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左近山の景色より-1

先日、あるところでお話していたら、たまたま「タテマエとホンネ」の話になりました。
最近では学校などでも、「タテマエ」より「ホンネ」が大事だと教えていることが多いのだそうです。
「それってタテマエでしょ?ホンネのところは何?」
そんな会話が日常的に行われるのが、いまの世相なのだそうです。
けれど、それは大きな間違いです。
「タテマエ」こそ大事です。


早い話が、誰だって眠い眼こすって朝、疲れた体をひきずって満員電車に揺られて不愉快な思いをしながら会社行くよりも、家で寝ていたほうがいいです。
それが「ホンネ」です。
仕事をしないで遊んで食べて行けるなんて、ある意味、理想かもしれない。
けれど、誰もが「タテマエ」より「ホンネ」を大事にするようになったら、社会は崩壊してしまいます。
「タテマエ」というのは、今風にいえば「目的」のことです。
家族を支えるため、自立するため、生活のため、少々体が疲れていようが、落ち込んでいようが、おはようございます!と明るく元気な顔して会社に行く。仕事をする。
その「〜のため」という目的が、まさに「タテマエ」です。
バレーボールでもサッカーでも野球でも、あるいは柔道やボクシングのような個人競技の強化練習でも、試合に勝とうとか、全国大会に出ようとか、強くなりたいとか、その目的意識をチームが一丸となって共有するから、強くなれるのです。
そのみんなで共有する目的意識のことを、昔は「タテマエ」と呼んだわけで、これがなければ、目的のない集団、つまりただの烏合の衆になってしまいます。
だいたい人の心などというものは、常に揺れ動いているものです。
仏教用語に「一念三千」という言葉があるのだそうですが、正確な意味かどうかはわかりませんが、聞くところによれば、それは「人の一瞬の思いの中には、三千の別な思いが共存している」ということなのだそうです。
この季節、紅葉がそろそろ終わりのシーズンですが、赤や黄色に色付いた紅葉を見て、「ああ、美しいなあ」、「観に来て良かったあ」と感じる心は、同時に「でも、落ち葉を掃除するのがたいへんだろうな」とか、「どうやって掃除しているんだろうか」とか、「あれ、この落ち葉、虫が食ってる」だとか、感動と同時に、余計なことをいっぱい頭の中で考えている。それが人の心です。
人ひとりの一瞬の心でさえ、かように千々に乱れているのです。
まして大勢の人が集まったとき、そのホンネっていったいどれを指して言うのでしょうか。
ひとりが、一瞬の中に三千の別々な思いを持っているわけです。
そんな人が仮に100人集まれば、瞬間の思いだけでも、30万種です。
そのどれが、「ホンネ」なのでしょうか。
「私はあの人を愛してる、あの人と結婚したい」といっても、同時に「でも結婚は親が許してくれるだろうか」とか、「結婚したあと、生活はどのようにするのだろうか」とか、「料理はちゃんとつくれるだろうか」とか、同時にたくさんの不安がそこに共存します。
なかには別な人が好きかも、なんてのもあるかもしれない。
「ホンネ」はどこにあるのでしょうか。
がんばろうという気持ちもあれば、めんどいとか、いやだなとか思う気持ちもある。
そのいやだなと思う気持ちを乗り越えるところに、人間の成長があるし、人と人との結(ゆ)いも生まれます。
大昔、戦国大名が戦(いくさ)をするときは、何より「大義名分」を大事にしました。
誰だってホンネをいえば、殺し合いの戦(いくさ)などしたくないです。
それでもやらなければならないときがある。
だからこそ、「大義名分」の前に、たとえ苦しくとも、みんなで気持ちを一致させ、目的を成し遂げようとしたのです。
要するに、人の「ホンネ」など、そもそも千々に乱れていて、どれが本心かなんて、ないのです。
必要なことを、みんなで共有化して、成し遂げる。
その共有化する目的が「タテマエ」です。
よく政治評論などで、「タテマエ論が横行する政治の世界」などと批判的な言い方がされます。
だからその中で、「ホンネをズバッと語る人」が、世間の耳目を集めたりします。
大きな間違です。
政治は、ひとりで行うものではありません。
大勢の人が目的意識を共有化することで、ひとつひとつの事業が成し遂げられます。
その共有化すべき目的意識のことが「タテマエ」です。
「横行」どころか、「なくてはならないもの」です。
それを「横行」などという横暴な言葉で横槍を入れること自体が、横暴だし、間違っています。
みんなで目的意識を共有化してひとつの事業を推進しようとするときに、「ホンネを言えばやりたくないんだよ」みたいなことを言えば、世間はびっくりしてその人に注目するかもしれません。
それにもっともらしい上手な理屈をつければ、「そうなのか!」などと納得してしまう人も出るかもしれない。
けれど多くの場合、その「ホンネを語った人」というのは、ただの目立ちたがりやの売名行為者でしかない。
みんなでひとつにまとまろうとするとき、タテマエを共有化できないなら、その時点でその人はただの脱落者です。
11人で戦うサッカーで、選手のひとりが「今日はやる気しねえ。俺、体調が悪いんだ」といえば、残りの10人も、監督もコーチも、予備の選手も、みんなが注目します。
なぜなら、みんなにとって迷惑だからです。
喜ぶのは、対戦相手、つまり敵の側だけです。
大切なことは、「タテマエ」の中にこそある。
わたしたち戦後世代は、わたしたちの世代がかつて馬鹿にしてきたこと、軽くみていたことの中にこそ、もしかすると本当は、国を大事にしたり、世の中を良くしたり、自分自身がまっとうに生きたりするために本当に必要なことがあったのではないか。
そういうことを、見失っていたのではないか。
そういうことを、いま一度考え直し、見直してみるときにきているのではないかと思います。

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