■ねずさんのひとりごとメールマガジン有料版
http://www.mag2.com/m/0001335031.htm
人気ブログランキング
 ↑ ↑
応援クリックありがとうございます。

女殺油地獄

享保6(1721)年8月7日、およそ300年前の今日ですが、大阪の竹本座で、近松門左衛門の人形浄瑠璃「女殺油地獄(おんなころし あぶらのじごく)」が初演となりました。
近松門左衛門といえば、曾根崎心中や国性爺合戦、心中天網島など数々の大ヒットを飛ばした江戸中期の人気劇作家で、しかもこの「女殺油地獄」は、近松門左衛門が脂の乗り切った晩年の作品です。
さぞかし連日長蛇の列の大人気となったかと思いきや、なんとまるで売れませんした。
しかもこの作品、その後もずっとお蔵入りしたままでした。
再び世に出たのは、明治も終わりの明治42(1909)年になってからです。
坪内逍遥(つぼうちしょうよう)が「近松研究会」でこの作品をとりあげ、この年に歌舞伎で再演させて、なんとか復活を試みたのです。
しかも明治のこのときの舞台も、はたまた不人気で上演打ち切りとなりました。
大正13年には映画化までされていますが、これまたあまり人気が出なかったようです。
ところが戦後になると、昭和27(1952)年に人形浄瑠璃で再演されるやいなや大人気を博し、昭和24年には坂東好太郎で映画化されてヒットを飛ばし、昭和32年には新珠三千代、昭和59年には松田優作と小川知子主演、平成4年には樋口可南子主演、平成21年には藤川のぞみ主演など、テレビ・映画で都合7回も上映されています。
また舞台でも市川染五郎の代表的人気舞台として、圧倒的支持を得るようになりました。
江戸から明治にかけて、まったく人気のなかった作品なのに、戦後になったら、突然人気が出る。
いったい何がそうさせたのでしょうか。


筋書きやに変化はありません。
ということは、変化したのは、観客の側です。
つまり観客の側に、何かの変化があったということです。
では、それはいったい何でしょうか。
「女殺油地獄」のストーリーは、次のようなものです。
=======
大阪天満の油屋の店主、河内屋徳兵衛は、番頭あがりで店主になった人でした。
なので店主でありながら、養子なので、なにかにつけ、遠慮がちでした。
それを良いことに、義理の息子の与兵衛は増長し、店の有り金を持出しては新町の遊女に入れあげていました。いわゆる放蕩者となっていたのです。
あまりの放蕩ぶりに、さしもの母も呆れて、徳兵衛とともに与兵衛を勘当してしまいます。
けれど小遣い銭に事欠いては不憫だからと、むかえの油屋の豊島屋の女房お吉が、密かに与兵衛に銭を与えます。
ところがそんな親切も遣い果たしてしまった与兵衛は、遊ぶ金欲しさに、高利貸しから金を借ります。
それもなんと、義父の偽判を用いてのことです。
しかも返せない。
高利貸しからの借金を返せなければ、きつい取立を受けるのは、いつの時代も同じです。
追いつめられた与兵衛は、豊島屋のお吉に急場しのぎの借金を申し込むのですが断られてしまう。
にっちもさっちもいかなくなった与兵衛は、ついにお吉を惨殺し、店の掛け金を奪います。
そして何食わぬ顔でお吉の三十五日の法要に出席した与兵衛は、たまたま天井でネズミが暴れたことで、殺しの現場で与兵衛がお吉の血潮を拭った借金の証文が落ちてきて、犯行が露見します。
そして直ちに召し取られてしまう。
========
この「女殺油地獄」の最大の見せ場は、タイトル通り油屋の店内で行われるお吉殺害のシーンです。
油屋ですから、周囲に油のはいった樽がいっぱい置いてあります。
お店のなかでもみ合ううちに、油のはいった瓶(かめ)が倒れます。
床じゅうが油だらけになる。
そのなかを、、刃物を持って殺そうとする狂気の与兵衛、殺されまいと逃げまわる恐怖のお吉、二人が油でツルツルと滑りながら、特に人形浄瑠璃では、およそ生身の人間では考えられないほどに、滑るシーンが描かれていて、葛藤する。
ここが「女殺油地獄」の鬼気迫る名場面です。
ところが、ここがまさに印象的な名場面だったからこそ、江戸や明治の人々には、この物語がまったくウケなかったのです。
殺しのシーンだから、ということではありません。
殺しのシーンでいうなら、四谷怪談にしても、番長更屋敷にしても、あるいは赤穂浪士や曾我兄弟にしても、そういうシーンはあります。
ただ、それら作品に共通しているのは、主題が殺し合いそのものにはなくて、「不条理を働いた者が、最後は条理によって成敗される」という、いわば勧善懲悪な筋書きです。
そしてここそが、「女殺油地獄」ともっとも異なる点といえます。
なぜなら「女殺油地獄」は、殺しのシーンそのものが、作品の最大の見せ場であり、主題になっているからです。
つまり不条理そのものが題材化され、描かれているのです。
もうすこし詳しくみてみると、四谷怪談は、夫の伊右衛門によって不条理な殺され方をしたお岩さんが、化けて出て、最後は伊右衛門を成敗しています。
番長更屋敷は、お揃いのお皿を割ってしまったお菊さんが、不条理にも殺害されてしまうのですが、化けて出ることで最後は自分を殺した主家を滅ぼしてしまいます。
赤穂浪士も、不条理を働いたとされる吉良上野介(あくまでも芝居の上です)を、浅野内匠頭の家臣らが条理によって成敗しています。
曾我兄弟も、不条理によって殺された仇を、条理によって討っています。
ところが「女殺油地獄」は、放蕩という不条理を働く与兵衛が、不条理にもおむかえのやさしくて人物のできた若奥さんを不条理にも殺してしまう。
つまり、不条理の二乗です。
最後は逮捕されたとはいっても、与兵衛がその後どうなったかはわからない。これまた不条理です。
つまり「女殺油地獄」では、最初から最後までが不条理だけの構成なのです。
こういった設定は、現代の小説やドラマ、映画なら、それなりにウケそうな気もします。
ところが江戸から明治にかけての日本社会では、たとえそれが高名な近松門左衛門原作であっても、まるで受け入れられませんでした。
物語というものは、舞台にせよ映画にせよ、あるいはこうした文章にせよ、そこに「共感」があるからヒットするといわれています。
共感は、すなわち感動を呼び、感動は連鎖するから客が入るのです。
逆に共感がなければ、そこに感動はなく、感動がなければ連鎖もありませんから、舞台は人が寄り付かなくなり、舞台も商売ですから、そういう作品はお蔵入りするしかなくなるわけです。
「女殺油地獄」の場合、そこに共感はありません。
あるのは狂気と恐怖だけです。
けれど怪談とも違います。
江戸から明治にかけての人々が舞台に求めたのは、「どんな不条理でも、最後は条理が勝つ」という点にあったのではないかと思います。
怪談でさえ、最後には殺されて幽霊になった側が勝つ。
ところが「女殺油地獄」は、どこまでも不条理です。
そして不条理そのものが美学のように演じられる。
そしてその美学が、230年間も人々にまったく受け入れられなかったのに、戦後の日本人には受け入れられたのです。
だから「女殺油地獄」は、戦後いきなりの大ヒットとなりました。
そこには、大東亜戦争を戦った日本人、そして勇敢に戦ったのに、勝つまでは我慢しようと、贅沢を絶ってみんなが本当に頑張ったのに、そんな仲間たちの命を失った・・・つまり外地にいる人も、内地で銃後を守った人たちも、みんなが条理を保とうと戦ったのに、不条理にもそれが破れてしまった。そんな感傷が、結果として最初から最後まで不条理しかなく、狂気と恐怖が支配する「女殺油地獄」を、世に受け入れさせたといえるかもしれません。
「女殺油地獄」が書かれた享保年間というのは、八代将軍吉宗が享保の改革を行った時代です。
享保年間は20年続きますが、この時代を象徴するのが、先日も書きましたが、犯罪者の少なさです。
とりわけ江戸では、伝馬町の牢屋に入った犯罪者が、20年間で0人です。
お役人がさぼっていたわけではありません。
犯罪を犯す人がいなかったのです。
「女殺油地獄」も、実際にあった事件を題材にしたとはいいますが、実際にあったのは、若旦那が郭(くるわ)通いにウツツをぬかして、店のカネに手をつけて追い出されたというだけの話です。殺人事件そのものは、近松門左衛門の創作です。
なぜ犯罪が少なかったのかといえば、人々がひとりひとり、みんなでちょっとずつの我慢をして、条理を保とうとしたからです。
そしてそんな「条理を保つ」ことが、日常化されたあたりまえの社会だったからこそ、「女殺油地獄」のような「不条理」だけを題材にしたような作品は、たとえどのように舞台を美しく飾ったとしても、たとえそれが大御所の呼び声高い近松門左衛門の作品であったとしても、人々は眉をひそめ、敬遠したといえるのではないでしょうか。
そしてこの傾向は、幕末から明治期まで、ずっと続きました。
明治初期に来日した英国人の紀行家イザベラ・バードは、日本で盛大なお祭りを視察したときのことを、次のように書いています。
=========
警察の話では、港に2万2千人も他所から来ているという。
しかも祭りに浮かれている3万2千の人々に対し、25人の警官で充分であった。
私はそこを午後3時に去ったが、そのときまでに一人も酒に酔ってるものを見なかったし、またひとつも乱暴な態度や失礼な振舞いを見なかった。
私が群集に乱暴に押されることは少しもなかった。
どんなに人が混雑しているところでも、彼らは輪を作って、私が息をつける空間を残してくれた。
=========
たった25人の警察官で、3万2千人の人に対応し、しかも事件も事故もまったく起こらなかった。
日本はそういう社会だったのです。
明治時代に東京市長(昔は東京は“市”でした)を勤めた後藤新平は「江戸の自治制」という研究書を書いていますが、そのなかで、「なぜ江戸社会が犯罪のない社会であったか」ということについて、江戸時代の人々が「きわめて人々の徳性(とくせい)が高かったから」と述べています。
「人々の徳性が高い」というのは、「民度が高い」というより、もっと上の状態にあることを示します。
それだけ徳性の高い住民たちだったからこそ、たとえ舞台などの芸事でも、あまりにも不条理なものは、かえって敬遠されたわけです。
これからの日本を考えるとき、世界中の人々がこれからもっともっとたくさん日本にやってくるようになろうかと思います。
世界中の人々がある程度の豊かさを得ることができるようになったこと、人々の交流が盛んに行われるようになったこと、そして世界中の人々から、日本が魅力的な国になればなるほど、日本にやってくる外国の人は増えるものと思います。
思うにそのとき日本人は、日本人としての徳性を放棄し、民度を下げるという選択をするのが正しい道なのでしょうか。
それとも日本人らしい高い徳性を維持し、ますます民度をあげることで、世界中の人々に良い影響を与える国となっていくことが、これからの日本にとって、あるいは世界にとっての正しい選択なのでしょうか。
選ぶのは、私たち国民です。
そして日本の未来は、とっても厳しい言い方をするようだけど、いまを生きるいまの日本の大人たちの双肩にかかっていると思うのです。
人気ブログランキング
 ↑ ↑
応援クリックありがとうございます。
励みになります。

日本人なら思わず涙する日本はすごい国・日本人のすごいところ

【メルマガのお申し込みは↓コチラ↓】
ねずさんのひとりごとメールマガジン有料版
最初の一ヶ月間無料でご購読いただけます。
クリックするとお申し込みページに飛びます
↓  ↓
ねずブロメルマガ
日心会メールマガジン(無料版)
クリックするとお申し込みページに飛びます
↓  ↓
日本の心を伝える会 日心会
拡散しよう!日本!

ねずブロへのカンパのお誘い
ねずブロで感動したら・・・・
よろしかったらカンパにご協力ください。
【ゆうちょ銀行】
記号 10520
番号 57755631
【他金融機関から】
銀行名 ゆうちょ銀行
支店名 〇五八(店番058)
種目  普通預金
口座番号 5775563
【問い合わせ先】
お問い合わせはメールでお願いします。
nezu@nippon-kokoro.com

コメントは受け付けていません。