
第68回の春の院展に行ってきました。
これは岡倉天心が創始した絵の展示会で、日本画美術界の最高峰と目される画家たちがしのぎを削った代表的新作をそれぞれが展示開催する絵画展です。
http://www.mitsukoshi.co.jp/store/1010/inten/
ありがたいことにご招待をいただき、ものすごく楽しみにして行かせていただいたのですが、行って正直、がっかりしました。
素人の私が申上げるのは生意気なのですが、日本画の画展でありながら、あまりにも技巧に走りすぎ、日本画本来の美しさや良さが、忘れ去れているという感じがしたのです。
日本画の良さは、その文化性にあります。
絵がただの写実なら、現代社会において、それはどこまで行っても写真に敵いません。
絵が写真とは別な、おもしろさや深みをもつのは、そこに歴史や伝統に基づく文化性があるからではないかと思うのです。
基本的に、人間の視覚は、光でものを見ます。
ですからたとえば人物の顔なら、光沢やそこから生まれる質感などで対象の顔を見ている。
早い話が、真っ暗闇では顔は見えません。
顔や姿カタチが見えるのは、そこに光と、面があるからです。
ところが日本画というのは、対象を光や面で捉えるのではなく、線で捉えます。
画材も、水彩絵の具ですから、光を反射するというよりも、むしろ吸収する。
洋画のような油絵の場合は、油絵の具そのものが、油で光を反射するし、それを重ね塗りすることで量感や質感が表現できます。
ところが、日本画はそれをしません。
なぜそうなったかといえば、答えは簡単で、洋画が基本的に額に入れて飾る額装の絵として発展したのに対し、日本画は、掛け軸などにして、巻いて保存しました。
紙を巻いてしまうのですから、油絵のように重ね塗りをすると、絵の具のがバリバリと音を立ててはがれ落ちてしまいます。
ですから、日本画の画家たちは古来、水彩絵の具の薄塗りで、絵に深みを出すことを修練の目的としてきたのです。
重ね塗りができないのです。
ですから当然、そこには、量感や質感を出すのに、ハンデがあります。
そのハンデの中で、立体感や質感を出すためにどうするのか。
リアリティを出すためにどうするのか。
そこが画家たちの修練だったわけです。
これはたいへんに難しいことです。
ただ絵が描けるというだけではダメで、重ね塗りができない、油絵の具が使えないという一定の制限の中で、人々に感動を届けるのです。
昔の画家たちは、それを真剣に考えていたから、絵に、素人の出る幕などなかったのです。
下にある絵は、喜多川歌麿のビードロを吹く女と、レオナルドダビンチのモナリザです。
どちらも有名な絵です。

ひと目ご覧いただいたらおわかりいただけますように、モナリザは、光沢と質感のある油絵の具を用いて巧妙に光を演出することで、その表情に深みをもたせています。
その深みのある表情が、時代を超えて多くの人に感動を与えています。
これに対し、歌麿の絵の女性は、どうみても現実にはこの世に存在し得ない顔立ちをした女性です。
顔の大きさと手の大きさのバランスも、きわめて非現実的です。
そして顔の造作も表情も、おもいきってデフォルメされていて、さらに背景も書込まれていません。
絵から余計なものを一切省いています。
ところがその表情をじっと眺めていると、ピードロのポコポコいう音がまるで聞こえて来るかのようです。
そして女性の表情は、そのビードロの不思議な音に、
「・・・・」や、
「!」といった記号でしか書けないような複雑な表情で描かれています。
女性は紅白の柄のついた振り袖を着ています。
ですから独身の女性であることがわかります。
けれど、あごのラインが二重あごに描かれています。
ですから、独身とはいっても、年齢的には、すこし上の女性のようです。
けれど、その「ある程度の年齢に達した独身の女性」が、まるで童女のような表情でピードロを吹いています。
この絵に吹き出しをつけて、セリフを入れるなら、「・・・」とでもなるのでしょうか。
女性には、恋や、さまざまなご苦労や悲しみの幾歳月があったことでしょう。
そうした幾歳月の記憶を、まるで日記帳の扉を閉じるようにフタをして、無心に、繊細なビードロで、ポコポコと音を立てている。
背景はありません。
ですから場所は、お祭りの神社の境内なのか、はたまた旅籠や自分の部屋なのか、あるいは遊女のような置屋の二階なのか。
絵の背景の空間になにがあるのか、観る人の想像力を駆り立てます。
そして絵は、女性の苦労や悲しみ、喜びなど、言葉にできないほどのたくさんの情念や想いまでも見る者に想起させてくれます。
それだけではありません。
この歌麿の絵は、版画にしても耐えられるように、限られた色彩だけで描かれているわけです。
ですから当然に重ね塗りのような技巧は、一切使えない。
そうした制約のなかで、観る人の感情を刺激する、時代を越えた名画ができあがっているわけです。
ですから、この絵は、漫画とも異なります。
漫画なら、一連のストーリーの中のひとつのカットです。
そのとき、その瞬間の喜びの表情や、悲しみの表情が描かれる。
けれど日本画は、たった一枚の絵から、さまざまな空想や連想が広がる。
その空想や連想が、感動を生む。
雪舟の水墨画での風景も、俵屋宗達の屏風画の風神雷神も、近代における上村松園の美人画にしても、無駄を省きながら、対象をおもいきりデフォルメし、さらに物語や題材、あるいは絵の題などを通じて、観る人に深いメッセージと感動を与える。
それが、日本画の特徴だと思うのです。
ところが今回、院展に行って感じたのは、どの絵も、日本画でありながら重ね塗りの技巧に走り、といって油絵の具ではないから、その踏み込みは中途半端なものとなり、技巧だけに走りながら、本質的に油絵に及ばず、中途半端さだけが残る絵があまりにも多いように感じました。
ですからそこに感動がない。
さらにひどいのが人物画で、写実にこだわりながら、線と水彩絵の具を使うから、結局そこに描かれた人物には、なんの物語性もない、ただの漫画のヒトコマにしかなっていない。
申し訳ないけれど、これでは高校生の画展とかわらないとさえ感じました。
また、一枚一枚の絵には、それぞれ「題名」があるのですが、これがまたいけない。
具体的に展示してある絵の題名を挙げると個人攻撃みたいになってしまうので、あえてここではどの絵とは描きませんが、およそ展示してあるどの絵も、似たり寄ったりで、たとえば「雨上がり」というタイトルの絵であったとすると、そこに雨に濡れた歩道が描かれている。
「だから何?」といいたいのです。
雨上がりの歩道から、何を連想させようとするのか、どのような感情を観る人に伝えようとするのか、そういうメッセージ性、連想性、発展性が、まるでない。
ただ、技巧的に水彩絵の具を重ね塗りしながら、なんとなく雨上がりぽい歩道を描いているだけでは、そこに文化性のカケラもないように思うのです。
もうしわけないけれど、これでは日本画の死亡です。
日本画というのは、まさに日本らしさの中の日本らしさそのものの世界だと思うのです。
つまり日本画は、本物の日本文化そのものです。
けれど日本人が日本文化を知らず学ばなければ、そこから日本文化は消え、日本的文化性のない技巧しか残らない。
要するに、日本画の死亡というのは、日本の死亡そのものを暗示しているようにさえ感じたのです。
ですから、院展を見ていて、たいへんに悲しく、情けない気持ちで一杯になりました。
美というのは、ある意味、制約の中に生まれて来るのだと思います。
西洋の中世の額装の絵なら、光そのものを演出できる油絵の具を用いながら、動いている時を、額という四角いスペースの中にとどめる。
近代絵画なら、そこに日本画の手法を取り入れて、おもいきったデフォルメを施す工夫がなされ、さらに現代絵画では、写実からさえも離れて、光と面によって鑑賞者に無限の想像力を駆り立てる工夫がなされた数々の名画が誕生しています。
これに対し、最近の日本画は、ただ画材を重ね塗りするという技巧だけが独り歩きし、肝心の日本の文化性を喪失している。
これではおそらく世界の共感が得られることは、まず「ない」と断言できようかと思います。
大阪万博で岡本太郎が制作した太陽の塔は、縄文式土器のハート形土器とアマテラスをアレンジした日本文化に立脚した作品として世界的に有名です。
宮崎アニメは、世界的大ヒット作品となっていますが、「風の谷のナウシカ」にしても「天空の城ラピュタ」にしても、「トトロ」、「もののけ姫」など、そこに描かれた世界観は、日本神話の世界そのものでした。
日本のマンガ文化が世界中で共感を得ているのは、日本マンガにある主人公たちの対等な仲間という共同体が、支配と隷属を旨とする社会と対決し、勝利していくという、これまた日本的文化意識が色濃く反映した作品群であるからといえようかと思います(このことは以前、日本アニメと対等意識という記事で、詳しく書かせていただきました)。
今回の院展で、全出品作品を拝見させていただきましたが、数ある作品のなかで、唯一、日本文化を主張していたのは、高橋天山氏の「木花之佐久夜毘売(コノハナサクヤビメ)」だけでした。

この作品は、雪の白富士に、薄い虹がかかり、木花之佐久夜毘売が空に舞う、そんな絵でした。
重ね塗りといった手法は用いられず、線と薄い水彩画材で描かれていて、なぜかすこし痩せてみえる富士は、重ね塗りなどないのに、手前にぐっと張り出した強烈な立体感を持ち、絵の下に小さく描かれたヒメは、衣をなびかせています。
記紀に出て来る女性の神様の中で、もっとも美しい名前を与えられたこのヒメは、桜の神であり、またお酒の神でもあります。
富士と桜といえば、日本の象徴ですが、富士にあえて木花之佐久夜毘売をあしらい、虹をあしらうことで、ヒメの美しさを演出しています。
そして木花之佐久夜毘売は、安産の神、子育ての神でもあります。
富士の山は、不死の山、その不死の山から、まるでコウノトリが子を運んで来るような姿でコノハナサクヤヒメがいまにも降臨しようとしている。
どこか麓の家で、いま、子が産まれようとしているのでしょうか。
そしてコノハナサクヤヒメは、ニニギノミコトと結婚しますが、姉のイワナガヒメをニニギが拒否したことで、以降の神々の命が有限となったという神話をもちます。
雄大な富士は、不死の山でもあり、その山と命に有限をもたらしたコノハナサクヤヒメが一体として描かれる。
また木花之佐久夜毘売は、ニニギとの間に三人の子をもうけ、そのまた子、つまりコノハナサクヤヒメの孫が、初代神武天皇でもあります。
日本の代名詞ともいえる富士の山と、日本の初代天皇の祖母にあたる子安の神コノハナサクヤヒメのとりあわせ、虹の架け橋。
日本美の原点ともいえるさまざまな物語が、この一枚の絵から次々と連想されてきます。
要するにこういうことが、絵が文化を背景とする、ということなのではないかと思うのです。
冒頭に書きました通り、私のような絵の素人が申上げるようなことではないかもしれませんが、日本画を愛する者のひとりとして、私は院展に出品されるような日本を代表する日本画家の先生方たちに、是非とも申上げたいのです。
それは、日本画である以上、日本文化を学び、描くという、そうした日本画の原点を、いまいちど見つめなおしていただきたいということです。
なぜならそうすることが、日本画を世界に誇れる日本画文化に育てて行く唯一の道だし、日本画の本当の素晴らしさが生きる道なのではないかと思うからです。

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