認識しておく必要があるし、だからこそ、そこから日本人として、しっかりと成長していこうとする人と、そうでない人とは、明確に区別をしていく必要があるものと私は思います。
その意味でも、通名は、絶対に廃止すべきです。
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