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日本軍機の攻撃を受け回避行動を行う
プリンス・オブ・ウェールズとレパルス
プリンス・オブ・ウェールズ

ほんとうは、10日の記事にすべきだったのですが、すこしずれてしまいました。12月10日は、マレー沖海戦の日です。
よく、戦艦大和は、航空機によって沈められた。時代は航空機主体の時代に変わっていたのに、日本は空母を作らず大艦巨砲主義の巨大戦艦大和を作り、結局、米航空体によって大和は沈められた、といった話を耳にします。
私も学生時代、学校の先生から、大鑑巨砲主義に傾倒した日本がアホだったと教わりました。
しかし、これは違います。デタラメです。
世界最初に航空機をもって戦闘態勢の戦艦を沈めたのは日本です。
これにより世界も日本も、戦争の態様が変わったのです。
つまり、日本が、変えたのです。
それが、マレー沖海戦です。


マレー沖海戦は、大東亜戦争開戦の2日後である1941年12月10日にマレー半島東方沖で、日本海軍の航空部隊(一式陸攻、九六式陸攻)と、大英帝国東洋艦隊の間で行われた海戦です。
この戦闘で日本は、英国海軍が世界に誇る、当時の技術における世界最強戦艦を撃沈したのです。
航空機で戦艦を沈めたという先例なら、タラント空襲、真珠湾空襲などもあります。
けれどそれらは、停泊中の戦艦を航空機で叩いた、というものです。
当時の停泊中の戦艦は、エンジン機関が停止していますから、主要な武器が使えません。
人に例えれば、睡眠中みたいなものです。
体が動かない。
ところが作戦行動中の戦艦というのは、まさに全身が鋼鉄の要塞です。
対空防衛力、対潜防御力、攻撃力いずれをとっても、とてもじゃないけれど、蚊蜻蛉(かとんぼ=航空機の蔑称)くらいで倒せるようなシロモノではないとされていたのです。
とりわけ、当時マレーにいた英国戦艦は、14インチ(35.56cm)砲を10門装備、さらにポムポム砲と呼ばれる対空砲を全身に装備しています。
ボムボム砲は、1分間に6000発もの弾丸を発射するというすさまじい兵器です。
英国は2年も前から、ヨーロッパ戦線でドイツ・イタリアの航空機に空襲されていたのです。
ですから十分に対空戦の経験を積んでいたし、さらに英国がこのときマレーに派遣していた戦艦プリンス・オブ・ウェールズは、当時の技術で世界中のどの戦艦も敵わないし、どんな航空機攻撃をも撃退しうる、20世紀最強の暴君とも呼べる最強戦艦だったのです。
日本が攻めてきたところで、まさに鎧袖一触で打ち払えるだけの強力な艦隊だったし、だからこそ英国首相のチャーチルは東洋にある英国領土の植民地利権を守るために、この最強艦隊をマレーに派遣していたのです。
しかもそれまでの世界の海戦で、作戦行動中の戦艦を航空機が沈めた、という事例はまったくありません。
当時の世界は「作戦行動中の戦艦は、航空機で沈められない」というのが常識だったのです。
そして現実に、動いている戦艦が航空機によって沈められたという事例は、今日までの世界のあらゆる海戦で、今日ご紹介するマレー沖海戦と、終戦間際に圧倒的な航空機をもって戦艦大和が撃沈された坊ノ岬沖海戦(1945年4月7日)、同様に大多数の航空機をもって戦艦武蔵が沈められた捷一号作戦(1944年10月24日)の3例しかありません。
そしてこの三つの海戦のうち、あとの二つが昭和20年に、まるで雲霞のように空を覆いつくさんばかりの航空機で日本の大和、武蔵が叩かれ、しかも船が沈んだときに、海上に逃れた抵抗できない乗員達にまで航空機からの銃撃と虐殺が行われています。
ところが日本が昭和16年に行ったマレー沖海戦では、日本は限られたごく少数の航空機で、当時の世界最強戦艦を同時に二隻沈めたのみならず、乗員達の退避のための十分な時間を与え、乗組員たちの命を永らえたのみならず、戦域を逃れて漂流後に沈んだ英国海軍の将兵までも救助しているのです。
大鑑巨砲主義だとか、日本軍に知恵がないとか、少しはまともに歴史を勉強しろといいたくなります。
さて、大東亜戦争の開戦は、そもそもがChina事変に端を発するものです。
そしてChina事変で日本に敵対していたのが、蒋介石率いるChina国民党で、なぜ国民党が日本と対抗し得たのかというと、米英がマレー経由で蒋介石に軍事支援物資を送っていたからです。
軍事的には、この援蒋ルートを叩かなければ、日本に勝機はない。
そのためには、日本は、陸軍をマレーに進行させ、同時にその補給のため、マレー沖の制海権を把握する必要がありました。
逆にいえば、当時マレーを植民地支配していた英国にしれみれば、日本にマレー沖の制海権を渡すわけにいかない。
そこで起こったのが、マレー沖海戦です。
英国側は、昭和16年12月8日の日米開戦の6日前である12月2日には、英国最新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルス、その他駆逐艦4隻で構成するG艦隊をシンガポールのセレター軍港に入港させています。
つまりこれはどういうことかというと、英国はすでに日本が戦争を挑んでくる事を、事前に十二分に察知していた、ということです。
もっとはっきり言えば、英国は、日本が攻めて来るように仕掛け、来たところを撃破してやろうと、事前に待ち構えていた、ということです。
みなさん、このブログで何度もくり返していますが、戦争というのは、軍事バランスが崩れたときに起こります。
百パーセント勝てると思うから戦争するのです。
China国民党の兵力は210万、日本陸軍は外地派遣できる兵力が15万。
だから蒋介石は、日本に勝てると踏んだし、マレーでの英国も、世界最強軍艦の配備で、日本海軍など鎧袖一触で、あっけなく大勝利できると踏んだから、日本を追い込み、戦争に巻き込んだわけです。
いいですか、みなさん。
日本が真珠湾攻撃を行って、大東亜戦争を開始したのは、12月8日です。
ところがマレーでは、その前日である12月7日に、英国東洋艦隊が、トーマス・フィリップス海軍大将司令長官の指揮のもとZ部隊を編成して、シンガポールを出航しているのです。
目的は、日本の輸送船団を破壊するためです。
一般に、日本の攻撃開始は奇襲攻撃とされていますが、これで奇襲でもなんでもないことがわかります。
網を張り、待ち構えている中に、日本は飛び込まざるを得なかったのです。
にもかかわらず、日本がいかにも奇襲を行ったかのように言われるのは、それが実際に奇襲だったのではなくて、あまりに日本の進撃が早く、米英は十分準備して待ち構えていたのにもかかわらず、彼らが日本にいかにもあっけなく撃破されてしまったことによります。
マレー沖海戦で、日本の輸送船団を警護していたのは、金剛と榛名です。
両艦とも近代化の改装こそ受けていますが、艦齢は27年を越えている老朽船です。
最近の自動車は、当時と比べてかなり耐久性の面で向上していますが、それでも27年オチの車となると、いい加減、ボロボロです。
兵装や装甲の厚さも、巡洋艦程度の実力しかない船です。
これを、英海軍は、世界最強の戦艦二隻を含む最強艦隊で出迎えようというわけです。
最新鋭艦の戦艦プリンス・オブ・ウェールズは、当時の英国王ジョージ6世の兄王であるエドワード8世の即位前の名前をいただいた船です。
いかに自信満々の船であったかがわかります。
同行するもうひとつの戦艦レパルスも、建造年月こそウエールズより古いものの、装備はウエールズと同じです。
しかも、それまでにドイツ軍航空機による爆撃を何度も受け、それらを完全に撃退してきているという実践経験の豊富な戦艦です。
普通の常識で考えれば、余程のアホでも、ここまで戦力が違えば、日本の輸送船団は完全壊滅させられると確信できます。
さて、では日本はどうしたかというと、とにかく輸送船団を護衛しなくちゃいけない。
ですからサイゴン(いまのホーチミン)にある航空基地から、航空機(九六式陸攻59機、一式陸攻26機、計85機)を発進させます。
海上の戦力が乏しいのです。
空から補わなくちゃならない。
そして運良く、英国東洋艦隊を発見します。
各攻撃隊は東洋艦隊主力めがけて殺到しました。
戦いは、熾烈なものでした。
航空機による攻撃を、完全撃退してきた実績を持つレパルスと、それをさらにひとまわりも強化したプリンスオブウエールズが相手なのです。
しかもボムボム砲が、弾幕で空を覆いつくす。
この戦いで日本側は、陸上攻撃機未帰還3、帰投時の不時着大破1、偵察機未帰還2、その他30機以上に深刻な被害を受けます。
飛び立った半数が深刻な被害を受けたのです。
どれだけたいへんな戦いだったかわかります。
そしてその大激戦の結果、日本はなんと、戦艦プリンス・オブ・ウェールズと、巡洋戦艦レパルスの両方を撃沈し、沈没させてしまうのです。
この戦いで、ウエールズ撃沈の報告を聞いた英国チャーチル首相は、「あの艦が!」と絶句し、「戦争全体で(その報告以外、)私に直接的な衝撃を与えたことはなかった」と著書の第二次世界大戦回顧録で語っています。
それだけ、「絶対沈まない船」のはずだったのです。
この戦いでは、まず戦艦レパルズが沈みました。
次いで戦艦ウエールズが、大破します。
ウエールズの艦長のトマス・フィリップス海軍大将は、日本の航空隊に向け、乗員を退艦させるので、30分時間をほしい、と打電しました。
日本の航空隊は、これをのみました。
おかげでウエールズの乗員たちは、巡視船エクスプレスに乗り移ることができたし、レパルスの乗員も捜索する時間が与えられ、エレクトラが571名、ヴァンパイアが、レパルスの艦長と従軍記者を含む225名を救助しています。
その間、日本の攻撃隊は空で待機です。
英国軍の救助活動の間、いっさいの攻撃行動をしないで、空で待機したのです。
当時の飛行機は、いまの時代にあるようなハイブリット・タイプでも省エネタイプでもありません。
空で待機していれば、燃料が減り、その減ったところに敵機が攻めて来たら、帰投するガソリンさえもないまま、撃ち落とされなければならなくなるかもしれないというリスクを追うのです。
それでも日本の航空隊は、待ちました。
なぜでしょう。
ウエールズの乗員が全員退艦したあと、トマス司令官が、ひとりデッキに残ったのです。
彼は海の男です。
やはり、艦とともに死を選んだ。
日本の航空隊は、それを見届けると、上空で全機整列し、一機ずつデッキ前を通過して、トマス艦長に最敬礼をして、別れを惜しみ、敬意を払います。
トマス艦長も、最敬礼で応答しました。
マレー沖海戦の翌日、一機の日本機が、戦闘のあった海域に再度飛来しています。
何をしにきたのでしょうか。
その機は、海面すれすれまで下降すると、現場海面に花束を投下して去って行きました。
敵となり、味方として死んで行った同じ海の男達の敢闘に、弔意を表したのです。
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大東亜戦争の真実

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