
二日前の記事で「和の精神」について触れましたので、今日は、その日本における「和」について、もうすこし深く掘り下げてみたいと思います。
昨日の記事で、「個人主義」のもとでは「和」は成立しえないと書きました。
なぜなら個人主義は、個が対立し、闘争してしまうという側面を持つからです。
一方、わたしたちの国の「和」は、まずは国や組織の全体を思い、その中で、互いが互いの存在を対等な人として認め合うことからはじまります。
そのうえで、各自の持つ分に応じて精一杯互いのために努力します。
日本に古来からある「和」の心というものは、実は、個人主義とは、まるでその内容を異にするものです。
簡単にいえば、個が学校で良い成績を取ろうと、互いに競争するのが、個人主義の世界です。
ひとりひとりが独立した個体であり、その個体の中で競争するのですから、個体同士は対立的です。
個が、何が何でも競争に勝ち残ろうとすれば、カンニングするとか、他の生徒が良い成績にならないように足をひっぱるとか(ロンドン五輪でどこかの国がさかんにやっていました)するという行動が自然に起きてしまいます。
そして不正があっても勝てば良いというのが、個人主義の典型になります。
その意味で、共産主義も左翼主義も、結果からみれば、自分勝手なご都合主義です。
共産党の幹部だけが、大邸宅に住んで、まるで王侯貴族のような生活をし、一般の多くの民衆は貧困のどん底に置かれるだけでなく、殺害されたり、ウイグルのように若い女性が拉致されて、強制的に人民解放軍の子を孕ませられたりする。
そこにあるのは、どこまでも「自分さえ良ければ」の精神です。
西欧においては、この個人主義が、宗教による道徳心によって、過度に行き過ぎることを防ぎますが、その宗教をも否定する共産主義になると、まさに権力を獲った者の天下です。
その天下のために、一般の民衆は、それこそ何百万人と殺されることは、歴史が証明しています。実に身勝手な話です。
一方、日本における「和」の精神は、ただ互いが仲良くするというものではありません。
さきほどの学校にたとえれば、自分の所属する学校の名誉のため、あるいは家族のため、同級生たちの未来の名誉のため、母校をみんなで支えて行こうとするものです。
ですから、勉強も、それを一生懸命することによって、東大に何人、京大に何人という合格者が出たり、あるいは甲子園で母校が優勝したりするために、みんなが一丸となって頑張ろうと考えます。
そしてその中にあって、
「俺は理数系が得意だから大学の工学部を目指して頑張る」
「私は英語が好きだから、大学の英文科に行く」
「オイラは勉強は嫌いだけど、野球が大好きだから、甲子園目指して頑張る」等々、ひとりひとりが自分にできる最良の道を試行錯誤しながら見いだし、その中で必死に努力していこうとします。
そしてそのことによって、良い大学に受かったり、あるいは部活で全国大会に出場でもすれば、それをみんなで讃え、また後輩が甲子園に出れば、卒業生たちまでもが、母校のために寄付をしたり、甲子園球場まで応援に駆けつけたりする。
その心の根幹にあるのは愛です。
「全体」を大事にしようという愛があり、愛の中で互いの存在や個性を認め合って、互いに自己の分を見いだし、そこでみんなのために努力します。
ですから個体同士は、対立的でもなければ、闘争的でもありません。
どこまでも全体のなかの個として、自分を鍛え、努力を怠らないという姿勢が自然と生まれてくるわけです。
こうした日本的「和の精神」は、実は、わたしたちの国の「武の精神」にも、明らかにあらわれています。
日本全国、どこの柔道場でも剣道場でも、それが日本人の道場であるなら、そこには必ず神棚があります。
これを「宗教の自由なのに怪しからん」などという人がいますが、それこそ個人主義に染まってしまった、哀れな人です。
なぜ哀れなのか。
理由があります。
日本における武道というのは、あくまでも「和」のための武道だからです。
これを「神武」といいます。
ですから日本の武道は、諸外国のマーシャルアーツ(軍用格闘技)のように殺人を目的としていません。
あくまでも「人を活かす」ことを目的とします。
簡単な話、柔道の投げ技は、すべて投げ終わったときに相手の頭部をもちあげて、保護するように投げます。
寝技も、相手を殺すためのものではなくて、痛みを与え、降参させる仕様になっています。
剣道においても、闘って相手を斬り殺す殺人剣は、古来邪道とされてきました。
わたしたちの国の武術は、命のやりとりという極限の情況を学びながら、その葛藤を通じて相手を活かすことを学ぶものです。
さらに「武」と書いて「たける」と訓読みします。
「たける」は、歪んだもの、斜めになったものを、竹のように真っ直ぐに整えることを言います。
ですから日本では、格闘技ではなく「武(たけ)る道」と書くのです。
日本における古代や中世の戦(いくさ)においても、また、明治から昭和における戦争においてさえ、それは相手を破壞し、壊滅させ、征服するために武が用いられたことはありません。
あくまで大きな和、すなわち平和を目的とした戦いです。
これを「結(ゆ)い」といいます。
「結い」は、もともとは田植え、屋根葺きなど一時に多大な労力を要する際におこなう共同労働のことをいいます。
昔の家は、茅葺き屋根(ススキのお話参照)などですが、この屋根の葺き替えは、たいへんな労力を必要とします。
ですから村のみんなで行います。
雪国では、屋根に積もった雪を近所のみんなで共同して行います。
田植えも、村中総出で行います。
現代においても、町内会でみんなで行う盆踊り大会なども「結い」のうちです。
こうした「結い」を行うに際し、反抗的な者がいれば懲らしめる。
その懲らしめのために開発され、工夫され、進化したのが、あるいは武道ともいえます。
「結い」は、和の力による創造です。
「結い」は、大和言葉の「むすび」から生まれています。
「むすび」は、別な書き方をすると「産霊」です。このように書いて「むすひ、うぶす」と読みます。
そして、男女が出合い、生涯を共にするのが「結い」の婚礼、すなわち「結婚の儀」です。
「結婚の儀」は、もともとは神様のもとで魂を結ぶ儀式です。
そのために神主が祝詞(のりと)をあげます。
自然との共存も「むすび」です。
わたしたちの国では、自然は、征服し、蹂躙(じゅうりん)するものではなく、結(むす)ぶものと理解されてきたのです。
当然のことです。自然も私達人間も、等しく神の一部だからです。
ですからわたしたちの国では、神と人は共存しています。
その神と人を結ぶのが、参詣です。
武道も、結びのために修行するのですから、そこには当然のように神棚が置かれます。
結婚したら、家族が生まれます。
祖父母、親、子、それぞれが家庭を大事に、そのために互いを大事にします。
それが家族の「結び」であり、家族の「和」です。それが「愛」です。
「和」は、それぞれが所属する組織の「和」となり、その所属する組織が集合した「国」の「和」となります。
ですから「国」は、わたしたちにとっての最大の「和」の共存の場です。
残念なことに、世界には、この「和」は、いまだ確立されていませんから、国の「結い」の最大単位です。
したがって、わたしたちにとっては、わたしたちの国が、最大の「和」の共同体です。
現実の日常には、もちろん仕事上の対立や、家庭内の対立、あるいは受験などの競争などがあります。
しかしその目的は、常に「和」にあります。
対立と闘争があっても、その目的が、常に「和」です。
これは対立と闘争の目的が「勝利」に置かれる諸外国とは、根本的に異なる文化性です。
ねずブロでは、日々いろいろな題材のお話をしていますが、実は根っこにあるのは、常にこの「和」です。
そして「和」によって形成されている日本という国のカタチを理解し、その一員となることが、すなわち「日本人になる」ということなのだと、私は理解しています。
従って、日本にいながら、日本的「和」を理解せず、あくまで個人の利得に執着する者や、他国の利を図り、日本の「和」を乱す者は、日本人ではない。
日本人でない者にまで、日本人としての資格をあたえ、あろうことか税金を使って生活保護や学費その他の面倒など、一切、見る必要などない。
なぜなら「和」は、「結い」あっての「和」だからです。
最後にもうひとつ。
わたしたちの国土は、伊耶那岐命(いさなきのみこと)、伊耶那美命(いさなみのみこと)から生まれました。
たくさんの神々も、伊耶那岐命、伊耶那美命から生まれました。
そしてわたしたちの国の最高神である天照大神様も、伊耶那岐命、伊耶那美命から生まれました。
代々の陛下は、その天照大神様の直系のご子孫であらせられます。
そしてわたしたち日本人は、その代々の陛下と、長い歴史の中で、どこかで血のつながりを持つ親戚です。
ということは、わたしたちは、わたしたちの住む国土とも、遠い血縁関係で結ばれた民であると、そのようにわたしたちの国では、理解されてきました。
だからこそ、国土を大切にする。大切に育むという自然な気持ちが、わたしたち日本人には自然な感情として備わっています。
木も、土も、大気も、暦も、火も、水も、金属も、すべてはわたしたちと同じ祖先を持つ、親戚です。
その親戚と、深く、長く付き合って行く。
これもまた「和の精神」です。
わたしたちは、和の国の民です。

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