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ホタル帰る

ある本の文をご紹介します。
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無事にトメが退院し、富屋食堂は数ヶ月ぶりに元に戻った。
年が明けて昭和19年。
少年兵は第十期生が巣立ちを終え、それぞれに南方の空に飛び立っていき、代わって第十一期生になっていたが、池田、川畑らの5人組の指導教官は残っていた。
その日曜日、二女の礼子は初潮を見てお腹が痛いため、奥の自分の部屋で寝ていた。
トメは娘の成人を祝って朝から大量に赤飯を炊いて、いそいそと立ち回っていた。昼頃になると少年兵たちが三々五々集まってきて、富屋は賑やかになった。
いつものように若い教官の五人組も集まっていた。
「小母ちゃん、きょうは礼ちゃんはいないの」


「礼子はね、きょうはおめでたい日なの。だから奥で寝てるけど」
話し声は寝ている礼子にも聞こえた。
「さ、皆さん、きょうはおめでたい日なので、お赤飯を炊いたのよ。お祝いだからどんどん食べてね」
「お赤飯? すげえな」と池田たちは半ば感動し、半ば驚喜していた。「でも、小母ちゃん、なんのお祝い?」
「なんのお祝いって、皆さん喜んでください。礼子が女になったのよ」
それが聞こえて来ると礼子はふとんの中で赤くなった。
「礼ちゃんが女になった? 小母ちゃん、変なこというなあ。おれ、初めっから礼ちゃんて女の子だと思っていたけど、礼ちゃんて女じゃなかったの」
トメはくすくす笑った。
「それにしても変じゃない。礼ちゃんが男だったとしても、どうしていまごろ女になるのさ」
体は大きくて、お国のために戦うと立派な覚悟を持っていても、まだこの子たちは数えで19歳、「女になる」という言葉を知らないほどに純粋無垢なのだ。
「さあ、皆さん、どんどんおかわりしてよ」
その言葉の意味がどうであろうと、ここのところは色気より食い気。少年たちはそろってパクウパクと赤飯にかぶりついた。
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この文は、草思社文庫、赤羽礼子著「ホタル帰る 特攻隊員と母トメと娘礼子」の抜き書きです。
285ページあるうちの、はじめの50ページからの抜き書きですから、ほんの出だしのところです。
もう、このあたりを読んだだけで、「ああ、同じだなあ」と思って、ジーンとしびれてしまって。
というのは、私も家が男ばかりで育ったので、いい加減、この歳になっても女性はまるで宇宙人のように感じてしまったりします(笑)
なので、若い頃の自分がその場にいたらやっぱり彼らと同じように、「ああ、礼子ちゃんって、以前は男だったのか」と、普通に納得したろうし、そうしながら目の前にある美味そうな赤飯にかぶりついていたと思うのです。
現代っ子ですから、さすがに19歳当時なら意味くらいはわかったかもしれませんが、たぶん中高生くらいの自分なら、きっとそっくり同じ反応だったろうと思います。
そしてこの本の文章は、
「体は大きくて、お国のために戦うと立派な覚悟を持っていても、まだこの子たちは数えで19歳、『女になる』という言葉を知らないほどに純粋無垢なのだ」と続いています。
そんな純粋な若者達が、日本を守ろう、祖国を守ろうと、積極的に航空隊を志願し、厳しい訓練を受けてパイロットになり、特攻の空に消えて行ったのです。
この本に書いてあることは、ひとつひとつのエピソードが、全て実話です。
著者の赤羽礼子さんは、知覧特攻隊基地近くに実際にあった、富屋食堂の鳥濱トメさんの次女です。
彼女は、ご自身の体験談を書いています。
上でご紹介した文の冒頭に「トメの退院」、「第十期少年兵」とあります。
トメさんが入院されたとき、この十期生の生徒たちが、訓練機で上空から順番に病院のトメさんの病室近くまで、並んで降りてくるのです。
空から、飛行機に乗ってのお見舞いです。
飛行機は大きな爆音がしますから、病院に入院している他の患者さんや職員の方々には、さぞかしご迷惑だったろうと思います。
けれど、そうしたみんなが、トメさんを慕ってやってくる少年たちの心のやさしさを思い、誰一人少年たちを怒ったり、航空隊に苦情を言ったりしていません。
日本中に、そういう思いやりの心、互いの心を感じることができていた。
日本は、そういう国だったのです。
礼子さんを「元男性」などと思い込んだ池田芳彦、川畑三良さんたちは、そのとき第九期を卒業し、知覧基地の指導教官になったばかりでした。
そしてそういう純粋な男たちが、日々の猛烈な訓練を経由して、大空に舞い、散っていったのです。
なんのためでしょう。
私たちの住む、この日本を守るためです。
なぜ日本を守ろうとしたのでしょう。
そこに愛する人たちがいるからです。
そう思えるだけの思いやりの心を、
誰もが共有していたからです。
先日、Twitterで炎上したお話です。
「最近の小学校のイモ掘り教室では、イモが均等じゃないとクレームが入る」というのです。
あきれかえってものも言えない話ですが、こういう発想が出て来る背景にあるのは、人と人との関係を、「どっちが上か」でしか考えられない半島人マインドが、あまりに日本に深く入りこみすぎているからなのではないかと思います。
Koreanにとっては、いかなる場合においても「どっちが上か」が常に最大の関心事です。
ですからイモ堀りでも、どっちのイモが大きいかが気になります。
日本人は違います。
誰が一番大きな芋を掘ったかではなく、みんなでどれだけの収穫ができたかが、最大の関心事です。
日本人の中にも競争意識はもちろんあります。順位や序列もあります。
勉強のできるできないの成績、運動の順位、もちろん大事なことです。
けれどそれは「対等感」に基づく意識です。
あいつは数学では100点で、一番だった。
けれど俺は国語では100点で、あいつより成績が上だった。
数学ではあいつに敵わないけれど、国語だったら俺が一等賞だ。
これが「対等観」です。
「対等観」は、「上下観」とは似ているけれど異なるものです。
「対等観」には、互いの違いを明確に見定めた上で、自己の昇華を図ろうとする向上心があります。
けれど「上下観」は、たったひとつの違いをもって相手を馬鹿にし見下す差蔑意識があります。そこに向上心はなく、強烈な劣等感と相手の足を引っ張ってでも上に立ちたいという見栄しかありません。
日本人がもともと持つ「対等観」と、半島からの渡来文化である「上下観」は、似て、まったく異なるものです。
日本にも上下関係はあります。
会社の中でも、町内会でも、昔の士農工商といった制度も、一定の上下関係を持っています。
けれど、そこでいう上下関係は、全人格的な支配と隷属の関係ではありません。
「一寸の虫にも五分の魂」というのが、日本人のあたりまえの感覚であり、組織や秩序を維持するために、互いの役割分担としても身分や肩書きはあるけれど、人としては「対等だ」というのが日本人のマインドです。
なぜ日本人が、そのような対等観を持っているかといえば、日本人は古来、民百姓に至るまで、すべての人が「天皇の民(=皇民)」とされてきたからです。
日本では、内閣総理大臣でも将軍でも関白太政大臣でも、すべての政治権力者は、天皇によって認証されてその地位に就きます。
ということは、政治権力者(=司法、立法、行政の三権の長)よりも、天皇の方が地位が上だということです。
そして民は、その天皇の民です。
こうした感覚は、戦前の日本では、空気のようにあたりまえの感覚でした。
気をつけなければならないのは、天皇のことを「天皇」と呼ぶようになったことさえ、明治以降のことだ、ということです。
もともとは、「ミカド(=御門)」とか、「テンシサマ(=天子様)」と呼んでいました。
そして、将軍も太政大臣も、謁見するときは上座に座って顔を出しますが、「天子様」だけは、簾(すだれ)の向こうに御着座なされ、ご尊顔さえ拝むことはできませんでした。
なぜかといえば、天子様というのは、天皇その人を指すのではなく、最高の権威の象徴だったからです。
そして我が国最高の権威の象徴の、私たちは直轄の民、とされたのです。
ですからその民のことを、「おおみたから」といいます。
「おおみたから」は、漢字で書くと「大御宝」、古事記では「大御百姓」、そして実は「公民」の訓読みが「おおみたから」です。
日本の民衆は、そこまでして大切に扱われて来ました。
これは世界史的にみても、希有なことです。
世界は、上下の支配と隷属によって形成されました。
そんな世界の中で日本だけが、古来人として政治権力者や豪族の私有民として、モノとして扱われず、全ての人が人としての尊厳を認められ、一定の秩序維持のための様々な制約はあったものの、まさに権力や上下支配や圧政からの自由な民でいることができた民だったわけです。
これを昔は「國体(こくたい)」と呼びました。
そして日本は、その「國体」を守るために戦いました。
先日、京都大や豊橋技術科学大(愛知県)のチームが、「生後10カ月の赤ちゃんでも、困っている人に同情する気持ちがある」という実験結果を発表しました。
テレビでも紹介されましたので、ご存知の方も多いかと思います。
生後8ヶ月の子供に、イジメ役の絵柄と、イジメられ役の絵柄を見せる。
そして子供たちが、どちらを助け、庇護しようとするかを調べた実験です。
すると、0歳児にも明確に思いやりの心がみられたいいます。
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130613/wlf13061310120002-n1.htm
この実験の被験者は、日本人の0歳児です。
是非、同じ実験によって、人種による違いがあるか、検証してもらいたいと思います。
この実験は、実は20歳の日本人男女についても、同様の実験を試みています。
すると、7割の人が、今度は逆に「イジメている側」についたそうです。
被験者は同じ日本人なのに、です。
どういうことでしょうか。
生後8ヶ月の、まだ日本の教育を受けていない幼児は、イジメている者とイジメられている者がいれば、イジメられている者を助けようとする。それだけの思いやりの心がある。
ところが、その日本人の子供たちが、学校教育を終えると、なぜかイジメている側についた方が「得だ」と考えるようになっているのです。
私は、同じ実験を、是非、戦前の教育を受けた88歳以上の日本人の老人で試していただきたいと思います。
実験結果は、見るまでもないと思います。
100%の確率で、生後8ヶ月の赤子同様に、迷わずイジメられている側を庇護しようとすると思います。
要するに日本人が生まれたばかりのときには備わっていた「思いやりの心」が、いまの学校教育によって、「失われてしまっている」ということです。
実にとんでもないことです。
そもそも日教組を中心に、日本の学校教育は、日本人の道徳教育を思想教育だといって否定し、代わりに何を教えているかといえば、小中学生の子供達に「おしっこの仕方を教える」といいながら、執拗に男女の性器の構造や、子供の作り方を教える。
そんなものは、いちいち教えなくたって、世界中、人類はちゃんとこの世に生存しています。余計なお世話です。
そんなものよりも、男は強くあること、女性や子供達を守ること、弱い者にやさしくすることなど、人としてあたりまえの徳育をきちんと教え、身につけさせるべきです。
「しつけ」は、身体が美しいと書いて「躾け」です。
そういうことの方がはるかに大切です。
なぜなら、躾けのあるなしが、ヒトとケモノを分けるからです。
人の姿をしていればヒトなのではありません。
人の姿をしていても、中味がケモノなら、それはケモノです。
そしてそういうケモノは、人の姿をし、人の世界に紛れ込む分、獣よりもはるかにタチが悪いです。
男子なら、19歳になって赤飯を見て「ああ礼子ちゃんは以前は男の子だったんだ」と思うくらいでちょうど良いのです。
そんなことより、人としてもっと大切なもの、もっと大切なことを守れる「人」に育つことの方が、はるかに大事です。
赤羽礼子著「ホタル帰る」は、とても良い本なので、皆様にもご一読をお勧めします。
定価も税込み630円なので、買いやすいです。


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