
時代劇に出てくるような日本の商家といえば、店主がいて、番頭さんがいて、手代(てだい)さんがいて、丁稚(でっち)とよばれる少年たちがいて、という姿を想像される方が多いかと思います。
けれど実際には、そうした体制をとっているのは、ある程度の大店(おおだな)の話、小さな、いまでいう中小零細の商家の場合は、「家」というカタチをとっていました。
それがどんなものかというと、まず店主は「親方」です。先輩社員が「兄貴分」、その中のリーダー的存在が「若頭」、古参ないし仕事の出来不出来によって社員たちには順位がつけられていて、これらがまとまって「若衆」、入社間もなくまだ後輩のいない社員は「新入り」です。
なんだかそんな用語を聞くと、ヤクザの世界?なんて思ってしまうかと思いますが、実は普通の商店においても、その組織形態は、同じです。
なぜそうなるのかといえば、店主である親方を実の親と同じ存在に見立てて、社員みんなをその「家族」に見立てていたわけです。
日本は、初代神武天皇が大和の国の橿原(かしはら)に都を定めたとき、「六合(くにのうち)を兼ねて、もって都を開き、八紘(あめのした)をおおいて宇(いえ)と為(せ)んこと、またよからずや」と詔(みことのり)を発したとされています。
天の下をおおう家となろう、というわけですから、国全体がひとつの家族となり、互いに慈しみあい、互いに励ましあい、助け合って国を発展させて行こうという意味です。
これを「八紘一宇(はっこういちう)」といいますが、戦後の学者たちはこれを「日本が海外侵略を正当化する標語」だと決めつけました。
けれど諸外国のように、権力者が民間人を平気で虐殺したり、その財産等を奪い、蹂躙する様子を考えれば、みんなが家族となろうという理念には、そういう残虐さは介在しようがありません。
こういう点なども、「心が歪めば、周囲のすべてが歪んで見える」という人の性のさもしさを感じます。
さて、商店は、どこもそうですけれど、最初に起業した時点では、店主ひとりの活躍がものをいいます。
行商をしたり、台所にたったり、それこそ生産活動から、営業活動、帳簿処理にいたるまで、その全てを店主自身がやっていかなければなりません。
そしてお店がすこし大きくなると、店員を雇うようになります。
店員も、規模の小さいうちは、女房であったり、息子さんたちであったりしますが、それがだんだんお店が大きくなると、他人さまを雇うようになります。
その雇った他人様を、家族として迎え入れるから、店主は親方となり、先輩は兄(あに)さんとなるわけです。
そして肉親としての兄弟は、長男、次男、三男、四男と、生まれた年に従って順番があります。
ですから、店員も、同様にその順番が付けられます。
ときおり、長男、次男よりも、四男坊がとびきりの才能をもった人だったりすることもあります。
けれど、基本的にこの兄弟の順番は変わりません。
ただ、役割や責任の範囲が異なって来るというカタチがとられました。
そしてお店がさらに大きくなると・・・実は今日の最大のテーマがここなのですが・・・兄弟分の順番とは別に、番頭、手代、丁稚といった組織上の役割が振られます。
番頭さんというのは、実は、店主に代わって店を切り盛りする、いわば総責任者です。
人事、総務、経理財務、営業、管理、監査等、お店の経営活動の一切を切り盛りする責任者です。
つまり、いまの会社でいえば、社長の役割をこなすのが、番頭さんです。
「あれ?! 番頭さんが社長さんなら、店主はどうなっちゃうの?」
実は、ここがたいへん重要なところです。
番頭さんも、手代さんも、丁稚君も、全部が店主によって雇われた者たちです。
そしてお店も、店主のものです。
極端にいえば、番頭さんも、手代さんも、丁稚君も、店員さんたち全員が、店主のいわば「私有民」です。
けれど店主は、君臨するけれど、統治はしません。
統治の一切は、番頭さんに委ねるわけです。
このことを店員さんの側から見ると、店員さん達は、統治権をふるう番頭さんの私有物ではない、という明確な線が引かれることになります。
つまり、店員さん達の地位は、君臨している店主によって担保され保障されているという関係になります。
商家という組織内にあって、番頭さん、手代さん等には、もちろんそれぞれの役割分担があり、責任範囲があるのだけれど、基本的に全員が、一家、すなわち家族であって、そのなかに奴隷の存在が認められない、いいかえれば、全員が、その一家の家族として、人として対等な関係が、そこに生まれるわけです。
このことを、西洋で生まれた株式会社などと比較してみると、その違いが鮮明になります。
株式会社は、資本家が株主となり、優秀な社長を雇って商売をやらせ、その利益を株主が不労所得として吸い上げるという仕組みです。
この場合、株主に雇われた社長にとって、社員はいわば「手駒(てごま)」であって、そこに人格権はありません。
なぜなら社長は、株主に利益を還元するためだけに存在し、その利益をあげるために社員を利用するからです。
利用価値がないなら、首を斬る。
だって、家族でも身内でもなんでもないのです。
利用価値のない社員を手元においていたら、それだけ会社の業績が悪化する。
悪化すれば、社長は株主から自分の首を斬られるのです。
そういう意味で、株式会社は、利益を上げることに特化した組織形態であるということができます。
そこで問題になるのは、株主にどれだけの配当を出せるかだけであり、社員の人を育てるとか、人材を育てるという発想さえも、利益をあげて配当金を伸ばすためだけのいわば手段でしかありません。
ですから、欧米では、言うことを聞かない社員は、即、その場で首を斬ります。
上司はボスであり、ボスの命令に背く者は、その瞬間に存在価値を失うからです。
一方、社員の側は、そうそう簡単に首を斬られては生活に困ってしまいますから、集団で団結し、組合を作ってハチマキを巻き、経営側と対峙しようとします。
そしてさらには、裁判に訴えて国家権力によって不当を糾そうとまでします。
考えてみると、実にやっかいなことをしているわけです。
ところが不思議なことに、こうした体制に徹した企業で、五百年、千年と続いた企業はありません。
なぜか短期間に高収益をあげ、なんとかドリームを達成するものの、業態が長く続かない。
気がつくと倒産して、この世から消えています。
逆に、長く持っている企業では、たとえばロスチャイルド家のように、家を単位とし、日本の商家に非常に近い体制をとった会社です。
ロスチャイルド家というと、すぐに陰謀説を思い浮かべる人もあるようですが、実は、欧米で五百年、千年と続く企業は、日本型の「商家」と同様に、家主が君臨すれども統治せず、という仕組みを持った企業であるという点は、実におもしろい展開であるように思います。
これに対し、古くからある日本型経営というのは、店主がいて、店の全ては店員も含めてぜんぶ店主のものだけれど、その店主は(あくまでも大店の場合ですが)、店の切り盛りはしません。
ただ、店主として君臨しているだけです。
実際の経営は、店主によって任命された番頭さんが切り盛りしますが、なぜ番頭さんにそれができるかというと、番頭さんの権限は、店主によって認証されているからです。
つまり、店主の権威によって、番頭さんは権限をふるうことができるわけです。
その番頭さんは、たとえば気に入らない店員がいたとしても、そうそう簡単に、その店員の首をきることはできません。
なぜならその店員が、「番頭さん、オレはあんたに雇われているわけじゃないんだよ」と言われれば、番頭さんは二の句が継げない。
番頭さんが首を斬ろうとするならば、店主をはじめ、周囲のみんなに、充分にそれを納得させなければなりません。
また、店員さんたちは、もちろん番頭さんの言うことを聞いて、目先の利益をあげることにも努力するけれど、店主によってその地位を保障されていることから、目先の利益や、いまの役割をまっとうすることだけでなく、お店の将来、あるいは自分の将来にとって役立つ勉強をかさね、いつかは番頭さんのような立派な人になろうと努力していきます。
そしてそうやって努力を重ねた者が、次の番頭さんになるわけです。
もうすこしまとめると、日本型商店経営というのは、実は、店主は君臨すれども統治せず、つまりある程度大店になると、番頭さんがすべてを切り盛りしていて、店主はそれに口出ししない。
けれどすべての店員は、店主によって雇用された者たちという関係になっています。
こういう関係になることによって、店員達は番頭さんの私物にならない。
人として、仕事に邁進できる。
実は、こうした仕組みは、日本という国、全体においても、同じ体制がとられていました。
というよりも、日本という国柄が生んだ国の形を、知らず知らずのうちに、商家においても模倣していたと言った方が、正しいといえます。
どういうことかというと、世界中、どこの国においても、民は、豪族や王たちの私有民です。
私有民と書くと聞こえはいいですが、生殺与奪の権を持たれてしまっているのですから、早い話が奴隷と同じ、動産でしかありません。
古来、民は、権力者の動産ですから、当然のこととして、そこには人権など認められていません。
これが世界の常識です。
ところが日本には、天皇がおいでになります。
豪族たちの権力は、その天皇の権威によって与えられたものにすぎません。
そして豪族たちが支配する民たちは、天皇の民とされました。
これが何を意味するかというと、日本における民は、豪族たちの私有民(動産)ではない、ということです。
日々の生活においては、豪族や大名たちの支配の中で、日本の民は生活しています。
けれど、その民の立場は、豪族や大名などの私有民ではありません。
なぜなら、民衆は天皇の民だからです。
つまり日本は、天皇という存在によって、民衆が豪族や大名といった政治権力者の私有民とならずにこれた、世界でも希有な国柄であったということです。
このことのありがたみは、日本の国から、天皇の存在をないものと考えたら、すぐにわかります。
天皇の存在がなくなった瞬間に、民は、豪族や大名、あるいは昨今なら企業経営者やお金持ちの資本家たちの、ただの私有民になるからです。
繰り返しますが、私有民というのは、ただの動産です。
そして、たとえ人間に生まれても、ただの動産として扱われるというこは、奴隷となって生きることを規程されるのと同じだ、ということです。
日本人は、なんだかわからないけれど、天皇という存在をありがたがる、といいます。
それは実は、当然のことなのです。
天皇という存在があるからこそ、私たち民衆は、支配者の私有民や動産、奴隷とならずに済んでいるからです。
そしてその天皇は、初代神武天皇が、民衆も含めて、みんなが家族の一員だと規程してくださっているわけです。
だからこそ、ありがたい。
だからこそ、感謝する。
そういう国柄が、そもそもの日本の姿です。
そしてそういう、権威と権力を切り離すという、実に単純明快な方法によって、日本には古来、奴隷という存在を持たない国を形成してきた、それが日本です。
現行の日本国憲法は、天皇の存在を、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴(第一条)」としています。
けれど、これは言葉が違うと思います。
天皇は、「日本国最高の権威であり日本国民統合の象徴」が、本来の姿に近いかと思う。
あるいは大日本帝国憲法では、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス(第一条)」とありますが、これが正しい憲法のあり方であろうと思う。
なぜなら、天皇がいてくださることによって、私たち民衆は、権力者の奴隷にならずに済んでいるからです。
反日思想の人たちは、ことさらに天皇の存在を否定しようとします。
なぜでしょう。
私には、彼らは「肩書きや地位で、権力を欲しいままにしたがる、きわめてさもしい性根の人」にしかみえません。
なぜなら、天皇の存在がなければ、民衆は、ただの私有民になってしまうからです。
一部の権力者だけが王侯貴族のような優雅な生活を満喫し、多くの人を私物、あるいは物として支配する。
そういう社会体制が、ほんとうに民衆にとって幸せをもたらす社会体制といえるかどうか。
それを考えたら、答えはあまりにも明確なことではないかと思います。
先日、民主主義について書きましたが、民主主義といっても、結局は権力者が民衆から収奪するという社会体制を産んでしまうということを考えれば、皇国2700年という世界一長い期間にわたって日本が日本であり続けた体制の本質(私はこれを皇民主義と呼んでいます)が何かを知り、そのことの凄味をちゃんと踏まえて未来を築くことが、結果的には、民衆にとっての幸せな国つくりになるといえるのではないでしょうか。

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この動画を観てわかるのは、かつて日本の皇民となることで近代化を押し進めた韓国が、戦後その皇民日本を否定することで、結果としてどうなっていくのかを象徴してるということといえるのではないでしょうか。つまり日本も天皇を否定したら、この動画のようになってしまう危険がある、ということです。
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