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ありがたいことですが、なんだかくすぐったいです。
「小名木善行さんを応援する会」というのだそうです。
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さて、今日のお題です。
会津藩の「什の掟(じゅうのおきて)」といえば、最近では「八重の桜」でも有名になり、「ならぬことはならぬものです」の言葉が、わりとひろく定着してきた観があります。
「什(じゅう)」というのは、会津藩における武家の男子専門の子供会のようなもので、藩士の子供たちが10人単位で集まりをつくっていたものを、そのように呼んでいたものです。
「什」というのは、ある意味、たいへんわかりやすい言葉です。
なにせ、にんべんに「十」です。
5人一組なら、にんべんに漢字の「五」で「伍(ご)」、軍隊などにおける伍長の「伍」です。
「伍」が二つで「什(じゅう)」。
「什」が10個集まった、百人の隊は「伯(はく)」です。
ちなみに昔は、漢字の一部を略して書くことが多かったため、「百」が「白」と書かれています。
同様の例では、古い文書で「仙人」のことが、「山人」と書かれていたりします。
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会津の「什」には、それぞれの「什」ごとに、最年長者が「什長(じゅうちょう)」になりました。
什長は、それぞれの「什」のメンバーの行動に責任を持ちます。
「什」のメンバーは、毎日各自の家にもちまわりで集いますが、そこで日々、「什の掟」を読み上げました。
「什の掟」は、各「什」毎に、それぞれ違っていましたが、最後の「ならぬことはならぬものです」の一文だけは、すべての「什」に共通です。
集まったメンバーは、その「什の掟(おきて)」を、毎日唱和し、その日、掟に背いた者がいなかったかを反省します。
背いた者がいれば、処罰があります。
いまなら体罰だといって、問題になりそうですが、いざというとき、命をかけなければならないのは、武士の勤めです。
戦の場において手足を斬られ、あるいは自分で腹を斬って自決することを考えれば、少々の体罰など問題になりません。
そうはいっても、「什」の場合は、子供たちの会です。
あまり過度な処罰はありません。
一例を申し上げると、軽いものとしては、みんなの前で「無念でした」と頭を下げる。
すこし重いものになると、手や腕にみんなで「シッペ(二本指で叩く)」をする。
もう少し重くなると、手を炭火であぶったり、雪の中に埋めたりというものもあったようです。
そして極めつけが「波切り(はぎり)」で、これは、「什」からの除名を意味します。
波切られた者は、本人がいくら謝ってもダメです。
けれど、会津藩士の男子は、必ず「什」には所属していなければならない。
そこで、親か兄が付き添って、親や兄が「什」のメンバーのみんなの前で頭を下げて詫びを入れることになります。
赦されればまた仲間の一員に加えられる。
けれど、当時の武家社会にあって、親や兄弟に頭を「下げさせる」というのは、これほど不名誉なことはありません。
それは本人が不名誉というだけでなく、大人が子供たちの前で頭を下げ、詫びを入れるわけですから、これほど恥辱的なものはない。
武家は、なによりも名誉を大切にするものです。
ところがおもしろいことに、親や兄に頭をさげさせるくらいの暴れ者の方が、逆に藩士として、大人になってから出世したりもしています。
親にしてみれば、我が子のことであり、そういう現実も知っているから、実は腹のなかでは、「こいつもなかなか良い子に育ったわい」と、喜んでいたかもしれません。
親にしてみれば、我が子のために頭を下げるなんて、本当はなんでもないことでもあります。
けれど、そんなことは、子供の前では、まったくおくびにも出さない。
子には家でも厳しく叱り飛ばすわけです。
まして、藩の高官である「父君に、謝らせるなど、もってのほか。あなたその意味がわかっているのですか!」、などと叱るわけです。
子にしてみれば、これは痛い。
その痛みで、何を教えていたかといえば、責任感です。
自分ひとりの身勝手で、親の名誉まで傷つけてしまう。
このことを実体験として学ぶことにより、いかなるときにも、責任をまっとうする強い人間を作り上げていたわけです。
もちろん親に頭を下げさせるくらいですから、家でも、厳しい体罰が待っています。
竹刀で叩かれることもあり、庭木に吊るされることもあり、押し入れに閉じ込められることもあり、そういう試練を経て、それでも立ち上がる、強い心を養ったわけです。
そしてそれだけでなく、名誉というものについても、そこで厳しく学ぶ。
我が国における戦後教育と戦前の教育の、何が大きく違ったのか。
その答えが、「強制」にあります。
子には、正しいことを厳しく強制してやらせる。
それを体で覚えさせる。
男子教育には、特にこれが重要だといわれています。
実は、最近の脳の研究等によって、次第に明らかになってきているのが、特に男子は、苦痛によって育つ、ということです。
スポーツと同じです。
強制され、厳しく鍛え上げられれば鍛え上げられるほど、強い選手が育つ。人物ができあがる。
人を動物に例えると抵抗感を持つ方がいるかもしれませんが、実は、犬や猫、あるいは虎やライオンや猿の世界でも同じです。
産まれたばかりの赤ちゃんでいる間は、母親が子を常に庇護します。
母乳をあげるのも母親、遊んであげるのも、カラダをきれいに舐めてあげるのも、母親です。
ところがある程度、子が育って来ると、父親が登場します。
幼子からしてみれば、母親はやさしくて、やわらかくて、乳を飲ませてくれたり、カラダを舐めてくれたり、大きなカラダを遊園地代わりに使わせてくれる、まるでふかふかソファーのような存在です。
ところが父親は、巨大で硬くて、恐ろしい存在です。
父ライオン、父タイガー、父猿、雄犬、雄猫、カラダは大きいし、全身筋肉で硬いし、乳は出ないし、じゃれつこうものなら、牙を剥いてウゥと怒るし、しつこくしたら振り飛ばされます。
子供からしたら、まるで大きな鬼がそこにいるようなものです。
このことは、もっといえば、子が厳しい野生等の社会を生き残る上で、たいせつなこと、すなわち、やっていいことと、それ以上やったらいけないことの限界点を身を以て知ることにつながるし、同時に、子は母親のもとで自分の天下でいたものが、自分よりもはるかに強大で強いものがこの世にあるということを学ぶ、とてもよい経験になっているわけです。
つまり子供は、世の中には母という、やさしいくて柔らかくて、あたたかくて、餌を与えてくれ、甘やかしてくれる存在だけでなく、自分よりもはるかに強大な存在があること、敵わない相手があること、生きることの厳しさ、やって良いことと悪いことの限界などといった、禁止行為を、父親から学びとるわけです。
会津の武家というのは、家庭内教育がものすごく厳しかったといわれています。
藩校の教育も、ひたすら厳しさの固まりです。
剣術の稽古では、命さえ失いかねないほど、厳しい鍛錬が課せられました。
そしてそれだけでなく、子供たちは「什」の中で、仲間内での厳しさを覚え、厳しい罰を受け、そして年長者となれば、まだ幼くして「什長」となり、人の上にたつ厳しさ、必要なやさしさ、人をひっぱることのむつかしさなどを覚えるわけです。
特別会津藩だけを褒めるわけではありませんが、幕軍側であり、戊辰戦争における会津の戦いによる敗戦後には改易されて極貧生活にまで追いやられた会津藩が、維新後、政府の高官を続々と輩出し、また、義和団事件におけるコロネル・シバ(柴五郎大佐)のような勇敢な士官を陸続と輩出したのもまた、会津の「什の掟」がたいへんに大きな影響をもっていたであろうことは、どなたでも認めざるを得ないことであろうと思います。
おもしろいことに、明治にはいるまで、日本の政治機構には、いまでいう「文部省」のような行政機構は、全国のすべての藩、幕府、朝廷、町人、農民、職人のすべておいて、まったく存在したことがありません。
幼児から思春期くらいまでの教育は、全国どこにあっても、寺子屋のような組織や、私塾に委ねられ、その中で特別優秀な者が藩校や、幕府の直営する学校に通いました。
人材教育は、民によって培われ、役に立たない人材しか輩出できない教育機関は、そのまま自然淘汰され、世の中の役に立つ教育機関だけが、多数の生徒を集め、日本人の教育をしていました。
教育を所轄する政府の行政省という存在は、世界の先進国では、あたりまえのようにあることなので、いまさらその存在の否定までしようとは思いませんが、ただ、国民教育を担当する省庁というのは、すくなくとも日本が、世界の一流国であり続けようとするならば、一流の人材を育成する機関である必要があるわけで、そういう人材をでは積極的に輩出するための施策や行動が実際にいまの文科省で行われているかとなると、疑問は多いものと思います。
もちろん、最低最悪だった民◯党政権時代から打って変わって下村博文文科大臣になってからの文科省は、いままさに音をたてて変わりつつあると聞いていますから、これからますますその期待が高まりますが、繰り返しになりますけれども、日本が世界の一流国であり続けたいならば、同時に日本の教育は、日本人が常に世界の超一流の民度を保つ優秀な国民でいられるようにするのが、文科省の本来の役割であるのだと思います。
すくなくとも、道徳教育を否定し、学校の授業から道徳の時間を取り去るような省庁などというものは、はっきり言って、日本にはいらない。
なぜなら、道徳を学ばず、道徳心も公徳心も、そのカケラもないような国民は、誰がどうみても、世界の一流国民とはいえないからです。
日本は、世界最古の歴史を持つ国家です。
そして日本は、国連加盟世界193カ国のうち、28カ国ある君主国家中、最大規模の経済と人口を持つ大国です。
その日本人が、歴史さえ知らず、いつのまにやら武士道精神すら失ない、教育レベルも世界の下位となるならば、それこそ日本崩壊であり、日本の将来は、その民度に見合った貧国にしかなれなくなります。
今年三月、元文科大臣の中山成彬先生が、衆議院予算委員会において、文科省に「文科省が公認しているすべての小中学校の教科書をPDFにして、文科省のHPに掲載していただきたい」という質問を行い、下村文科大臣は、これを了承しました。
ところが、実際にそれら教科書を文科省のHPに掲載しようとすると、これが実はとんでもないことが多々書かれていて、とてもじゃないが恥ずかしくて政府のHPに掲載できるようなシロモノではない教科書が数多く発見されました。
教科書をHPに掲載するということは、大臣が約束したことです。
ところが、HPに載せられない。
こんなひどい記述を、では誰がいったい教科書として承認したのか、誰が教科書会社を指導したのかと、目下、文部科学省では、喧々諤々だそうです。
安倍総理と、下村大臣のもと、日本の教育は、いま大きく変わろうとしています。
火をつけたのは、これまた戦後初の教育基本法等の大改革を実現した中山成彬先生です。
時代は変わろうとしています。
【ご参考】ある「什の掟」
一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです。
(この掟とトップ画像は會津藩校日新館のHPから転載させていただきました。)

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