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池坊-1

ある施設に行ったときのことです。
入り口に、豪華絢爛な生花が飾ってありました。
それは、まるで孔雀(くじゃく)が羽根を広げたように、白い胡蝶蘭を縦横1.5メートルくらいにいっぱいに飾り付けたもので、その隣には、赤いバラを同じく巨大なオブジェに仕立てたものでした。
ひとことでいえば、白の胡蝶蘭に、赤いバラと、紅白仕立てでおめでたさを演出したものなのでしょう。
たぶん、ひとつが何十万円(もしかしたら何百万円)のシロモノです。
観て、びっくりしました。
あまりの豪華さに、しばらくみとれました。
でもしばらくすると、すこし不愉快になりました。
なぜだろうと自問してみました。


答えは簡単に見つかりました。
品(ひん)がない、と感じたのです。
たしかに美しく飾った花なのですが、そう感じたのは私の主観ですから仕方がありません。
品というのは、いまでこそ品物の「品」と書きますが、もともとは「貧」です。
「貧(ひん)がある」というのは、どんなに生活が豊かになり、なに不自由ない暮らしができるようになったとしても、貧しかったときの心を忘れない、その心がある、ということです。
ですから絢爛豪華に飾り付けられた盛大な胡蝶蘭と生花をみたとき、あまりの成金趣味というか、貧のなさを感じて、不愉快に感じたのだろうと思いました。
「花を飾る」という習慣そのものは、世界中、どこの国にもあるものです。
歴史は古く、なんていうよりも、たぶん、人種の垣根を越えて、人類発祥の頃から世界中で愛され、飾られてきたものです。
けれど、花を飾るときの精神は、たとえば欧米や支那と、日本のそれは異なります。
欧米では、花を飾るのは、フラワーデザインと呼ばれ、花そのもののを、幾何学的に整合のとれた姿に配置します。
日本と支那の生け花は、欧米のものといくぶん異なっていて、器などを用いて花器と花との合体によって空間を演出します。
ただ、日本の生け花と支那の生け花では、その飾り付けや色使いが大きく異なります。
支那のものは、空間に豪華さを演出します。
これに対し日本の生け花は、できるだけ無駄を省き、どこか侘び、サビというか、要するにさきほど述べた、どこか「貧」を持たせます。
生け花のことを華道といいますが、日本における華道の歴史は古く、宗家ともいえる池坊は、1400年の伝統があります。
おもしろいもので、「華(はな)やかな道」と書いて「華道(かどう)」なのですが、そこで学ぶものは、むしろ極力無駄を省いたヒンの世界です。
華道には様々な流派がありますが、どの流派でも花器と花とをとりなす空間をとても大切にしていて、決して華美に陥らず、地味でいながら、ちゃんと存在を見せている、そんな作品に仕立てます。
ひんがあるというのは、どこかちょっと遠慮めいたものがあるのかもしれません。
その、ほんのちょっぴりの遠慮が、たまらなく人を惹きつける。
絢爛豪華とは対極にあるものが、そこにあります。
日本文化というのは、たとえば和歌や俳句、あるいは絵画にしても、決して全部見せるわけではなくて、一歩しりぞくことで、受け手に無限の想像力をかき立てさせる。
そういう特徴があるように感じます。
戦後、長い間、私達日本人は、日本的なもの、日本に古くからあるものをダサいとか、国際的でないとか言って否定してきたように思います。
けれどいま、世界で高く評価され絶賛されているものは、その私達戦後世代が否定してきた日本的なもの、日本的価値観に基づくものばかりです。
華道も、いまや世界の華道です。
そしてよく考えてみれば、戦後の高度成長を築いたのも、戦前の勤勉の教育を受けた戦前派、戦中派の人たちのリーダーシップのおかげでした。
その戦前派、戦中派の人たちが年齢とともに引退し、戦後派が社会の中心となったとき、日本の衰退が始まっています。
いま、「日本を取り戻す」という言葉が、ある種の標語となっていますが、それはきっと日本的精神や日本的価値観を取り戻すということなのであろうと思います。
そして取り戻すだけの価値が、この日本にはたくさんある。
そのためにも、私達は、いま、あらためて日本を学ばなければならないのかもしれないと、思いました。
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日本の心 夕焼け小焼け

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