
首都高速きっての夜景スポットといえば、芝浦ジャンクションから湾岸道路に渡る、レインボーブリッジの景色です。ここは、まさに「大都会」をイメージさせる広大な空間と林立するビル群、そして鮮やかにライトアップされたレンボーブリッジと、快適に伸びる高速道路などが、ウォーターフロントの景色の中で、実に美しい大都会の夜景姿を見せてくれます。車での都会のデートコースとし、ある意味、最高のシチューションかもしれません。
レインボーブリッジは、平成5(1993)年8月に開通した吊り橋で、全長798メートル、最大支間長570メートル、海面からの高さは塔が126メートル、橋げたの最高部が52メートルある大橋です。普段の日の証明は冒頭の写真のような姿ですが、ときたま「レインボーブリッジ虹色ライトアップ」が行われます。
それが下の写真です。これまた、とても美しいです。

ちなみにこの橋の正式名称は、あまり色っぽくありませんが、「東京港連絡橋」です。「レインボーブリッジ」という名称は、一般公募による愛称でしかありません。なぜ正式名称を「レインボーブリッジ」としないのか。実は理由が「お台場」にあります。
お台場は、レインボーブリッジの橋のたもとにある、人工の小さな島です。その島は、かつて東京を守るための海上砲台でした。「お上が造った砲台場」だから「お台場」です。お台場が、いつ、何のために築かれたのかというと、ペリーが来たからです。
嘉永6(1852)年7月8日(旧暦6月3日)、ペリーが米国の4隻の黒船に乗って日本にやってきました。
浦賀の久里浜に上陸したペリーは、日本の港を開港してもらいたいという米国大統領の親書を日本に提示しています。このことは、後々にまで影響を与える大事件となりました。

太平の眠りを覚ます上喜撰
たった四杯で夜も眠れず
有名な狂歌ですが、4隻の蒸気船で国書を持って来ただけなのに、どうして日本中が大騒ぎになったのでしょうか。外国がやってきて、鎖国を破って開国の要求をしてきたからでしょうか? それなら、ペリーがやってくる60年前の寛政4(1792)年には、ロシアのアダム・ラクスマンが蝦夷地にやってきて、正式に日本との通商を求めてきています。8年前の弘化元(1844)年には、オランダのヴィレム2世が、やはり開国を勧める親書を幕府に送っています。6年前の弘化3(1846)年には、米国の東インド艦隊司令長官ジェームズ・ビドルも、通商を求めてやってきています。
が、いずれもたいした問題にはなっていません。幕府はあっさりとこれらの要求を跳ね返したし、先方もそれ以上の騒ぎを起こすことはありませんでした。
ところがペリーのときには、日本中が大騒ぎになりました。なぜでしょう? 理由は、そこが「江戸湾(東京湾)」だったからです。当時の江戸には、諸説ありますが、だいたい200万から250万人の人が住んでいました。その江戸の人々がどうやって衣食をまかなっていたかというと、すべての物産を、海や川の水上交通に頼っていたのです。

上の写真は、箱根の山に、当時の姿のまま残っている東海道です。ご覧いただいてわかる通り、道幅は一間(1.8メートル)くらいしかありません。東海道は、江戸時代最大の大街道です。いまでいったら国道一号線、または東名高速道路です。にもかかわらず、道幅が、あまりに狭いと思いませんか? なぜ狭いかというと、道幅を広くする必要がなかったからです。道幅を広くするのは、牛車や、馬車など、物流用の車が通るからです。ところが江戸時代、牛車や、馬車などの車は、市中の近距離輸送には使われましたが、市や県をまたがる長距離輸送には、牛も馬もあまり用いられていません。
なぜかというと、陸路を行くよりも、海や河川の水路を使った方が、はるかに物流効率がよかったからです。ですから全国の平野部には、都市部も農村部も、細かく水路が張り巡らされ、小川から二級河川、一級河川、そこから海へと水路を使った物流網が張り巡らされていました。そして全国の川は、小川から大きな河川にいたるまで、どこでも人が泳いだり、水を飲んだりできるほど、水が綺麗でした。戦前の日本をしる人なら、あの隅田川でも、「昔は夏になるとよく泳いだものだよ」などというくらいです。
なぜ、泳いだり、水を飲んだりできるほど、水路の水が綺麗だったのか。それは、人々がゴミや汚水を流さずに、水路をつねに清潔に、綺麗に保っていたからです。日本の川が汚れたのは、戦後の数十年の異常な時代のことです。河川から港湾都市に集められた物資は、廻船問屋によって、樽船や菱垣廻船などの千石船に積み替えられ、外洋を航海して江戸に運び込まれました。こうして世界最大の人口を要する都市であった江戸の町に、毎日、東京湾から全国の物産が運び込まれていたのです。
ところが、ペリーの艦隊が東京湾の奥深くに侵入して来て、そこでドンパチが始まってしまうと、江戸に流入する物流が停止してしまいます。江戸の町への食料供給が途絶えます。すると江戸市民が、たちまち飢えてしまいます。江戸に物資を出荷している全国の都市にも、甚大な影響が出ます。商売上「たいへんな大騒ぎ」です。食料供給が途絶えれば、餓死者が出るかもしれない。
ちなみに、このとき江戸湾封鎖を前に、幕府が慌てたのは、幕府が庶民の暮らしを大事にしていたからです。
これは当時の世界にあっては、日本の常識、世界の非常識です。世界の常識に従うなら、施政者はこの場合、江戸の町が火の海になり、江戸庶民が何十万と死のうと、むしろ敵船を江戸湾深くに誘い込んで、陸上三方から砲撃を加え、ペリーの4隻の軍艦を包囲、殲滅した方が、得策といえるからです。
けれど、日本の施政者には、まったくそのような思考がありません。戦闘になる、あるいは戦闘になりそうな緊張状態になるだけで江戸への物流が停まる。それでは、民の暮らしにたいへんな影響がでてしまうと考えたからこそ、大慌て慌て、全力をあげて、ペリーから国書を受取り、しばくらの間、猶予をほしいと、とるものもとりあえず、ペリー一行を江戸湾から去らせているのです。
こうしてペリーはいったん沖縄に去りました。ふたたびペリーがやってきたのは、翌、嘉永7(1854)年2月13日(旧暦1月16日)のことです。教科書などによると、「このときペリーは、横浜に上陸した」と簡単に書かれています。冗談じゃないです。ペリーは、このとき、7隻の米国太平洋艦隊を率いて、まさに「江戸を火の海にする」勢いで、江戸湾にやってきたのです。ところが、この「いったん引き揚げて、再び戻って来た」、たった7ヶ月の間に、江戸湾の状況は一変していたのです。
ここで活躍したのが、伊豆韮山代官であった江川英龍(えがわひでたつ)です。江川英龍は徳川家直参旗本です。直参旗本というのは、将軍に直接お目見えできる資格を持った武士で、全国の藩のお大名とともに、昔は「お殿様」と呼ばれていました。ただし藩主と異なり、治めている土地は「知行地」と呼ばれています。
この江川のお殿様は、幕末の剣豪で神道無念流の斎藤弥九郎とは大の親友でした。また二宮尊徳とも交流のあった人物です。江川英龍は、海防に強い危機感と関心を持ち、そのために西洋砲術を学び、この当時、砲術にかけては日本一でした。佐久間象山、大鳥圭介、橋本左内、桂小五郎など、多くの門下生を出しています。
江川のお殿様の知行地は武州多摩で、江川英龍(えがわひでたつ)は、富国強兵政策の必要を早くから認め、在地の農兵政策を早くからはじめました。身分を問わずに学問や剣術を学ぶことを推進し、おかげで後に新撰組となる近藤勇、土方歳三などを輩出した天然理心流などの流派も育ちました。13代将軍徳川家定の御前で、ペリー献上の蒸気機関車を初めて運転したのも、江川英龍です。もっというと、いまの慶応大学は、もともと江川英龍の江戸屋敷だった場所を、福沢諭吉が払い下げてもらって、学舎としたところです。
その江川英龍の建議によって、最初にペリーがやってきたときに、幕府はすぐに江川英龍に命じ、西洋式の海上砲台を江戸湾に建設させました。工事は、第一台場が川越藩、第二台場が会津藩、第三台場が最近映画「のごぼうの城」で有名になった埼玉県行田市の忍藩(おしはん)が、担当しました。また、大砲そのものは佐賀藩に製造が命ぜられました。
海を埋め立てる土砂は、港区高輪(東京タワーのあるあたり)の山や、品川区の御殿山を崩して用いました。土砂の運搬は、当時はトラックなんてない時代ですから、モッコを担いで運びました。こうすることで、なんと手作業で、海の中にあの人工島の台場を、たった7ヶ月の間に築いてしまったのです。

すごいと思いませんか? 国を守るために、江戸庶民を守るために、流れの速い東京湾のど真ん中を埋め立てて、島を造り、そこに新型の洋式大砲を据えてしまったのです。そのため、二度目に軍艦7隻を率いてやってきたペリーは、品川沖までやって来たのですが、この砲台を見て、これはヤバイと、横浜まで引き返し、そこで上陸したのです。
無理もありません。このお台場砲台は、十字砲火に対応しているのです。ペリーの艦隊を正面から砲撃するだけでなく、側面からも攻撃を加えれる。当時の大砲は、GPSやオートジャイロなどついていないし、砲弾に誘導機能などありません。ですから、揺れる船からの砲撃よりも、揺れない地上からの砲撃の方が狙いが正確です。しかも十字砲火に遭ったら、いかにペリーの艦隊が優秀であろうと、もはやこの時点では、江戸市中への攻撃は不可能となっていたのです。
さらに江川英龍は、海防の強化のために、炸裂砲弾による大砲の量産の必要を感じ、鉄鋼の生産のために、伊豆韮山に製鉄用の反射炉も作っています。さらに、鉄の生産には火力を用いますがそうすると木材がたくさん必要になるからと、高尾山にさかんに植林を施しています。江川英龍が植えた高尾の杉は、今年で樹齢151年が経つ、高尾山で最も古い人工林です。
もっともお国のためにと、ときに知行地を召し上げられてでも、八面六臂の大活躍をした江川英龍は、おかげであまりの激務に体調を壊し、二度目にペリーがやってきたちょうど1年後の安政2(1855)年1月16日に、満53歳で、過労で病死しています。
ちなみに、いまでも、「気をつけ」「右向け右」、「回れ右」などの掛け声が使われていますが、これを考案したのも、江川英龍です。もうひとつ付け加えれば、よく甲子園に出場する静岡県立韮山高校も、江川英龍が創始者です。

要するに、こういう江川のお殿様や、川越藩、会津藩、忍藩(おしはん)、佐賀藩などの活躍、もっこを担いだ職人さんたちの活躍、あるいは佐久間象山、大鳥圭介、橋本左内、桂小五郎やその他多くの先人達のはたらきがあったからこそ、私たちの国、日本は、いまも日本のままでいます。
わずか7ヶ月で完成させたという、あのお台場。その上に架かる橋は、ですから現代人の夢や希望から、愛称はカタカナ英語の「レインボーブリッジ」でも良いのだけれど、国を守ろうとした多くの先人達への敬意から、正式名称は、あくまで「東京港連絡橋」という、和式の名前にこだわられているわけです。
歴史を学び、先人達への感謝の心を涵養する。そういうことが日本を取り戻す基礎になるのではないか。私はそんな気がしています。
※今回のお話は、日本史検定講座の加瀬先生の講義をもとに、私なりに編集させていただいてお届けさせていただきました。

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