人気ブログランキング
 ↑ ↑
応援クリックありがとうございます。

輪中
輪中

先日「日本人と堤防」の記事を書いたのですが、岐阜のご出身の方から、貴重なコメントをいただきました。
これは本文で紹介すべきと思いましたので、こちらに掲載します。
「匿名希望」の方からのものです。素晴らしい内容です。
薩摩の平田靱負(ひらたゆきえ)と薩摩義士のお話です。
平田靱負は、宝永元(1704)年8月12日の生まれです。
関ヶ原から104年経った江戸中期の人です。
↓ここから引用です。
********************


いつも拝読させていただいております。
ためになる記事を書いて頂き、ありがとうございます。
堤防の話で思い出した事があるので、初めてコメントさせて頂きます。
私は岐阜県岐阜市の出身です。
長良川の恵み豊かな地域で、小学校のときに鵜飼いや治水の歴史について学んだのですが、より深く知り胸を打たれた話があります。
それは、木曽三川公園から伸びる千本松原(油島締切堤)、宝暦治水の話です。
長良川は岐阜市を通り、伊勢湾に流れ込む一級河川です。
現在は岐阜城のある金華山の麓を穏やかに流れ、千年以上の歴史のある鵜飼いがあることで有名です。
その長良川の河口は、木曽三川と呼ばれており、木曽川、揖斐川、長良川が合流して、江戸時代、宝暦治水が行われるより昔は一大デルタ地帯となっていました。

輪中航空写真
輪中航空写真

ここは、川下は三川とも天井川になっていて、周囲の平地より川面の方が高い所にあるという特殊な地形で、一度洪水がおきれば大変な被害が出る所でした。
集落は輪中(わじゅう)と呼ばれる土手で囲んだ中にあり、民家の玄関は地面より2mくらい高くして作っています。
蔵は土台を更に高くして作ってあります。
そして、民家の玄関の天井や蔵には避難用の小舟が梁に掛け渡してある。
つまり、台風や豪雨があれば洪水で土手が切れる前提で生活が営まれていて、いざ土手が決壊したなら天井の高さまで濁流が押し寄せてくるということなんです。
想像できますでしょうか。
増水が始まったら皆で土手に出て、村総出で必死で土嚢を積みます。
女子供は蔵か屋根で様子を見て、もう保たなくなったら、玄関の屋根を破るか、蔵から舟で逃げるということです。
大切な財産と最低限の家財道具以外は濁流に呑まれてしまう。
水が引いて命があれば、また生活基盤を復旧し、暮らす。
この繰り返しで、増水の度に生活基盤が一切合財なくなってしまう、それが輪中の暮らしでした。
輪中は一つのコミュニティーとして成立していますから、それ一つは村として機能します。
もちろん、物流があり、生活があり、人の行き来があります。
洪水になると、みな必死で土嚢を積みます。
そうして、持ちこたえられなかったところ、どこか他の輪中の土手が決壊してザァッと水が引くんですね。
でも、単純に喜べません。
その決壊したよその輪中には、嫁に行った姉さんだとか、自分の恋人だとか、仕事に行ってる息子だとかがいるのです。
下流の川底が高く、複雑に合流と分流を繰り返す木曽三川。
将軍家のお膝元の尾張藩は上流で木曽川の大規模な治水事業を終えていたこともあり、この地の水害を根本的に解決するには、小領の利害を超えて三川を分割する、一体的な治水事業が必要でした。
宝暦3年の大洪水で甚大な被害を出したあと、紆余曲折あり、同年、幕府は治水事業に実績のある薩摩藩に白羽の矢を立てて、お手伝い普請という名目で正式に工事を命じました。
当時幕閣は、有力藩弱体化政策をとっており、関ヶ原で西軍についた外様大名の薩摩藩に多大な出費を課し、あわよくば破産に追い込む目的が大きかったのです。
すでに財政の逼迫していた薩摩藩は、巨額の費用のかかるこの普請の嫌がらせに、「徳川何するものぞ」、「一戦交えるべき」との意見も出ましたが、老中の平田靱負(ひらたゆきえ)は皆を説得し、それを抑えました。
彼は、「縁もゆかりもなく、遠い美濃の人々を水害の苦しみから救済する義務はないかもしれないが、美濃も薩摩も同じ日本である。
幕府の無理難題と思えば腹が立つが、同胞の難儀を救うのは人間の本分である。
耐え難きを耐えて、この難工事を成し遂げるなら、御家安泰の基になるばかりでなく、薩摩武士の名誉を高めて、その名を末永く後世に残すことができるのではないか」
「幕府と戦になれば、薩摩の地は戦場になる。そうなれば、罪のないわが領地の百姓達が沢山死ぬ。治水工事を請ければ、美濃の百姓達は死なずに安泰に暮らせて、仁義の道にも添うことになり、ひいてはお家繁栄に繋がるのだ。」と、皆を説得したのです。
平田靱負(ひらたゆきえ)
平田靱負(ひらたゆきえ)

藩主も平田の意見に賛同し、藩士も説き伏せて藩内の強硬派の矛を収めさせた薩摩藩は、工事を引き受けました。
工事にあたっては、幕府からは「内容は現場で指示する。工費は14万両程度を工面するように」とだけ言われ、詳細は何もわからないまま、命令だけが下りてきました。
1両を2万円と換算しても、およそ28億円の支出になる計算です。
当時すでに66万両の借り入れがあり赤字で経営していた藩では、「いかにして工費をつくる」が一番の問題でした。
藩では、藩債や献納金を募集し、小額な金までも集められる物はすべて集め、その上、美濃へ向かう途中の大阪に老中の平田が残り、砂糖を担保に7万両もの借金をして資金を作りました。
この外にも、藩費節約令を出し、工事の終わり頃には人頭税7倍、牛馬税3倍、船税50倍となり、藩士の給与は大幅に引き下げられたのです。
薩摩の人々が、相当な困難に耐えたのは想像に難くありません。
工事に携わった薩摩藩士は総勢947名。
彼らは、幕府から派遣されてきた役人のあからさまな工事妨害工作や、草履や蓑などの必需品の販売規制、さらに重労働にも関わらず「酒や魚は不要、馳走がましいものを出すな」との命令で、一汁一菜の食事の規制をされるなど、これでもかと圧力をかけられながら辛い仕事にあたりました。
(要するに、暴発を誘導し、不祥事を理由にお家取り潰しのきっかけが作れればしめたものということです。)
工事期間中には、抗議の割腹自殺をした者は記録で拾えるだけで61名に上りました。
しかし、現地責任者であった老中の平田は、抗議の割腹自殺となるとお家取り潰しになりかねないため、自害である旨は届け出ず、「病死とせよ」と指示します。
皆、はるばる美濃まで、1200Kmの道のりを旅した仲間達です。
兄弟家族の顔も知っている部下の藩士達が、次々と命を絶つ現場で、老中という職にあり、どんな苦悩だったか、想像に難くありません。
しかし、苦労を重ね重労働にあたる薩摩義士達は、更なる悲劇に見まわれます。
8月には、炎天下の重労働と乏しい食事のため体力が落ちている所に赤痢が流行し、157名が倒れ32名が亡くなりました。
薩摩義士の像
薩摩義士の像

そこに若き藩主、島津重年は参勤交代の途中に現地を訪れ、藩士たちの労をねぎらいました。
そのとき平田靱負は君臣に着工以来の難工事の様子や幕府役人のいやがらせ、疫病の発生、工事の費用の件などを説明しました。
君臣をはじめ家老らもことの事実におどろき涙されたといいます。
そして藩士たちは、この藩主の訪問で元気を取り戻し、難工事に再び取り組むのでした。
平田靱負
平田靱負

私が大人になってから知ったのは、ここからなのですが・・・
この工事期間中に、薩摩にいた26才の若き藩主、島津重年は、藩士達の美濃での苦境を伝え聞き、
「自分の藩士達が必死になって遠く美濃の地で命がけで働いているのに、自分は安穏と郷里で仕事をしている。
心だけでも彼らと共にありたい。財政も逼迫しているのに、自分だけ殿様の食事などできぬ」
といって、彼らが帰ってくるまで、彼らと同じ一汁一菜の食事を取り続けていたというのです。
こんな主筋の家の当主だから、平田のような老中がいるし、藩士達も命をかけられたのだと思います。
最終的に、多くの犠牲を出して、宝暦治水事業は、宝暦4年(1754年)2月27日に鍬入れ式、着工から僅か15ヶ月後の宝暦5年(1755年)5月22日に完了しています。
工事概要は、
木曽川/木曽郡針盛山を源が発し川長227 km
長良川/高鷲村大日岳を源が発し川長 166km
揖斐川/徳山村冠山を源が発し川長121km 。
この三川の安八郡墨俣付近~桑名市・愛知県弥富町まで堤防総延長120kmの、堤防修復や堤防を新築するという前代未聞の工事を成し遂げたのでした。
総工費は藩をあげて集めた12万両、大阪での借財22万両等を合わせ40万両にもなりました。
現在の金額に換算すると、推定300億円以上になります。
それに対し、幕府の支出は1万両にも足らずと伝えられています。
自分たちの地元に一切の利益はでないこの治水事業に、どれほどの労力を持って取り組んだのか・・・。
工事が完成したとき、役人が最終チェックの検分に来て
「日の本にこれほどまでの難工事成し遂げたものはない」と激賛したのでした。
妨害工作を命じ、藩を崩壊させようとした幕府側の人間をもってして、史上最高といわしめたのです。
工事が終了した報告を薩摩に届けた老中の平田は、翌日、藩の財政を圧迫する巨額の借金を作ったことと、多くの犠牲者を出した責任を取って切腹しました。
辞世の句は
「住み馴れし里も今更名残にて、立ちぞ わずらう美濃の大牧」
というもので、養老町・大牧の工事役館で東の日の出を拝み、西に向き割腹して果てたと伝わります。
平田靱負の切腹
平田靱負切腹

苦境に耐えて、たったの15ヶ月で、日本治水史上最大の難工事を成し遂げた彼らは、一体どんな思いであったのでしょうか。
藩や幕府の利害を超えて、広く日本の同朋の苦境を救わんがために力を尽くした老中・平田靱負。
それにつき従い、腰の刀を鍬に持ち替えて難工事を成し遂げた薩摩義士たち。
この工事は、結果的には、河川の分離は完全には終わらず、一時は洪水が増えたりもしましたが、その功績は偉大で、後世明治の河川分離の工事の礎となり、後の治水工事を完了させることができたのも、この宝暦治水の薩摩藩士の命を削った献身のおかげでした。
後に、この地には、切腹をして果てた老中・平田靱負を主祭神としてまつる「治水神社」が建立されました。
そして岐阜県の海津の堤防には、このとき幕府が薩摩から取り寄せて薩摩義士達が植えた日向松の並木、「千本松原」があります。
治水神社
治水神社

この松並木は土手の強化・防風林の役目を果たすとともに工事完成の記念として植えられたもので、今では樹齢200年を超える立派な松並木になっています。
ちなみに、薩摩が背負っていた借金271万両は、幕府を一切あてにすることなく、砂糖と陶器、泡盛の製造・輸出によって20余年をかけ返済されました。
とっても長くなってしまいましたが、堤防繋がりでご存じでない方にも是非知っていただきたく投稿させていただきます。
長々と、乱文・乱筆失礼いたしました。
参考になりましたら幸いでございます。
==========
匿名希望でご投稿いただいた方、とっても丁寧な文章での投稿ありがとうございました。
理不尽な要求を出した幕府、嫌がらせまで受け、抗議のための切腹者を61名も出しても、それでも工事を完成させた平田靱負、その平田靱負も、藩に迷惑をかけたと言って切腹して果てました。
昔は良い時代だった、という人がいます。
なるほど、良い部分もいっぱいありました。
けれど同時に、武士道も江戸社会も矛盾に満ちていました。
戦前も戦後も、様々な理不尽や矛盾に満ちています。
いつの時代も、誰もが様々な矛盾に満ちた社会の中に生きています。
それ自体は、今も昔も同じです。
ただ、現代社会と日本の昔の有り様が異なるのは、いまの日本では戦後教育の産物で、歴史を知らず、未来を考えず、「自分さえ良ければそれでいい」「いまさえよければそれでいい」と考える人が、あまりにも増えすぎている、という点です。
矛盾に満ちていれば、逃げれば良いとする今の日本。
矛盾そのものに、命をかけて立ち向かっていった昔の日本。
どこまで逃げても、日本人に産まれた以上、どこまで行っても日本人なのです。
ならば、みんなで、すこしでも住み良い日本にするために、立ちあがろうじゃないですか。
私たちは日本人なのですから。
《治水神社》
http://kaizukanko.jp/tabid/199/Default.aspx
人気ブログランキング
 ↑ ↑
応援クリックありがとうございます。
励みになります。
薩摩義士しのび「光の川」 2012年5月24日

コメントは受け付けていません。