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大塩平八郎
大塩平八郎2-1

大塩平八郎の乱というのは、江戸時代の天保8(1837)年に起こった事件です。
旗本が出兵した戦いとしては島原の乱以来、なんと200年ぶりの大騒動となった事件です。
この乱は、時期的には、よく江戸の時代劇の人情ものなどで描かれる文化文政時代のすこし後の時代での出来事です。
ペリーが浦賀にやってくるのが、この乱の16年後、明治維新が31年後です。
大塩平八郎は、大坂の東町奉行所の与力だった人です。
江戸の町奉行は、遠山の金さんの北町奉行と、大岡越前守で有名な南町奉行所で、南北2つの奉行所が月ごとに臨番していましたが、これが大坂では「東町奉行所」と「西町奉行所」が交替で勤務に就いていました。
東西の奉行所には、それぞれ30人の与力、50人の同心がいましたが、その多くはいまでいう税務署みたいな徴税の方の仕事をしていて、いわゆる定町廻りと呼ばれる犯罪担当、つまりいまでいうところの警察官に相当する人は、時期によっても異なりますが、だいたい1〜2名の与力と、3〜6名の同心がこれにあたっていました。
大坂町奉行の管轄エリアは、摂津・河内・和泉・播磨の4カ国に及びましたから、逆にいうとどれだけ当時の治安が良かったかということでもあろうかと思います。


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ちなみに、いま、与力も同心も「〜名」と書きましたが、本当は与力は「騎」、同心は「人」と数えます。
ですから、たとえば「与力3騎、同心5人」などと読んだわけです。
要するに与力は、馬に乗れる分だけ身分が高かったわけです。
ただ、そうは言っても、大坂町奉行の与力は、江戸の与力と比べると、俸禄はかなり低くて、蔵米30石取りといいますから、だいたい今の相場にして、500万円くらいの年収です。
ただし、騎馬武者である以上、その年収で、戦のときに同行させる足軽ひとりを常時雇っていなければなりませんし、その他、家人を2名ほど、つまり家族以外に2名を養わなければなりませんから、本人の取り分でいったなら、だいたい年収100万円くらいの生活です。
それで家族を養い、子を養ったわけですから、商業都市大坂の街中にあっては、収入という面においては、一般の町民よりも、むしろ所得は低かったというのが実際のところです。
そういう苦しい生活をしながらも、大塩平八郎は、隠居して家督を養子の格之助ったあと、奉行所に対して民衆の救援を提言したときに、これを拒否され、やむなく自分の家にあった代々の蔵書五万冊を全て売却して、民衆の救済資金に充てたりしているのですから、実にたいしたものです。
ちなみに、どうしてこのとき大塩平八郎が、自分の家の蔵書まで処分して民衆の救済に充てたかと言うと、ここには凶作による飢饉と、将軍家の相続の問題が絡んでいます。
大塩平八郎が乱を起こしたのは天保8年のことですが、実はその4年前から、全国的な冷夏による凶作が続いていました。
時を同じくして、50年続いた11代将軍徳川家斉の治政にかわって、徳川家慶が12代将軍に就任します。
ここですこし説明が必要です。
家斉の治政というのは、いわゆる化政時代と呼ばれた、文化文政の時代で、家斉がわりと派手好みな将軍でもあったことから、まさに江戸文化、町民文化が花咲いた時代となりました。
おかげで、安藤広重とか歌舞伎とか、歌麿、北斎など、まさに江戸時代を代表する庶民文化がおおいに発展したわけですが、ところが本来徳川政権というのは、農本主義政権です。
その農本主義政権が、貨幣経済主義に走ったわけですから、農家が疲弊してしまったのです。
どういうことかというと、貨幣経済は、一産業より、二次産業、三次産業を発展させます。
なぜなら、農本主義のもとでは、農家も、武家も、農作物が育った分しか収入がありませんが、都会人は、生産さえた農作物を右から左に動かすだけで、大金が転がり込んでくるわけです。
こうなると、相対的に農家や武家の家計はきびしくなるわけで、貧富の差も激しくなる。
そういうことに、神様もお怒りになったのでしょうか。
まさに天譴(てんけん)というのでしょうか、文政4(1821)年3月には蔵王山が大噴火を起こし、その噴煙が全国を覆って冷夏を招き、農作物を大凶作にしてしまったのです。
さらに文政7(1824)年には、大洪水、翌文政8年は大凶作、翌天保9年には仙台藩で大飢饉が起こり約20万人が餓死するという事態まで起こり、文政13(1830)年には、再び蔵王山が大噴火したわけです。
噴煙が日本中の空を覆い、貨幣経済によって疲弊した農村部は、肝心の農作物そのものが採れなくなるという事態になり、全国的に大飢饉に襲われる。
そして時代は文政から天保年間へと変わるのだけれど、天保4年から5年にかけてと、天保7年から8年夏にかけて、ふたたび冷夏による大凶作が襲い、都市部でも、餓死者が出るほどの厳しい世の中となっていたわけです。
そんななかにあって、大坂町奉行所では、天保4〜5年の飢饉のときには、大阪西町奉行が陽明学者でもある大塩平八郎を顧問として厚遇し、平八郎の意見を取り入れてお蔵米の供出などをして、大坂の市民の飢饉を救ったりするだけれど、天保7年のときには、平八郎はすでに隠居、大坂町奉行も、幕府中央から派遣された、水野忠邦の実弟、跡部良弼(あとべよしすけ)が、町奉行に就任しています。
その跡部良弼が赴任中に、将軍の交代劇と飢饉という二つの出来事が同時に起きたわけです。
跡部にしてみれば、飢えに苦しむ大坂の民衆よりも、一日も早く、そんな大坂を離れて、中央政界に復帰したい。
跡部は天保7年に東町奉行に就任したのですが、大坂市中や近在の米の値段が暴騰するのをしり目に、「将軍交代の準備米」という名目で、せっせと米を買付け、江戸に回していたわけです。
これには江戸の幕府は大喜びです。
なにせ凶作で米がない。
そこに大坂から、大量の米が送られて来るわけです。
「なるほど、跡部はよくやっている」てなことになる。
一方、大坂の米商人たちも、跡部の行動はありがたい。
米がなかなか手に入らず、いくら高値になっても、言い値で米を買い漁ってくれるわけです。
これには大坂商人も、大儲けができる。
江戸の幕府も喜び、大坂の商人たちも喜ぶ。
これで天下晴れて万々歳となれば良いのですが、世の中というのは、富も食い物も、一つのパイの奪い合いです。
一部の人たちが富を独占すれば、他の多くの人たちが、たいへんなことになる。
ただでさえ続く凶作で米が不足しているのです。
そんななかで、米の大量買付が行われればどうなるか。
米は不足し、値段は吊り上がる。あたりまえのことです。
民衆は、飢えてシネといわんばかりの状態に陥ってしまう。
大塩平八郎は、民のためにこそ武士はあるという哲学を生涯実践した人です。
いまでこそ隠居の身ではあるものの、元をたどせば、大阪町奉行所目付役筆頭与力、地方役与力筆頭、盗賊役筆頭与力・唐物取締役筆頭与力・諸御用調役という、ものすごい経歴の持ち主です。
そしてそのすべてが、大塩平八郎の誠実な生き方によってもたらされたものです。
隠居して現役を引退したあとも、平八郎は市中で陽明学を教える私塾を経営しており、生徒たちからもたいへんに慕われています。
実績もある。家柄も正しい。人柄はまじめ一筋。時にカタスギルきらいはあるけれど、その誠実さは誰もが認める人格者です。
そしてその人格者の前には、飢えた両親のもとから通って来る、お腹を空かせたかわいい生徒達がいる。
大塩平八郎は、天保4年の飢饉を救った経験をもとに、天保8年の飢饉について、その具体的「飢饉救済策」を起案し、それを何度も町奉行である跡部に献言しました。
ところが跡部の関心は、中央への復帰です。
まさにいまこそ大量の米を江戸に送り、新将軍のもとで新たなポストをと虎視眈々と狙って運動しているわけです。
欲が絡んでいますから、大坂の田舎与力の、しかも隠居した平八郎の意見書など、そもそもまるで聞く耳を持ちません。
大塩平八郎は、「与力の隠居ふぜいが身分をわきまえない事をしつこく言うのならのなら、お前を牢屋にぶち込むぞ」とまで言われてしまいます。
多くの立派な武士がいたなかで、こうした跡部のような自己中人間がいたという事実は、たいへんにかなしい現実です。
この跡部良弼は、大塩平八郎の乱という大乱をひき起こしながらも、その後、順調に出世し、最後は若年寄まで出世して、70歳の天寿をまっとうしています。
人の世の矛盾といってしまえばそれまでですが、ただ唯一の救いは、さすがの若年寄(いまで言ったら、大会社の常務取締役くらいのポスト)職も、器量にあわないことがたちまちバレてわずか7日で免職になっていることかもしれません。
日本人は、たいへん職務に誠実な人種です。
組織の中にあって、自らの分をわきまえ、たとえば営業部や製造部に所属していれば、現場第一、営業ならお客様第一、製造部なら職務の製造第一で、普段から頭の中は仕事そのものに8割9割占領されています。
ところが、本社スタッフなどによくわるパターンですが、権力と出世欲に取り憑かれた人というのは、頭の中が、権力や出世や、社内の人間関係や上司との人間関係だけが頭の中の8割9割を占めています。
現場のことや仕事のことには、1〜2割くらいしか関心がない。
ある意味、全精力をそちらに傾けていますから、出世もするし人間関係も上手かもしれません。
そういことが仕事と思っていますから、仕事そのものはまるでダメ、だから現場に出してもまるで使いものにならないというケースは、どこの会社組織でも、よくみかけることです。
さて、大塩平八郎の建言書あっても、江戸送りの米の買付を止めない跡部奉行のおかげで、その間にも大坂の米の値段は、6〜7倍にも跳ね上がってしまいました。
いまなら、お米はだいたい5kgが2〜3千円で買えますが、これが同じ5kgが2〜3ヶ月で2万円に跳ね上がったと考えてみてください。
庶民の生活がいかに圧迫されることになったか。
道端で物乞いをしても、この飢饉では物を恵んでくれる人もなく、餓死する人は大阪で一冬で5千人に達したといいます。
それでも市民たちは、必死にその日その日の食料を得るために、五合・一升というわずかな米を、どこからかやっとの思いで手に入れるのですが、それは闇米だ、規則違反だ、と目明かしや岡っ引きたちが、没収してしまうものだから、庶民はますます生活が苦しくなる。
そんななかにあって、甲斐一国騒動、三河加茂一揆など、全国各地で、一揆や打ち壊しの騒動がひき起こされたというウワサが大坂にも伝わってきます。
いわゆる農村地帯で起こる一揆と、大坂のような大都市で起きる一揆では、大違いです。
万一大坂一揆などが起これば、大坂の町は、たちまち火の海になりかねない。
大塩平八郎は、「このままでは、大坂でも一揆や騒動が起こる」と、重ねて跡部奉行に訴えるのですが、やはり跡部はいっこうに耳を傾けません。
そりゃあそうです。
跡部奉行が会う町人は、大坂の豪商たちです。
みんなお金にも生活にも余裕があるし、豪商たちにとっては、跡部は言い値の高値で米を買い取ってくれる良い商売相手です。
まさに儲けを運んできてくれる神様みたいな存在なのであって、民の苦渋など、跡部の耳に入れません。
つまり、実際に苦しい生活の塾生たちを見ている隠居した大塩平八郎と、大金持ちの豪商たちとつるんでいる跡部奉行とでは、同じ飢饉でも、見えている現実が180度違うのです。
奸吏糾弾の事件後、また再び与力たちは不正に走り、四ヶ所の役人たちものさばり出し、しかも今回は町奉行までもが、飢饉の救済もせず江戸の水野のほうばかり向いている。もう、これ以上は無理だ。待っていられない。
大塩平八郎は、翌天保八年(1837年)の正月、有名な『檄文』を作成します。
この時代の、これがまたおもしろいところですが、こうした文書が、あっという間に版画の手法で筆字のまま印刷され、一定の流通ルートに乗って、大量にバラまかれたりするわけです。
その檄文です。
いつものように、現代語訳してみます。
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大塩平八郎・檄文(口語)の冒頭
天から下された村々の貧しき農民にまで、この檄文を贈る。
天下の民が生前に困窮するようではその国は滅びる。
政治に当る器でない小人どもに国を治めさせば災害が並び起る。
このことは昔の聖人が深く天下後世の君臣に教戒したことである。
(中略)
この頃米価はますます値上がりしている。
大坂の奉行・諸役人は庶民に対するいつくしみを忘れ、勝手な政治をしている。
その上わがままな命令を何度も出し、市内の悪徳高利貸しや大商人だけを大切にしている。
私たちは、もう堪忍袋の緒が切れた。
天下のため、罪が一族縁者におよぶ事もかえりみず、有志と相談し、庶民を苦しめている諸役人を攻め討ち、おごりたかぶる悪徳町人や金持ちを成敗する。
生活に困っている者は、大坂で騒動が起こったと聞いたなら、いくら遠くても、一刻もはやく大坂へ駆けつけてくれ。
その者たちの貯えていた金銀や隠しておいた米を皆に配分する。
(以下略)
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大塩平八郎は、2月18日に、書き溜めた数々の書類を木箱にいれ、直接幕府に届くよう江戸向けの飛脚に託すと、翌2月19日朝8時に、大阪の町で決起しました。
この乱は、裏切り者の事前の密告によって、決起の日時から、その計画の詳細まで、事前に奉行所に洩れてしまいます。
奉行所では、奉行所の手勢に加えて、大坂に屋敷を置く諸藩にまで呼びかけて、平八郎たちの決起と同時にこれを鎮圧すべく、待ち構えます。
当然、奉行の跡部良弼も、馬上で手勢を率いて、事件現場に待機する。
決起と同時に、事が露見したことを知った大塩平八郎は、やむなく大砲をぶっ放します。
この音に驚いた跡部は、びっくりして落馬してしまうという情けない姿を晒しています。
乱れた奉行所の手勢に対し、大塩平八郎らは果敢に闘い、結果、事件は、大坂の町の5分の1が破壊されるという大惨事となりました。
けれど、乱は鎮圧され、大塩平八郎は、乱の約一ヶ月後、市中に潜伏しているところを発見され、役人に囲まれる中、養子の格之助と共に短刀で自害し、火薬で自らの五体を爆破して散っています。
享年45歳でした。
しかし、大塩平八郎の純真な思いは、その『檄文』によって、人ずてに全国にひろがり、文に刺激された国学者・生田万(いくたよろず)が、遠く越後(新潟)・柏崎で発起したり、大塩門弟と名乗る人物が摂津・能勢で兵を挙げたりといった事件が各地で起きるようになります。
徳川幕府にとっては、大塩平八郎は、たいへんな反逆人です。
幕府は、事件後必死になってあることないこと平八郎の悪い噂を流し続けました。
けれど大坂市中の町民も、農民も、そのような中傷はガンと跳ね除け、「自分たちのために自身を犠牲にしてくれた大恩人」という気持ちを強く持ち、平八郎の『檄文』をひそかに隠し持って、永く手習いの手本にしたと言います。
そして「檄文」を通じた平八郎の心は、吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、河井継之助、佐久間象山らに受け継がれ、その炎は、明治維新へと受け継がれる。
☆檄文の全文をご覧になりたい方は、↓にあります。
http://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/jpn/oshio/geki.html
日本社会は、古来、天皇のもとに君臣が一体となって、民のしあわせこそ国の幸せとしてきた国です。
けれど、やはりその時代時代で、権力を嵩にきて自己の利を貪り、民の幸せよりも自己の都合や自身の栄達を優先する馬鹿者が、世の中にはいたというのも事実です。
そういう馬鹿者は、もちろん今の世の中にもいます。
なるほど大塩平八郎は、死んでしまいましたし、一時的には、跡部が良い思いをする時代になったかもしれません。
けれど、八百万の神々のお計らいというのは、到底人智には計り知れないものがあります。
長い目でみれば、跡部どころが、そういう馬鹿者を政権中枢に入れた間違いが、結果として幕府そのものを滅ぼし、明治新政府の登場となったし、大塩平八郎の檄文は、全国の志士達の心を奮い立たせました。
人の死というものには、2つあります。
肉体の死と、精神の死です。
精神の死というは、人々から忘れ去られる死です。
大塩平八郎の肉体は滅びました。
けれど、大塩平八郎の精神は、多くの人々に受け継がれ、幕末の一大政権交代劇へと発展した。
つまり、彼は結果として、「国を動かした」ことになります。
肉体の生死のみが生死ではない。
精神は生き続けるのだという、これが日本人の生き方のひとつの典型であろうと思います。
慰安婦問題や、竹島、尖閣問題等、周辺国からの圧力が気になりますが、最大の敵は本能寺にあり。
日本国内に巣食う自己中の売国屋たちを、一日もはやく駆逐できる世の中にしたいものです。
戦いは、すでにはじまっています。
そしていま、戦おうと立ち上がった人たちは、個の利益のために、それをやろうとしている人は、実は誰もいない。
みんな、国想う心から立ち上がっています。
古来、それを「志士」といいます。
いま、これをお読みの皆様が、まさに「志士」です。
※この記事は、2008年12月の記事を再編集したものです。
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