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■書 名:ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人!
■ISBN-13: 978-4434184727
■著 者:小名木善行、出版社:彩雲出版
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西洋では、歴史のことを「ヒストリー」と言いますが、この言葉は紀元前5世紀の古代ギリシャのヘロドトスが著した歴史書「ヒストリア」に由来します。
「ヒストリア」というのは、そのまま直訳すれば「知っていること」もしくは「私がヒアリングして知ったこと」という程度意味で、それ自体は「歴史」という意味の言葉ではありません。
ところが事実上、これが世界最古の「歴史書」となり、これがもとになって西欧における歴史認識が形成されました。
歴史認識というのは、共有すべき価値観の源泉となります。
つまり、西欧における価値観の源は、ヘロドトスの「ヒストリア」である、ということになります。
では、その「ヒストリア」に何が書かれているかと言うと、概略次のようになります。
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「ギリシャの小国が互いに奪い合ったり戦争しあったりしていたときに、東洋からペルシャの大軍がやって来て、次々とギリシャの小国が滅ぼされるのだけれど、最後はみんなで協力して強大なペルシャをやっつけた、めでたしめでたし」。
この筋書き、何かに似ていると思いませんか?
「・・・地球では各国が互いに対立し、戦争に明け暮れていた。そこに強大な軍事力を持つ火星人が攻めて来た。あわや人類滅亡となりかけたとき、勇者があらわれ、みんなで協力して火星人をやっつけた」
これ、H・G・ウェルズの「宇宙戦争」の筋書きですが、要するに「ヒストリア」は、これとそっくり同じストーリーで描かれているわけです。
ただし、影響力は違います。
ウエルズの「宇宙戦争」はフィクションですので、本がベストセラーになって、何回かハリウッド映画になり、たくさんの人々を楽しませた、程度の影響ですが、「ヒストリア」は、歴史書ですから、後の世に重大な思想的影響をもたらしたのです。
どういうことかというと、ヒストリアはその後、キリスト教やゾロアスター教の思想と結びつき、ヒストリアに描かれた東洋のペルシャの脅威は、そのまま悪魔王サタンの脅威と同列に扱われるようになったわけです。
これが何を意味しているかというと、西欧人にとって、有色人は悪魔であり、サタンとなった、というわけです。
だからこそ有色人種は、植民地にして支配し、押さえつける。
そうしなければ、白人世界は悪魔王サタン(有色人種)によって征服され、滅ぼされてしまう、というわけです。
有色人種である我々からしたらずいぶん身勝手な言い分ですが(笑)、これが西欧思想の根っこであり、だからこそ十字軍の遠征が行われたし、500年におよぶ植民地支配へと結びついているわけです。
そしてもっというと、彼らの思想的背景には、常にこの魔王サタンの脅威があるわけです。
つまり、チャイニーズもコリアンも(と一緒にされたくありませんが)日本人も、常にサタンの脅威と看做されやすいということでもあります。
チャイナや韓国はこれがわからないから、露骨な騒ぎを起こします。
けれど、起こせば起こすほど、結果としては、彼らはサタンと看做されてしまう。
なぜ日本企業が欧米で成功したかといえば、日本がどこまでも謙虚だったからという面があることを、彼らはもう少し学ぶ必要があろうかと思います。
実際、カナダなどに言っても、チャイナタウンとか、コリアタウンとか、めちゃくちゃ汚い。
これに対して、ジャパンタウン(いまではそこはチャイニーズ、韓国人の住むエリアですが)、もともとはたいへん清潔で、安心なところでした。
さて話が脱線しましたが、「ヒストリア」にはペルシャの脅威=サタンの脅威となった影響に加えて、もうひとつの、重要な影響がありました。
それが、「小国同士の対立と闘争」そして、ペルシャとの「対立と闘争」です。
つまり、西欧社会では、古代も中世も近代も現代も、その思想的背景(価値観)には、常に「対立と闘争」という概念があったということです。
ですから「対立と闘争」という概念が共産主義の専売特許と思い込んでいる人が多いですが、実はそうではなくて、これは西洋における紀元前5世紀のヘロドトスの時代からの共通思想である、ということなのです。
共産主義思想は、こうした思想的背景から出発し、対立者に対する血の粛清を正当化しただけのものであるわけです。
共産主義思想が出現する前のヨーロッパでは、たとえば各国の王様にしても、対立する者を皆殺しにするという思想を持っていません。
王様同士は、それぞれ親戚筋にあったという点もありますが、そもそも領土、領民は王の個人的所有物であり、領土の境界線での紛争や、王権への侵害行為などで戦争になっても、少し戦って勝敗がある程度決したら、そこで白旗をあげて降参したら、それでオシマイ。あとは領土の一部くらいを相手国にくれてやってケリをつけ、国力が充実したら、それを取り返しに行く、というのが常態でした。
ところが共産主義は、その王や貴族たちが持っている財産を横取りし、これを民衆にバラまいてあげるよと嘘を言って王や貴族を皆殺しにし、結局は共産党の幹部が、その財産を横取りしてしまうという、たいへんに虫の良い思想で、これを実現するために、民衆をいかに煽動し、ごまかし、戦に狩り出させるかをとことん追求した、きわめて利用主義的な思想です。
ですから共産主義は、「対立と闘争」に、さらに「粛清」という残酷さを加えた思想ともいうことができ、そしてその思想の原点をずっと辿って行くと、結局は、やはりヘロドトスまでさかのぼってしまうわけです。
そういえば、マルクスの「資本論」も、ずいぶん分厚い本ですが、その内容は経済論なんて、実はほんのちょっぴりで、内容のほとんどは、酔っぱらいの妄想ともとれる対立と闘争の歴史に関する記述でした。
こうした西欧の「対立と闘争」の歴史認識・・・歴史認識というのは、歴史が民族共通のものであるだけに、それはそのまま民族に共通する社会的価値観といえますが・・・・に対して、では日本における歴史認識というのは、どのようなものなのでしょうか。
日本における歴史認識の基礎になっているものは、日本書紀です。
古事記は江戸時代に本居宣長が古事記伝を書くまで封印された神の書であり、公な歴史書として、奈良平安の昔から江戸中期に至るまで、歴史の教科書として使われて来たのが日本書紀だったわけです。
ではその日本書紀がなぜ書かれたかというと、日本がチャイナ皇帝の中華文明圏から独立(中華冊封体制からの独立)し、わが国独自の文化文明圏を明確に築きはじめたからです。
そして、なぜそのために日本書紀が書かれたかというと、チャイナでは、チャイナ皇帝の正統性の根拠となっている最古の歴史書に司馬遷の「史記」があり、日本が日本としての独自性、独自文明圏を形成するに際しては、史記に対抗できるだけの内容をもった正統性を証明するための歴史書の存在が必要になったからです。
ですから日本書紀で一環している内容は、御皇室の正統性です。
神々の世から始まり、修理固成(つくりかためなせ)と世界が誕生し、神々から国土が生まれ、天壌無窮の神勅によって天皇が国の頂点に立たれ、その万世一系の天皇が、人々をひとつ屋根の下に暮らす家族になり(八紘一宇)、私たちは、ひとりひとりが家族として「君民一体」の国家を形成するというのが、これは古事記も同じで、記紀が描く日本のカタチです。
ですから、わたしたちの国の根幹には、いかなる場合も、人々が家族のようにいたわり合い、助け合うという思想が常に根底に流れます。
ですから、戦国大名が互いに対立して覇を争った時代にあってさえ、ご皇室の権威は常に守られ続けたし、戦国大名同士の戦いも、あくまでも「おおみたから」としての民衆を守るためのものですから、決して皆殺しのようなことはせず、戦いが済めば、その代表者が責任をとって首を差し出せば、民衆には一切のお咎めもない。
そういう国を、わたしたちの祖先は築いてきたわけです。
つまり、日本における価値観の源泉には、実はどこにも「対立と闘争」という概念がないのです。
あるのは、どこまでも「修理固成(つくりかためなせ)」であり、和であり、絆であり、結(ゆ)いなのです。
ですから、日本国憲法がどのようなものであれ、当時の政権が左巻きの売国政党であれ、実際に東日本大震災のような大事件が起こると、そのときわたしたちの国の民衆は、なによりも互いに助け合い、そして冷静に行動し、常に感謝の心を忘れず、被災者同志でなんとか安らぎのある日常を築こうと努力します。
これは諸外国とはまったく別な、実に日本的な行動パターンです。
世界中どこの国でも都市でも、あるいは個人と個人であっても、良い常態のときには、いつでもどこでも誰でも、みんな良い人です。
問題は、そこに一定のストレスが加わったときです。
そういうときに人間の本性が出る。
ご近所に、斜め上あたりの外国人の家族が越して来た。普段は別に何の問題もないかもしれない。
けれど、地震や大水などの災害が起きたとき、その人たちは、日本人のように互いに助け合い、いたわりあって行こうという行動をちゃんと示してくれるのでしょうか。
実際、世界各国でそのようなときに起きたことは、略奪に強姦、暴行、殺人です。
一方日本にはこれがない。
つまり、根っこのところに「対立と闘争」、そして「自分さえ良ければ」という原点を持つ人たちと、いざというときに「和と絆と結い」そして「互いの感謝」と「みんなの安らぎ」を第一とする民族では、その根本が違う、ということです。
私たちは、誰もが後者のほうが、長い目で見て、みんなが良くなれるのだから、それが正しいことだと、誰もが信じて疑いません。
なぜならそれが日本人の普遍的民族的価値観だからです。
ところがそうでない人たちは、前者のように、その瞬間、その刹那に、自分さえ良ければ、あとのことなど関係ない、ということが正しい判断ということになります。
けれど、万国共通で、人々がほんとうに安心して生きることができ、人々がやすらぎのある暮らしができるのは、前者でしょうか、後者でしょうか。
すくなくとも、わたしたちの国には、後者の文化があり、それが民族的価値観であり、そしてそれは誰もが絶対的に正しいと真実価値観であり、まさに世界の多くの人々が、まさに坂の上の雲として、見果てぬ夢として、待ち望んでいる最高の文化なのではないかと思います。
日本を取り戻す。
それはただ、経済を取り戻し、教育を取り戻すということではありません。
私たちが、わたしたちの国の歴史伝統文化から生じる普遍的価値観を取り戻す。
そういう戦いであろうと思います。
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