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私の感想としては、小麦のことも、戦艦大和のことも、当時だーれもそこまでは考えてもいなかったと思うんです。
だけど、後世に生まれた私たちは、大東亜戦争という歴史を振り返って総括?というんですか、ということをしていかなければいけないんだと思うんです。
それをねずさんが、ご自身のご意見としてねずブロで発信されているんです。
きっと。
だから、引用元なんてないんですね。
引用元がない、学術的根拠のないものは疑わしいというレッテル貼りに洗脳された私たちは、こういう自説を、何となく頼りなげに感じてしまう、という刷り込みもされてしまっていたんですね。
そういうことまで、わかってきたこの頃です(^ν^)
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GHQの焚書にあった昔の本を読んでみますと、そこにあるのは実際に著者の先生方がご自分の足で調査された結果であったり、その先生の知見であったりするわけです。
誰か、他の学者がこう書いている、ああ書いている、引用文献はこれです、というものなどではないんですね。論語や古書の引用があっても、それをただ引用するのではなくて、そこから何を得たのか、どう捉えるかということがむしろ主題になっているわけです。だから価値があるし、だから昔の人は本を蔵書として大切にしたわけです。
ところが戦後の学会は、常に引用先だけを求めます。
理系はそれで良いと思います。
常に先人の研究の上にたって新たな解析を蓄積する者だからです。
では文系ではいかがでしょうか。
文系も、先人の研究の上にたって新たな解析を蓄積するのは同じです。
けれど、もとになるその「先人の研究」というもの自体に、なんらかの「政治」が絡んでいたら?
それでも健全な研究や解析といえるでしょうか。
先の大戦が終わったとき、愛国系護国系神道系の図書は、すべて焚書にあいました。
その数、約8000冊です。
ひとつひとつの書籍は、数千から数万部発行されていましたから、回収され焼かれた本の数は、いったいいかほどのものがあったでしょう。
そしてさらに、愛国系護国系神道系の考え方を持つ学者、教師、論客、公務員などのすべてが公職追放となりました。
そして政府官庁であった神社庁は、民間団体に落されました。
教科書にも、愛国系護国系神道系の記述には、すべて墨が塗られました。
そして次に発行された教科書からは、それらの記述は一切削除されました。
もっというなら、当時は、柔道剣道などの武道も、いっさい日本人には禁止されています。
これだけのことがあった一方で、左翼系反日系の図書や学説は次々と書籍化され、また誰がみても明らかに能力に乏しいと思われる戦前に特高警察によって逮捕されていた偏向学者などが、大学や文科省内で出世し、高級をもらえるようになりました。
誰もが食うのに困っていた時代に、そういう学者たちは一般にはあり得ないような高給をもらいました。
下の者を飲ませ、食わせし、養うためです。
こうして、大学内にも、確固とした左翼反日系派閥が作られました。
その派閥に所属すれば学内での出世が約束され、生徒であれば大企業への就職が約束されました。
そして伝聞ばかりの左翼反日系の戦前の日本を軍国主義やファシズムと決めつける図書が大量に出版され、やはり補助金をもらっていた大手新聞社によって、それが宣伝、拡散されました。
いまでは信じられない話ですが、マルクス経済学などというとんでもないデタラメ経済学が、日本の大学の大半で教えられました。
当時のソ連の計画経済なるものがいかに素晴らしいか、経済は思想によって統制することによって発展するなどと教えられたものですが、いまにしてみれば、戦後のソ連の建設需要は、ことごとくシベリア抑留者や政治犯などの強制労働に頼っていたものだし、大量に輸出されたソ連、ウクライナの農産物はスターリンによって強制徴発されたもので、結果としてウクライナの農民たちが何十万と餓死しているわけです。
そんなものをありがたがって「学問」にしていたわけですから、いまにしてみれば「アホ」としかいいようがないのですが、戦後の日本が、戦前の教育を受けた人たちによって高度成長していく一方で、大学では学生たちに、まるでその成長を阻害するようなろくでもない人材を輩出していたわけです。
一方、そうしたご時勢に逆らって、まれに護国系の本を出版したり、あるいは戦前の護国系の図書などを引用すると、その引用著者は焚書対象図書を隠匿した罪で、家宅捜索を受けるはめになりました。
先日このブログで、戦前の文部省が出版した「国体の本義」のご紹介をしましたが、もしあのような文が、昭和20年代に書かれたならば、私は間違いなく逮捕されています。
結局、読む値打ちもないようなデタラメの駄文が誰かによって書かれ、それが引用され、引用先が明らかであるからと、引用内容の信憑性を問わずに、偉い学者の先生方によって、そのデタラメが拡散され、同時に、引用先が明示されていなければ、その本は、論文の体をなしていないからと、棄却されるという状態が、長く続いたわけです。
しかし、これは異常といえる事態です。
戦後、焚書にあった書籍を、ある篤志家のご好意で、見せていただいたことがあります。
どの本も、戦前の学者の先生が、たとえばインドネシアの実情であれば、実際にその先生がインドネシアに行き、そこで現地の人たちと一緒に生活し、対話し、見聞した事実に、自分の意見を添えて本にしています。
古書の引用をしているものであっても、そこから何を学ぶかを明らかにしたうえで、その解析をその先生なりに試みておいでです。
つまり、実地調査や、古書などを手がかりとして、どの本も、その先生の知見が書かれているわけです。
だから値打ちがある。
いささか大げさと思われるかもしれませんが、焚書図書が所蔵されている書架に足を踏み入れたとき、そこから、ものすごい清涼感のある圧力を感じました。
まさに、知見の塊。価値ある蔵書という宝の山に足を踏み入れた、そんな感じがありました。
昔の人は、本をまたぐことも嫌いました。
それだけの価値を、本においていました。
それは、それだけの本が価値のあるものだったからです。
そこには、その人自身の知見がある。
だから値打ちがある。
ところが戦後の、いまはどうでしょう。
書店さんに行っても、そこにあるのはなるほどフルカラーで印刷された高級な装丁の新本ばかりですけれど、その多くはただの引用と評価です。
それでは本は、先人達が築いた偉業にただ、おんぶしているだけになってしまいます。
インディジョーンズという映画がありました。
考古学の先生が、失われたアークを探しに冒険する娯楽映画です。
でも、その映画のなかではっきりいえるのは、ジョーンズ先生は、現地に足を運んで調査しているということです。
そのジョーンズ先生が、その探検のことを本にしたら、その本はどうなるでしょう。
引用ばかりになるのでしょうか。
足で稼いだ知見と、机に座っていて引用だけしている(その引用先も政治的に偏向したもの)本と、果たして、どちらが値打ちがあるといえるのでしょうか。
私は、そういう足で稼いだ先生方のような立派な存在ではありませんし、このブログは学説でもありません。
私は、時間のない中で、私が感じた感動を書いています。
なぜなら感動は必ず共感を生み、その共感の渦は、かならずなんらかのカタチで広がり、日本人が日本人としての価値観を取り戻す、なんらかのお役にたてると信じているからです。
日本は、2700年(あるいはもっと)という長い長い歴史を紡(つむ)いできた国です。
それだけ長い歴史があります。
歴史や文化が根本的に異なる西欧で、18世紀にやっと誕生した欧米型個人主義という物差しで日本を計ることなど、土台無理があるし、ましてや19世紀の、200年そこそこですでに崩壊してしまったような共産主義的階級等史観で日本を計ろうなど、無茶もいいところです。
そういうドグマを捨て、虚心坦懐に日本をあらためて見直してみる。
日本を、日本本来の価値観で見直してみる。
するとそこには、たくさんの発見と感動と学びがあります。
その感動と学びが、日本を取り戻す、日本人としての価値観を取り戻す原動力になっていくと、私は信じています。

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