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後醍醐天皇
後醍醐天皇

ずいぶん昔のことになるのですが、司馬遼太郎が文芸春秋の冒頭言だったか、街道を行くだったかで、友人の作家が「太平記」を書こうとしていることに触れ、「あの時代はまさに権謀術数渦巻いた時代で、その時代を書こうとすると、たいていの人は頭がおかしくなってしまうので、やめたほうがいいと話した」と書いていたことがあります。(30年以上昔の話なので、ウロ覚えです。)
「太平記」は、室町時代に書かれたとされる本で、現存するものが全40巻もある長編で、後醍醐天皇の即位から鎌倉幕府の滅亡、建武の中興の失敗と南北朝分裂、南朝の怨霊の跋扈による足利幕府の混乱までを描いた物語です。
原典があるわけですから、源氏物語や義経記のように、現代版の小説になりやすそうに思えるのですが、にもかかわらず、なぜ太平記を扱うと「頭がおかしくなる」のかというと、その時代が権謀術数渦巻く時代であった(もしそうなら逆に小説のおもしろい題材になります)ということ(表面上の理由)ではなく、実は、太平記の時代を扱うと、どうしても触れなくてはならないこと(隠れた理由)があるからだといわれています。
では、それが何かというと、実は、日本における天皇とは何か、という問題なのです。


この時代、鎌倉幕府が崩壊し、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が建武の中興(けんむのちゅうこう)を興しました。そして、これが崩壊し、足利幕府が誕生する。
「建武の中興」は、最近の学校の歴史教科書では「建武の新政」と教えているそうですが、左前の日教組に汚染された教科書が、あえて表記を「中興」から「新政」に変えているところなども、なにやらキナくささを感じます。
この太平記について申し上げる前に、すこしこの時代の背景を述べてみたいと思います。
建武の中興があった時代の前の時代といえば、鎌倉幕府の時代です。
鎌倉幕府は、源頼朝の開幕(1192年)から幕府滅亡(1333年)まで、141年続いた政権です。
開幕から82年経ったところで起きたのが、元寇(文永の役1274年)です。
教科書によっては、鎌倉幕府はこの元寇のときに活躍した武士たちに恩賞を払えずに倒産した(笑)と書いているものもあるようですが、これは違います。
なぜなら元寇以降も半世紀も幕府はその権威を保っているからです。
ではなぜ鎌倉幕府が崩壊したかというと、それには別な理由があります。
相続制度です。
鎌倉武士たちの相続制度は、いまの日本と同じで、子供達全員への財産の均等配分方式です。
実はこれはたいへんな問題をはらんでいます。
鎌倉武士というのは、もともとは平安時代に生まれた私有地(新田)の領主たちで、それぞれが広大な領地を保有していました。
彼らはその領地で、一族郎党を養い、その領土を武家の棟梁(とうりょう)である幕府に安堵してもらうという御恩を受け、その御恩に対するお礼として、一朝、ことあれば、いざ鎌倉へと出陣する、つまり「御恩と奉公」の関係にあったわけです。
そしてその領地は、それぞれの武家の「家」を単位にまとまっていました。
ですから子がいなくて「家」がなくなってしまっては、安堵してもらう領地があっても、安堵してもらう人がいなくなるわけですから、一族郎党が土地を失い、みんなが飢えてしまいます。
つまり、彼らにとって、子を残すということは、たいへん重要なことだったわけです。
ところが、昔は、子供というのは、たいへんよく死んだものです。いまでこそ、一人っ子でも、その多くは成人を迎えることができますが、一むかし前までは、子が成人できるということ自体が、めずらしいことといってもいいくらい、たいへんなことだったのです。
ウチの祖母の時代でも、戦前のことですが、祖母は4人の男子を産んだのですが、そのうち2人が幼くして病没しています。昭和のはじめですらそうなのです。
江戸時代の後期、桜田門外の変で殺害された大老・井伊直弼は、井伊家の14男坊です。長男が家督を継ぐ時代に、なぜ14番目の男の子が家督を継いだかといえば、別に彼がとびきり優秀だったからということではなくて、1番めから13番めまでの井伊家の男の子たちが、みんな病没してしまったからです。
それくらい、子を大人にまで育てるというのは、実はたいへんなことだったのです。
ましてや井伊直弼の時代より600年以上も昔の鎌倉時代です。子が成人するだけでも困難な時代に、御家人たちが家を残そうとすれば、それなりに子をたくさんもうけなければなりません。
当然、子だくさんになり、そのうち幾人かが家督を相続します。
ところが、ここでの相続が、均等配分方式だったわけです。
するとどうなるかというと、仮に100人を養えるだけの土地があり、子が二人だったとすると、最初の相続では、50、50に土地が分割されます。これが二代目です。
次の世代になると、25になります。これが三代目。
四代目になると、12.5です。
五代目になると、6.25
六代目になると、3
七代目になると、1.5
八代目になると、0.75
つまり、七代目にはもう夫婦で食べて行くことすらできず、八代目になると家が崩壊してしまうわけです。
この時代、元服も結婚も早かった時代ですから、一世代はおよそ20年で交替しています。つまり20年×7代=140年で、見事財産が崩壊し、幕府も崩壊してしまうわけです。
実際、鎌倉幕府は数式通り141年目に崩壊しています。
こうして田を分けてしまうことで、国を滅ぼし、家を滅ぼすことを、後年の人は嗤って「田分け(たわけ)」と呼びました。
よく時代劇などに出て来る「たわけものめがっ!」の「たわけ」です。
鎌倉幕府は、こうした相続制度の欠陥による御家人たちの窮乏から、開幕から105年目の1297年(相続四世代目)には「徳政令」といって、御家人たちの借金帳消し令などを発布しているのですが、これは要するに破産宣告です。
現代社会でもそうなのですが、破産宣告を受けたら、もう借金はできません。
借金しなければ生活できないのに、借金ができないとなれば、これはもたいへんなことになります。
こうして鎌倉幕府は、政権運営主体としての信用を落とし、結果として1333年に崩壊してしまうわけでです。
こうした世間の混乱に対して、これをなんとかおさめようとして立ち上がったのが、後醍醐天皇でした。建武の中興です。
鎌倉政権というのは、天皇が認証を与えることによって成立している政権なのです。
その鎌倉政権が、事実上崩壊してしまったというなら、誰かが幕府にかわって政治の指揮をとらなければなりません。
私は、個人的には、後醍醐天皇というのは、とっても責任感がお強く、また男気の強い(ということはある意味、お人好し)な、人間味豊かな天皇であったろうと想像しています。
というのは、後醍醐天皇は、鎌倉幕府崩壊にともなう社会の混乱に、これを「権力に認証を与える存在」としての天皇自らが、親政(しんせい)というカタチで政治の指揮を執ろうとされたからです。
「親政」というのは、たいへんわかりやすい言葉です。
権力に認証を与えた「親」が、「子」にかわって直接政治の指揮を執るという言葉だからです。
後醍醐天皇は、政治の指揮を執り、全国で分割されてしまったすべての農地を、いったん、古代律令国家の体制に戻すことを宣言されました。
古代律令国家の体制というのは、公地公民制です。
つまり、すべの田畑を「公」のものとする、と宣言されたのです。
後醍醐天皇は、これを建武年間に行いました。
「建武」というのは、「武士の世を建てる」という意味です。
おそらくは、後醍醐天皇の意識の中にあったのは、いったんは日本の姿を7世紀、つまり聖徳太子の時代の古代律令体制の姿に戻すけれど、そのうえであらためて「武を建てる」つまり武家に政権を委ねるという方向をイメージされていたのでしょう。だからこその「建武」です。
後醍醐天皇の御心の内には、民の窮状を放置できないという、強いお気持ちがあったであろうと想像できます。
そうした後醍醐天皇のもとには、楠正成や児島高徳などの心のきれいな数多くの忠臣が集ったのですが、ところが思わぬところで、後醍醐天皇には障害があらわれます。
同じ朝廷内で、後醍醐天皇の行動に、疑念を持つ人たちが出てきたのです。
どういうことかというと、まさにそのことが、わが国の天皇という存在の本質であり、また太平記の要(かなめ)となるところなのですが、要するに「天皇親政」つまり、天皇が直接政治の指揮を執るということは、天皇が政治権力者、もっというなら「大王」の位にまで降りてきてしまうということを意味するということなのです。
わが国における天皇という存在は、世俗にまみれた「政治」というものよりも、もっとずっと高位な位置にある存在です。
天皇は、わが国の最高神である天照大神から綿々と続く神の直系の子孫です。
その神の血統が、民衆の親となり、その親が政治を行う者に認証を与えます。
だから、どんな政権下においても、天皇は神聖だし、民は天皇の民、公民(皇民)となることで、権力者による支配と、それへの隷従という奴隷的支配関係から解放されているのです。
ところが、後醍醐天皇が親政を行うということは、天皇が、その政治権力者の地位にまで降りてしまうということです。
するとどうなるかというと、Chinaの皇帝みたいなもので、天皇=絶対権力者となり、民衆は天皇の支配に隷属する奴隷という国のカタチとなります。
聖徳太子の十七条憲法においても、第一条は「和をもって貴しとなす」です。つまり民の幸せ、民の安定、民の和が、第一条にうたわれています。
仁徳天皇も、かまどの煙の逸話にあるように、念頭にあったのは、常に民の安寧です。
そしてそのためにこそ、古来わが国では天皇は、政治的権力と切り離した、もっと上位の存在となっているし、わが国の民が私有民として奴隷的支配をされないでいる民の幸福の源泉です。
そういう社会構造を大事にしたからこそ、古来、天皇みずから政治を行おうとするときは、天皇はその位を子に譲り、子から上皇の位を授かって院政(いんせい)をひくなどといった、やっかいなことをしているわけです。
ですからもし、後醍醐天皇が、子の成良親王(なりよししんのう)に皇位を譲って院政をひくか、あるいは成良親王を、鎌倉幕府の将軍に任命して、成良将軍のもとに政治を行おうとしたのなら、建武の中興は、多くの臣官の賛同を得て成功し、その後の長い治世を築く土台となったかもしれません。
結局、後醍醐天皇の建武の中興は、それが天皇親政というカタチをとったがゆえに、これを拒否する多くの人たちの反対によって、持明院統の別な天皇(北朝)が生まれ、明徳3(1392)年の明徳の和約(めいとくのわやく)によって、後小松天皇に皇位が譲られ、もとの日本古来の天皇の認証による権力者という社会形態に戻るわけです。
つまり、太平記を小説化しようとすると、どうしても、なぜ朝廷が南北に分裂したか、そもそも天皇とはなんぞや、という議論にどうしてもいたらざるを得ない。
なぜなら、そこを明確にしなければ、朝廷が南北に分裂した理由の説明がまったくつかなくなるからです。
だからこそ、太平記をそういう視点から扱うと、戦後左翼からの猛烈な反発や潰しが行われた。とんでもない非難中傷が行われた。
つまり、作家生命を絶たれるまで、激しい「追い込み」が行われ、全人格的な非難中傷によって、これを書こうとする作家自体が、作家生命を失うどころか、それこそ自殺にまで追い込まれかねないくらいの非道な名誉毀損、信用毀損被害に遭った。
だからこそ、朝日に近かった司馬遼太郎は、それをわかって、友人の作家に、「太平記はやめとけよ」と語ったということではないかと思います。
いまでもこうした「潰し」活動はさかんに行われていて、保守系である程度名前が知られた人たちは、全員がそうした中傷被害に遭っています。
ところがおもしろいもので、そうした中傷被害の手口があまりにも、どの人に対しても同じ展開なものだから、ネット社会の中で情報の共有化がいちじるしくなり、結果として、多くの保守で中傷を受けている人たちは、「なんだ君もか」となってきて、かえって保守系活動家の人たちの結束を強めるという、最近ではまったく逆の効果を生むようになってきています。
しかも、そういう中傷活動の火付け役が、ほんの一握りの人たちであり、しかもそれらがほぼ在日外国人であること、さらには、その在日外国人たちにすっかり騙され、踊らされて、彼らの保守分断工作に結果として加担してしまった人物まで、ほぼ特定されてしまうという状況になってきています。
まさに情報化社会の賜物です。
古事記には、天の岩戸にアマテラスがお隠れになっていた間、この世は闇に閉ざされ、魑魅魍魎が跋扈した、と書かれています。
そして、それら魑魅魍魎は、天の岩戸が開かれ、アマテラスが再登場してこの世に光が戻ったとき、すっかり正体を晒して、すべてが暴かれたとなっています。
古事記が書かれたのはいまから1300年もの昔ですが、同じことがいままた起ころうとしています。
戦後閉じられた天の岩戸は、いま再び開かれたのです。
ちなみに、今日の冒頭にあるのは、後醍醐天皇の肖像画ですが、他の天皇と異なり、後醍醐天皇に関しては、なんとなくChina皇帝のようなお姿でその肖像画が書かれているものが多いようです。
そういうところに、古人からの微妙なメッセージを汲み取るというのも、大切ことなのではないかと思います。
※本日の記事で私は後醍醐天皇をどうのということを争点にするつもりは全くありません。評価するのではなく、歴史はあくまで謙虚に学ぶものだというのが、私の基本的考えです。そこは誤解のないようにお願いします。
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