
(映画:ラストサムライより)
日本は古代から現代にいたるまで、ずっと天皇を中心とした治政の国家です。
ですから、鎌倉幕府も足利幕府も織豊時代も徳川時代も、それらはいわゆる政権交替であって、日本の国のカタチは変わっていません。
そうはいっても、たとえば江戸時代は、諸藩のことを「国」とよんでいました。
国という字は、日本国という意味と、上野国、下総国というように、諸藩やそれぞれの地域という意味の、両方に使われていましたが、これは「国」という字が、ある程度の独立した行政単位を示す意味で用いられていたからです。
そしてそれぞれの国は、各「家」が、これを統治していました。
その「家」の最大のものが徳川家で、日本列島のだいたい3分の1くらいを領土として所有し、圧倒的軍事力と経済力、そして政治的影響力を行使していました。
これが江戸幕藩体制です。
徳川家の幕藩体制構築にあたっての理念は、兎にも角にもこの国から「いくさ」をなくすことでした。
ですからそのために、全国の諸大名の配置も変えたし、大名には江戸に人質を置くことを強制し、さらには参勤交代を義務づけて、諸大名の財力と抵抗力を削ぐということも行われていました。
その「参勤交代」が、実は秀吉の時代の朝鮮征伐に、全国の大名がいくさ仕度で九州にまで狩り出されたことの変形であるというお話は、先日書かせていただきました。
こうした徳川の政治体制によって、日本の民衆は、いくさのない、江戸270年の太平の世をすごすことができました。
家康は、なによりも「いくさ」のない世の中を希求し、そしてそれを完全に実現したわけです。
それにしても、徳川家の平和への願いは徹底していました。
たとえば、全国の武士たちがヒゲをはやすことまで、事実上これを禁じています。
男がヒゲを生やすのは武威を張り、徳川の天下に危害を及ぼす目的を持ったものだ、というのです。
ですから江戸時代の武士たちは、ヒゲを伸ばさなかったし、幕末の志士たちも当時の写真をみれば、誰もヒゲを伸ばしていません。
明治になってから、諸外国との兼ね合いから、一時的に政府のお役人などがヒゲを伸ばすようになりましたが、それも大正、昭和には廃れ、ですから大東亜戦争の頃の軍人さんや閣僚などをみても、誰もヒゲを伸ばしていません。
幕末から明治にかけての日本の最大の願いは、欧米列強と対等な関係を築くというところにありましたが、そのために鹿鳴館を開設したり、宮中のおもてなし料理をフランス料理にしたりと、日本はまさに涙ぐましい努力をしていたわけで、その延長線上に、欧米の閣僚や高官たちがヒゲを伸ばしていることから、日本も明治の一時的にヒゲを伸ばしただけのことです。
けれどそれさえも、明治の終わり頃に不平等条約が解消されると、日本の閣僚も軍人さんも、一般の民衆も、ヒゲを伸ばすことをやめています。
明治の後年から昭和初期にかけての日本の強さは、まさに世界を震撼させたほどのものですが、どれだけ強くても、日本の願いは常に平和そのもの、いくさのない世の中にあり、武威を張ることを是とはしていなかったということが、そのような姿からも見て取ることができます。
そしてその伝統は、やはり徳川270年の治政にあったといえます。
その徳川幕藩体制が崩壊したのは、外圧によるものでした。
その外圧のなかで、とりわけ大きなきっかけとなる影響を持ったといわれているのが、ペリーによる黒船来航でしたが、そのペリー来航について、あたかもペリーが突然やってきたために、日本中が大慌てしたようなことを書いている教科書などがあります。
が、これは間違いです。
実際には、米国からペリー艦隊が、日本に開国を求めてやって来ることを、ペリーが米国を出発したことからはじまって、何隻の艦隊で来るのか、乗組員は何名か、大砲の数はいくつか、船名は何と言うのか、どういうルートでやってくるのか、いまどこにいるのか等、それこそ台風情報じゃないですけれど、幕府も、全国の諸藩の武士たちも、つぶさにその情報をとっていました。
問題は、そのペリーがどこに入港するかで、もちろん幕府は長崎に来させるつもりでいたのですが、それが東京湾(江戸湾)にやってきてしまった。
江戸湾にやってきたということが問題になったのであって、外国使節が来たということが問題になったのではありません。
これも以前に書かせていただいたことですが、江戸湾は、当時の江戸の町に食料を運ぶ、メイン海上ルートです。
江戸には250万人の人が住んでいます。
その250万人が、毎日、朝晩二食の食事をするわけです。
つまり1日あたり500万食です。
もしペリーが、1ヶ月江戸湾を封鎖したら、1億5000万食分の食料の供給が止まるのです。
そんな備蓄は、幕府にだってありません。
ということは、江戸市民が飢えて死ぬという結果をもたらすのです。
だから「たった四杯で夜も寝られず」というくらい、幕府は慌てました。
それだけのことです。
では、ペリーが原因でないなら、攘夷運動は何故起こったのかというと、直接の引き金は、むしろ阿片戦争にあります。
強大な東洋の大帝国であるはずのChinaの清王朝が、欧米のごくひとにぎりの艦隊の軍事力の前に、あえなく敗北してしまった。
敗北した清王朝では、白人たちがChineseたちをまるで家畜のように扱ってる。
その脅威が、日本にも迫っている。
そういう事実を目の前に突きつけられて、それでも平和ボケしているのは、現代日本人くらいなもので、当時の武士たちは、ものすごい危機感を持って、「日本はどうするんだ?」となったわけです。
そういうところに、ペリーが幕府の制止をふりきって、いきなり江戸湾に侵入してきたわけです。
阿片戦争と同じ光景が、現実の課題となったのです。
これについて、「当時の武士たちは、どうして鉄の船が海に浮かぶのかと驚いた」などと、アホなことを書いている学者や小説家がいますが、悪いけれど鉄の船なら、信長が本願寺攻めのときに作っています。
日本人にとって、そんなものはさしてめずらしいものでもない。
もちろん、黒船がやってきたとき、弁当持参で物見遊山の黒船見物に出かけた庶民が多くいましたから、そうした中には「あんな真っ黒い鉄の船が、どうして海にうかぶんじゃろうか」などと、半ば驚き、半ば大喜びしていた人たちもいたことでしょう。
そうした人々と、当時の施政者たちを混同するのは、ちょっといきすぎた話です。
もっというなら、おなじく幕末に日本にやってきたロシアのフリゲート艦ディアナ号は、駿河湾で沈没していますが、これと同じ船を、またたくまに伊豆の船大工たちが作ってしまっています。
同じ船を造ったということは、それくらいの船をつくる技術も、当時の日本にはすでにあった、ということです。
技術そのものについては、なにも驚くこともなかった。
ただ、蒸気で動く船というところについては、たいへんな驚きと興味を抱いたというのが、現実の話です。
なるほど江戸時代、日本は鎖国していました。
ただ、鎖国していても、武士たちは海外の諸情報を実はつぶさにキャッチアップしていました。
その情報力は、むしろテレビや新聞といったメディアが駆使できていながら、偏向情報しか与えられずに、あきめくらになっている現代日本人よりも、はるかに鋭敏なものであったといえるかもしれないくらいです。
さて、欧米列強による植民地支配の恐怖を見せつけられた日本人は、欧米の夷敵を打ち払うためには、国内が藩ごとに独立していては、この国は守れないのではないかという強烈な問題意識を持ちました。
実際、長州、薩摩はそれぞれ独自に黒船に戦いを挑み、あっという間に粉砕されてしまっています。
ならば、このうえは幕藩体制を完全廃止し、国民総力戦が可能な統一日本政府を構築するしかない・・・というのが攘夷派となり、幕藩体制のまま、統一政府化すべきだというのが佐幕派となって戊辰戦争になりました。
そのなかで、会津藩が、どうして最後まで頑強に抵抗したのか。
それは「藩主の松平容保が、婿養子だったからそうせざるを得なかったのだ」などと、これまたアホな見解を書いている本や小説がありますが、これまた大きな間違いです。
殿様がおかしなことを言い出せば、殿様を座敷牢に押込めてしまうというのが、江戸時代の武家の習慣です。
つまり、会津藩が頑強に抵抗したのは、殿様のご意思というだけのものでなく、藩をあげての意思であったということです。
ではなぜ、会津藩士たちが、そのような見解に至ったか。
これについては、西郷頼母が、はっきりと書きのこしています。
要約すると「武家は民を守るためのものであり、民が安心して暮らせるように仕向けるのが武家の役割である。国を護るために戦うのは、まさに武士の仕事であって、そのために民をつかうなどということはもってのほか」というわけです。
要するに幕末戊辰戦争は、国民皆兵論か、あくまでも武家専従論かの違いがもとになっているとみることができます。
武士は民のために平素から腰に二本の刀を差しているわけです。
その武士が、いざ戦いとなったら、農民や町民たちに武器を持たせて闘わせ、自分たちはその裏でのうのうと生きるなどということは、武家としての一分が立たない。
そんなものは卑怯者のすることであると、これが武士の筋ですし、その意味で会津や二本松は、まさに武家としての筋道を最後まで通して戦ったわけです。
もっとも、いわゆる農民兵については、幕府もこれを用いて陸軍を編成したりしていますから、幕府内でも様々な議論はあったわけで、そのあたりが話をややこしくしています。
けれど、戊辰戦争が、単に尊王攘夷と鎖国佐幕の争いというだけの話ではなかった、そこに思想哲学の戦いがあったということは、もうすこし学校などでも教えてよいものなのではないかと思います。
ただ、国を守ると言う戦力という意味においては、結果からみれば、国民皆兵の方が、もちろん戦力的脅威となりうるわけで、その意味においては、戊辰戦争は、「筋」より「実力」が勝った戦いといえるかもしれません。
こうして新たな政治体制として構築されたのが、大日本帝国です。
ですから大日本帝国は、なによりも実力を重んじました。
戊辰戦争の敵であっても、新たな政治体制の中に、必要な人材をどんどん取り込みました。
明治政府は、実力本位の政府であったわけです。
もちろん薩長閥のような不条理も内包しています。
けれどそういうことは、人の世では、ある程度仕方のない部分でもあります。
明治政府の実力主義の考え方は、四民平等の政策となり、そして日本人としての白人種との対等意識と相俟って、世界に向けて人種の平等を高らかにうたいあげる日本の政策となりました。
そして日本は、世界の有色人種を植民地として支配する白人国家に対して、真正面から戦いを挑んで行くことになるわけです。
教育の根本にあるべきものは、人間としての品格を育てるということです。
いまは亜流とされている歴史観も、あと数年したら間違いなく日本の主流となると思うし、100年後には、世界の常識となっていくであろうと、私は思います。

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