人気ブログランキング
 ↑ ↑
応援クリックありがとうございます。

若き日の福沢諭吉
若き日の福沢諭吉-1

福沢諭吉の格言として有名な言葉と言えば、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」です。
これは諭吉の「学問のすすめ」の冒頭に出て来る言葉で、およそいまの日本人なら、誰もが聞いた事のある、いわば日本人の常識となっている言葉といえます。
意味は、「天は、人々に対して、みな生まれながらにして、貴賤(きせん)上下の差別なく、自由自在、互いに人の妨げをなさず、おのおのが安楽にこの世をれるようにしている」となります。
これは「学問のすゝめ」の「天は人の上に・・・」に続けて、諭吉自身がそのように書いていますから、間違いありません(笑)。
戦後、教科書などでは、「人にも職にも、上下なんかないのです。だから人はみな平等なのだ」と教えたりしているようです。
ところが、です。
実際に福沢諭吉の「学問のすゝめ」を読んでみたらわかるのですが、諭吉は、冒頭のこの言葉の後に、すぐにそれを否定している文を書いています。


「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と一般にはいわれるけれど、現実に世間をみれば、かしこい人もあれば、おろかな人もある、貧しい人もいるし、富める人もいる。生まれたときから貴人もあれば、最初から卑しい身分で生まれて来る人もいる。その様子は、まるで雲と泥の違みたいです、と諭吉は、そのように書いています。
要するに諭吉は、世間一般では「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」みたいなことをいうけれど、現実はそうではない。生まれたときから、人にはそれぞれ決定的な差がある、と説いているのです。
だからこそ、学問をして、知的武装をし、すこしでも賢く、貴い人となるよう、人は努力しなければならないと諭吉は説きます。
だからこそ、本のタイトルが、「学問のすゝめ」なのです。
それを、あたかも諭吉が「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と、人類の平等を説いいている。人はみな平等であり、生まれたときから天賦の才能をもっているなどと、事の是非もまだわからない子供達に誤ったことを平然と教え込み、学問すること、努力することを否定する。
そんなことで、子供達が社会に役立つ立派な大人になれるはずもありません。
要するに、日教組教育の歪みというものが、こういうところにまで根深く浸透している、ということなのです。
さらにいえば、諭吉はこの「学問のすゝめ」の中で、次のような事も書いています。
どういうことかというと、「およそ世の中に無知文盲の民ほど哀れなものはない。知恵のない者は、恥さえも知らない。自分が馬鹿で貧窮に陥れば、自分の非を認めるのではなく、富める人を怨み、徒党を組んで乱暴をはたらく。
恥を知らざるとや言わん。
法を恐れずとや言わん。
(中略)
こういう愚民を支配するには、とてもじゃないが、道理をもって諭(さと)そうとしても無駄なことである。
馬鹿者に対しては、ただ威をもっておどすしかない。
西洋のことわざに、愚民の上に苛(から)き政府あり、とはこのことである。
これは政府の問題ではない。愚民がみずから招くわざわいである」と、こう書いているわけです。
斜め上のおとなりの国や、周辺国に公害ガスをまき散らす国、あるいは日本にいながら、日本を貶めることしか考えない在日、そして教育を歪める日教組や、左翼主義者、いずれもまさに愚民そのものです。
そういう者に対しては、断固として厳しく接しなければならないと、諭吉は、ほかでもない、学問をすすめようという本の中で説いているわけです。
要するにこれは、鞭(ムチ)でしばかれて、無理矢理、使役させられたり、収奪されたりするような、酷い仕打ちに遭いたくないなら、しっかりと学べ、ということです。
さらに諭吉はおもしろいことを書いています。
人は万人みな同じ位にて生まれながら上下の別なく自由自在云々というけれど、それは「権理道義が対等だ」ということであって、貧富、強弱、智愚の差は、はなはだしいほど、あるものだ、と説いています。
つまり、人には身分の上下もあれば、金持ちも貧乏人もある。そういう意味では、人はそれぞれがみんな違っているけれど、人としての「権理通義」に関しては、あくまで人は対等であって、そこには一厘一毛の軽重もない、と説いているのです。
ではその「権理通義」とは何かといえば、人が命を重んじること、自分の身代所持のものを守ること、その面目名誉を大切にすること、そういうことは、誰もが同じだというわけです。
ねずブロで、日本人は、天皇の民、つまり公民(皇民)であり、人はみな対等だという意識を共有している、と何度も書かせていただきました。
平等というのは、かけっこをして、一等者もあれば、ビリの子もいるけれど、全員を一等賞にしてしまう、というのが、平等です。
けれど、実社会において、そんな観念は絶対に通用などしません。
世間は厳しい競争社会なのですから、あたりまえのことです。
けれど対等というのは、あいつは勉強では一番だけど、俺はかけっこでは一番だ、これでツーペー(対等)だ、という考え方です。
つまり、平等は、人と人との差異を認めませんが、対等は、人に差異があることを前提として、そのなかで自分の自活の道をひらこうとする。
それが対等意識というものです。
そういう対等になれる、あるいは対等になれるように努力する権理通義は、人は誰しも同じようにある。
天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずというのは、そういう対等になるべく人が努力をすることができるという条理を、人は生まれながらにして共有している、ということを説いているわけです。
だから、学べ、というのです。
ちなみに、諭吉は対等ではなく、同等という言葉を使っています。
では何をどう学べばよいのか。
これについても、諭吉はおもしろいことを書いています。
=======
文字は学問をするための道具にて、たとえば家を建てるのに、槌(つち)や鋸(のこぎり)が必要だというのとおなじです。
槌や鋸は、家を建てるに必要な道具だけれど、その道具の名前ばかりを知っていて、家を建てる方法をしらないなら、それは大工さんとはいえません。
ということは、文字を読むことばかり知っていて、「物事の道理をわきまえない者」は、これを学者とはいいません。
=======
実におもしろいたとえをひいているとおもうのですが、人が学ぶべき学問の根幹が、ここに書かれているように思います。
つまり「物事の道理をわきまえる」ということです。
数学や化学、医学などの学問はもちろん大切です。
けれど、いかなる学問であれ、それを学ぼうとする人が、「物事の道理をわきまえない人」であるなら、それはまさに、マンガに出て来る「マッドサイエンティスト」です。早い話がキチガイです。
では、物事の道理は、何によって学ぶことができるかと言えば、それこそが、正しい歴史認識であり、私達自身の祖先の築いてきた日本の国史を学ぶことにつきると、私は思っています。
なぜなら学ぶに足るだけの歴史を、日本はちゃんともっているからです。
戦前も、福沢諭吉の「学問のすゝめ」はたいへんよく読まれた本です。
そして戦前の教育を受けた方々なら、福沢諭吉の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」は、権理通儀を指すということは、ほとんど正確に学んでいます。
ところが戦後左翼は、この言葉だけをとりあげ、あたかも諭吉のこの言葉が、共産主義的平等思想であるかのように偽装しました。
他人の言葉の枝葉末節だけをとりあげ、イメージだけで事実をねじ曲げるのは、まさに左翼のお家芸ですが、こういう、いわば現代日本人の常識となっている言葉ですら、意図的なねじ曲げが行われているということについては、私は、断固、放置すべき問題ではないと思っています。
近代史研究家の落合さんが、おもしろいことをおっしゃっていました。
その言葉を、今日の最後に掲げさせていただこうと思います。
「左翼思想は妄想、運動は詐欺、統治は犯罪、悲劇は繰り返す、予防が大切」
人気ブログランキング
 ↑ ↑
応援クリックありがとうございます。
励みになります。

「脱亜論」 福沢諭吉

【メルマガのお申し込みは↓コチラ↓】
ねずさんのひとりごとメールマガジン有料版
最初の一ヶ月間無料でご購読いただけます。
クリックするとお申し込みページに飛びます
↓  ↓
ねずブロメルマガ

コメントは受け付けていません。