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お殿様

江戸時代、「お殿様」と呼ばれる人たちがいました。
代表的な人たちが「大名」です。
「大名」という名は、「大名主」が略されて生まれた言葉で、調整区域などで、古い町名に庄衛門新田などというものがあったりしますが、「名主(なぬし)」というのは、新田などを切り拓いたときのその土地のオーナーがその土地に自分の名をつけたところから、「その名のついた土地の主人」という意味で生まれた言葉です。
そうした新田などが集まって、おおきな地域(藩)を構成します。
ですから藩主は「大名主」です。
これが略されて「大名」となったわけです。
大名に似た言葉で「小名(しょうみょう)」という言葉もあります。
いわゆる「藩主」と呼ばれた人は、江戸時代、時期によって多少の違いはありますが、幕末には276人いました。
内訳を石高ごとにみると、


20万石以上 22人
10万石以上〜20万石未満 31人
5万石以上〜10万石未満  46人
1万石以上〜5万石未満  126人
1万石未満  51人
となっています。
このうち、1万石以上が大名で、1万石未満が小名です。
これらの「大名」、「小名」が、藩主であり、「お殿様」です。
この大名や小名以外にも「お殿様」と呼ばれた人たちがいます。
それが徳川幕府の「直参旗本(じきさんはたもと)」です。
直参旗本は、徳川家直属の家臣のうち、将軍に直接お目見えできる家格をもった人たちです。
将軍に直接お目見えできるから「直参」、お目見えできる資格のない人たちが「御家人(ごけにん)」と呼ばれました。
直参旗本で有名な人としては、大久保彦左衛門や、大岡越前、新井白石、青木昆陽などがいます。
約5000家ありました。
御家人は1万7000家で、勝海舟などは、その御家人です。
勝海舟の家は、もともと祖父の代では越後の盲人で、江戸に流れてきて按摩(あんま)をし、小金を貯めて金貸しをはじめて財をなし、子や孫のためにと、江戸の御家人「勝」家の株を買いました。
株を買ったことで、徳川家御家人であり、武士の身分を買った勝家では、勝海舟の親父さんの勝小吉の代では、たいそうなのんべいの暴れん坊だったそうですが、倅の教育にはとても熱心で、まさに瓢箪から駒が生まれました。それが勝海舟です。
勝海舟は、博学を買われて幕末動乱期に老中首座の阿部正弘に見いだされ、大出世しました。
阿部正弘は、若干38歳でお亡くなりになってしまうのですが、剣の達人であり、しかもたいへんに頭が良く、実はこの人がいたからこそ、お台場が生まれ、ペリーが上手に追い払われ、日本が危機から救われています。
構成、政権が薩長政権に移ることで、なにかと悪口を書かれている人ですが、まさに逸材といって良い人物です。
このあたりの事情は、それだけでもたいへんにおもしろい物語なのですが、そのことは長くなりますので、またの機会に譲るとして、今日、申し上げたいのは、「なぜ江戸幕府は『お殿様』という存在を置いたのか」ということです。
このブログで、日本は「天皇という存在があるおかげで、民衆が権力者の私有民とならず、権力者と民衆が人として対等な関係にあった、世界に類例のない国」と申し上げています。
身分の違いはあっても、人として対等だ、そういういわば究極の民主主義を構築してきたのが日本である、ということです。
ですから身分というのは、基本的には社会的な役割分担であり、だからこそ、御家人の勝海舟が、幕閣に大抜擢されたり、お百姓さんが家老職になったりなどということが頻繁に行われたし、反対に、武家の次男坊や三男坊が、農家で土地を借りてお百姓をするなどということも、ごく自然に行われていたということも、常に述べさせていただいています。
ですから、士農工商という身分制度も、インドのカースト制のように社会に固定化されたものではなく、非常に流動的なものでした。
支配される側の民衆であっても、能力があればどんどんと抜擢される。
それが日本社会の特徴でもあったわけです。
けれど、江戸社会において、身分を固定されていた人たちもいました。
それが、大名、小名、旗本御直参の「お殿様」たちです。
「お殿様」たちは、身分を株として売ることはできません。
結婚や養子縁組みする場合でも、家格に応じた組み合わせでなければ、お家廃絶の対象となりました。
それはたいへんに厳しい身分の固定化でした。
では、人としての対等を重んじ、身分も流動的であったはずの日本で、なぜ「お殿様」だけが身分の固定化を図られたのでしょうか。
たとえば旗本の場合、彼らは本来は徳川家の兵士たちです。
その兵というのは、優秀な若い兵士をたくさん集めた方が、戦(いくさ)に有利です。
身分を固定化してしまったら、最初は20歳前後の優秀な軍団であったはずの武士団だって、何代かの世代交替を重ねれば、年齢はバラバラになり、いざ戦(いくさ)となれば、各家から集まる兵は、年齢もまちまちで、機能的な軍団としての動きが損ねられるかもしれません。
あるいは、全国の大名にしても、優秀な人を抜擢して大名にした方が、藩政に有利と考えるのが普通です。
藩というのは、いまでいったら上場している大企業のようなものですが、その社長は身分が固定となれば、ときにアンポンタンな人が社長におさまってしまうことになるかもしれません。
それでは民衆が不幸、と考えるのが普通です。
にも関わらず、江戸社会では、その「お殿様」たちについては、完全に身分を固定化していました。
どうしてなのでしょう。
福沢諭吉などは、こうした身分固定をたいへんに嫌いました。
中津藩の下級武士の家の生まれだった福沢諭吉は、適塾の塾頭を勤め、咸臨丸に乗って米国にまで渡るなど、たいへんに優秀な人でした。
それだけに彼は、お殿様の身分が固定されていることをたいへんに嫌い、むしろ自分のような優秀な者こそが人の上に立つべきであると、生涯、その主張を崩しませんでした。
もちろん、諭吉のこうした考え方は、一理あります。
ところが、そのとびきり優秀な諭吉を、明政新政府さえも、抜擢して政府内に取り込むことをしませんでした。
明治政府は、江戸幕藩体制を否定した薩長土肥政権ですが、新しい国つくりのため、人材をたいへんに欲しがり、もとの敵である旧幕臣や会津藩士であっても、優秀な人材は、どんどん政府内に取り込みました。
にもかかわらず福沢諭吉は、明治政府の閣僚どころか、政府の要人にさえなっていません。
同じ明治の教育家であり、早稲田大学の創始者である大隈重信は、元佐賀藩士ですが、内閣総理大臣さえも勤めていることを考えれば、これは対照的とさえいえます。
なぜ、優秀であっても、明治政府は諭吉を政府内に招聘(しょうへい)しなかったのでしょうか。
そして、どうして江戸社会においては、「お殿様」という身分固定制度を厳守していたのでしょうか。
実は、そこには理由があります。
簡単にいえば、「お殿様」は、扇の要(かなめ)なのです。
扇は、暑いときに手にしてあおいで、風を起こす道具です。
その扇には、要(かなめ)がありますが、要(かなめ)自体は、ただ扇の骨を留めているだけで、風を送る役には何らたっていません。
けれど、要(かなめ)がなければ、扇は扇としの役を果たせなくなります。
これと同じです。
人の世は、必ずしも理性だけでうまくいくものではありません。
人には感情があり、さらに利害の対立もあります。
田植えを例にとります。
田植えをするに際して、いままでは30cm間隔で苗を植えていた。
けれど誰かが、苗を25cm間隔で植えれば、収穫高がもっと増え、みんなが豊かになれると主張したとします。
アイデアは良い。
けれど、それだけ苗を詰めて植えたら、土地が痩せてしまって、来年の稲が育たなくなるかもしれないというリスクがあります。
今年の収穫だって、稲が痩せ、収穫に何らかの悪影響が出るかもしれない。
田植えを30cmごとに植えるか、25cmごとにするか。
議論が白熱し、どうしても収集がつかない。
それでも、期限までに田植えをしなければ、秋に収穫できません。
ですから、25cmにするか、30cmにするか、どっかでちゃんと決めなくちゃならない。
決めなくちゃならないのだけれど、誰かが25cmと言い張れば、意見はまとまらず、いつまでたっても結論は出ません。
意見は、どちらも正しいように見えるけれど、25cmというのは、やってみなければ結果がわからないことです。
けれど失敗したら取り返しがつかない。
議論が続き、結論が出ない。
田植えのシーズンは、どんどんと日にちが徒過してしまう。
みんなが頭をかかえてしまう。
会社の会議などでも、似たようなケースはよくあることであろうと思います。
実はこういう問題は、古典的な欧米型(あるいは大陸型)のやり方では、起こることはありません。
なぜなら決定権は、常にリーダー(指導者)ただひとりにあり、人々に決定権はないからです。
リーダーが決定しても、なお、言い張る人がいれば、その者には排除の論理が働きます。
つまり、殺してしまう。
支那社会など、その典型です。
近代の民主主義といわれる政治手法においても、解決は簡単です。
多数決によって、裁決してオワリだからです。
けれど少数派となり、裁決に不満を持つ者たちは、もしかしたら下野して田植えの協力を拒むかもしれない。
これまた、よくあることです。
ところが古来の日本型統治には、リーダーの決定も、多数決もありません。
日本はあくまでも合意形成(コンセンサス)社会です。
全員参加、全会一致です。
田植えは、みんなの協力が不可欠であり、最後は全員がちゃんと合意して、気持ちよく田植え作業にはいりたい。
そのためには、全員の合意の形成がなにより大切です。
ところが、どうしても強硬に意見を張って譲らない人がいたりすると、まとまるものもまとまらなくなる。
我を張るな!と教わっていても、欲得が絡むと、話がややこしくなるものです。
こうしたときの対応について、日本社会が編み出した手法が、実は「かしこまる」という手法です。
基本的に日本社会というのは、問題が起きてから、その問題を排除するという姿勢をとりません。
たとえば、何らかの事件が起きたとき、事件が起きてから対策を講じるというのは、後手(ごて)といって下の方法とされました。
事件そのものが起こらないように、常日頃からきちんとした体制を引いておく。
そのための「要(かなめ)」となる存在が、実は「お殿様」だったのです。
わかりやすい例は、水戸黄門かもしれません。
水戸黄門のドラマでは、悪代官が好き放題の悪事をはたらきますが、最後は水戸のご老公たちがやってきて、助さん角さんが、
「頭が高い、ひかえおろう!、この紋所が目に入らぬか!」とやるわけです。
すると、悪代官ですら、土下座してかしこまる。
悪代官にしてみれば、抵抗しなければ、自分は切腹になるかもしれないのです。
だからこそ歯向かう。
けれど、ご老公が、「ひかえおろう」と言うと、その悪代官さえも、土下座してかしこまります。
実は、この姿は、支那皇帝などによる上下支配の構図とは、似ているようでまるで異なるものです。
なぜなら、水戸のご老公は、先の副将軍、先の水戸の藩公というだけで、いまはただのご隠居さんです。しかも現場では、わずかな人数しかいません。
悪代官が、証拠隠滅のために皆殺しにしてしまおうとすれば、できないことではないのです。
にもかかわらず、ご老公の前に、全員がかしこまるわけです。
それは、実は我が国が、実体上の身分制とはまたべつな、形而上学的な「権威」という存在をたいせつにするというコンセスサスを定着させていたことの証(あかし)でもあります。
水戸黄門様は、その悪代官のいる藩の藩主ではありません。
幕府の高官でもありません。すでに官職は引退している。
それでも、みんながその「権威」を大切にしようとする社会哲学が共有されているからこそ、黄門様の前で全員が「かしこまる」のです。
昨今、なんらかのトラブルが起きて警察官がやってきても、それでも感情的になって事態がおさまらないなどというケースがよくあります。
警察のあり方にも多少の問題はあろうかとは思いますが、このような姿は、もともと日本人にはなかったことです。
お上がやってきたなら、かしこまる。
だからこそ、お上の手をわずらわせることなく、合意形成のために、みんなで進んで協力し努力する。
そして合意が形成されたら、ひとり一人が率先してその実行に協力する。
日本社会では、一般に身分は流動的なものでしたが、そういうときのための扇の「要(かなめ)」として、お殿様という身分だけは、固定化し、お殿様の前には、全員がかしこまるという社会制度を定着させていたのです。
世界中、どこの国においても、もともとは民衆というのは、権力者の私有民です。
私有民というのは、私物だということです。
権力者は、民衆の所有者であり、民衆は権力者の私物です。
人ではなくて、物です。人ですらない。
ですから、民衆に言うことを聞かせるために、権力者が人々の目を潰そうが、目玉をくりぬこうが、所有者の勝手です。
南京事件といえば、やたらと大虐殺などとアホなデマが喧伝されますが、実は大虐殺どころか、当時の日本軍は、南京城内で、多数の目の見えない女性たちを保護しています。
日本軍は、攻城戦を始める前に、何月何日の何時何分から砲撃を開始すると、何日も前にちゃんと空からビラを巻きました。
日本人は時間に正確ですから、その通りに砲撃が開始されます。
それをわかっているから、南京から人々が逃げ出して避難します。
最初に避難するのは、経済力のあるお金持ちたちです。
なにせお金があるから、避難先でも生活に困らないし、情報も早い。
次に避難するのは、一般の市民たちです。
多少の身の回り品や小金をもって、南京城を脱出する。
砲撃の当日になって避難するのは、支那の兵隊たちです。
なにせ砲撃開始時間もわかっているのですから、とっとと逃げる。
けれど逃げれない人もいたのです。
それが、極貧生活を送る目の見えない女性たちでした。
たくさんいました。
それがどういう人たちかといえば、全員、元売春婦です。
若いときに売春宿に売られて、売春婦として働かされていた人たちです。
その売春婦がどうして目が見えないかと言うと、両目を針で突いて目を潰されていたのです。
なぜ、両目を潰されたのか。
答えは簡単です。
目が見えたら、客のえり好みをするからです。
目が見えなければ、客のえり好みができない。
何をされても、抵抗できない。
だから支那人の売春婦たちは、目を潰されて客を取らされていたのです。
その売春婦たちも、売春宿では、せいぜい22歳くらまでしか使ってくれません。
23歳にもなれば、もう婆さん扱いで、店から放逐されます。
そして目の見えない元売春婦たちは、生きて行くために日本でいうなら夜鷹のようなカタチで、流しの売春婦をするしかなかったのです。
けれど、守ってくれる宿のない売春婦です。
目が見えないことを良いことに、金を払わずに逃げる者も多い。
それでも、夜鷹をしなければ生きて行くことができない。
そういう、目の見えない女性たちを、実は、当時、南京城内に入場した日本軍は、たくさん保護しています。
そして手厚く医療を施し、施設に保護しています。
虐殺どころか、そういう人々を、人としてたいせつに保護し、療養を与えていたのが日本です。
それにしてもなぜ、売春宿の主人らは、雇った女性たちの目を、平気で潰すことができたのでしょうか。
実はこれが「人を私有する」ということなのです。
雇った以上、自分のモノだ。自分のモノの目玉をくりぬこうが、目を潰そうが、その何が悪い!、そんなものは所有者の俺の勝手だろ!というのが、その根底にある考え方です。
日本は、こうした権力者が民衆を私有化する、私物化するということを国として認めず、すべての民を天皇の民としました。
ですから部下となる人たちは、天皇からの預かりものです。
同じ売春婦でも、吉原でも曾根崎でも丸山でも、他のどこでも、女性たちは10歳くらいから雇い入れ、舞踊や三味線などのお稽古ごとを習わせました。
客をとるようになるのは、17歳から22歳くらいまでです。
客をとるようになる7年も前から雇い、芸事を習わせていたのです。
なぜでしょう。どうしてお金にもならない芸事の教育などしたのでしょう。
答えは簡単です。
彼女たちが、店を出たあとも、芸事ができれば、芸で生きて行くことができるからです。
売春宿の主人たちは、商売のために女の子を雇い入れて、苦界で働かせます。
そのかわり主人たちは、責任をもって、その娘が一人前の女性として、売春などしなくても生きて行けれるように、しっかりとした教育を施し、年をとっても生きて行けれるように育てあげていたのです。
それが日本です。
けれど、だからといって、意見が割れたり対立したりして、さきほどの25cmと30cmの対立のように、どうにもならないときがある。
そういうときは、最後は、お殿様という権威の判断につき従う。
だって、そうしなければ、いつまで経っても田植えができないからです。
田植えをしなければ、秋の収穫ができない。
繰り返しになりますが、私たちの日本は、古代からずっと、民衆を「公民」として大切にするとともに、民衆が争わず、明るく活き活きと生きていけるためには、どのような国つくりをしたらよいかを、ずっと追求し続けてきた国です。
争いが起こってから対処するのではなく、争いそのものが起こらないようにするためには、どうしたらよいかを追求し続けてきた国です。
そしてそのためにこそ、秩序の固定化の象徴として「お殿様」の存在を置きました。
ですから日本における「お殿様」は、西欧的な意味での支配者とはまるで異なります。
集団の合意形成の象徴としての存在です。
ですから、「お殿様」の意見で物事が進むというわけではありません。
「お殿様」は、藩や知行地の権威の象徴です。
「支配者」とは違います。
上杉鷹山は、藩政を大改革したお殿様として有名です。
けれど、その上杉鷹山は、「主君押込め」といって、家老たちによって藩主としての地位を追われ、座敷牢に閉じ込められています。
秩序維持のための権威としての「お殿様」が、自ら率先してリーダーシップを発揮して藩政を改革しようとしたことが、「お殿様」の姿勢としてあるまじきこととされたからです。
これは、家臣たちの反乱ではありません。
主君が直接政治に介入してリーダーシップを発揮するというカタチは、あまりに強引すぎると家臣たちに判断されたために行われたものです。
むしろ正義は家臣たちの側にあります。
座敷牢に閉じ込められた上杉鷹山は、そこで家臣たちと何百回もの協議を重ねました。
家臣たちと藩政改革について腹を割って話し合い、合意を形成し、そこではじめて、家臣たち全員の協力のもとで、偉業ともいえる藩政の大改革を実現しています。
日本の「お殿様」は、西洋的なリーダーとは、まったくそのあり方が異なる存在なのです。
世界中の諸国が、かれこれもう3000年、国家を保持するためにと武力や殺戮によってしか統治を完成させることができなかった中で、世界で唯一日本だけが、民を大切にし、話し合いと合意によってみんなの力で国を保持するという国家のカタチを築いてきました。
そしてそのための要(かなめ)として、身分を固定化したお殿様という存在をおき、大切にしてきました。
流動化と固定化、そして扇の要(かなめ)としてのお殿様。
いろいろ書いてきましたが、この「お殿様」という存在を、階級社会の頂点に立ち、人々を支配する支配者であるというような、共産主義史観でみようとすると、判断を誤ります。
戦国大名たちだって、集団の合意形成の長としての存在です。
上杉謙信も、武田信玄も、西欧的な意味での、リーダーとは、まるで異なる存在なのです。
そしてそういう「お殿様」の前で「かしこまり」、みんなでその存在を大切にしてきたのも、実は、日本社会の大きな特徴です。
ほんとうに、日本は凄い国だと思います。
最後にひとつ付け加えると、日本における「お殿様」ほど、ワリの合わない商売はありませんでした。
食事は一汁山菜のみ。
町に出て美味しいものを外食することもゆるされない。
そもそも自由な外出もない。
家臣団の白熱した議論に参加させてももらえない。
座るときは、いかなる場合も正座です。
ようするに、まるで自由がない。
お金も自由に使えない。
そして問題が起きれば、自分では何もしていなくても、切腹です。
庶民の方が、よっぽど気楽です。
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