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元寇絵巻 のコピー-1

先日おもしろいお話を聞きました。
Chineseが日本にやってくると驚くというのです。
何に驚くかというと、日本の書店さんです。
日本の書店さんには、行くと必ず奥に「論語」が置いてある。
Chinaにももちろん書店はあるのだけれど、そこに「論語」が置かれていることは、まずないのだそうです。
そこでまず驚く。
驚きはまだ続きます。
日本の書店に置かれている「論語」を手に取って中を読むと、彼らChineseが思っている論語と、その内容や解釈がまるで違うというのです。


論語は、もともと10巻20編502話の大作です。
けれど、その中で、論語といえばChineseたちがその内容としてまず思い浮かべるのが、「諱(き)、荘(そう)、穆(ぼく)」なのだそうです。
ところが、その3つの観念が、日本の論語にはまったく書かれていず、代わって「仁義礼智信」がメインテーマとして描かれている。
「諱(き)」というのは、「かくす」という意味です。
何を誰から隠すかというと、真実を世間から隠す。
論語には、次のようなエピソードがあります。
ある人が孔子に言います。
「私の村にはとても正直な人物がいます。その正直な人物は、自分の父親が他人の羊を盗んだ時に、それを告発しました。」
孔子は答えます。
「そういう人物は正直者とはいいません。父は子のために隠し、子は父のために隠す、これが本当の正直というものです。」
我々日本人の感覚からしたら、これは「?!」です。
実は論語には、「かくす=諱(き)」は、「尊者のために恥を諱(かく)し、過(あやまち)を諱(かく)し、疾(あしきこと)を諱(かく)せ」とされています。
そして隠すことが「正直」だ、というのです。
それだけではありません。
「諱(き)」は、そこからさらに発展して、「他の誰かのために、真実を隠し、そのために嘘をつくことは正義である」とされています。
それどころか、尊者のためには、人はむしろ積極的に嘘をつくべきだと説かれます。
「尊者」というのは人ばかりを指しません。
国や組織は、尊者の中の大尊者です。
ですから偉大で最高の尊者である中共国家の恥になることや、国家の明らかな過ちなどを隠すことは、Chinaの人民にとって「諱(き)」、すなわち正直であり、正義である、となるのです。
もっといえば、国家の威信を守るためなら、嘘をついたり、デマを飛ばすことさえも、それは正義だ、となります。
南京虐殺や百人斬りなどのでっちあげも、Chineseの文化観、価値観では、まさに「諱(き)」であり、正当かつ道徳的な行いである、となるのです。
日本にも、文字としての「諱」という字は入ってきています。
けれどこの字は、「諱(いみな)」と訓読みされ、名前の一種としての地位しか与えられていません。
「いみな(諱)」というのは、たとえば伊達政宗公は、幼名が「梵天丸(ぼんてんまる)」、成人してからの名が「伊達藤次郎(とうじろう)」です。
我々が知る伊達政宗(だてまさむね)の「政宗」は、普段名乗らない(かくれた)本名、すなわち「かくし名(=諱)」です。
ちなみに伊達政宗のあだ名が「独眼竜」、お亡くなりになった後の「おくり名(=諡、あの世での名前)」が「伊達貞山」です。
なんだかややこしいですが、簡単に言うと、たとえば私なら、インターネットのハンドルネームの「ねず」が通称、普段呼んでもらえない名が善行(ぜんこう)で、この善行が、いわば「諱(いみな)」です。
死んだあとの戒名は、まだ、なんとつけられるかわかりません(笑)が、それが「諡(おくり名)」です。
つまり日本には、「諱(き)」という漢字は、なるほど導入されたけれど、人生哲学や道徳概念としての、この文字の語彙(ごい、言葉の意味)は導入されず、単なる名前の一種類としてしか使われていない、ということです。
このことは実はとっても重要なことで、日本では、論語でさえも、そこにある価値観、倫理観を、ただ無批判に受け入れたわけではなく、受け入れるべきものと、受け入れるべきでないものを、ちゃんと選択して、導入している、ということです。
なぜ、そんなことが行われたかというと、これは理由はひとつしかありません。
「わが国には、Chinaの漢字や文化を受け入れる以前から、明確な指向性を持った文化や倫理観、価値観があった」ということです。
だからこそ、日本人の文化意識、道徳意識、価値観、倫理観にそぐわない観念は、まるで無視され、受け入れられて来なかったのです。
「諱(き)」を日本が受け入れなかったのは、日本が古来、人は正直であること、嘘をつかないこと、何より真実が大事であると考える民族であったということの逆説的証明でもあるわけです。
なぜなら、真実を大事にしなければ、文物は発展進歩しないからです。
いくら孔子様のありがたい教えでも、「諱(き)」のように、真実から目を覆(かく)してしまっては、見えるべきものも見えなくなるし、真実から眼を背けたら、解決策などでるはずもありません。
欧米列強の植民地華やかりし時代に、日本がまたたく間に西欧文化を採り入れて近代化に成功し、逆にChinaにはそれができなかったという理由も、ここに大きな違いがあるわけです。
「荘(そう)」も日本に受け入れられなかった概念です。
「荘(そう)」は、威儀を正したどっしりした態度を意味する文字で、論語では、知や仁が十分あっても、「荘」がなければ尊敬は得られないと説かれています。
つまり、上に立つ者は、知識や人徳よりも、偉そうに「ふるまう」ことが大事だというのです。
ですから「礼」は「荘」を飾るためのものだと唱えられています。
ひらたくいえば「荘」は、人の上に立つ者は頭はカラっぽでいいから、とにかく威厳をつくってどっしり鷹揚(おうよう)にしていなさいという意味です。
「礼」さえも、「荘」を演じる者に、ぺこぺこと頭を下げて隷従(れいじゅう)するための作法であり、それをするのが、臣下や部下の勤めだというわけです。
日本は、この「荘(そう)」の観念も、まったく受け入れていません。
受け入れないどころが、上の説明を読めば、嫌悪感さえあるかもしれません。
日本は「荘」の文字は受けれ入れています。
けれどこの字は、荘園や、山荘、あるいは共用建物の名前など、要するに「立派そうにみえる建物や施設の名前」に使われているだけです。
つまり日本は「荘」は、建物や施設の名称用としてのみ導入し、人の道を示す言葉としては、これまた、まったく採用していません。
「穆(ぼく)」も同じです。
これは、実って熟した人物である君子は、おだやかで口元に微笑みをたたえ、つつましく、ほんのりと奥ゆかしくせよ、という意味の漢字です。
語源は稲穂が稔った姿の象形文字で、
稲が花開いた姿が「秀(しゅう)」
実って熟したものが「穆(ぼく)」
稲の実がはげ落ちた殻が「禿(とく)」です。
「穆(ぼく)」は、熟した人物は、常に口元に微笑みをたたえて、余裕綽々(しゃくしゃく)にふるまって、いかにもお大人(たいじん)風をよそおえ、というわけです。
この「穆(ぼく)」も、文字としては我が国にも入ってきています。
たとえば、「和穆(わぼく)」や「穆訥(ぼくとつ)」などと使われます。
けれど一般には「わぼく」は和睦ですし、「ぼくとつ」は朴訥です。
つまり「穆(ぼく)」に至っては、その概念はおろか文字さえも、日本は受け付けていない、ということです。
さて、「諱荘穆(きそうぼく)」の三つがと揃うと、これはとてもおもしろいことになります。
すなわち、君子は中味がからっぽでも常に威厳をただしていればよく(荘)、口元に微笑みをたたえていかにも大物風を装い(穆)、そういう中味が空っぽのアホの君子が何かドジをしでかしても、部下はウソをついてでもそれを隠し通し守り通すのが筋道である(諱)となります。
なんだかマキャベリズムっぽいですが、これらは日本人の道徳観念とはまったく異質なものです。
ですから古来、日本では、これらの概念を、たとえそれがありがたい孔子の教えであってさえ、全く受け入れていないのです。
一方、論語から日本は、「仁義礼智信、孝忠悌廉恥」は、明確に採り入れています。
「仁義礼智信」で「五常」(五徳ともいいます)、
「孝忠悌」の三つを加えて「八徳」、
これに「廉恥」の二つを加えるて「十徳」です。
これら「十徳(じゅっとく)」が、「諱荘穆」と異なるのは、諱荘穆は、どれも外見や振る舞いといった外形上の「型」を指す言葉である、ということです。
これに対し、「十徳」は、内面の「心」を磨く言葉です。
では、なぜChinaではこうした外形上の「型」が重視され、日本では内面的な心が重視されたのでしょう。
答えは簡単です。
日本では、古来「諱荘穆」のように外見を飾る必要がなかったからです。
なぜ必要なかったか。
これまた答えは簡単です。
日本人は、誰もがみんな「天下の公民」だからです。
誰もが人として「対等」であり、その「対等」を前提として、社会の中で役割分担をしていく。
この「対等」というのは、平等とは異なります。
みんなが同じではないからです。
生まれたときから、金持ちで色男もいれば、貧乏で病弱な人もいる。
ひとりひとりが持って生まれた環境も、能力も違います。
その違うものが集まって、みんなで力を合わせて社会を建設していく。
対等だから、力を合わせれるのです。
平等なら、力を合わせなくたって、結果は平等に分配される。
要するに、古代において日本は、民は権力者さえも認証する、つまり権力者よりもはるかに格の高い天皇の、直接の臣民と規定されたわけです。
ということは、権力者は、天皇から民を預かっている。
もっといえば、上に立つ者というのは、日本では、天皇の民を預かっている者です。
すごくひらたくいえば、日本における上席の者というのは、社長の息子さんや息子さんを部下にあずかっているようなものであり、そのポストの部長や課長という肩書きも、社長から与えられたもの、となっているわけです。
こうなると、部長や課長は、外見の上の威厳をただし、口元に微笑みをたたえて大物風を装うなどといった「かっこつけ」などしていられません。
ましてや、部下たち全員が社長の息子さんや娘さんです。
部長や課長が何かドジをして会社に大損害を与えたとき、それら社長のお子さんたちが、はたして社長の前で、自分をかばうためにウソをついたり、大事なことを隠したりなどしてくれるでしょうか。
そう考えれば、外見を飾ってかっこつけるなどという薄っぺらなことは言ってられないわけです。
自分より、もしかしたらはるかにエライ人を部下に持った権力者は、むしろナマの人間として心を鍛えて、真正面から部下や仕事にぶつかっていくしかない。
だからこそ、その心を鍛えるための、様々な言葉である「十徳」などがたいせつな心得として重宝されたわけです。
これに対し、これらの言葉を生んだChinaでは、上に立つ者は、常に下にいる者に対する絶対的支配者です。
下にいる者は、もはや人ですらなく、必要があれば、食料にして食べてしまう肉でしかありません。
歴代皇帝が、天下宇宙の絶対的支配者なら(皇帝という言葉はそういう意味の言葉です)、その下にいる、将軍や、兵長なども、それぞれの担当セクションの中では、絶対的支配者です。
絶対的支配者である以上、「外見の上の威厳をただし、口元に微笑みをたたえて大物風を装う」など、それらしく振る舞うのは当然ですし、支配される側は、支配者である上役に殺されないためにも、上役にとって都合のよい事実だけを提供すれば良いということになります。
特ア三国が、日本人とはかけ離れて異質なのは、この基本的な民族の自覚の違いにあるといえます。
同じ論語を読んでも、Chineseはこれを人の外形を飾るための書として学び、日本人は人の内面を磨ぐためのものとして学んだわけです。
そしてこのことは、日本が漢字の渡来によって日本文化を形成したのではないことも明確にあらわしています。
なぜなら漢字には、文字毎に意味があるからです。
その「意味のある」漢字を、日本が「選択的」に採り入れたということは、漢字渡来以前に、日本には、明確な道徳観、文化観、価値観が形成されていたという事実を証明しているわけです。
そして漢字には、日本独自の「訓読み」が与えられています。
このことも、日本に漢字渡来以前から、固有の文化観があったことを示しています。
こうしてみると、江戸時代には学童の教科書となった論語も、日本人は、論語に学んだというより、論語を通じて、日本人にもとからある価値観、文化観を学んでいた、ということがわかります。
そして、その「もとからある価値観」、その根源にあるのが、「私達は天皇の民である」という観念である、ということです。
このことは、食文化にたとえてみれば、非常にわかりやすいです。
ラーメンはもともとChinaの麺ですが、日本はこれを、ただそのまま日本人の食にとりいれるのではなく、日本人の口に合うように、工夫し、加工し、さらに発展させて、豚骨ラーメンから、醤油ラーメン、味噌ラーメン、塩ラーメンなど、さまざまに工夫し、日本風のラーメンとして工夫改良し、あげく、昨今の町の評判のラーメン屋さんなどは、高級中華料理店などで出されるラーメンよりも、もっとおいしいラーメンを店頭に出しています。
最近では、つけ麺なんていう派生品まで登場しています。
こうした工夫がなされる背景には、日本人としての味覚や料理観が、もともとあるということです。
外来物は、外来物としてそのまま学ぶだけでなく、必要なものとそうでないものを取り分けて、そこからさらに日本人の感覚に合うように発展させる。
これは、日本的な何かが、それ以前にあるからこそできることです。
そして、その「何か」の、おおもとをずっとたどっていくと、「俺たちは天下の公民だ」という対等意識に常にたどり着く。
そしてそれが日本において、社会の制度として完全に定着したのが、なんと7世紀の大和朝廷にある、ということです。
さらにいえば、その大和朝廷にしても、突然、まったく異質な価値観を日本にもたらしたということでは、決してないはずです。
なぜなら、そういうものは、日本人はなかなか受け入れない。
むしろ大和朝廷が行ったことは、大和朝廷より何十年、何百年、何千年も前から、日本にすでにあった「あたりまえ」の常識を、言葉にし、常識にしたということなのではないかと思う。
ちょうど、教育勅語が、教育勅語によって突然、わが国に教育勅語的価値観をもたらしたものではなく、それよりまはるか以前から日本にあった常識を、あらためて文にしたのと同様に、です。
日本は、古くて長い歴史をもった国です。
そして、そこに住むのは、ひとりひとりが、天下の公民たちなのです。
【付録】十徳について
1 仁
「仁」は、日本語読み(訓読み)では「ひとし」です。
にんべんに数字の二で、二人の人を表し、二人の人が同じ心で、ともに泣き、ともに笑い、ともに苦しみ、ともに喜ぶことから、上下貴賎の区別なく、同苦し同喜する、異体同心の心を表します。
2 義
「義」は羊に我を書いて、訓読みで「よし」または「ただしい」です。
正しい道は「義(ただ)しい道」とも書くわけです。
義は部首が「羊」で、つくりが「我」ですが、古代において羊は神への捧げもの(生贄)です。
従って我が命を羊、つまり生贄として神に捧げる、すなわち命を賭けて相手に尽くす心が義の心です。
3 礼
「礼」は、新字では意味がわかりにくいですが、旧字では「禮」です。
「示すへん」に「豊」です。
相手にわかるようにはっきりと豊かに示すから「禮」です。
ですから心に思っているだけでは「礼」にはならず、それをはっきりと相手に伝わるように態度で示す、その心がけが「礼」です。
ちなみに礼の訓読みは「のり」で、「のりと」といえば祝詞と書きます。
これは「禮詞」でもあるわけです。
4 智
「智」は「さとし」です。
口に矢を書いて「知」。
矢は戦場でもっとも大きな殺生力を持った武器ですが、その矢を口に入れる、あるいは口から発射する。
つまり知は、人間の知的武装を表します。
そしてその「知」を正しい心、つまり最高の慈愛の象徴である太陽の心で用いるのが「智」となります。
5 信
「信」は、訓読みで「まこと」です。
にんべんに言うと書き人の言葉です。
言葉にまことがあること、嘘をつかないことが信です。
6 孝
「孝」は「たかし」で、老人を示す老の右下に子がいます。
老人の庇護のもとに子がある。
ですから子が恩をきちんと返す気高い心がけです。
7 忠
「忠」は「ただし」または「きよし」と読みます。
忠は、真ん中の心と書きますが、心の中心におくものです。
親が心の中心なら親への忠、会社が心の中心なら会社への忠、そしてそれを単なる「忠」とせずに、「きよし、ただし」の字に充てたところに、たいへん日本的な美意識を感じます。
8 悌
「悌」は、戦後あまりなじみがなくなった概念ですが、音読みが「テイ」、訓読みが「やすし」です。
りっしんべんに弟でと書いて「弟としての心」です。
つまり弟が兄を慕うように、目上の者を尊敬し敬愛し、やすんじるのが、部下または臣下の心がけとされていたわけです。
9 廉
「廉」は、广(げんぶ、まだれ)に兼ねると書きますが、广は崖を利用した岩屋で、その中で他のものと兼ねる、つまり合理的で何にでも使えることが転じて、「いさぎよく(潔く)けじめがあること」の意味です。
訓読みは「きよ」で、潔い(きよい)は、廉い(きよい)とも書きます。
10 恥
「恥」は、耳に心です。
耳で聞く理想の姿に対していまの自分の姿が劣っていることを認識し、不快又は悲痛に感じることを意味します。
訓読みは「はじ」で、初めの一歩の「はじ」でもあります。
そこからはじまって人は成長する。
11 徳
「徳」は、ギョウニンベンに「悳」がなまって「徳」の字となったものです。
ギョウニンベンは佇む(たたずむ)という意味です。
つくりは、直に心で、読んで字の如く、真っ直ぐな心です。
ですから「徳」は、真っ直ぐな心でたたずむこと、つまり人の生きる道、となります。
訓読みは「とく」です。
まっすぐに生きることこそが、人として「とく」だ、ということです。
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