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ワンピース

ドラゴンボール、NARUTO、キャプテン翼、ワンピース、北斗の拳、美少女戦士セーラームーン、ドラエモンなど、日本アニメは、いまや世界中で大人気です。
米国やフランスの日本アニメ贔屓は有名ですが、それだけでなく、いまではアフリカや中東などでも、日本アニメは大ブームです。
アフリカのある政府高官は、「日本アニメは子供達の健全な成長のために欠かせない、24時間日本アニメを放送するチャンネルを作りたい」とも語っています。
その関心の高さは目を見張るものがあります。


海外で人気のアニメ・シリーズといえば、「ドラゴンボール」、「機動戦士ガンダム」、「美少女戦士セーラームーン」、「ワンピース」、「犬夜叉」、「NARUTO -ナルト- 」、「幽☆遊☆白書」、「北斗の拳」、「キャプテン翼」、「新世紀エヴァンゲリオン」などが有名で、さらに宮崎駿の映画版の「となりのトトロ」、「天空の城ラピュタ」、「風の谷のナウシカ」なども、もはや世界的現象といえるほどに、世界中の少年から大人たちまでに、強い文化的影響を及ぼしています。
世界のクリエーター達の最先端を行くハリウッドでも、「世界的ヒット作を作りたいなら日本アニメに学べ」が、いまではすっかりクリエーター達の一般標語になっています。
近年の大ヒット作の「アバター」も、宮崎アニメのラピュタの世界をモチーフにしたといいますし、またディズニーアニメの「ライオンキング」が、手塚治虫の「レオ」との競作になっているなどということも、有名な話です。
なぜ日本アニメが、これほどまでに世界の人々の心を揺り動かしているのでしょうか。
絵がきれい、もちろんそれもあるかもしれません。
ストーリーの面白さ、もちろんそれもあるでしょう。
主役が敵を倒す時の爽快感もあるかもしれません。
けれど、それがなぜ日本アニメなのか。
海外の文学やマンガになくて、日本アニメにあるもの、それはいったい何なのか。
海外でヒットする日本アニメや日本のマンガに共通しているそのファクターは、何なのか。
実は、世界でヒットしている日本アニメには2つの共通したプロット(=plot、枠組み、構成)が、共通した底流をなしています。
それが「対等」と「成長」です。
・・・・・
ひとつめの「対等」は、「対等な関係にある仲間たちと、支配と隷属の関係にある敵キャラ群というプロット」を指します。
日本アニメも、物語ですから主人公がいます。それはセーラームーンであったり、北斗の拳のケンシロウであったり、あるいは幽幽白書の浦飯幽助であったりします。
けれど物語の主人公キャラはひとりではなく、おもしろいことに、かならず仲間たちがいます。
そしてその仲間たちの中には、主人公よりもはるかに優秀だったり強かったりするキャラもいます。
これは、たとえば旧来のアメリカンヒーローであるスーパーマンやバットマンにはなかったプロットです。
さらにいえば、たとえ格闘ものであったとしても、まるで腕力に縁遠い弱いキャラが一緒にいたりもします。
主人公が戦いに勝って傷だらけで帰ってきたとき、たとえばそこには気の強い女の子キャラがいて、「あんた、なにやってんのさ!」などと言って、主人公をペシッっとひっぱたく。
それで(強いはずの)主人公が簡単にやられてしまったりする。そういうシーンが、あちこちにでてきます。
つまり主人公のグループの仲間たちは、強い者も、弱い者も、師匠も弟子も、男も女も、すべて「人として対等な関係」を持っています。
彼らは、互いに助け合い、いたわりあい、そして互いが互いを信頼しあう仲間です。
その主人公の仲間たちには、戦う相手がいます。
この戦う相手たちは、おもしろいことに例外なく上下の支配と隷属の関係の世界の住人です。
悪の帝王のような者がいて、それに隷属する敵キャラが、民衆を奴隷として使役したり、人々を苦しめたりしていて、主人公たちはそうした敵キャラと戦うわけです。
その敵に共通しているのは、支配者に命令されて主人公たちを襲ってきているという点です。
彼らは命令のもと、上下関係の中における自分の出世欲や、上下関係の集団内での優位性の証明のために、主人公グループを襲います。
極端なものになると、みずからの意思を持つことさえも許されない敵キャラクターがいたりします。
多くの場合、長編もののアニメやマンガでは、最後にその支配者となっているボスキャラと主人公が対決し、これを倒します。
これは実におもしろい対比です。
「個性はあっても対等な仲間」という横の関係の主人公とその仲間たちが、
「支配者によって隷属させられた人々」を救うために立ち上がり、これを打ち倒す物語となっているのです。
要するに、海外で大ヒットしている日本アニメや、日本のマンガに共通していることは、
1 対等な関係の仲間たちという主役グループが、
2 上下関係と支配と隷従という関係の敵グループと
3 戦い、勝利する物語
というプロットです。
「対等」は、西欧的共産主義などにみられる「平等」とは異なります。
没個性に、みんながただただ一緒、というのではないからです。
「平等」と「対等」の何が違うかというと、答えは簡単です。
運動会のかけっこで、順位をつけたらいけないからと、全員を一等賞にするのが「平等」です。
あいつは勉強はできるけど、運動会のかけっこでは、俺が一等賞だい!というのが「対等」です。
アニメキャラたちは、敵、味方ともに、ひとりひとりが強烈な個性を主張しますが、おもしろいことに、敵キャラは、ひとりひとりがその強烈な個性によって上下関係を築いているのに対し、主人公たちは、その個性を仲間として互いに活かしあっています。
つまり個性を持つ者どおしの結束の仕方に、「上下の縦の関係」と「対等な横の関係」という違いがあります。
すべてのキャラクターたちには、それぞれ「個性」がありますが、その「個性」が、支配と隷従や上下関係のために用いられるのか、それとも個性が仲間たちの役割分担に用いられるのか。両者はまるで異なります。
西欧では、人は神のもとに平等であると説かれます。
平等といっても、それぞれに個性はあります。そもそも人間、生まれたときから不平等です。
ですから、平等だと言われればいわれるほど、逆に個性を主張したくなるのが人間です。
けれどこうしてみんながそれぞれに個性を主張しあうと、結果として、人々はより強烈な個性のもとに、隷属させられていきます。
支配と隷属の関係は、所有者と動産の関係に似ています。
手元にコーヒーカップがあるとします。
コーヒーカップが自分(所有者)のモノ(動産)であれば、割ろうが捨てようが別なカップに取り替えようが、それは自分の勝手です。
自分とコーヒーカップの関係は、支配者と、それに隷属させられる民衆の関係と同じです。
ところがこれはコーヒーカップの側から見れば、ずいぶんな話です。
他人の都合で、割られたり捨てられたりしたのでは、気の休まる暇もありません。
ですから、誰しも一方的支配からは逃れたいと考えます。
まして本来、人は神のもとに平等のはずです。
こうして支配に対して民衆が抵抗したのが、民衆の自由を求めた近代民主主義です。
ところが実際には、民主主義だ、自由主義だといいながら、社会には支配と隷属による関係がそのまま残っています。
欧米では、会社の上司はボスです。
ボスは気に入らない部下は、今日からクビにできます。
さすがに昔のように勝手に殺すことはできませんが、それは法が規制しているからです。
支那や朝鮮になると、もっと悲惨です。
西欧にある「神のもとの平等」がありません。
あるのは、支配と隷従だけです。
ですからたとえば支那では、幼いころから「どんなに親しい友人であっても「一緒に井戸をのぞくな」と教えられます。
上下関係のない親友なら、なおのこと上下関係が確立されていない分、井戸に落されてしまう危険が濃厚だからです。
さらに朝鮮では、親は子に対して、どんなことをしてでも、とにかく「人の上に立て」と教えます。
下にいたら、収奪されるばかりだからです。
逆に上に立てば、ありとあらゆる贅沢が許される。
だから、手段方法を問わず、上に立つことだけが、常に人々の人生の目的となります。
そして上になれば、ありとあらゆる支配が許容されると考えますから、昨日まで部下だった者が、今日から上司になれば、その瞬間からまさに「手のひらを返した」ようになる。
世界中の多くの国々が、こうして上下の支配と隷従と言う関係から抜け出せずに四苦八苦しているなかにあって、日本は、すくなくとも7世紀には、まったく別な解答を出し、それを日本の根本的なカタチにしていました。
それが天皇の民、公民という概念です。
じつはこれは人類史上画期的ともいえる凄い仕組みです。
本来であれば王や豪族の私有民である庶民(私有民であるということは、モノと同じ動産であるということ、つまり奴隷と同じ)が、王や豪族より偉い天皇直下の民と規定されたのです。
さきほどのコーヒーカップでいえば、自分の目の前にあるコーヒーカップが、なんと天皇の備品となってしまったわけです。
こうなると、それこそ神棚に祀って大切にあつかわなくちゃならない。
この公民という概念がどういう効果を及ぼすかというと、民衆は、天皇という権威の存在によって豪族たちの私有民(=隷属者)となることを逃れ、権力者と「人として」対等な民となるのです。
なぜなら大名や将軍の地位は、天皇によってその地位が与えられています。
これはいまの日本でも同じで、内閣総理大臣も、天皇によって親任を受けて、はじめて総理としての権力を揮えるという仕組みになっています。
政治権力者が政治権力を揮えるのは、天皇という権威によってその地位(身分)が与えられているからです。
ところが民衆も、天皇の民(公民)なのです。
ですから日本における政治権力者は、いわば雇われ社長です。
そしてその雇われ社長が責任を持っている民衆(社員)は、なんと全員、自分を社長として雇ってくれたオーナーの身内なのです。
日本には古来、人間を動産として扱う「奴隷制度」がありませんが、これは当然の帰結といえます。
おかげで日本では、権力者も民衆も、人としては対等です。
そして対等は、彼我の違いを認めたうえで、自分なりの個性を発揮しょうとしますから、人々も権力者も、互いに協力しあってより良い国つくりをしようとしてきたわけです。
人として対等であっても、もちろん、社会的身分の違いはあります。
教師と生徒、大名と部下、番頭さんと手代さんでは、その権限だって異なります。
けれどその違いは、あくまで社会における役割の違いであって、人としては対等です。
そしてその対等は、天皇という存在によってもたらされています。
つまり日本では古来、天皇という存在が、扇の要(かなめ)になっているのです。
このことは、天皇という存在をはずして考えたら、よくわかります。
権力者の上位である天皇がおわさなければ、民衆はただの権力者の私有物(私有民)です。
私有民というのは、私物と同じです。
煮て食おうが焼いて食おうが、それは権力者の勝手です。なぜなら私物だからです。
さらに悪いことには、日本は西欧のような「神のもとに平等」という一神教の国ではありません。
「神のもとに平等」がないなら、それは昔の支那や朝鮮と同じで、民衆はただ支配されるだけの私有民としかなりえません。
日本は、民衆を「天皇の民」としてきたわけですが、これを「公民」といいます。
「公民」の訓読みは「おおみたから」です。
ワープロで「おおみたから」と入れて変換キーを押すと「公民」という漢字が出てきます。
我が国の「公民(おおみたから)」という概念は、「天皇の民」を意味します。
日本は、すべての民が、我が国最高権威の天皇直下の民となることで、民は王や豪族などの権力者からの隷従する存在となることから逃れることができていたのです。
そして、一般の民衆が、豪族たちに私有されてくることがなかったのは、民衆が天皇の民だったからです。
つまり、民衆の尊厳は、天皇という存在があって、はじめて守られる。
これこそが、まさに「究極の民主主義」です。
実は、こうした公民という概念は、戦前までの日本では、いや戦後も昭和40年代くらいまでの日本では、「空気のようにあたりまえ」のものでした。
誰もが天皇のありがたさを知り、天皇の存在に感謝の気持ちを抱いていました。
あたりまえのことです。
天皇という存在のおかげで、私たちは権力者の私物にならずに、人として生きることができているからです。
ところがだんだんに戦後教育を受けた世代が社会の中心になると、昨今の日本社会では、天皇のありがたさを忘れ、忘れるというよりも、天皇の存在そのものをただの「制度」だと決めつけ、天皇を否定する論調が支配的になっています。
ところが天皇を否定すると、民衆は「支配者に隷属するだけの存在」に堕ちてしまうのです。
天に向かって唾をするのと同じです。
もともと上は貴族やお殿様から下は民百姓にいたるまで、誰もが「人として対等な関係」を持つ社会であった日本社会が、天皇の存在を否定することで、単に支配者に隷属させられる社会となってしまったのです。
迷惑するのは、民衆です。
それも下層になればなるほど、迷惑します。
学校でも会社でも、生徒や新入社員たちは、単に規則やマニュアルに従うことだけを強制されるだけの存在となりました。
かつてはたとえ一番下っ端の丁稚奉公であったとしても、一日もはやくお店の役に立つ人間になろうと努力し学び、創意工夫することがあたりまえだった人々が、いつのまにかただ規則やマニュアルに従うことだけを要求される動産に堕ちてしまったのです。
このことは、いまの若者たちからすればストレスになります。
自分たちの父母や祖父母の時代には、人として創意工夫し努力することがあたりまえにできた社会だったのに、自分たちは、ただの動産です。ストレスになるのが当然です。
ですから日本アニメは、そうした社会的ストレスの受け皿として、むしろ「対等な仲間たち」という、かつての日本なら、空気のようなあたりまえの日本的関係を、そのままプロットするものが次第に人気を博するようになりました。
多くの若者たちの共感を得たからです。
これは実におもしろい皮肉です。
日本社会が天皇の存在を否定し、民衆を隷属化すればするほど、対等を願う民衆のエネルギーが充満したのです。
そしてそのエネルギーは爆発し、日本を飛び出して世界的に広がってしまいました。
これは世界の若者達からしたら、驚愕です。
日本のように天皇という権威の存在を持たない世界の人々は、長く支配と隷属の関係だけの社会の中に住んでいたからです。
それがあたりまえと思っていた世界の若者たちに、なんと日本アニメは、「隷属なんてありえない、俺たちは人として対等なんだ!」という概念をもたらしたのです。
もともと西欧諸国においては、対等という概念は、平等と同じ「イコール(Equal)」という概念しかありません。
概念がないものを説明するのは、たいへんに難しいものですが、日本アニメは、なんとそれを物語と絵で説明し、拡散してしまったのです。
日本アニメが、世界中の民衆から絶賛を浴びるのも、無理からぬことです。
・・・・・
さて、二つめのファクターの「成長の物語」というものも、これまたかつての日本社会では、空気のようにあたりまえの常識となっていた事柄です。
その原点は、古事記や日本書紀に描かれている日本神話にあります。
イザナキ、イザナミといえば、日本神話に出て来る最初の男女神ですが、この二人は、はじめに出会ったときに、ちょっとした失敗をしでかして、結果、蛭子(ひるこ)というクラゲのような子を作ってしまいます。
そしてその失敗の教訓をもとに、もういちどやり直して、今度は立派な子を産みます。
イザナキもイザナミも神様です。
神様ならば、完全不可欠、絶対無二の存在であるはずなのですが、その神様でさえ失敗するのです。
まして人の身ならば、むしろ失敗するのがあたりまです。
だからこそ、その失敗を教訓に、努力して最後には本当に立派な神となる。
アマテラスも同じです。
弟のスサノオにイジメられて岩戸に篭ってしまう。
これは現代社会でいえば、いわば「ひきこもり」です。
そんな気弱な神様でも、いろいろな経験を経て、最後には立派な日本の最高神となられています。
オオクニヌシは、因幡の白ウサギの物語の頃は、オオナムチという名前で、いまで言ったら「パシリ」君でした。兄貴達の荷物を全部担がされ、手ぶらで歩く兄貴たちのはるか後方を、やっとの思いでついていっているときに、白ウサギに出会っています。
そんなオオクニヌシが、数々の試練にあって、最後は「大いなる国の主」に成長しています。
日本の神々の物語は、このように神々の「成長の物語」として描かれています。
はじめから完全な人間なんていません。
仕事をしはじめても、最初馴れないうちは、いろいろな失敗があります。
ところが最近の世間の風潮は、新人が失敗すると、すぐに「あいつは使えない」とレッテルを貼りたがる。
かつての日本では、失敗するのはあたりまえで、そこから何を学び、成長するかを問うていたのに、いつのまにか、失敗したら「使えない奴」というレッテルに代わってしまっているのです。
神様だって失敗するのに、最初から立派にソツなく全部できる人間なんていません。
たまたま失敗がなかったとすれば、その人はたまたま運がよかっただけか、あるいは仕事をしているフリをしていただけで実際には仕事をしていなかった場合だけ、です。
何かをすれば、必ず問題がおこり、失敗もあります。
にもかかわらず、失敗したら「使えない」とレッテル張りをするのは、これは理不尽です。
誰もが失敗するのに、それを「使えない」とレッテル張りすれば、すべての新人や学生は、全員「使えない奴」になります。
その結果、日本社会は「ストレス社会」となり、結果、そのストレスが「アニメ」の中で、主人公達が、失敗しても失敗しても、戦いに敗れても敗れても立ち上がり、成長していく物語に、自己投影して共感が生まれ、日本アニメの物語となっています。
そんな日本アニメは、戦後教育世代の大人達からみれば、タワゴトかもしれません。
けれど、そんな日本アニメの成長の物語が、日本の若者達にも、また世界中の若者達からも、目からウロコの素晴らしい物語として受け入れられているわけです。
欧米の神は、最初から完全無欠な唯一絶対神です。
同様に、アメリカンヒーローは生まれながらにヒーローです。
ところが日本アニメは、ヒーローが、はじめのうちは、ぜんぜん強くない。
その強くないヒーローが、仲間たちとともに励ましあい、強敵にさえも打ち勝って行く。つまり、「成長」していくわけです。
そうした「人の成長を認める」という設定が、多くの若者の共感を得ているわけです。
戦後の日本社会は、いつのまにか、人を使い捨てにする社会へと変貌してしまいました。
人の成長を認めず、何かひとつでも欠陥があれば、使えない奴、問題児として学校や組織から抹殺しようとする社会となってしまっています。
野口英世などもそうですが、際立った能力のある者というのは、際立った欠陥を持つものです。
何事も平均点という人は、ソツはないけれど、能もない。
明治のはじめ、わずか23歳の青年に総額1千億の琵琶湖疎水工事を任せた日本社会は、いまや粗探しをしては人の足を引っ張ることしかできない狭量な社会になっています。
かつて日本にあって、いまの日本になくなっているもの。
日本人のDNAに刻まれていながら、否定されている、そういう「人は成長する」ということを、実は日本アニメは、アニメという虚構世界の中で、実に見事に表現しているわけです。
ですから「成長の物語」は、日本人にとっては「なつかしさのある物語」であり、海外の人々にとっては、カルチャーショックの激震のある物語となっているわけです。
私たち日本人は、はたしていまのような社会を、理想の日本と考えているのでしょうか。
おそらくはそうでないはずです。
ならば、日本を取り返すしかない。
そしてそこには、リスクを恐れず挑戦して行く、まさに日本アニメのよう仲間たちが、いま求められているのかもしれません。
そういえば、ある米国人が言っていました。
「日本は、こんなにすばらしいアニメの名作をたくさん排出しているのに、どうして日本のテレビ局は、子供達のゴールデンタイムの時間枠に、アニメの放送をしていないのですか?」
※この記事は今年1月にアップしたものに大幅に手を加えて再掲させていただいたものです。
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