
「カンブリア爆発」という言葉があります。
英語で書くと「Cambrian Explosion」です。
およそ5億4200万年前から5億3000万年前に起こった地球上の進化の大爆発のことをいいます。
このとき、いまの地球上では考えられないような様々な生物が誕生しました。
まるで珊瑚のようなカタチをした生物。
5つ目の生き物。
歯がまるでカメラのシャッターのように円形にスライドする生き物。
映画に出てくるエイリアンのように、口からさらに長い口が飛び出す恐ろしい生き物。
まるで風の谷のナウシカに出てきたオウムのような甲冑生物。
洗濯板みたいなカタチをした軟体生物などです。
カンブリア紀の生命体は、いずれもまるでSF映画に出て来るエイリアンのようです。
どれも最強を誇るかのような生命体で、まさに「強さ」を目指した生命体の種のオンパレードでした。
想像を絶するような様々なエイリアンたちが、生き残りをかけてプレデターたちと殺し合う。
まさにそんな状況でもあったのが、カンブリア紀です。
カンブリア紀は、地球上に現れた生命体が、生き残る上でのもっとも良いカタチを求めた壮大な進化の大実験です。
このことを、ある学者さんは、「生命体が進化のためにどうしたらもっとも生き残れるのかを試行錯誤するために、あらゆる形を試した壮大なデザインコンテストの時代」だと喩(たと)えました。
なるほどそうかもしれません。
けれど、そうして生まれたカンブリア紀の様々な生命体は、最後にはことごとく死滅しました。
そして生き残ったのは、もっとも「ひ弱」そうに見えた脊椎動物だけでした。
そしてその脊椎動物が、いまの地球上の生物へと進化しました。
この脊椎動物の名前は、「ピカイヤ」といいます。
なんだか、なめくじかイカのような軟体動物みたいなカタチをしていますが、ちゃんと背骨を持っています。

この脊椎が、実は海中で生活していた生命体が海から陸上動物へと進化するための重要な役割を担ったとされています。
なぜかというと、脊椎が海から摂取していたミネラルを骨にして蓄え、体に提供する役割を担ったからだといわれています。
そしてこのピカイヤが、いま地上にいるすべての背骨を持つ生き物の祖先となりました。
ですから羊も猿も、そして人類も、もとをたどせば、このピカイヤが原始の姿だったわけです。
それにしても、どうしてカンブリア紀に登場した生命体のなかで、もっともひ弱な生き物であったピカイヤが、最後に生き残ったのでしょうか。
これについては、実に様々な説があります。
そのなかの代表的なものが、ダーウィンの進化論です。
ダーウィンの進化論は、弱肉強食、弱い生物は強い生物たちに滅ぼされ、強い生物たちは、その強さ故に互いに殺し合いをして自滅していったと説きます。
ダーウィンの進化論は、その後20世紀に入ってから、社会科学に援用され、人類社会も弱い者は淘汰され、強い者だけが生き残るなどといわれました。
その典型的なものが共産主義思想です。
社会のすべては「対立と闘争」によって成り立つという。
同様にカンブリア紀についも、それぞれの生命体は、互いに対立し闘争し、結果強いものだけが生き残ったというわけです。
ところがこれだと、どうして「一番弱い」脊椎生物だけが最後に生き残ったのかの説明がつきません。
なので、ダーイウィン型の進化論をとる学者さんたちは、「もし、進化をもう一度やり直したとしたら、同じ結果にはならない。絶滅してしまった生物の方が、もしかしたら今度は生き残るかもしれない。生物がいまのようなカタチになったのは、何らかの偶然のもたらした結果でしかない」と説いています。
要するに、ピカイヤが最終的にカンブリア紀を生き残ったのも、単なる偶然の産物でしかない、というのです。
けれどそうだとすると、生物学はもはや「科学」ではなくなってしまいます。
なぜなら科学は、何回実験しても同じ結果になる、つまり反復可能性が認められて、はじめて法則となるからです。
法則がない、つまり反復できないものは、科学とは呼びません。
進化には、もうひとつ、別な説があります。
それが「共生論」です。
「共生論」は、生物は互いに共生することで生き残る、と説きます。
カンブリア紀についていえば、自分だけが生き残ろうとして、甲冑に身を固めた生物や、目を5つも付けた生物は、それぞれが「自分だけ」の生き残りを図ろうとした結果、共生できなくなり、自滅したと見ます。
カンブリア紀のエイリアンやプレデターたちが排他的な強さを求めたということは、周囲の敵を滅ぼし、自分だけが生き残ろうとした行動です。
つまり環境そのものを、自分に都合が良いように変化させようとしたわけです。
その結果、互いに殺し合いが起こり、地球環境の変化にも対応できず、結果、自滅してしまったわけです。
これに対し、もっとも弱い脊椎動物であるピカイヤは、弱いがゆえに自ら環境に適合し、気がつけば、最後まで生き残っていた、と説明しています。
実は、この説明だと、偶然の要素はなくなり、反復可能性が生じます。
つまり、こちらの説明の方が、「科学的」なのです。
似たような絶滅の話で、恐竜の絶滅があります。
恐竜たちは、我が身を守るために巨大生物に進化しました。
補食者もいれば、植食者もいましたが、どの種も自分の生き残りのために共生ではなく、巨大化の道を選んだわけです。
なるほど襲撃してくる天敵よりも巨大なら、それは有利です。
この巨大化は、現代の地球環境では生じ得ないとされています。
酸素濃度が低いからです。
酸素濃度が高いと、巨大化が可能になります。
しかしその巨大化によって、酸素を生む植物を一定以上に食い尽くしてしまうと、今度は身体を維持できるだけの酸素が地上になくなってしまうのです。
似たような話で、古代のChineseと、現代のChineseが人種が違うという、おもしろい話があります。
黄河文明の遺跡から出土する人骨のDNAを調べてみると、それらはモンゴロイドではなく、なんとコーカソイド、つまり白人種だったというのです。
これは東大の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、中国科学院遺伝研究所の王瀝(WANG Li)らによる古代Chinaの人骨のDNA分析研究の成果です。
研究の対象となったのは、
1 約2500年前の春秋時代の人骨
2 約2000年前の漢代の臨シ(中国山東省、黄河下流にある春秋戦国時代の斉の都)遺跡から出土した人骨
3 現代の臨シ住民、です。
これらの人骨から得たミトコンドリアDNAの比較研究の結果によると、三つの時代の臨シ人類集団は、まったく異なる遺伝的構成を持っていました。
どういうことかというと、Chinaにはもともと揚子江のほとりに、稲作を行うモンゴロイドが住んでいたのですが、ある日、黄河の流域に、大型の動物を追ってやってきたコーカソイド(白人種)が住み着くわけです。
白人種たちは、大型動物を捕って食べますから、大型の武器を持っています。住まいは竪穴式住居です。
モンゴロイドたちは、農耕文化ですから、武器ではなく、クワやスキを手にしていて、武器を持ちません。住まいは、食料保管のために高床式住居です。
その武器を持たないモンゴロイドのところに、ある日、武器を持った白人たちが現れる。
法のない時代に、武器を持った者たちは、武器を持たない者たちの前では、まさに超人です。
モンゴロイドたちは襲われ、食べ物を奪われ、女性たちは強姦されたことでしょう。
そんなことをされたら、モンゴロイドたちだって黙っていません。
復讐のために武器を手にして、コーカソイドたちに戦いを挑みます。
互いに殺され奪われた恨みがきっかけの戦いです。
戦いは凄惨をきわめたことでしょう。
こうして春秋戦国時代が始まります。
双方の種は、互いに大軍を率いるようになり、凄惨な殺し合いと強姦が起こる。
結果として、白人種とモンゴロイドの血が混じり、彼らの外観は、数の上で圧倒的多数であるモンゴロイドに近いものとなりました。
このことは、南米の歴史によく似ています。
アルゼンチンやウルグアイは、白人種によって先住民族のモンゴロイドがほぼ完ぺきに抹殺されたため、いまでは外見は完全に白人種の国家となっていますが、エクアドルやペルー、ボリビアなどは外見はモンゴロイドの住民たちの国となっていますが、彼らは100%白人種との混血です。
この違いは、要するに先住民族の女たちが手当たりしだい強姦されたあげく子を産む前に全部殺された国と、手当たり次第強姦されたけれど、それが全部には至らなかったという違いです。
南米が白人種によって征服された時代は、銃の時代です。
けれど、China大陸で白人種とモンゴロイドが争った時代は、いまから4000年ほど昔で、まだ弓槍の時代です。
カタチとしては、エクアドルやペルー、ボリビアなどと同じく、外見はモンゴロイドになったわけです。
面白いのは、現代の臨シ住民のDNAです。
彼らの中には、ミトコンドリアの中にだけ、コーカソイドのDNAが発見されます。
これが何を意味しているかというと、ミトコンドリアのDNAは、母親から娘にしか遺伝しません。
つまり、現代ChineseのDNAには、ミトコンドリアの中だけに、白人種のDNAが含まれているのです。
これが何を意味するかというと、要するに血の気の多い、コーカソイド系の人を殺すことを何とも思わない男たちのDNAは、殺し合いの結果、自滅してしまい、結果として女性から女性に遺伝するミトコンドリアDNAの中にだけ、大昔の征服者であるコーカソイドのDNAが残っているわけです。
いまでもChineseは、先天的に殺し合いが好きな民族ですが、これは彼らがまさにコーカソイドとモンゴロイドの種の殺し合いの中で、生き残ってきたDNAを持つ民族だから、ということができます。
Chinaにおけるこうした流れは、カンブリア紀のような1億年という途方もない長い時代の流れではなく、約4000年という短期間に起きた現象ですが、この流れを俯瞰してみると、もしこれを対立と闘争という淘汰論(進化論)で語るとするならば、勝ち残るのは強いコーカソイドでなければならず、現代Chineseの外見も、コーカソイド系(白人系)とならなければならないことになります。
ところが実際に生き残ったのは、モンゴロイド系の外観です。
つまり、弱い方が生き残ったわけです。
これは実におもしろい変化といえます。
なぜなら、対立と闘争という淘汰論で説明のつかないことが、共生論なら、簡単に説明がついてしまうからです。
つまり、闘争し対立し殺し合う種は自滅し、共生する種が最後には生き残る、ということを示しているからです。
生物の進化は、社会科学に応用され、ダーウィンの進化論に始まる対立と闘争による社会の進化ということを基軸とした社会主義、共産主義国家として、まさに力の正義を振りかざして猛威をふるったソビエト社会主義共和国連邦は、大正11(1922)年に成立し平成3(1991)年に崩壊しました。
わずか69年の短い国家でした。
いま、生き残っている社会共産主義国は中共と北朝鮮ですが、中共が建国からすでに64年、北朝鮮が65年です。
おそらくこの両国とも、あと4〜5年で国家が崩壊することでしょう。
つまり、大切なことは、「対立と闘争」ではない、ということなのです。
いっけんひ弱に見えたとしても、「共生」を大事にする種が、結果として生き残る。
だからこそ、「共生」を根っこに置く日本は、建国以来2700年経っても、いまだに日本のままです。
このままいけば、カンブリア紀の1億1000万年を生き残ったピカイヤみたいに、日本は1億年、その後の時代もだから5億年(?)でも存続し得るかもしれません。
「共生」の文化というのは、それだけの、実は「強さ」とは違う「勁(つよ)さ」があるのです。
「勁(つよ)い」という漢字は、「疾風知勁草(しっぷうにけいそうをしる)」という語が有名です。
嵐があっても、柔らかな草は、風になびいて倒れない。
そのことから、「疾風知勁草(しっぷうにけいそうをしる)」は、「嵐にあってこそはじめてその人の志の強さがわかる」という意味に使われます。
ですから「勁(つよ)い」は、「強い」と違って、しなやかさの持つ、つよさを意味します。
ただし、ひとつの大きな水槽の中に、アジとサメを一緒に入れておいたら、サメはアジを全部食べてしまい、アジは絶滅してしまいます。
「共生」を国是とするだけに、日本には、多数の外国人がはいってきています。
なかには、一部の不逞なChineseやKoreanのように、まさに「俺が俺が」の弱肉強食を国是とし、みずからの欲望のためには、他の犠牲をなんとも思わないような者たちも、たくさん入り込んできています。
戦前もそうでしたし、戦後も同じです。
私たち日本人は、相手が誰であれ、どこの国の人であれ、誰もが温かく受け入れようとします。
その温かさを逆手にとって、傍若無人な振る舞いをする連中も、当然あらわれるわけです。
そして悪いことには、彼らはまるでもとからの日本人のような顔をして、日本に住み着いています。
それはまるで、悪魔が人間のふりをして、人間社会に入り込むのに似ています。
そのときに大切なことが2つあります。
ひとつは、悪は断固としてゆるさない、という私たち日本の、そして日本人の固い決意です。
そしてもうひとつは、私たち日本人自身が、そして日本という国そのものが、私たちの国がもつ、素晴らしさやすごさを、しっかりと理解し、認識し、記憶し、そこに固い信念を持つことです。
大東亜の戦いも、強い種である白人種が、有色人種と対立し、闘争し、排他独占的に支配した植民地の時代を、日本という多文化共生を是とする種が打ち破り、植民地の解放を実現し、勝利した戦いでした。
なるほど日本は、国中が焼け野原となるという酷い眼にあいましたが、結果として日本人は混血種ともならずに生き残り、世界に冠として、いまだに、世界に多大な良い影響を与え続けています。
これからの時代、グローバリズムの流れに乗って、ますます多文化共生の必要性は高まって来ようかと思います。
なかには「地球市民」だとか、いきなりぶっ飛びのファンタジーを言い出す評論家や議員、大学教授などがいますが、残念ながら、いま私たちが生きているこの世に、「地球市」なる「City」は存在していませんし、地球憲法もなければ、地球六法も存在しませんし、地球議会や地球内閣、地球大統領もこの世にはありません。
私たちの生きている現実は、国こそがMAXの共同体です。
まるでカンブリア紀の大爆発と同じように、いま世界には様々な国家が誕生しています。
なかには、モンスターやエイリアンのような国さえもあります。
そのなかを蹂躙(じゅうりん)されることなく生き残るために、私たちに何が必要なのか。
ピカイヤは、「共生」というキーワードによって、カンブリア紀を生き延びました。
ただし、食べられて絶滅してしまっては、「共生」どころではないのです。
死滅しないためには、私たちは、日本をしっかりと学ぶ。
そのために私たち自身が、日本という国をしっかりと理解し、日本を護るという固い決意と信念を持つ。
そういうことこそが、これからの時代の日本人に、ますます求められて来ると思います。

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