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整列する海軍厚木三〇二航空隊
三〇二空-1

小園安名(こそのやすな)氏は、元大日本帝国海軍航空隊の大佐です。
終戦時の所属は、海軍厚木三〇二航空隊です。
三〇二航空隊というのは、本土防衛にあたって帝都上空を守る、日本海軍史上最強最精鋭の航空部隊です。
帝都上空防衛隊です。
精鋭の中の最精鋭の隊員を揃え、最強の軍人を長につける。あたまえのことです。
小園大佐が、いかに優秀な方であったかがわかろうというものです。


昭和20(1945)年8月15日の正午に玉音放送が流されました。
玉音放送の後、海軍厚木基地では小園司令が、三〇二航空隊に総員集合を命じました。
そのときの小園司令の訓示です。
=========
降伏の勅命は、真の勅命ではない。
ついに軍統帥部は敵の軍門に降った。
日本政府はポツダム宣言を受諾した。
ゆらい皇軍には必勝の信念があって、降伏の文字はない。
よって敵司令官のもとに屈した降伏軍は、皇軍とみなすことはできない。
日本の軍隊は解体したものと認める。
ここにわれわれは部隊の独立を宣言し、徹底抗戦の火蓋を切る。
今後は各自の自由な意志によって、国土を防衛する新たな国民的自衛戦争に移ったわけである。
ゆえに諸君が小園と行動を共にするもしないも諸君の自由である。
小園と共にあくまで戦わんとする者はとどまれ。
しからざる者は自由に隊を離れて帰郷せよ。
自分は必勝を信じて最後まで戦う。
==========
そして小園司令は、全員に向かって、
「帰郷せんとする者、離れてよしっ!」と声をかけました。
けれど、誰一人その場を立ち去る隊員はいませんでした。
翌、8月16日、小園司令は厚木航空部隊の独立宣言を、海軍の各部隊宛に緊急電報で発信しました。
そして、陸軍や国民に向けての檄文のビラを、零戦隊が首都圏に、月光隊が関東東北に、彩雲隊が中部に、銀河が北海道・中四国に散布しました。
ビラの文です。
=========
国民諸子に告ぐ。
神州不滅、終戦放送は偽勅、だまされるな。
いまや敵撃滅の好機、われら厚木航空隊は健在なり。
必勝国体を護持せん。勤皇護国。
皇軍なくして皇国の護持なし。
国民諸君、皇軍厳として此処にあり。
重臣の世迷言に迷わざることなく吾等と共に戦へ。
之真の忠なり。之必勝なり。
=========
同日、厚木の小園司令のもとには、米内海軍大臣から翻意をうながす意向が伝えられました。
小園司令はこれを拒絶しました。
やむなく米内海軍大臣は、横須賀鎮守府三航艦司令長官である寺岡謹平海軍中将に小園司令の説得を命じました。
寺岡中将が厚木基地に向かいました。
寺岡中将と小園司令は、30分ほど会見しました。
会見は「決裂」しました。
8月17日、小園司令の問題は、当時の海軍上層部にとって深刻な問題になりました。
米国から「マッカーサーが8月30日に厚木基地に降り立つ」と連絡があったからです。
ところが厚木基地には、小園司令らが徹底抗戦を主張して立て籠っています。
武装し、いまだ戦時体制のままです。
やむをえず海軍上層部は、陛下にこれを上奏しました。
このとき海軍上層部が陛下に直々に「隠忍自重の勅語」を発していただこうとしたという説がありますが、これはありえないと思います。あくまで海軍が責任を持つべきことだからです。
米内海相は、横須賀鎮守府に厚木基地の「強硬鎮圧」を命じました。
ところが、命じられた横須賀鎮守府の寺岡中将は、断固としてこれを拒否しました。
寺岡中将の心は、むしろ小園司令とともにあったからです。
しかし軍は、国家の意思によって動くものです。
たとえ納得できないことがあったとしても、軍人は国家の意思に逆らうべきではありません。
8月18日、小園司令はその心労から、突然40度もの高熱を出してしまいます。
南方戦線在任中に感染したマラリアが再発したのです。
ところが高熱を発していても帝国軍人です。
裂帛の気迫をもって床に伏せようとせず、8月の酷暑の中を、軍服で正装したまま、満々と闘志をたたえていました。
8月20日になると、海軍兵学校で小園の一期後輩の高松宮宣仁親王海軍大佐、 第三航艦参謀長・山澄忠三郎大佐らが厚木基地に向かいました。
小園司令の説得のためです。
二人は小園司令以下、厚木基地の全員を集め、抗戦体制を終結させようとしました。
厚木基地の隊員たちは、小園司令以下全員が猛暑の中、滑走路で正装して整然と整列し、親王殿下と参謀長の話に聞き入りました。
話は聞いた。
けれど、誰一人説得に応じる者はいませんでした。
8月21日になりました。
この日、さしもの豪傑の小園司令も、高熱のために意識が混濁しはじめます。
山澄参謀長らは、軍医長の少佐に命じて、小園司令に解熱のための鎮静剤を打つことにしました。
けれど、小園司令は、これを拒みました。
みんなで小園司令を押さえ込んで注射しようとすると、彼は軍刀を抜いて抵抗しました。
ようやく取り押さえて、鎮静剤を打ちました。
けれど、小園司令はますます激昂して抵抗しました。
普通40度を超える熱を出し、鎮静剤まで打たれたら、人間、そうそう動けるものではありません。
ところが小園司令は、意識をモウロウとさせながらも、断固その意思を貫こうと抵抗したのです。
その気迫、まさに鬼気迫るものがあります。
けれどこのままでは司令の命が危ない。
やむなく付近にいた者全員で、小園司令を取り押さえました。
やむをえない処置だったと思います。
司令は、革手錠まではめられて、海軍病院に搬送されました。
この移送は、基地にいた誰もが司令の療養のためと思いました。
ところが実際に小園司令が搬送された先は、野比にある海軍の精神病院(現・独立行政法人国立病院機構久里浜アルコール症センター)でした。
しかも収容先は精神科病棟だったのです。
一方、司令が連れ去られた厚着基地では、三〇二空の航空隊員たちが、一部の仲間たちの制止を振り切り、零戦・彗星・彩雲など32機に分乗し、基地から脱出しました。
このうち、零戦18機は陸軍狭山飛行場へ、彗星など13機は、陸軍児玉飛行場へ降り立っています。
残る一機は、消息不明です。
行方不明となった一機は、軍令と闘志の間で悩みながら、ひとり洋上に散華されたのだと思います。
その辛さを思うと、涙が出ます。
小園司令がいなくなり、航空兵が飛び立ったあとの厚木基地では、8月22日、軍の命令によって残る士官全員が、強制退去となり、翌23日には、山澄大佐率いる大本営厚木連絡委員会がはいり、飛行場の片付けと整頓にはいました。
そして8月26日、米軍先遣隊の輸送機13機が厚木基地に着陸し、8月30日連合軍最高司令官マッカーサーが厚木に降り立ちました。
以上が、終戦直後の厚木事件の顛末です。
小園司令はどうなったのでしょうか。
司令は精神病棟にいました。
病院内での小園司令に対する処置は、それは酷いものでした。
なお闘志をあきらめない小園に、最重要危険人物に対するもっとも峻烈な後ろ手を十字に組ませた手錠をかけられていました。
しかも高熱で、与えられた食事もとらない。水も飲まない。
小園司令は、猛暑の中で、喉の渇きを潤すために、床を転げて自分の小便をすったといいます。
10月15日、巣鴨拘置所で厚木航空隊騒擾事件の横須賀鎮守府臨時軍法会議が開かれました。
軍法会議出席のため、小園司令は巣鴨に移送されました。
つい二ヵ月前まで、鎮守府参謀として執務した懐かしい司令部の建物です。
けれど、こんどはその建物が、今は裁きの庭です。
小園司令が巣鴨に到着したとき、遠巻きに小園を取り囲んだ輪の中から「小園参謀!」と声をかけた者がいました。若い情報係の山梨少尉でした。
山梨少尉は、8月11日の朝、日本がポツダム宣言を受諾したとの海外放送を、小園司令に伝えた方です。
山梨少尉を見た小園司令は、口元にかすかな微笑みを浮かべたそうです。
それはほんの一瞬の出来事でした。
小園司令は、MPにせかかれて、建物の中に姿を消しました。
山梨少尉は、拘束衣に縛られ、見る影もなく痩せた小園司令の姿に、「あの参謀長が・・・」と絶句し、涙がとまらなかったそうです。
小園司令は、かって横須賀鎮守府の名参謀として知略をふるい、戸塚長官や幕僚たちまで震え上がらせた猛将でした。
厚木基地では、敵戦闘機や爆撃機をなんと120機も撃墜、そのうち80余機は、あの空の要塞B29の撃墜です。
若い士官たちは、小園司令を心から尊敬していたのです。
その小園司令のあまりにも変わり果てた姿に、山梨少尉は、青年らしい怒りと、同時にその理不尽な姿に、悲憤の涙を流したのです。
小園司令に対する裁判は、その日のうちに判決が出されました。
判決は「抗命罪」です。
小園司令は失官し、無期禁固刑が言い渡されました。
昭和27年、サンフランシスコ講和条約が発効しました。
けれど、小園司令が刑務所から出所となったのは、昭和28(1953)年になってからでした。
出所した小園司令は、生まれ故郷の鹿児島県加世田(かせだ)市に帰り、そこで農業をしながら、静かに余生を過ごされました。
そして昭和35(1960)年11月4日、家族に看取られて57年の生涯を閉じられました。
中田整一さん書いた「真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝」という本があります。
いまは講談社文庫になっています。
その本の中に淵田美津雄氏が戦後、小園司令に会われたときのことが書いてあります。
その日小園元司令は、「あの時降伏などするのではなかった」と、快活に語っていたそうです。
終戦当時日本をさんざん悩ませていたB29は、終戦後まもなく戦場の第一線から姿を消しています。
当時B29は世界最強の空の要塞でした。
高度8000メートルで飛来するB29に対し、零戦などの旧型戦闘機は、どんなに頑張っても高度6000メートルがやっと。まるで勝負にならなかったのです。
ところが小園大佐は、作戦をもってB29の高度を下げさせ、さらに飛行機の銃頭を斜め上に向けることによって無理矢理弾を届かせるように工夫し、B29を撃墜していたのです。
ところが同じ頃、日本の長崎の工廟では、ジェットエンジンの開発が行われていました。
燃料も、松ヤニからガソリンを精製する技術が生み出されていました。
実はこれが量産段階にはいっていれば、日本は戦争に勝ってしまったかもしれないのです。
なぜなら当時世界最強だったB29は、ジェット戦闘機が誕生すると、あっという間に姿を消しています。
速度が早く上昇高度の高いジェット戦闘機の前では、さしものB29も、ただの空に浮かぶのろまな「的」しかならなくなったからです。
もし日本が、世界に先駆けてこのジェットエンジン搭載の戦闘機や爆撃機を就航させていたら、大東亜の戦いはもしかするとまた違った展開になっていたかもしれません。
もしかすると、日本が大戦に勝利したかもしれない。
けれど八百万の神々は、その結論を望まれませんでした。
むしろ戦争を終わらせる方向に舵を切っています。
常々思うのですが、緒戦においてまるで破竹の勢いだった日本が、あるときを堺に、種々の戦いで敗退を余儀なくされました。
それはまるで賭け事の「ツキ」が落ちたかのようでした。
では、なぜ、八百万の神々は、日本の勝利を望まれなかったのでしょうか。
神々のお心は、私たち凡人には計り知れないものがあります。
ただ、ひとついえそうなのは、神々は日本に「力の正義」を望まれなかったのかもしれない、ということです。
そうではない「人々が安心して幸せに暮らすことができる社会」を日本に望まれたのではないか。そんな気がします。
「力」は必要です。
けれど、前にも申し上げましたが、江戸時代の享保年間の20年に、伝馬町の牢屋に入れられた人は「ゼロ」です。
そういう社会の構築を、神々は日本に課しているのかもしれません。
話が飛んでしまいました。
小園司令は、数々の武勲をたてた空の勇者です。
そして戦争末期に帝都上空を守る最精鋭航空隊の司令に任ぜられるという優秀さに加え、部下からもたいへんに慕われた、まさに「立派な帝国軍人」であられました。
にもかかわらず小園司令は、戦争が終わると、こんどは逆に精神病患者という扱いを受け、拘束着を着せられ、刑務所に入れられ、日本がサンフランシスコ講和で独立を回復してもなお1年、刑務所から出してもらえず、晩年は細々と農業を営み、静かにこの世を去られました。
歴史をたどれば、土佐藩の改革に見事な実績を残した野中兼山、治水事業で実績を残した水戸藩の松波勘十郎、関宿藩の船橋随庵も同様に、さみしい晩年を迎えています。
けれど人生の晩年がどうあれ、民衆のために、そして国のために大誠意をもって戦い人生を捧げ抜いた人というのは、他からどうみられようが、まさに「我が人生に悔いなし」といえる誇りを胸に抱いていたと思うのです。
そしてそれこそが、何にも替えがたい至高とさえいえる人生の勲章なのではないかと思います。
ではなぜ、それが至高といえるのかといえば、彼らが日本人だからです。
日本人の人生の目的や価値は、名聞名利にはありません。
立身出世や経済的成功でもありません。
日本人は古来、肉体は滅び、形あるものはいつか壊れる。
けれども魂は連続し、永遠だと考えてきました。
いいかえれば、心こそ、不滅としてきました。
一年草の雑草が、生えては枯れ、また翌年にはつぼみを出して花をさかせるように、人もまた、生を繰り返します。
人は、繰り返し産まれ、生き、そして死んで行く中で、自己の持つ魂をより至高なものに成長させていく。
そして、より多くの人々の幸せのために生きることが価値あることとするならば、小園司令の激闘は、まさに「やるべきことをやりぬいた」人生であり、至高な価値ある人生であったといえると思うのです。
小園司令については、いまでは、賛否両論、さまざまな評価がなされていると聞きます。
けれど私には、そのような他人の評価など、なんの関心もありません。
それ以上に、小園安名という人が、この日本にいて、国土防衛の柱として、見事その人生を捧げられた。
そのことに、私は最大限の感謝をし、また小園安名司令という人が、私達日本人と同じ日本人であったことを、心から誇りに思うのです。
小園司令の戦いについては、また、明日書きます。
※本稿は、平成22年5月8日の記事を再編集してお届けしています。
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