
三谷幸喜監督といえば、テレビ番組の「古畑任三郎シリーズ」や、映画「ステキな金縛り」などで人気の監督ですが、その三谷監督が、来月「清須会議」という映画を公開するのだそうです。
映画の紹介ページによると「本能寺の変で織田信長が死去した後、家臣の柴田勝家と羽柴(豊臣)秀吉らが後継者を決め、日本史上初めて合議によって歴史が動いたとされる清須会議の全貌をオールスターキャストで描く。三谷監督作品では初の時代劇」なのだそうです。
三谷監督は、インタビューに答えて、「歴史を見るとき、私たちは結果をしっているから、ついつい上から目線で歴史を見てしまいますが、その時代に生きた人は、未来がわからない生身の人間として行動しているわけで、その葛藤を描きたかった」と述べています。
監督の指摘する、こうした歴史に対する見方は、とても大切なことで、特に戦後の私たちは、歴史に限らず、なにかにつけ評価をしてしまう癖がついています。
けれど、評価するということ自体が、まさに「上から目線」なのであって、そういう評価目線になった瞬間に、歴史は私たちに大切なことを、まったく教えてくれなくなります。
左翼や在日工作員などは、決めつけやレッテル貼りがお好きなようですが、まさにそれは他人どころか自分自身さえもメクラにしてしまう。
なぜなら先入観でしか、ものごとを見られなくなるからです。
そうではなく、虚心坦懐に、歴史から謙虚に学ばせていただくとき、歴史はいままで私たちに見えなかった様々なものを教えてくれるし、提供してくれます。
映画「清須会議」は、主人公は秀吉です。
秀吉といえば日本では、一介の農民から身を起こして最後は関白太政大臣にまで出世した人物として、古来日本人にたいへんな人気のある人です。
ところが韓国では、秀吉ときけば、悪の権化のように語られ、たいへん評判が悪い。
何故悪いかといえば、秀吉が文禄元(1592)年から、慶長3(1598)年にかけて、朝鮮征伐を行ったからで(文禄・慶長の役)、このため韓国では、秀吉は未曾有の侵略者として学校などで教えられているのだそうです。
「韓国では」と書きましたが、なんと最近の学校の教科書でも、秀吉は「侵略」したと書いています。
手もとにある方から送っていただいた実教出版の「テーマ学習、史料日本史」という高校教科書の副読本があるのですが、そこには次のように書かれています。
「豊臣秀吉は当初、貿易の利益を求めて、キリスト教を保護していたが、教会が領地を所有していることを知り、一転して弾圧政策をとるようになった。同じころから、アジア大陸に対する侵略の野望をふくらませた秀吉は、甥の関白秀次にあてた文書で、秀次を明の関白にし、明の都を占領して天皇を移すという誇大な妄想の一端を述べている」
なんと秀吉が「アジア大陸に対する侵略の野望をふくらませていた」のだそうです。
ほんとうでしょうか。
なるほど秀吉は、明を征服するようなことを手紙に書いてはいますが、明だけがアジアなのでしょうか。
そもそもアジアって、どこのことをいうのでしょうか。
また「侵略の野望」といいますが、秀吉の行動が侵略というのなら、この教科書や副読本は、元寇についても、元と高麗による日本への侵略と書かなければなりません。
ところが、この教科書では、元寇についてはなぜか「モンゴルとの戦争」と書いていて、どこにも侵略とは書いていません。
これはダブル・スタンダード(二重基準)です。
日本のしたことは侵略、ChinaやKoreaがしたことは(正当な?)戦争行為だとしているからです。
対象によって異なった価値観を使い分けている。
これが教科書とは聞いて呆れます。
そもそも、本当に秀吉は明国を征服する意図があったのでしょうか。
狙いが明国なら、なにも秀吉は朝鮮半島だけで遊んでいる必要などなく、当時の日本の水軍力をもってすれば、いきなり海路、から河川を北上して明の首都である北京に攻め込むことだってできたわけです。
それだけじゃなく、明国兵の朝鮮支援を分断するために、Chinaの沿岸部を片端から襲撃することだってできたはずです。
けれど、秀吉は、そういうことを全くやっていません。
なぜでしょうか。
そういえば、朝鮮では、日本と朝鮮半島の海峡で戦った李舜臣が、時代のヒーローとされているのだそうです。
彼らの言い分によると、李舜臣の戦いによって、日本は海上を封鎖され、朝鮮半島への補給路を断たれ、結果日本は半島からの撤退を余儀なくされたからなのだとか。
これまたおかしな理屈です。
海上輸送路を絶たれたなら、朝鮮半島に上陸していた日本は海を渡って撤退することもできず、半島内で孤立し、大東亜戦争のときの南洋の島々での戦闘さながらに、現地で玉砕せざるを得なかったはずです。
けれど加藤清正も小西行長も島津義弘も、全員無事に、悠々と日本に引き揚げてきています。
本当に海上が李舜臣によって封鎖されたのでしょうか。
李舜臣についていえば、なるほど朝鮮の海将として文禄元(1592)年8月29日に釜山港を占領していた日本軍に戦いを挑んだのは事実です。
けれど彼は、あっさりすっきりまるっと敗退しています。
そして慶長3(1598)年)年11月18日の露梁海戦(ろりょうかいせん)のときに、明国と朝鮮の連合軍の指揮を執りながら、日本の圧倒的な戦力の前に、あえなく戦死しています。
つまり李舜臣は、勝ったどころか負け続けの将軍だったわけで、事実日本が海上補給路を断たれたという事実は、どこにもありません。
さて、では秀吉の朝鮮出兵は、なんのためだったのでしょうか。
戦国時代や秀吉を描いた歴史小説においても、そもそも秀吉の朝鮮出兵が「なぜ行なわれたか」について、きちんと踏み込んで書いているものはたいへん少ないです。
これまた不思議な話です。
おおかた、秀吉の朝鮮出兵に関しては、
◆秀吉が耄碌していたために起こした、
◆秀吉の成長主義がひき起した身勝手な野望だった
◆戦いを好む戦国武士団を朝鮮、Chinaに追い払い殺して数を減らすための戦いだった
などという解説がなされているようです。
なかには上にご紹介した実教出版の教科書のように、単に秀吉の個人的野望による侵略だなどと解説しているものもあります。
けれど、そもそも仮に秀吉が耄碌爺であったなら、他の大名たちはそれに従ったでしょうか。
当時の日本も、その後の江戸時代の日本も、各藩は、それぞれ独立した国家です。
まして戦(いくさ)というのは、武器の装備、食料の調達など、たいへんなカネがかかります。
出兵する武士たちにしても、この時代の武士たちというのは、そのほとんどが、半農武士たちです。
決して豊かな生活をしていたわけではないし、武士たちは戦(いくさ)ともなれば、家財道具を叩き売って、戦(いくさ)の場に臨んだりしています。
たとえ殿様のご希望であったとしても、それがあまりに理不尽なものなら、逆にその殿様を廃絶してしまったりしていたのも、戦国から江戸にかけての武士たちの行動です。
たとえ相手がお殿様でも、世迷いごとにつきあうような武士はそうそういないし、まして国(藩)を預かる大名ともなれば、それなりに納得できる理由がなければ、誰も動きません。
耄碌ジジイの世迷い事で、大枚はたいて命がけで朝鮮までノコノコ出ていくおバカな大名は、全国どこにもいないのです。
秀吉の成長志向が招いたという解説にしても、信長から秀吉と続く体制は、農業重視というよりも流通指向がかなり強かった体制であり、領地がもらえなくても、それぞれの大名は、商業による貨幣経済によってかなりの富が蓄積できたわけです。
金持ち喧嘩せずとはよく言ったもので、食うに困らない、生活に困らない豊かな生活を満喫できているのに、あえて、戦争など、誰も好き好んで行うものではありません。
まして、家康などは、この時代、世界一と言ってよいくらいの大金持ちになっていました。
朝鮮半島を「侵略」という言葉もひっかかります。
この頃の朝鮮半島は、なるほど李氏一族がChinaからの冊封を受けて国王を名乗っていましたが、現実には朝鮮族とは民族の異なる女真族の李氏一族が、Chinaの後ろ盾で朝鮮王を名乗っていただけの、いわば無主地です。
そもそも李氏朝鮮というのは、国家の体さえなしていません。
国家というのは、住民もしくはその民族の共同体を意味しますが、李氏朝鮮というのは、朝鮮族のための国家インフラにはまるで無関心で、国内流通のための道路さえつくろうとせず、ただ他民族である朝鮮族から収奪をしていただけの外来暴力団のようなものです。
国内産業の育成をはじめとした国民を豊かにするための政策など何もせず、住民基本台帳の備え付けもなく、ただ単に朝鮮族の女性を拉致してさらっては、Chinaに毎年献上し、その見返りに「朝鮮国王」の肩書きをもらっていただけの存在です。
しかもその女性を受け取るためにChinaの使者がやってくると、国王が三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)といって、土下座して頭を地面に三回打ち付ける。これを三回繰り返すから九叩頭です。
国王という肩書きのために、国民の財産である女性を献上し、その都度、国王が三跪九叩頭をする。
そして国王を名乗りながら、国民のための政治は何もしない。
それが国家といえるようなシロモノかといえば、世界中、どこの国の規範に照らしても、答えはNOです。
つまり、当時の朝鮮半島は、李という外来族が、Chinaに土下座して国王の称号をもらって朝鮮の一般民衆から収奪していただけの、いわば暴力団が牛耳っていただけの「地域」に他なりません。
これは国家と呼べるシロモノではありません。
19世紀的解釈なら「無主地」です。
無主地に兵を出しても、それは「侵略」の名に値しません。
むしろ無主地で収奪を繰り返す暴力団を追い出してくれるなら、それは神軍です。
なぜ秀吉は、そんな朝鮮に、わざわざ兵を出したのでしょうか。
そして国内の大名たちは、なぜ、秀吉のそんな行動に従ったのでしょうか。
無主地だからでしょうか。
それは違います。
実は秀吉の朝鮮出兵を考えるには、日本国内だけの事情をいくら考えても答えはでてきません。
当時のアジア情勢における国際政治を見極めないと、まるで真実が見えて来ないのです。

そもそも、二度にわたる秀吉の朝鮮出兵(文禄、慶長の役)というのは、16世紀における東アジアでの最大の戦いです。
日本からは約16万の大軍が朝鮮半島に送り込まれたし、朝鮮と明国の連合軍は、戦力25万の大軍です。
天下分け目の戦いといわれる関ヶ原の戦いにしても、東軍7万、西軍8万の激突ですから、いかに朝鮮出兵の規模が大きかったかがわかります。
日本は、そこまでして出兵しなければならない、そこに明確な理由があったわけだし、みんながそれに納得したからこそ、兵を出しているのです。
この時代、世界全体を見渡せば、まさにスペインが、世界を制した時代です。
世界の8割が、スペインの植民地でした。
そのスペインは、東亜地域では、ルソン(いまのフィリピン)に、東アジア地域全体の戦略統合本郡である総督府を置いていました。
そして信長、秀吉の時代、スペインによってまだ征服されていなかった国は、東亜では、明国と日本だけでした。朝鮮半島は明の属国ですから、明に含まれる一地方にすぎません。
そのスペインが、日本に最初にやってきたのは、天文18(1549)年のことです。
日本では、宣教師のフランシスコザビエルの来日として歴史に記録されています。
当時のスペイン宣教師というのは、表向きの役割はキリスト教の伝道ですが、裏では立派な軍事組織を持つ、僧兵軍団です。
はじめに宣教師たちがやってきて、それぞれの国民に受け入れられやすそうな調子の良いことを言って改宗させ、頃合いを見計らって軍隊を送り込み、人々を殺戮し、財宝を強奪し、ひいては国ごと植民地支配してしまっていたわけです。
日本が内乱に明け暮れていた時代の戦国大名たちは、最初は、宣教師たちについても、ただのものめずらしさしかありませんでしたし、ザビエルは、あちこちの大名に招かれ、大名たちもキリスト教の信者になったりもして、伝道師たちを快く受け入れていました。
ところが唯一、日本が他の国々と違っていたのは、彼らが持ち込んだ鉄砲という武器を、日本人はまたたくまにコピーし、それを量産してしまったことです。
気がつけば、日本の鉄砲所持数は、なんと、世界全体の半数を占める莫大な数になっていました。
宣教師たちも、さすがにこれには驚いた様子で、イエズス会のドン・ロドリゴ、フランシスコ会のフライ・ルイス・ソテロらが、スペイン国王に送った上書にも、このことについては明確な記述があります。
〜〜〜〜〜〜〜〜
スペイン国王陛下、陛下を日本の君主とすることは望ましいことですが、日本は住民が多く、城郭も堅固で、軍隊の力による侵入は困難です。
よって福音を宣伝する方策をもって、日本人が陛下に悦んで臣事するように仕向けるしかありません。
〜〜〜〜〜〜〜〜
住民数を言うなら、Chinaや南米やインドの方がはるかに住民数が多いわけで、城塞の堅固さも、日本の平城は、アジア、ヨーロッパの城塞には敵いません。
にもかかわらず、彼らが「日本は住民が多く、城郭も堅固で、軍隊の力による侵入は困難」と書いているのは、単純に、鉄砲の数が圧倒的で、とても軍事力で日本には敵わない、といているのです。
だから、「福音を宣伝する方策をもって、日本人が陛下に悦んで臣事するように仕向ける」しかないと、上書に書いているのです。
こうしてスペインは、日本での布教活動に、まず注力しました。
一方、あたりまえのことですが、スペインの狙いは日本だけではありません。
お隣の明国も、スペインは植民地化を狙っています。
こちらは、鉄砲をコピーするような能力はありません。
けれど、とにかく人が多い。
しかも大陸が広く、その調略には手間がかかります。
朝鮮半島は対象外です。
朝鮮半島は、明国の支配下だったわけですから、明が落ちれば朝鮮半島は、自動的に手に入る。それだけのことです。
そのスペインは、明国を攻略するにあたって、当時、世界最大の武力(火力)を持っていた日本に、一緒に明国を奪わないか、と持ちかけています。
ところが日本には、まるでそんなことには関心がありません。
そもそも信長、秀吉と続く戦国の戦いは、日本国内の戦国の世をいかに終わらせ、国内に治安を回復するかが最大のテーマであり、他国にまでかかわっているようなヒマはなかったからです。
信長は、比叡山を攻めたり、本願寺を攻めたりと、まるで第六天の魔王であるかのように描かれることが多いですが、実際には、次々と行なった信長の戦いの目的は、一日も早く戦乱の世を終わらせることに尽きたものです。
だからこそ平和を願う多くの人々が信長に従ったのだということが、最近になって発見された各種文書から、あきらかにされています。
このことは秀吉も同様です。
なぜ秀吉が人気があったかといえば、百姓の代表だから百姓の気持ちがわかる。
戦乱によって農地が荒されることを多くの民衆が嫌っていることを、ちゃんとわかってくれている人物だったからこそ、秀吉人気はあったのです。
要するに、当時の日本の施政者にとっては、日本国内統一と治安の回復こそが政治課題だったわけで、わざわざ明まで出かけて行く理由はひとつもなかったのです。
ところが、日本が秀吉によって統一され、なんとかその治安と太平を回復すると、今度は、対明国への対策が大きな課題となってきました。
どういうことかというと、スペインが日本に攻めて来たとしても、彼らは海を渡ってやってきますから、スペインとの直接対決ならば、海を渡ってやって来るスペイン人は、数のうえからいえば少数であり、火力、武力ともに日本の方が圧倒的に上位です。
つまり日本がスペインに攻略される心配はまるでないのです。
幕末とは違うのです。
海軍力だって、当時の日本はスペインに匹敵する力を持っています。
ところが、です。
スペインが明国を支配下におさめると、様子が違ってくるのです。
いかに数多くの鉄砲を日本が持っているとはいえ、スペインに支配された明国兵が、数の力にモノを言わせて日本に攻め込んできたら、これはたいへんなことになります。
まさに元寇の再来です。
これは国難といえる脅威です。
であれば、その驚異を取り除くには、スペインよりも先に明国を日本の支配下に置くしかありません。
火力、武力に優れた日本には、それは十分可能なことだし、万一明国まで攻め込むことができなかったとしても、地政学的に朝鮮半島を日本と明の緩衝地帯としておくことで、日本への侵入、侵略を防ぐことができるからです。
このことは、ロシアの南下政策を防ぐために、明治日本が行なった政策とも、良く似ています。
さらに秀吉は、すでにこの時点でスペインの誇る無敵艦隊が、英国との戦争に破れスペイン自体が海軍力を大幅に低下させていることを知っています。
ですから、スペインが海軍力で日本と戦端を交える可能性は、まずない、ということは、秀吉ならずとも、誰の目にも明らかでした。
一方、長く続く戦乱の世を終わらせようとする秀吉は、全国で刀狩りを実施し、日本の庶民から武力を奪っています。
これはつまり、日本に太平の世を築くために必要なことであったわけですが、同時にこのことは、もし日本が他国侵逼の難にあったときは、日本の戦力を大きく削ぐことにもつながります。
ならば、武力がまだ豊富なうちに、余剰戦力を用いて朝鮮出兵を行ない、朝鮮から明国までを日本の支配下に置いてしまうこと。
これが我が国の安全保障上、必要なことになったのです。
こうして秀吉は、文禄の役(1592〜1593)、慶長の役(1597〜1598)と二度にわたる朝鮮出兵を行なうのですが、同時に秀吉は、スペインとも果敢な政治的交渉を行なっています。
何をしたかというと、スペインに対して「日本に臣下としての礼をとれ!」と申し出たのです。
最初にこれを行なったのが、文禄の役に先立つ1年前、天正18(1591)年9月のことです。
秀吉はスペインの東亜地域の拠点であるルソン(フィリピン)総督府に、原田孫七郎を派遣し、「スペインのルソン総督府は、日本に入貢せよ」との国書を手渡しています。
世界を制する大帝国のスペインに対し、真正面から堂々と「頭を下げて臣下の礼をとって入貢せよ」などとやったのは、おそらく、世界広しといえども、日本くらいなものです。
言うだけなら猿でもできます。
実際にそれをやった国があります。明治の終わり頃の朝鮮です。
当時の李氏朝鮮は、大韓帝国と国号を改め、日本に「対等に合邦せよ」と言ってきています。
言うだけじゃなく、世界に向けて高らかにそれを発言しています。
ところが当時の日本は、当時の世界最強国家である大英帝国と同盟関係のある国です。
つまり、大英帝国と大日本帝国は、「対等」な関係にあります。
その日本と朝鮮が対等に合邦するというのは、朝鮮が大英帝国とも等しい存在であることを意味します。
ほとんど世界の最貧国であり、国力もなく、世界に向けた何の実績もなく、国といえるかさえもあやしい朝鮮半島という世界から見れば無主地でしかない地域が、勝手に帝国を名乗り、日本、英国と対等な存在だと主張したわけです。
これは世界の笑い者です。
実際にそれに足るだけの国力を保って言うのと、日韓併合前の朝鮮のように国力もない無主地の猿が言うのとでは、意味合いも影響力も異なります。
もっとも、このあまりに突飛な、失笑をかった朝鮮の行為は、あまりにも子供じみていたために、逆に日韓併合という結果をもたらしました。
「あんまりひどい猿がいるから、日本さん、可哀想だから面倒見てやれよ」というわけです。
さて秀吉の行為は、はスペイン総督にしてみると、きわめて腹立たしいことだけれど、すでにスペインの無敵艦隊が消滅し、海軍力を大幅に低下させているという現状にあっては、日本に対して報復的処置をとれるだけの力がない。
悔しいけれど、放置するしかなありません。
ところが秀吉は、放置を許さない。
翌年に、具体的行動としての朝鮮出兵を開始するのです。
驚いたのはルソンのスペイン総督府です。
日本が、朝鮮、明国を征すれば、その国力たるや、東亜最大の政治的、軍事的大国となることは目に見えています。
むしろヨーロッパまで征服した元の大帝国の再来であり、これはスペインにとっては脅威以外のなにものでもありません。
しかも朝鮮出兵は、海を渡った戦いです。
ということは、いつ、日本の矛先がフィリピン・ルソン島のスペイン総督府に向けられてくるかわからない。
慌てたスペイン総督府は、当時ルソンに住んでいた日本人たちを、マニラ市内のディオラ地区に、集団で強制移住させています。
これがマニラの日本人町の始まりです。
さらにスペイン総督府は、同年7月には、ドミニコ会士の宣教師、フアン・コポスを日本に派遣し、秀吉に友好関係を樹立したいとする書信を届けています。
このとき、膨大な贈物も持参しています。
いかにスペインが日本をおそれていたか、ということです。
けれど秀吉は、そんな贈り物くらいで納得するようなヤワな関白ではありません。
重ねてスペインの日本に対する入貢の催促の書簡を手渡したのです。
その内容がすさまじいです。
「スペイン国王は、日本と友好関係を打ち立て、マニラにあるスペイン総督府は、日本に臣下としての礼をとれ」というのです。
そして「それがお嫌なら、日本はマニラに攻めこむぞ、このことをスペイン国王にちゃんと伝えろ」というのです。
秀吉の書簡を受け取ったコポスは、帰路、なぜか遭難してしまいました。
本当に海難事故で遭難したのか、返書の内容が100%スペイン国王の激怒を買うことがわかって、意図的に遭難したことにして逃亡したのか、いまとなっては不明です。
けれどおそらくは後者でしょう。
コポスの遭難のおかげで、秀吉の書簡はスペイン総督府に届いていません。
当然のことながら、スペイン総督府からの返書もありません。
けれど、返書がないからと、放置するほど甘い秀吉ではありません。
秀吉は、10月には、原田喜右衛門をマニラに派遣し、確実に書簡を総督府に届けさせました。
書簡を持った原田喜右衛門は、文禄2(1592)年4月、マニラに到着しました。
このとき、事件が起こりました。
たまたま在マニラのChineseたち約2000人(明国から派遣された正規兵だったといわれています)が、マニラ市街で一斉蜂起して、スペインの総督府を襲ったのです。
スペイン兵は、応戦しますが、多勢に無勢です。
このままでは全滅の危機となりました。
ちょうどそこに到着した原田喜右衛門は、手勢を率いてスペイン側に加勢し、またたく間にChina兵を蹴散らし、全滅させてしまったのです。
日本強し。
原田喜右衛門らの圧倒的な日本人の強さを目の当たりにしたスペインのゴメス総督は、原田喜右衛門に感謝をすると同時に、日本の強さに恐怖します。
けれど、ゴメスは、スペイン大帝国から派遣されている総督です。
世界を制する大帝国王に、日本に臣下としての礼をとらせるなど、とてもじゃないができることではないし、報告できることでもありません。
そんな報告をしたら、それこそゴメスはスペイン王によって死刑に処せられてしまいます。
ゴメスは、なんとか時間をかせごうとしました
そして、翌文禄3(1594)年4月に、新たにフランシスコ会士のペドロ・バウチスタ・ベラスケスを特使に任命して、日本派遣したのです。
要するに、特使の派遣を繰り返す中で、少しでも時間稼ぎをしようしたのです。
名護屋でペドロと会見した秀吉の前で、ペドロは、スペイン王国が、いまや世界を制する大帝国であること、日本とはあくまでも「対等な」関係を築きたいと申し述べました。
普通に考えれば、世界を制する大帝国のスペイン国王が、日本という東洋の小国と「対等な関係」というだけでも、ものすごい譲歩です。
けれど、秀吉は聞く耳を持ちません。
ペドロに対し、重ねてスペイン国王の日本への服従と入貢を要請したのです。
なぜ秀吉は、ここまでスペインに対して強硬だったのでしょうか。
理由があります。
第一に、国際関係において「対等な関係というものは存在しない」ということです。
国際関係は、やるかやられるか、つまり上になるか下になるかしかありません。
たとえ日本が小国であったとしても、大帝国のスペインに日本を攻めさせないためには、日本が圧倒的な強国であることを、思い知らせるしかないのです。
第二に、もし、秀吉が中途半端に「対等な関係」の構築を受け入れようとするならば、スペインは当然のごとく平和特使と称して宣教師を日本に派遣します。
そして宣教師たちは、日本国内で、内部からの切り崩し工作(まさにいまChinaやKoreaによって行なわれている日本解体工作と同じ)を行ないます。
現に、世界のあらゆる国家が、その方法でスペインの植民地にされてきています。
ですから、日本がスペインの驚異から逃れる道は、ただひとつ。
あくまでスペインに対して、強硬な姿勢を崩さないこと。
これしかなかったのです。
第三に、秀吉が目指したのは、あくまでも「戦のない世の中」であったということです。
波いる敵は、圧倒的な武力で制圧する。
その上で、相手の武力そのものも奪ってしまう。
つまり「刀狩り」を行い、そうすることで秀吉は、「戦のない世の中」を実現しようとしていたのです。
けれど、同時に刀狩りをして日本人から武力を奪うことは、一方において日本を弱化させることを意味します。
ならば、日本国内に武器を持たない平和な国を実現するためには、国際的な武力衝突の危険を日本から出来る限り遠ざける必要があるのです。
そして、名護屋におけるペドロ・バウチスタ・ベラスケスとの会見も、平行線となったスペインのゴメス提督は、日本との軟弱な外交姿勢を咎められ、スペイン国王によって更迭されてしまいます。
そして後任の提督としてやってきたのが、ルイス・ダスマリニャスです。
ルイス・ダスマリニャスは、アウグステイン・ロドリゲスを使者として日本に派遣し、回答の引き延ばしを図るとともに、日本の戦力を冷静に分析します。
そして、ゴメスの分析通り、もし日本とスペインが、東亜で正面から衝突すれば、むしろスペイン側に勝ち目がないことを知ります。
そこでルイスは、秀吉との直接交渉は避け、ひとり、またひとりと、宣教師を日本に派遣するという戦略をとりました。
一気に調略するのではなく、ちょっとずつ毒を盛ろうというわけです。
文禄3(1594)年には、ルイス提督の意向を受けて、ヘロニモ・デ・ヘスス以下のフランシスコ会修道士4人が、日本に派遣され、日本での布教を再開しました。
秀吉も、これは認めています。
ところが、慶長元(1596)年のことです。
スペインの貨物船、サン・フェリーペ号が、荷物を満載したまま遭難し、土佐の浦戸に漂着しました。
救助した船員たちを、秀吉の五奉行の一人である増田長盛が取り調べにあたったのですが、そこで驚くべき事実があきらかになります。
なんとサン・フェリーペ号の水先案内人が、増田長盛に世界地図を見せ、
「スペイン国王は、まず宣教師を派遣し、キリシタンが増えると、次は軍隊を送り、信者に内応させて、その伝道地の国土を征服するから、世界中にわたって領土を占領できたのだ」と証言したのです。
報告を受けた秀吉は、即座にキリシタン26人を逮捕しました。
そして彼らを長崎に送りました。
「キリシタンを続けたいなら、外国へ出て行け。
日本に残りたいなら、改宗しろ」というわけです。
迷う26名に対し、長崎のイエズス会は、この26名の死罪を長崎奉行に申し出ます。
磷付にして、晒してほしいと、申し入れたのです。
イエスズ会の腹はこうです。
26名の信者を、イエスの十字架になぞらえて見せ物にし、間違いなく天国に行くことができたと宣伝する。
こうすることで、キリスト教徒としての栄光に輝く姿を印象づけ、信仰による団結心をたかめる。
まあ、このあたりの話は、本題からかなりそれるので、また今度詳しく書くこととして、要するに秀吉の朝鮮出兵は、スペインによる東洋の支配に対して、統一国家をやっと形成した日本が、いかに国を護るかを考えた上での決断であった、ということです。
こういうことは、単に日本や朝鮮の国内事情だけを見ても、まったくわかりません。
当時の世界情勢、東亜諸国の情勢をみなければ、秀吉がなぜ朝鮮出兵を決意したのか、そして多くの大名たちが、なぜその秀吉に従い、兵を出し、勇猛果敢に他国に出て戦ったのか、理解できない。
もっというなら、日本が明治という統一国家を形成してから朝鮮半島を領有するまでの動きと、秀吉の朝鮮出兵当時の世界の動きは、スペインがロシアと変わっただけで、まったく同じことが歴史上、繰り返された、ということなのです。
もし、秀吉が朝鮮出兵を行なわず、日本の国力をスペインに見せつけなければ、どうなっていたか。
スペインは、当然のことながら、明国を植民地としての支配下に置いたことでしょうし、当然のことながら、朝鮮半島も、スペインの支配地となったことでしょう。
そしてスペインの支配地となることが、いかなる意味を持つのか。
そのことは、南米の様子が、見事にまで現代に伝えています。
いま、南米に南米人の純粋種は存在しません。
白人種との混血種だけです。
アルゼンチンやウルグアイでは、先住民族がほぼ完ぺきに抹殺されてしまいました。
このエリアの女性たちは、手当たりしだい強姦されたあげく、子を産む前に殺戮されたのです。
ですから、いま住んでいるのは、ほぼ白人種です。
ブラジル、エクアドル、ペルー、ボリビアは、全員が、先住民族との混血です。
純血腫はいません。
強姦され、放置され、子を産み、いまに至っています。
日本もChinaもKoreaも、それぞれに純血種を保ちながら、いまに至っています。
なぜそうなったかといえば、秀吉が、スペインと真っ向から戦う姿勢を明確に示してくれたおかげです。
ちなみに、慶長の役は、秀吉の死去にともなって中止となり、日本は朝鮮半島から撤収しました。
だから、これは秀吉の気まぐれでおきた戦争だというのは、大きな間違いです。
半島に出兵した大名たちは、それぞれに真剣に戦ったのです。
ではなぜ日本が撤収したか。
こたえは簡単です。
スペイン自体が、英国やオランダに押されて、国力を低下させ、もはや東亜に構っていられなくなったからです。
もうひとついうなら、秀吉はなぜ「明国を倒す」とまで言っていながら、実際には明国本土には手を出さず、朝鮮半島だけで戦っていたのか。
朝鮮半島には、李氏朝鮮に頼まれた明国兵がやってきています。
ならば、倭冦よろしく、日本が外洋船舶を出して明国の沿岸部を荒し回る。
そうすることによって、明国の国力を削ぐ。
あるいは、明国兵にカネを掴ませて、明国内で反乱を起こさせる。
要するに、本気で明国を倒す気なら、それなりのやり方があるわけです。
ところが秀吉は、そうしたことをまったくせず、無主地である朝鮮半島だけで、その朝鮮半島を支配している暴力団と、その後ろ盾をしている明国兵とだけ戦い、しかも、秀吉自身はまったく敵情視察のために朝鮮半島を渡ろうとせず、さらにいえばソウルが落城しても、なお、半島には一歩も入ろうとせず、もっぱら太宰府あたりで、毎日大宴会を催して遊んでばかりいたわけです。
と、ここまで書けば、秀吉の意図も明らかです。
スペインが年々国力を低下させていくなかで、最早、明国出兵自体にも意味がなくなり、むしろ百姓たちからの刀狩りの「大名版」として、朝鮮出兵をしていたわけです。
太宰府には東北の伊達政宗などもやってきていますが、大名行列というのは、たいへんなカネがかかります。
それぞれの大名たちは、九州まで出かけて行くだけで、たいへんな出費になったのです。
そして出費は、それぞれの大名の国力を弱めます。
さらに元気の良い大名は、朝鮮半島に渡り、明国兵や李氏朝鮮兵と戦います。
いわば、猿狩り旅行にでてもらい、さらに国力を削いで行ったわけです。
わたしたちは、いま、スペインという世界最強の大帝国に対し、一歩も退かず、むしろ臣従せよと迫った秀吉の壮大な気宇と誇りを、いまこそ見習うべきときにきている。
私はそのように思います。
※この記事は、2012/7/31の記事をリニューアルしたものです。

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