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阿久沢家住宅

最近、というか、もう何十年もですが、住宅のCMをよくテレビでみかけます。いわく「◯◯万円で建つ家」等々です。そうした住宅CMを見たり、あるいは高級住宅街とされる第一種住居専用区域などの住宅街を見て思うのは、「なぜか木がない」ということです。
ある程度、お年を召した方が住む家や、同じ住宅でも相当の歳月を経た古い家ですと、たいてい庭先に木が植わっています。ところが新しい家、新築の家、あるいはCMに出て来るようなモデルハウスのような物件では、まず木は植えられていない。
これはいったいどういうことでしょうか。
そもそも、昔の人はどうして庭に木を植えたのでしょうか。
このことについて、古民家の建築と江戸の街から、考えてみたいと思います。


冒頭にある写真は、群馬県前橋にある阿久沢家という古民家の写真です。
この家は17世紀末ということですから、築150年ほどを経過しています。
江戸時代の末頃に建てられた建物です。
いまでは国の指定重要文化財となっているこの家は、もとは名主さんの家だったものなのですが、家の作りそのものは、当時、北関東ではごく一般的なものとして築かれていたものです。
家のカタチなどは、地方によって多少の違いはあるものの、茅葺(かやぶき)き屋根の木造の民家というものは、ひとむかし前までの日本では、全国どこにでも、あたりまえのように見られたものです。
ひと目ご覧いただいて、家の裏に樹木が茂っている様子がわかります。
これは、一般には、破風林として家の風よけのために植えられたものといわれています。
もちろん、破風林です。
けれどそれだけではないのです。
実際に観に行くとわかるのですが、たとえば家屋を横断する梁(はり)などは、一本の巨大な樹から伐られたものを使っています。
いま、同じ構造の家を新築しようとしたら、これだけの家で、材料費と施工費で1件1億円くらいかかる。それだけ良い木を使って建てられているのです。
だからこういった家を建てる人は豊かだったということを言いたいのではありません。
実は、この作りそのものが、究極のエコなのです。
どういうことかというと、家を新築するには、木材を必要とします。
あたりまえのことですが、その分、必要なだけの木を伐らなければなりません。
木は、伐ればなくなります。
そこで昔の民家では、家を建てるに使っただけの木を、家の裏に植樹したのです。
最初は小さな苗です。
けれど、その木が100年、200年と建つと、裏庭で立派な大きな木に育つ。
そしたらその木を使って、また家を建て替える。
逆にいえば、建てた家は、裏庭の木が育つまで100年200年と持つ、それだけの耐久性のある家として築かれました。
さらに、家の柱や梁(はり)には、太い木材が用いられました。
なぜなら太い柱や梁(はり)なら、多少の火災があっても、古くなっても、表面を削るだけで新品によみがえる。新しい木材に生まれ変わる。
壁に使っている塗り壁は、竹を編んで、その上に土を塗り固めました。
この技法は防寒、防暑にきわめて効果的で、しかも火災発生時には、土が崩れて消火の役を果たします。
おもしろいのは地震対策で、なんといま流行の「免震構造」なのです。
「免震構造」というのは、地震がきたときに、地震と一緒に揺れることで地震のエネルギーを吸収してしまう構造です。
これをどのように実現しているかというと、まず家そのものを石の土台の上に築きました。
家は石に乗っているだけですから、地震がきても、その揺れのエネルギーは建物が石の上をすべるだけで逃してしまいます。
さらに家が木でできた軸の組み合わせでできているため、地震の揺れとともに木と木の組み合わせ部分が動いて、ここでもまた地震のエネルギーを吸収してします。
たとえ家が地震によって、石の台座からズレても大丈夫です。
ロープで引っ張れば、もとに戻る。
木造軸組の軸がずれて、建物が歪んでも大丈夫です。
ロープで引っ張って留めれば、またもとの姿に戻る。
つまり土壁であることによって耐火構造となり、太い木でできた木造軸組工法であることによって免震構造になり、建物に歪みが出てもすぐに直せるし、火災のボヤが発生して木材が焦げても、削れば新品になってしまう。
だから建物が200年建っても壊れない。
ものすごい耐久性をもっているわけです。
それでも、150年〜200年と経てば、家は老朽化する。
けれどその頃には、裏庭に植えた木が育っているから、その木を使って、また家を新築できる。
一方、そこまで考えた家なら、裏庭に木を植えるわけですし、何世代も同居しますから、当然のことながら、敷地は広大になり、家も大きな家になります。
現存するある古民家では、一時期、祖父母から玄孫まで合計105人が、その一軒の家で生活していたそうです。
それだけの人が住んで生活できるだけの空間が、家にちゃんと備わっていたわけです。
いまの建売り住宅などでは、せいぜい耐久年数は25〜35年です。
けれど、築30年も経てば、家はもうボロボロです。
しかも家そのものが小さいから、結局は「一代限り」の家にしかなっていません。
しかも敷地は小さく、家の庭に、家を建て替えるときに必要な木材を植えれるようなスペースもありません。
世界に、いわゆる古代文明と称される文明を築いた民族はたくさんあります。
エジプト、メドポタミア、チグリス・ユーフラテス、黄河など、いずれも4000年の歴史を持つ文明です。
ところが世界の古代文明の地は、いまではほぼそのすべてが砂漠化しています。
もともと砂漠ではありません。
人々がそこに住み、文明を切り拓いた当時は、そのあたりは豊富な緑があり、自然の恵みがたくさんあったところでした。
森があり、その森が水を育み、食料となる小動物を養ってくれていたからこそ、人が住めたのです。
けれど、人は火を使い、木を伐ります。
燃やすのは一瞬です。
けれど育つのには、木は何十年も何百年もかかります。
人が住む。木を燃やす。
結果として、世界の古代文明の地は、木のない砂漠となり、人の住めない土地となり、人の住めない廃墟となっています。
ところが日本は、3万年前という途方もない昔の磨製石器が発見されている国です。
磨製石器を何に使ったかといえば、小動物を絞めたりにも使ったでしょうが、同時に木材の伐採用に使われていたと考えられています。
なぜそう言えるかというと、磨製石器の形状が、1400年前の世界最古の木造建築物である法隆寺五重塔を建築したときに使われた「槍(やり)カンナ」と、そっくり同じ形状をしているからです。
つまり、法隆寺五重塔の建築技法は、日本人が3万年かけて開発してきた技法の集大成でもあったのです。
ついでに申し上げると、五重塔のような塔(ソトゥーバ)は、インドから支那、朝鮮にもあります。
けれどそれらはすべて、単に一階から5階まで各層ごとに「箱を積み重ねた」だけの構造です。
木造軸組で、耐震耐火構造を持つ塔建築は、法隆寺五重塔が最初のものです。
火を使うという意味では、日本で発見されている土器は、1万6500年前のもので、これまた世界最古です。
土器というのは、火を使わなければつくれません。
そして土器を制作するためには、村落内で、食料確保と料理、土器作りが、それぞれ社会的分業になっていなければなりません。
そうでなければ、土器をつくっている人は、飢えて死んでしまうからです。
つまり1万6500年前の土器は、その頃に日本では、火を使い、社会的分業が行われ、集落内で社会的分業を営なまれていたという証拠になるわけです。
そして村落に社会的分業が成立していたということは、そこに言語があったということの証明でもあります。
世界の古代文明の4000年の歴史どころか、1万6500年前、3万年前という途方もない太古の昔から、日本は文明を開花させていながら、それでも日本は、森を失わず、緑を失わないできました。
いまでも日本は国土の7割が森林です。
どこも砂漠化していない。
これができたのは、日本人が太古の昔からずっと「自然との共生」を図ってきたからです。
屋敷を造るためには木を伐らなければならない。
ならば、それと同じだけの木を育てる。
次の木が育つまでの間、はじめの屋敷を大切に使う。
木が育つのに、200年かかるなら、人の世は、だいたい20年でひとつの世代が交替するわけですから、10世代先の子孫まで、ちゃんと住めるように家を造る。
爺さんの世代、親父の世代、自分の世代、子の代、孫の代、曾孫(ひまご)の代、玄孫(やしゃご)の代、長生きをすれば、ここまでは自分と直接関係を持つことができます。
でも、それで爺さんの代から数えて7世代です。
10世代となると、たぶん自分は絶対に会うことのできないはるか先の、自分が死んだあとの子孫です。
その子孫が、家を新しく建築しなおす、そのときのために、裏庭に木を植え、育てる。
日本人はそうやって自然との共生を図り、狭い日本の資源を大切に育んできたのです。
以前、何かの折りに、「日本の森林は地味が肥えているいるから、木を伐採してもすぐに木が育つ」とおっしゃった学者さんがいました。
違います。森の木は、伐採すれば、禿げ山となり、禿げた斜面は、大雨が降れば表面の栄養のある土が全部流されてしまいます。
そうなったら、地味が痩せ、もう木は生えれません。
そうなった山が、自然放置の状態で、もとの原生林に戻るためには、約5千年を要するといわれています。
木を伐採したら、そこに木を植え、大切育てる。
木を、ただ使うだけでなく、その木に感謝し、再び一緒に生活できるようにしていく。
自分の世代だけではなくて、子の代、孫の代、ずっとずっと先の子孫の世代のことまでを、ちゃんと考えて生きる。
それが日本が太古の文明を持ちながら、いまだに森を絶やさず保持できている理由です。
昔の古民家は、なるほど大きな古い家です。
けれど、そういう「共生」のもとに考案され建てられてきたものなのです。
では、都会である江戸の街などではどうでしょうか。
江戸でも庭先には、どこの家でも、特にお屋敷なら必ずといって良いほど、庭には何らかの木を植えていました。
なぜそのようなことをしたのかといえば、田舎の民家にあるように、自分の家を建て替えるときの木を栽培するということではなくて、そのような自然との「共生」を大切に使用という、意図、気持ちを大切にしたからです。
だからこそ、庭に木を植え、大切にそだてていたのです。
その江戸の町ですが、たいへんおもしろい特徴があります。

江戸の街並
江戸の街並

この写真は、江戸東京博物館にある江戸の町を再現したミニチュア模型です。
どの家も全部「切り妻」と呼ばれる屋根で、その屋根が通りに面しているのが見て取れます。
なぜ建物が同じ方向を向いているかというと、火災対策のためです。
建築物がすべて木造ですから、江戸の町に火事は大敵です。
その火災が発生すると、町火消しなどがやってきます。
その火消しの人たちの姿が、下の絵です。
江戸の町火消し

現代の消防車とずいぶん違います。
ポンプは持っていますが、多くの火消しさんたちの得物は、さす股や鍵のついた棒です。
なぜこのようなものを手にしていたかというと、江戸の消火は火を消し止めるのではなく、建物を破壊して延焼を防ぐのが主な方法だったからです。
こうした道具で、延焼しそうな家を引っ張って倒しました。
どうして引っ張ったら簡単に倒れたかというと、家の構造自体を、そのように作ってあったからです。
下の頭の「鼻栓(はなせん)」がそれで、火災が発生すると、火消したちが、延焼しそうな家の鼻栓を抜きます。
すると、鍵でひっかけるだけで簡単に倒れる。
そのために、家の屋根の向きまで、みんな同じ方向を向かせていました。
鼻栓
鼻栓

江戸で大火があったり、新しく流入した人口が増えると、江戸では、木材を調達して家を建てました。
その木材は、幕府直轄の御用林で育てました。
木が大きく育つまでには、それこそ100年、200年とかかります。
その間、幕府の経費で、林業を保護し、森の木が健康に育つようにしていたのです。
こうした手配は、地方大名も同じです。
大名自らが、森の経営をし、林業を保護して森の木を育てていました。
つまり、農家などが自分の家を建て替えるために、裏庭に木を植樹したことと同様のことと、幕府や全国の大名たちは、もっと大がかりに行っていたわけです。
こうした森の保護は、我が国ではとても歴史が古いもので、日本神話にも、スサノオが髭(ひげ)を抜いて放つとそれが杉の木になり、胸毛を抜いて放つと檜(ひのき)に、尻毛は槙(まき)の木に、眉毛は樟(くすのき)になったと書かれています。
つまり、森の木は、神でもあったのです。
神様だから、人は木を大切にしました。
日本が太古の文明を持っていながら、いまだに砂漠化せず、木があるということは、古代の人々が木や森を大切に育てていたという証(あかし)です。
そして有史以来では、森の樹々は神として、国をあげて大切に育んできたわけです。
ところが、戦後の日本はどうでしょう。
核家族化し、家を建てることにはたいへん熱心だけれど、森を保護することについては、何も手が打たれていません。
保護のない林業は、いまやさびれる一方です。
そして、ほんの20年前までは、植林によって形成された日本の山々の森は、植林ですから、等間隔に同じ高さ、同じ種類の樹々が整然と生えていたのに、いまや、山の斜面をみると、完全に雑木林となり、森の緑も、そこここで色合いが違って着ています。
緑の色合いが違うということは、そこでは、すでに植林した樹々が枯れはじめ、別な雑木が森を浸食しはじめた、ということなのです。
要するに、かつては計画的に森の成育が営まれたいたのに、戦後、高度成長の終わり頃からは、森が放置されるようになり、いまや、荒れ放題となっている。
政府に林野庁はあるけれど、予算もなく、林業の保護にまでまるで手が回っていない状況です。
戦争が終わった時、外地から、約600万人が、日本に帰国してきました。
普通の国なら、600万人の失業者の群れが都会に帰ってくれば、そこにはスラムが形成され、治安は悪化し、暴動などの巣窟となります。
ところが戦後の日本がそうはならなかったのは、冒頭にあるような大家族を主体とした民家が、まだ田舎に残っていたからです。
600万人の復員してきた失業者の群れは、それぞれの実家のある田舎に帰りました。
そこには、何世代にもわたって生活できる大家族用の大きな家がありました。
だから、日本はスラム化もしないですんでいます。
けれどいまならどうでしょう。
戦後に大幅改正された建築基準法は、住宅を核家族用に細切れにしてしまいました。
家に庭があっても、ガーデニングが精一杯で、そこで家を建て替えるための木を植えるなど、考えもつかない広さのものになっています。
この原形は、GHQのマッカーサーによってもたらされたといわれています。
空襲によって焼け野原となった都会で、住宅を供給するために、GHQは「9坪政策」というものを打ち出しました。
別名を「ウサギ小屋政策」といいます。
これは6畳1間に4畳半、風呂、台所、トイレに押し入れだけの平屋です。
敷地はだいたい10〜13坪です。
いまでいう仮設住宅に近いものです。
戦後は、こうした平屋建ての一軒家が大量に建てられました。
当時は、家そのものが焼かれて、ない状態だったわけですから、それはとてもありがたいものでした。
ところが、戦後復興がようやく一段落し、さてこれからは仮設住宅ではなく、本当の住宅をとなった昭和25年5月に、GHQによって建築基準法が発布されました。
この法律は、もともとは大正時代につくられた「市街地建築物法」を抜本改正したものです。
「市街地建築物法」は、その名のとおり市街地における住宅建築を対象としただけのものです。
もともと市街地というのは、古来、民家は借家が中心でした。
家、屋敷は田舎に大きな家があり、あくまで市街地は仕事をするための仮住まいです。
仮住まいですから、家は小さくても良い。その代わり、交通などの利便性が良い方がよい。
あたりまえのことです。
ところが昭和25年の建築基準法は、そうした市街地、田舎の区別なく、一律に住宅建築をウサギ小屋に規制してしまったのです。
さらに昭和29年には、民法が施行されました。
ここでは、相続について、従来の長子相続が改められ、この数だけ分散相続する相続法が規定されました。
この分散相続というのは、実は日本では鎌倉幕府がその政策で失敗し、7代140年で幕府を崩壊させた元凶として、後に「たわけ」と呼ばれた政策です。
昭和30年代の街並
昭和30年代の街並

おバカのことを「たわけ」といいますが、その「たわけ」です。
「たわけ」は、「田分け」、つまり分散相続によって、土地そのものが細切れとなり、結果として土地を使えなくしてしまうことを言います。
財産というものは、お金でも、田畑でも、寄せ集めて広く大きなものにするから、資産価値が出るのです。
1坪の田んぼでは、誰も食って行けませんが、数千坪の田んぼがあれば、そこでたくさんの人が生活でき、生き残ることができます。
だから、財産は寄せ集めたほうがいい。
だからこれを「田頼り」といいます。「頼りになる」の「たより」です。
もともと市街地の建築物を対象とした市街地建築物法を全国一律の建築基準法に改悪し、さらに相続制度の改正によって、家族ごとの資産運用が不可能になり、戦後の日本の住宅建築はカタチがどんどん変わって行きました。
それでも昭和40年代くらいまでは、人々は家を建てるときには、自分が死に、子の世代になっても同じ敷地内で生活できるように、土地は100〜150坪の家を建てました。
それなら、自分が死んだあと、二人の子供に、50〜75坪の土地を遺してあげることができると考えたのです。
けれど、その土地はさらに細分化され、いまや30坪が基準になりました。
こうなると、家屋も土地も、一代限りのものにしかなりません。
そして新・建築基準法によって、家の耐用年数も、木造住宅なら25年と決められました。
土地が30坪、建物の耐用年数は25年。
そのどこにも、「共生」という思想はありません。
米国と同じ、「使い捨て」の思想しかない。
親が死に、妻と子供が二人が残されれば、子ひとりに配分される土地は7坪半です。
これでは人が住むことはできませんから、子供たちは成人すれば、親元を出て、別なマイホームを建てたり買ったりする。
すると、住宅地が無尽蔵に必要になる。
そのために、次々と農地が破壊されていく。
建築物の材料にはシロアリなどの虫に弱い外材が利用され、日本の森は荒れ放題。
政府も森林保護にはまったく無策。
先の大戦中の日本の人口は1億人です。
いまの日本の人口は1億2700万人です。
実は日本の人口は、戦後、たった2700万人しか増えていないのです。
これが何を意味しているかというと、平均年齢が伸びた分しか、人口が増えていないということです。
ところが昔あった青々とした田んぼや畑は、いまやどこもかしこも住宅地です。
その住宅地も、あと50年もすれば、もはや住民は死に絶え、もしかしたらゴーストタウンです。
いま、第一種住居専用地域となっているところは、将来、支那人や朝鮮人のスラムにでもするつもりなのでしょうか。
戦後の日本は、いったい何をやってきたのでしょう。
江戸の昔、家を建てるに際しても、日本人は自分より何代も先の、まだ生まれてもいない子孫たちのことまで考えて、家作りを行い、未来の子孫のための立て替えようの木まで育てていてくれました。
けれど、戦後世代の私たちは、子や孫、あるいは曾孫、玄孫のためにいったい何を遺しているのでしょうか。
特に平成になって以降の失われた20年、日本は何を残しているのでしょうか。
2020年の東京オリンピックの招致が決まりました。
世間は7年後の未来像がやっと描けるようになったと大喜びしています。
けれど昔の日本人は、たった7年どころか、100年先、200年先のことを考えて、木を育て、森を育み、家を作り、子孫の繁栄を願って生きていたのです。
日本を取り戻すということは、もちろん一義的には、いまのデフレ経済から脱却し目先の景気を回復することがあります。
けれど、その奥には、何千年もの間、ちゃんと子孫の繁栄までをもきちんと考えて生きていた、昔ながらの日本人の心と社会を回復させることがあるといえるのではないでしょうか。
※以上のお話は、古民家工房の高橋社長のお話をもとに私の思いを書かせていただきました。
 ↓古民家工房↓
http://kominkakoubou.com/pg120.html

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