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手榴弾を浴び倒れたが、軍刀を杖としてまた立ち上がると再び号令をかけ、倒れる事なく遥か東方、皇居の方角に正対、挙手敬礼をして立ったまま絶命した。
立ったまま絶命された方がいます。
杉本五郎といいます。
帝国陸軍中佐です。
昭和12(1937)年9月のできごとです。
この年の8月、第二次上海事変が勃発しました。
日本はやむなく支那に派兵しました。
このとき、杉本中佐は、広島の宇品港から、戦地に向かっています。
支那国民党が、完全装備で手ぐすねひいて待ち構える支那への派兵でした。
杉本中佐は、長野部隊第二中隊長でした。
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支那事変の緒戦から、長城山岳戦料子台の戦闘を始めとし、北支那の各地を転戦しました。
中佐の部隊は、いたるところで敵中深く肉弾突入を果たし、「死之中隊」と呼ばれる異名を得られています。
そして敵を追って山西省に入るや、山西の要衝である蔚閣山高地の攻略戦いで、常に陣頭に立って肉弾突入を果たされました。
杉本中佐は、岩壁を登り、敵兵約600がいる陣地へ、号令をかけながら突入しました。
そのとき、敵が投げた手榴弾が、杉本隊長のすぐ脇で爆発しました。
隊長は、爆風で吹き飛ばされました。
ところが隊長は、軍刀を杖にすると、立ち上がり再び、皆に号令をかけました。
そして、東方の皇居の方角に正対し、挙手敬礼をされました。
気がつくと、敬礼し、立ったままの姿勢で、隊長は絶命しておられました。
38歳でした。
杉本中佐は、広島の三篠(みささ)町で生まれ、天満小学校に通われました。
広島修道中学を経て陸軍士官学校(33期)、陸軍戸山学校を卒業されました。
お亡くなりになったとき、杉本中佐には4人の息子さんがおいでになりました。
中佐は、お亡くなりになる直前まで、その息子さんたちに、20通からなる遺書を書きのこしておいでになりました。
この遺書の存在を知った戦友らの好意によって、遺書は「大義」という名の本となり、昭和13(1938)年5月に出版されました。
本は、終戦までのわずかな期間の間に、29版を重ね、130万部を超える大ベストセラーになりました。
その本の緒言(はじめ)に「父・五郎」の名で、次の文章があります。
現代文に訳してみます。
冒頭のところだけです。原文は全文を末尾に挿入します。
==========
【緒言】
私の子、孫たちに、根本とすべき大道を直接指導する。
名利など、なにするものぞ。
地位が、なんだというのか。
断じて名聞名利のやからとなるな。
武士道は、我が身を犠牲にする心(義)より大きなものはない。
その義の、もっとも大事なものは、君臣の道である。
出処進退のすべては、もっとも大きな大義(君臣の道)を根本としなさい。
大義を胸に抱かないなら、我が子、我が孫と名乗ることを許さない。
たとえ貧乏のどん底暮らしとなったとしても、ただひとえに大義を根幹とする心こそが、私の子孫の根底である。
(原文)吾児孫の以て依るべき大道を直指す。名利何んするものぞ、地位何物ぞ、断じて名聞利慾の奴となる勿れ。
士道、義より大なるはなく、義は君臣を以て最大となす。出処進退総べて大義を本とせよ。大義を以て胸間に掛在せずんば、児孫と称することを許さず。一把茅底折脚鐺内に野菜根を煮て喫して日を過すとも、専一に大義を究明する底は、吾と相見報恩底の児孫なり。孝たらんとせば、大義に透徹せよ。
==========
孟子の言葉に、「無恒産無恒心」というものがあります。
「恒産(こうさん)なき者は、恒心(こうしん)なし」と読みます。
恒産というのは、いまでいうなら定職です。
恒心は、恒久的に安定した心という意味です。
意訳すると「安定した収入を持たない者は、安定した心を持つことができない」という意味になります。
この言葉は、管子(かんし)の「衣食足りて礼節を知る」と似ていますが、慣用句の「貧(ひん)すれば貪(どん)する」とは、意味がだいぶ異なります。
「貧すれば貪する」は、貧乏するとまっとうな人でもさもしくなる、という意味ですが、孟子の「恒産なき者は恒心なし」や、管子の「衣食足りて礼節を知る」は、もう少し深い意味があります。
孟子がこの「恒産なき者は恒心なし」を説いたのは、孟子が老境に入った頃のことなのです。
孟子というのは、とても苦労された方で、各国を巡って人の道を説き続けたのですが、その孟子を用いる国がなく、60歳を過ぎた頃には、士官をあきらめて故郷に帰って農業をして生活していました。
士官しなければ、というのは、いまで言ったら「就職しなければ」と同じような意味です。
いってみれば孟子は大学を卒業したあと、就職もできないまま、就職浪人を続けたようなものです。
あたりまえのことですが、生活は極貧状態です。
それでも彼は志を曲げず、正しい道徳観の育成こそ国家の大事という自説を説き続けました。
けれど、夢破れ、60歳になった彼は故郷に帰りました。
故郷に帰った孟子は、そこで小さな私塾を開くのですが、このとき、あたり一帯を領地にしていた王が亡くなり、息子の王子が次の王に即位しました。
それが「文王(ぶんおう)」です。
文王は、孟子を王宮に招き、国王の顧問にしたのです。
孟子は、王に「恒心」を説き続けました。
その教えの代表的なものが「四端(したん)」です。
これは「四つの端緒」という意味で、
「惻隠」=他者を見ていたたまれなく思う心
「羞悪」=不正や悪を憎む心
「辞譲」=譲ってへりくだる心
「是非」=正しいこととまちがっていることを判断する能力
と定義されます。
学問は、この「四端」を学びとるもので、これによって人は、「仁義礼智」の四徳を身につけることができるとしたわけです。
それをひとことでいえば、「恒心」となります。
なるほど、こうした教えを2500年前の支那で説いたのですが、こうしてあらためて眺めてみると、支那人とはまさに真逆の姿勢を説いているわけで、孟子が就職できなかったということも、なるほどとうなづける気がします。
孟子の「恒心」は、「永遠の(恒)の心」ですから、これは未来永劫通じる正しい心の道です。
そしてその過程で出てきた教えが「恒産なき者は恒心なし」であるわけです。
この言葉は、よく「人は、ちゃんと下仕事を持ち、定収をもたなければ、まともな心なんて育たないよ」といった意味に使われることが多いのですが、孟子がこれを説いたときの「者」というのは、国王を指しています。
つまり、国王は、国民に人の道の教育をするだけでなく、恒産、すなわち産業を興し、人々を豊かにしなければ、民度はあがりませんぞ、というわけです。
もっといえば、国王は、民から収奪する存在ではなく、民を豊かにすることが仕事ですよ、と言っている、そのコーナーで、説いたのが「恒産なき者は恒心なし」なのです。
ですから、「恒産なき者は恒心なし」は、「貧すれば貪する」という、貧しいと心が荒(すさ)むよ、という教えとは、ちょっと角度が違うわけです。
孟子自身は、誰よりも極貧状態を経ながら、それでも志を貫いた人です。
ですから、「恒産」がなくても「恒心」を抱き続けました。
けれど、そういうことは、よほど高尚な魂がなければ、なかなかできることではない。
だから、一般の人々に高い道徳心を抱いてもらうには、産業の振興(恒産)が必要ですと説いているわけです。
管仲の「衣食足りて礼節を知る」も、民衆は服と食べ物(衣食)が十分にあって、はじめて礼儀や節度をちゃんとわきまえるようになるという意味ですから、同じ意味の言葉です。
ただ、「本当にそうなのか?」と思うのです。
昨今の日本は、たいへん豊かな国です。
それこそ江戸の昔では考えられないほどの経済的豊かさを多くの民衆が手に入れています。
けれどその一方で、江戸270年間に起きた犯罪の総数が、いまの日本では、たった1年で起こる犯罪件数と同じになっています。
先日お話を伺ったのですが、迎えの家の旦那(B)が、自分の家の車庫にお客さんの車を停めさせたからと、自分(B)の車を、真迎えにあるAさんの家の車庫に勝手に駐車したのだそうです。
帰宅したAさんはびっくりして、お迎えの旦那Bに抗議しました。
するとBはたいへんな剣幕で、「ウチの車庫が一杯で、あんたの家の車庫が空いてるから停めたんだ。何が悪い!」と、逆切れして怒鳴りまくったのだそうです。
びっくりしたAさんは、ホームセンターに行ってチェーンと南京錠を買ってきて、自分の家の車庫に取付けて、その日以降、よその車が入れないようにしたのだそうです。
おかげでそれまでなら、車で帰宅したら、そのまま自宅の車庫に車を入れれたものが、帰宅の都度、いちいち車を降りて、南京錠を外し、チェーンをはずしてからでないと、車をしまえれない。
しかも家の前は公道です。他の車がガンガン通る。
だから危ないし、雨降りなどはほんとうに面倒だし、危険だし、たいへんなのだそうです。
お話を聞いて、そのお向えさんは、たぶん在日だろうと、ピンと来ましたが、そうはいっても、表札は日本人名で識別はつきません。
困ったものです。
経済的繁栄は国においても、個人においてもとても大切なことであることは、論を待たないと思います。
けれど、孟子の「恒産なき者は恒心なし」は、ひとつの点について、誤解を招きます。
それが何かというと、経済的豊かさは、そのまま欲望に直結する、ということです。
欲望は自己肥大します。
ますます大きな冨を欲しがるし、欲のためには、他人を平気で踏みにじる者も出てきます。
自分の欲望を満たすことだけが大事で、そのために、どれだけ多くの人が泣こうが、何も感じなくなる。
昨今の、どこかの国や、そのどこかの国から来て日本人になりすましている外国人など、まさにその典型です。
だからこそ、豊かさの追求以上に、「恒心」が大事なのです。
なるほど国にとっても個人にとっても、恒産(定職、定収、富)は不可欠です。
それがなければ、なるほど貧すれば貪するようになるかもしれない。
けれど、そうであるならば、昔の日本はどうだったのでしょう。
江戸時代の日本社会は、決して豊かな社会ではありません。
どちらかといえば、みんなが共通して貧乏だったのが江戸時代です。
このことは明治のはじめも同じで、先日、樋口一葉が、着たきりスズメで、着てるものを洗濯したら、乾くまでハダカでいた、というお話をご紹介しましたが、それくらい、みんなが貧乏だったわけです。
そもそも日本における士農工商は、身分の順番ですけれど、同時に貧乏な順番でもあります。
武家は身分は高かったけれど、借金まみれ。
農民は、食い物は持っているけれど、お金はない。
工人(職人さん)たちは、「宵越しの銭は持たねえ」程度にはお金はもっているけれど、逆にいえば「宵越し」の分しか、財布にお金がなかった。
一番お金をもっていたのは、一番身分の低い商人たちです。
けれど、そういう社会でありながら日本人は、犯罪もなく、人々が助け合い、学び合う、世界に類例のない高い民度の社会を構築していたわけです。
杉本五郎中佐は、勇猛果敢な部隊を指揮し、常に戦いの先頭に立ち、そして手榴弾を浴びて、これが我が命の最後と悟った時、皇居に向かって挙手敬礼による遥拝を行って、そのまま、立ったままの姿で絶命されました。
彼も軍人ですから、決して豊かな生活をしていたわけではありません。
それでも杉本五郎中佐は、我が子への遺言として、
名利など、なにするものぞ。
地位が、なんだというのか。
断じて名聞名利のやからとなるな。
たとえ貧乏のどん底暮らしとなったとしても、ただひとえに大義を根幹とする心を持て、と信念を遺言にしただけでなく、自ら、その死の瞬間に、壮絶な姿で、その高い精神性を発揮してみせたのです。
なぜ、杉本中佐は、それだけの精神性を保ち得たのでしょうか。
その答えが、中佐の遺された「大義」という遺書の中の第二章に、記されています。
同様に現代語訳してみます。
=======
第二章 道
天皇の大御心に然うように、「自分」を捨て去って行動することが、日本人の道徳というものです。
では、天皇の御意志・大御心とはどういうものなのでしょうか。
その答えは、御歴代皇祖皇宗の御詔勅にあります。
その詔勅のすべてが、大御心の発露となっています。
わけても明治天皇の教育勅語は、最も明白に示された大御心の代表的なるものと拝します。
いいかえると、天皇の御意志は、教育勅語に直接明確に示されている。
ですから私たちは、教育勅語の御精神に合うように「自分」を捨てて行動すること。
それが、日本人の道徳観です。
その教育勅語の根本にある精神は、個人の道徳観の完成にあるのではありません。
天壌無窮の皇運扶翼にあります。
天皇の御守護のために、老若男女、貴賤貧富にかかわらず、ひとしく馳せ参じ、死ぬことさえもいとわないこと、これが日本人の道徳の完成した姿です。
つまりそれは、天皇の御為めに死ぬことです。
このことを言い換えると、天皇の御前に、「自分」とか「自己」とか「私」とかは「無い」という自覚です。
何も無いということは、億兆とその心は一体であるということです(「無」なるが故に億兆は一体なり)。
私たちは、天皇と同心一体であることによって、私たちの日々の生活行為は、ことごとく皇作、皇業となります。これが、日本人の道徳生活です。
つまり、日本人の道徳生活必須先決の条件は、「自分というものを捨て去ること」、すなわち、「無」なりの自覚に到達することです。
(原文)天皇の大御心に合ふ如く、「私」を去りて行為する、是れ日本人の道徳なり。天皇の御意志・大御心とは如何なるものなりや。御歴代皇祖皇宗の御詔勅、皆これ大御心の発露に外ならず。別けて明治天皇の教育勅語は、最も明白に示されたる大御心の代表的なるものと拝察し奉る。換言すれば、天皇の御意志は教育勅語に直截簡明に示されある故に、教育勅語の御精神に合う如く「私」を去りて行為すること、即ち日本人の道徳なり。而してこの御勅語の大精神は「天壌無窮ノ皇運扶翼」にして、個人道徳の完成に非ず。天皇の御守護には、老若男女を問はず、貴賤貧富に拘らず、斉しく馳せ参じ、以て死を鴻毛の軽きに比すること、是れ即ち日本人道徳完成の道なり。天皇の御為めに死すること、是れ即ち道徳完成なり。此の理を換言すれば、天皇の御前には自己は「無」なりとの自覚なり。「無」なるが故に億兆は一体なり。天皇と同心一体なるが故に、吾々の日々の生活行為は悉く皇作皇業となる。是れ日本人の道徳生活なり。而して日本人の道徳生活必須先決の条件は、「無」なりの自覚に到達することなり。
===========
ひとつ間違えてはいけないのは、ここでいう我が国の天皇というのは、戦後の解釈としての象徴人でも、西欧的解釈による現人神でもありません。
天皇の皇祖皇宗から代々伝わる血脈によってもたらされる権威と、その権威ある天皇によって私たち民衆が権力者の私有民とならずにいれること、つまり私たち民衆が権力者の私物にならないでいることができ、民衆が民衆としての尊厳を保持できているのは、まさに、天皇の存在あってのことだ、ということなのです。
私たちが政治権力者ではない天皇という血脈の存在の民であることによって、私たちは権力者からの収奪にあわず、自由を手にしています。これこそ究極の自由です。
そしてその私たちの究極の自由というものは、天皇という存在によって、担保されているわけです。
その「私たちの自由」の根幹であり「根底」となっている天皇のためなら、進んで「無」になる。
自分を捨て去る。
戦後蔓延した「俺が俺が」という生き方は、本質的に日本人の体質とは異なるものです。
日本人は、誰もが ミカド、天子様という存在によって、政治権力者の私有民とならない、公民(皇民)の地位を与えられてきました。
私有民というのは、私有物であり、奴隷のことです。
そうならないでいれるのは、 天子様の存在あればこそです。
私有民ではなく、ひとりひとりに立派な人としての尊厳が与えられているのですから、わざわざ「俺が俺が」と自己主張する必要さえなかったのです。
このことを詰めて言うと、
======
天皇の御前に、「自分」とか「自己」とか「私」とかは「無い」
======
となります。
そして「何も無い」ことを自覚することによって、億兆とその心は一体になります。
何もない=「ゼロ」だからです。
「ゼロ」は何万個足しても「ゼロ」です。
(「無」なるが故に億兆は一体なり)。
つまり、日本人の日本人的生き方の先決条件は、「自分というものを捨て去ること」、すなわち、「無」なりの自覚に到達することだ、と杉本中佐は教えてくださっているのです。
このことは、考えてみれば、あたりまえすぎるくらい、あたりまえのことです。
自由の原因となっている天皇が失われるということは、私たちが権力者からの自由をも失うということだからです。
だからこそ、未来永劫、私たちの子々孫々にいたるまで、のびやかな生活を謳歌してもらうために、自分を無にしていく。
どんな苦労にも絶えて行く。
それが日本人です。
杉本五郎中佐は、このことを座右の銘とし、実践し、壮絶に死んで行かれました。
先頭きって死地に飛び込み、奮戦し、手榴弾が我が身を襲っても立ち上がり、部下を指揮し、死を悟った瞬間には、皇居を遥拝して挙手敬礼をして、立ったまま逝かれたのです。
その見事なまでの生き様、死に様は、「恒産」ではありません。
単なる個人の道徳心としての「恒心」でもありません。
「皇道の自覚」、もう少しひらたくいうなら、
「日本人であることの自覚」です。
杉本五郎中佐は、軍神となられ、その御霊は靖国に祀られています。
そして、墓所は、広島県三原市高坂町にある佛通寺にご安置されています。
私たちは、戦後の「個人主義」に、とてもたくさん汚染されすぎました。
これからの日本人が、もとよりの日本人を取り戻すということは、とてもたいへんなことであろうと思います。
けれど、やっぱり日本人てすごいですね。

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