
戦後、戦犯として投獄、処刑された人の数は、約6千名にも達します。
その処刑され殺害された人の中に、女性が4人います。
4人の中には、東洋のマタハリと異名をとった川島芳子(かわしまよしこ)などもいるのですが、お町さんも処刑されたうちのひとりです。
愛知県の三ヶ根山に「お町さんの碑」があります。
そこには次の記述があります。
「お町さんは佛都福井県吉崎御坊近くの在家に生まれ、
後、旧満州国安東市に渡って湯池子温泉の女中頭となり
この地に終戦を迎えた。
昭和二十年八月十五日、
敗戦国民と化した在満日本人は
家を奪われ財を失い、
悲惨な俘虜の運命へと追い込まれて行った。
奥地より陸続伝え来る無惨な同朋の悲報。
然し此処にして誰に何ができるだろうか。
若し出来得るとするならば機智縦横度胸あり、
身を捨てて同朋の愛に死んでくれる、
そんな女人でなければならない。
国境、北辺より避難南下の人々を抱えて
ふくれ上がった安東幾千万の
日本人の命運を背負っての責は、
余りにも重く、酬いられる保証は全くない。
この時お町さんは人々に請われて「挺身娘子隊」を編成し
その総監となり、
ソ連軍駐し来るや慰安慰撫に奮闘司令官の信頼を
一身にして日本人の被護活動に挺身した。
奉天陸軍病院五龍背分院の重度傷病兵、
三上勝弘中尉以下一〇八名が
八路軍の分院接取により退去を余儀なくされ
『止まるも死進むも死、
ならば一歩でも日本に近付いて死ぬべし』
と道を求めて彷徨終に得られず
半死半生安東へ辿りついた彼等を迎え
『お町も日本の女でございます。
此の目玉の黒い間は
滅多に餓死させるものではありません。
お町は唐人お吉ではございません。
お町には国府も八路もございません。
日本人の為に生き、死ぬばかりでございます。
時を経て、
一顧だにされないだろうことは
覚悟の上でございます』
お町さんの活躍は
満州電電安東支社長稲津宗雄氏の回顧録
「望郷」の随処にかかれているが、
彼女が心身困ばく、絶望のどん底にあった
三上中尉以下に生きる気力と体力
故国帰還の夢と希望を与えた事には
全くふれられていない。
あれから三十余年、
いよいよかなしくあはれにお言葉が忘れられず、
ソ連軍撤退して八路軍により
鴨緑江河畔に銃殺刑となったお町さんへの、
死をかけた平和への祈りと
冥福の久遠をこめて此処に碑を建立す。
昭和五十五年九月」
この物語を聞いた日の夜、あるスナックに伺いました。
そのスナックは、終戦後に南京から帰還された女性が経営しているお店です。
彼女は、大東亜戦争終結後、上海に疎開し、そこから日本に帰ってこられました。
復員船では、船倉に押込まれ、船酔いでたいへんな思いをされたそうです。
けれど彼女たちは、ソ連兵にも国民党軍にも、八路軍にも、まったく脅かされたり危害を加えられたりしていません。
なぜでしょう。答えは、根本博陸軍中将以下の元日本陸軍兵士たちが最後の最後まで武装を解かず、果敢に暴行魔たちを追い払い続けてくれたからです。
残念なことですが、世界は紳士ばかりではありません。
身を守るために、わたしたちは国家としての武装が必要なのです。

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