倭塾第3回公開講座のご案内
今回は知覧特攻基地の母、鳥浜トメさんのお孫さんからお話を伺います。
6月9日(日)15時開始 (受付開始14:30から)
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国立ナポイ劇場
国立ナポイ劇場

ヨーロッパといえば地中海、その地中海の北東にあるのが黒海、黒海の東側にある巨大な海がカスピ海、そのまた東側にあるのが、アラル海・・・
そのアラル海の南、中央アジアにある国がウズベキスタン共和国(O'zbekiston Respublikasi)です。
O'zbek(ウズベク)が民族名、istan(スタン)は「国」という意味です。
ウズベキスタンは、古代からシルクロードの中継地として発展したオアシス都市です。
13世紀にモンゴルに征服されたけれど、14世紀になるとティムール朝が興って、中央アジアから西アジアに至る広大な帝国を築き上げた歴史を持ちます。
そのウズベキスタンの首都、タシケント市に「国立ナポイ劇場」があります。冒頭の写真です。
この建物は、戦後間もない昭和23(1948)年に、約2年の月日をかけて完成しました。
作ったのは日本人です。
シベリアに抑留されていた日本人が、強制労働のためにここ、タシケントに連れて来られ、この建物を築きました。


その後、タシケント市は、二度、巨大な地震に襲われました。
この地震で、市内の建造物は、ほぼすべて倒壊しました。
ところが、その二度にわたる巨大地震に、この建物は、ビクともしなかったのです。
ウズベクの人々は、この国立劇場を眺めて次のように語ってくださっているそうです。
=======
日本人は、戦いに敗れても誇りを失うことがなかった。
骨身を惜しまず働き、立派な仕事を残した。
日本は素晴らしい民族だ。
=======
同じ抑留者でも、ドイツ人たちはロシア兵に反抗し、自分たちの権利を強く主張しました。
ロシア兵たちもドイツ人たちは、同じ白人種であることから、あるていど大目に見ていたそうです。
けれどイエローの日本人は、反抗したら殴られ、殺されました。
それこそ、ひどい差別を受けました。
ですから日本人たちは、黙々と作業しました。
なぜなら、全員無事に日本に帰ろう、そのようにみんなが思ったからです。
「誰ひとり欠けること亡く、全員で日本に帰るのだ」
その思いを、気持ちを、みんなが共有しました。
そして、抑留者だからとって、いい加減な仕事をするのではなく、日本人の意地にかけて、誇りにかけて、しっかりとして良いものを作ろう。
それがみんなの誓いでした。
あの強国日本の兵隊さんたちが、乱暴なロシア兵の前で従順になっている。
はじめのうちは、なあんだと感じたウズベクの人々も、日本人の真面目に働く姿に、次第に尊敬と畏敬の念をいだくようになったといいます。
けれど重労働です。
ナポイ劇場の建造は、500人の日本人抑留者が担当しましたが、そのうち60人が、建築途中で亡くなり、帰らぬ人となりました。
10人にひとりが亡くなったのです。
どれだけひどい環境下にあったか。
使役させられた日本人たちの様子がどうであったのかは、山崎豊子の小説「不毛地帯」に詳しく紹介されています。
裸にされて並ばせられると、すぐ前に立っている男の肛門まで、上から見えた。
ろくな食事も与えられず、全員がそこまでガリガリにやせ細っていた。
建設工事の途中、あまりの労苦に耐えかねたひとりの日本人が、クレーンの先端まで駆け上がって「天皇陛下万歳!」と叫んで飛び降り自殺した等々、涙をさそう逸話が数多く紹介されています。
シベリアに抑留された日本人は65万人です。
このうち、2万5千人が、このタシケント市内の13箇所の収容所に入れられました。
ちなみに「シベリア抑留」というのは、ただソ連によって強制連行され、抑留させられた、というだけではありません。
シベリアに連行された日本人は、旧陸軍兵と満鉄の職員たちですが、実はその多くは技術者でした。
ソ連は、ヤルタ協定を一方的に破棄して対日参戦しました。
そして満洲や朝鮮半島、樺太などを一方的に占有し、日本軍から奪った武器弾薬兵器は、シナの八路軍(中国共産党)や、北朝鮮金日成らに無料同然で売り渡しました。
そして日本人の技術者、満州にあった建造物等の資材等をソ連領内に運び、ソ連のインフラ整備のために無償で使役したのです。
65万人の技術者集団です。
彼らを単に抑留するだけなら、食費やら施設の維持費等で、建国したてのソ連は大赤字となります。
65万人に給料を払うなら、たとえば今の相場で月30万円の給料を出すとなれば、それだけで月に2千億円、年間2兆4千億円の費用がかかるわけです。
それを無休で無給、しかもろくな食事も与えないで使ったわけです。
ソビエト社会主義連邦共和国は、かつて人類の理想郷のように言われました。
とりわけ左翼の人々は、ソ連こそが人類の希望の柱であると信じて疑いませんでした。
映画女優の岡田嘉子(おかだよしこ)が昭和12(1937)年に、演出家で共産主義者の杉本良吉と、極寒のシベリア経由で、二人が理想郷と信じたソ連へと駆け落ち亡命しようとした事件は、あまりにも有名です。
けれど二人はソ連当局によってスパイ容疑で逮捕され、拷問の末、無理矢理スパイであると自供を強要され、二年後に杉本良吉は銃殺に、岡田嘉子はシベリアの強制収容所送りになりました。
この世には、搾取する者と搾取される者がいる。
その搾取する者たちは富を独占している。
だから搾取している富者を殺し、搾取されている民衆にこれを配分すれば、人々は絶対的な幸福生涯を手に入れることができる。
ある意味、たいへんにわかりやすい理屈です。
けれど共産主義のこの思想は、富は労働によって生み出されている、食べ物も労働によって生産されているという、人類にとっていちばん基礎になる視点が欠けています。
金持ちであれ、貧乏人であれ、誰もが同じだけ食わなければ生きてけないのです。
ですから古来日本では、なによりも「みんなが食えること」を大切にし、そのために「みんなで協力しあうこと」を大切なこととしてきました。
けれど、みんなで努力するということは、ある意味、自分勝手が許されないということでもあります。
自分が疲れて、今日は休みたいと思っても、みんなが働く時は、自分も辛いのを我慢して働かなきゃならない。
周囲のみんなにも気を使わなきゃならない。
ですから「わがまま」は禁物です。
ですが、みんながそうやってすこしずつ我慢し、がんばることで、みんなが良くなる。
住み良く安心して暮らせる世の中ができる。
それが日本です。
そういうことを「あたりまえ」と思ってきた日本人の前に、ソ連は「人々は働かなくても、国家から給料がもらえる新しく進歩した国の形を築き上げた」というのです。
実に嘘くさい話ですが、「そんなことはありえない」というと、「だから君は遅れいてるんだ」とやられるから、「そーなのかなあ」と無理矢理納得させられてしまう。
けれど、人々が働かなくても、町のインフラが次々と整い、道路ができ、鉄道がひかれ、建物ができ、あらゆる工業生産物もさかんになり、農業産物も出来上がり、国内の食料生産高も飛躍的に向上する。
ソ連は、現実に大戦後に、それを実現してしまったのです。
ですから労働者たちは仕事をしません。
ほんのちょっと仕事をしているフリをするだけです。
クレムリンが、計画経済○か年計画を策定する。
すると国民はなにもしてないのに、みるみる計画経済が実現する。
きがつくと都市には、ロシア王朝時代にはみかけなかったような立派な建物が建ち並び、農業生産高も、なんと輸出して外貨を稼げるようにさえなったのです。
ですから世界中の人々が、ソ連をまさに理想郷。人類の夢の社会と讃えました。
けれど、誰も生産活動に従事していないのに、労働成果物だけが生まれるなどという手品は、ありません。
そして手品には、必ずタネがあります。
そのタネが、日本人抑留者であったのです。
日本人の持つ高い技術と能力、旧満州にあった機械や設備をまるごと持ち帰って、ソ連の建国のために使役する。
道路敷設、水力発電施設の建設、鉄道施設の充実強化、森林伐採、農場経営、建物建築等々。
旧ソ連は、莫大な国費を要するそれら国内インフラの整備事業を、拉致した日本人65万人を使ってソ連全土で展開しました。
資材は、満洲からのお持ち帰り品です。
おかげで東洋のパリと讃えられた旧満州国の美しい都市は、建物ごと、ソ連に持ち去られ、ほとんど跡形もなくなりました。
満州というのは、何もない荒れ地が、わずか13年の間に、先進諸国の仲間入りできるくらいの都市インフラが行われた国です。
人もモノも全部揃っている。
その満州にある都市インフラを丸ごと奪い、ソ連国内に移送し、しかもそのために必要な労働力は、技術のある日本人を強制抑留して、これを使役する。
気がつけば、ソ連の大衆が何もしていないのに、ソ連は立派な都市インフラの整備された国になっている。
これぞ威信、これぞソ連の正しさの証明と、要するに幻想を、ソ連は国の内外にアピールしていたけれど、なんのことはない、日本人を抑留し、使役し、苛酷すぎるほど苛酷な状況下で強制労働させられていたにすぎません。
この嘘吐きソ連は国が崩壊し、無くなりましたが、いまだに共産主義を信奉し、労働を否定し、太古の昔から官民あげて国のみんなが豊かに暮らしていけるようにと人々が協力しあって築いてきた日本を解体し、滅ぼうと画策する馬鹿者が、いまだにいるということが、私には信じられません。
結局は、共産主義は、ほんの一握りの特権階級だけが、他の多くの人々を犠牲にして自分たちだけがかりそめの贅沢三昧にふける、それはまるでかつての朝鮮半島の特権階級である両班と同じですが、そういうものを希求しようとする、まことにもって不埒不逞のやからの偽装にすぎないと、断じることができようかと思います。

ウズベキスタン
ウズベキスタン

ウズベキスタンで、タケシント市に抑留された2万5千人の日本人は、まさにそうしたソ連という不埒不逞の国家に、銃を突きつけられて、強制労働させられていたわけです。
その日本人がタケシント築いたものは、国立劇場だけではありません。
運河、炭鉱、発電所、学校など、市のインフラに必要な公共施設の工事のほとんどを手がけています。
そして過酷な労働と気候、厳しい収容所生活で、栄養失調や病気、事故などで、合計813人の日本人がこの地で亡くなりました。
しかし、彼らが造った道路や発電所などの施設は、いまでもウズベキスタンの重要な社会インフラとなり、国立ナポイ劇場などは、いまやウズベキスタンの人たちの誇りとさえなっているといいます。
なぜなら、ウズベキスタンの人々は、当時のことをよく覚えているのです。
当時、ウズベクの人々には、日本人が捕虜なのにどうしてあそこまで丁寧に仕事をするのか、そして真面目に働くのか不思議がったそうです。
中山恭子先生が、ウズベキスタンに大使として赴任したのは、平成11(1999)年のことです。
このとき、いまも国民に電気を供給している水力発電所で、日本人が作業をしていた当時、現場監督をしていた人に遭ったそうです。
その監督は、まじめに、そして懸命に汗を流していた日本兵抑留者たちの思い出話を、中山恭子先生に涙ながらに語ってくれました。
前の日に、具合悪そうにしていたけれど、笑顔を向けてくれた日本人が、今日は来ていない。
どうしたのか問うたら、昨夜栄養失調で死んだという。
それほどまでに苛酷な条件下で働かされながら、日本人たちは弱音をはかず、手抜きもせず、工事をまじめに仕上げくれたのだそうです。
体は栄養失調でボロボロです。
なのに一生懸命まじめに仕事をしてくれ、文句も言わず、逆に明るい笑顔さえ向けてくれた。
そんな日本人たちに、何も感謝することができなかった。
何もしてあげれなかった。
そのことがいまでも悲しくて、悔しくて。
それはその監督ひとりの思いではなくて、当時、その状況を目の当たりにしたウズベクの人々みんなの共通の思いだったそうです。
だから、いまでもウズベキスタンの人々は子供たちに、
「日本人のようになりなさい」
と教えているのですと、その元監督は話して下さったそうです。
こんな話もありました。
ウズベキの人たちは、当時抑留されていた日本人たちの姿を見て、
「日本人の捕虜は正々堂々としていた。ドイツ人捕虜が待遇改善を叫んでいたのに対して、彼らは戦いに敗れても日本のサムライの精神をもっていた。強制労働でも粛々と作業につく姿を見て、我々市民は彼らに何度か食料を運んだのです。」
タシケントの郊外に、日本人墓地があります。
細い木で組んだ粗末な十字架が、そこにいくつも並んでいます。
実は、旧ソ連時代、ソ連の上層部から、
「日本人の墓など作ってはならない。墓はあばいて、遺体は捨てろ」という命令があったそうです。
ウズベクの人たちは、日本人の墓を、
「ここは私たちの友人の墓です」と言って、ソ連兵の暴虐から墓を護りぬいてくださったのだそうです。
それは、日本人が作ってくれた建物や発電所などが、いまでもウズベクの人々の生活をささえてくれてることへの、せめてもの恩返しです、とも語ってくださいました。
国立ナポイ劇場には、日本人抑留者の功績を記したプレートが掲げられています。
そこには、ウズベク語、日本語、英語でこう書かれています。
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1945年から46年にかけて極東から強制移住させられた数百人の日本人がこの劇場の建設に参加し、その完成に貢献した。
======
このプレートは、ソ連崩壊後、ようやく独立したウズベキスタンの初代大統領のカリモフ氏が、ウズベキの民衆の思いとして、自ら進んで掲げてくださったものなのだそうです。
ナポイ劇場正面に掲げられたプレート
ナポイ劇場正面に掲げられたプレート

ウズベクに大使として赴任していた中山恭子先生は、ご主人の中山成彬先生に、この話を伝えました。
中山成彬先生は、この話を聞いて、なんとかしよう、せめてウズベクの日本人墓地の整備をしようと、宮崎の事務所を拠点に、元抑留者や応援者たちに声をかけ、寄付金を募りました。
寄付は、宮崎県内から半分、県外から半分が集まりました。
そして中山夫妻は、ウズベクスタンに行き、大統領に「このお金でお墓の整備を」と申し出ました。
すると、ウズベクの大統領は、これを拒否しました。
「亡くなられた日本人に、わたしたちは心から感謝しているのです。ですからこのお金は受け取れません。わたしたちの手で、日本人のお墓の整備をさせてください。」
そして大統領は、国費で、日本人墓地を美しい公園墓地にしてくださいました。
けれど日本で集めた寄付金があります。
大統領とも協議のうえ、このお金は、ウズベクの子供達の学校教材の購入費に充てようということになりました。
そして中山ご夫妻は、パソコンや教材などを買いそろえ、ウズベク政府に寄贈されています。
中山成彬、中山恭子先生ご夫妻
(この笑顔が日本人の笑顔)
中山成彬ご夫妻

そしてご夫妻は、せっかくきれいな公園にしてくださったのだから、その日本人墓地に、桜の木を贈ろうと話し合いました。
ウズベクで亡くなられた日本人抑留者の方々は、きっと生きて日本に帰りたかったに違いない。
だから、せめて、日本の桜を毎年咲かせて、ずっと見せてあげたい。
こういう発想は、心からの深い愛情がなければ出て来るものではありません。
中山成彬先生は、日本さくらの会に交渉し、日本から桜を、ウズベクに配送してもらうよう、手配しました。
ところが、です。
調べてみると、桜の木は弱酸性の土でないと育ちません。
ウズベクの土はアルカリ性です。
これでは桜が枯れてしまう。
そこで日本から弱酸性の土も一緒に運び込みました。
いま、ウズベクの日本人墓地と中央公園には、日本から寄贈された1900本の桜の木が、毎年美しい花を咲かせています。
この話には、さらに続きがあります。
あまりにも桜が美しいことから、タシケントで「桜どろぼう」が出たのです。
桜の木を抜いて、根こそぎ持って行ってしまうのです。
これについては、大統領がなんと国費で「さくら番」を雇って、桜の木の保護をしてくださいました。
シベリア抑留者の悲劇。その悲劇の中でも笑顔を失わず、立派な仕事を残した日本人。
祖国に帰れなかった彼らのために、お墓の整備や桜の寄贈を呼び掛け、これに応じてくださった心優しい日本人。
その心を大切にするために、1年365日、桜番を雇い、警護までしてくれているウズベクの人々の誠意。
国と国の本当の信頼関係というのは、虚偽や捏造や恫喝や武力や支配、あるいはカネのバラマキによってもたらされるものではありません。
時間はかかるかもしれないけれど、勇気、笑顔、信頼、折れない心、そういう人間の持つ善意こそが、国と国との関係において、もっともたいせつなものであると思います。
ウズベクにいまも眠る日本人に感謝を捧げ、ご冥福をお祈りしたいと思います。
そしてまた、そうした事実があることを世に知らしめ、誠実に心を配られた中山成彬、中山恭子先生に心からの感謝を捧げたいと思います。
※このお話については、junhagemayさんが素晴らしい動画にしてくださっていますので、是非、下の動画も併せてご覧下さい。
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