
戦前に、第16代内閣総理大臣、第22代内閣総理大臣と、二度の総理を勤めた人がいます。
海軍大将の山本権兵衛です。
薩摩藩士を経て海軍軍人となり、第一次桂内閣のときに、海軍大臣として日露戦争における日本海海戦を指揮し、日本を勝利に導きました。
この海戦で、司令長官となったのは、東郷平八郎ですが、その東郷平八郎を大抜擢したのが、今日、お話する山本権兵衛だったのです。
昨今、カツカレー事件などという馬鹿話がありましたが、カレーライスといえば、海軍カレーが有名です。
その海軍カレーを正式に採用したのも、山本権兵衛でした。
山本権兵衛は、大国ロシアの南下政策によって、日本に危機が迫る中、海軍大臣として、「ロシア海軍に必ず勝つ」という一点を目標に、人材の大抜擢を行っています。
その中のひとりが、日本海海戦の参謀であった秋山真之であり、戦死して軍神となられた広瀬武夫中佐であり、東郷平八郎であったわけです。
もともと山本権兵衛は、薩摩藩の槍術師範の家の生まれです。
武家の出であり、しかも師範の家ですから、躾はとてもきびしい。
子供の頃の逸話があります。ある、雪の降った朝の出来事です。
そのとき、権兵衛は、庭で槍の稽古をしていたのです。
ところが、雪の日です。寒い。
寒いから、手がかじかみます。
手がかじかんだら、稽古になりません。
そこで権兵衛少年が、手にホウホウと息をかけていたのです。
そこに槍術師範の父が、家の中からあらわれた。
父は、権兵衛の様子を見るや否や、裸足で庭に飛び降り、いきなり権兵衛を怒鳴りつけました。
「武士がそんなことで役に立つかっ!」というのです。
戦いの場にあっては、寒いの熱いのと言ってられない。
父は権兵衛の頭をつかむと、その頭を雪にねじこみました。
山本家では、子供達は全員、寒中であっても毎晩、井戸水を石鉢に汲み入れ、翌朝、氷が張って冷たくなったその水で、家の中の拭き掃除をしていました。
いまどきなら、子供への虐待行為とか言われそうです。
けれど、そうやって厳しく育てられたから、昔の武士は、素裸になって風呂にはいっていても、ひとめで武士は武士とわかった。
男も女もです。自然と備わる威厳があった。
なぜそうなるかといえば、それだけ厳しくしつけられたからです。
これは大人の世界でも同じです。
会社でも組織でも、甘やかされたらろくな人間にならない。
体罰はいけないとか、過度な躾とか、そういう形の問題ではないのです。
だいたいにおいて、無能な人間ほど、形にこだわる。
たいせつなのは、そこに相手に対する思いやり、親子なら親の子に対する思いやりの心があるかないかが問題なのです。
さて権兵衛少年が、いまでいったら小学校の高学年くらいの歳になったこ頃のことです。
この頃の権兵衛は、ガキ大将になっています。
いじめっ子たちが、他の子をいじめている。
するとそこに権兵衛があらわれます。
すると、いじめっ子たちが、「権兵衛が来たぁ!」と言って一目散に逃げ出したそうです。
正義感が強く、弱い者をいじめない。
しかも、3つくらいの歳から、武術を叩き込まれていて、めちゃくちゃ強い。
年上の少年たち4〜5人でも、権兵衛には喧嘩でかなわなかったそうです。
栴檀は双葉より芳し。
権兵衛は、それだけ一目置かれる存在だったのです。
12歳になった権兵衛は、薩摩湾で起きた薩英戦争に参加しています。
もっとも役割は、砲弾運びの手伝いだけれど、このとき真っ黒な鉄の船体から次々と砲弾を繰り出す英国艦隊は、権兵衛のその後の人生に大きな影響を与えました。
数え年で16歳(いまの15歳)になった時、薩摩藩は、戊辰戦争のための藩兵の募集をしました。
血の気の多い権兵衛です。
さっそくひとり、役所に出かけていって「従軍したい」と申し出ました。
ところが藩の決まりは、18歳以上です。
権兵衛は、決して大柄ではありません。
けれど、彼は迷わず「18歳です」と答えます。
権兵衛は、地元ではある意味、有名人です。
藩の役人たちも、権兵衛がまだ15歳でしかないことを知っている。
それでも、権兵衛なら、ということで採用になってしまった。
役所仕事にしては、ずいぶんといい加減と思われるかもしれませんが、そういうことではなくて、役人達は、すでにこの年齢で権兵衛を、一人前の大人としてみていたのです。
こうして薩摩藩兵となった権兵衛は、いまでいったら中学3年生で、京都、北越から東北方面へと転戦しています。
戊辰戦争が終わって帰郷した権兵衛は、郷中の大先輩だった西郷隆盛を訪ねます。
西郷は「おはんは海軍に行きなさい」と、権兵衛に勝海舟への紹介状を書きます。
紹介状を胸に、権兵衛は東京へ出ました。
このときの権兵衛18歳です。
勝海舟といえば、大西郷と江戸開城の談判をした人です。
なので権兵衛は、よほどの豪傑が出てくるのだろうと身構えていたのだそうです。
そしたら、ひょろっとした小男が出てきた。
下男だろうと思ってたかをくくって、ぞんざいにしていたら、なんとそれが勝海舟本人だった。
びっくりして平伏低頭して「ご指導を願いたい」とやったのだけれど、勝海舟は首をたてにふらない。
西郷さんの紹介状を持ってきました、と言っても、とりあわない。
結局この日、朝の9時から午後4時まで粘ったけれど、
勝は「海軍なんざぁ技術的なことばかりで難しいから、止めた方がいいぜ」と、許してくれない。
しかたなく翌日あらためて出直して、その日もまる一日嘆願を重ねた。
けれど、やっぱり許しが出ない。
三日目にも朝から出かけ、まる一日粘った。
その根気に海舟もようやく兜を脱ぎ、その日から権兵衛は海舟の食客になったといいます。
実はこのとき、勝海舟は内心は大喜びだったのです。
勝は、国思いの男です。
そこに西郷隆盛推薦の男の子が来たのです。
みれば、眼光鋭く、体躯も堂々、声にも張りがある。
聞けば10代で戊辰戦争を闘ってきたともいう。
これは見どころのある男です。
しかし、勝は、すぐには、OKといわなかった。
権兵衛に、どこまでもやり抜こうとする執念があるのかを見定めようとしたのです。
それが、この3日間のできごとです。
かくして勝海舟の家に居候を許された権兵衛は、東京開成所(東京大学の前身)で海軍の基礎学ともいうべき高等普通学(数学、外国語、国語、漢文、歴史、物理、化学、地理など)に通います。
そして開成所を卒業した権兵衛は、築地にできたばかりの海軍兵学寮に入ります。
ところが権兵衛は、相変わらず酒を飲んでは喧嘩ばかりしている。
学科は苦手で、得意といえばマストのぼりくらいです。
兵学寮時代の権兵衛を書いたものには、こんな記載があります。
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山本権兵衛首謀となりて、しばしば教官排斥の運動を起こし、教官室に乱入し、あるいは教官と乱闘し、あるいはテーブル、イスなどを破壊し、流血の暴挙を演ずるに至れり。
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もてあました教授陣は、権兵衛をドイツ軍艦に乗せてしまいます。
これが権兵衛の人生の転機になります。
このドイツ軍艦で、彼は生涯の師と出会うのです。
その師とは、ドイツ艦「ヴィネタ」の艦長グラフ・モンツです。
権兵衛はこの船で、10ヶ月に及ぶ世界半周の航海に出ました。
そこで権兵衛は船の操縦や軍事技術はもちろん、政治、経済、法律、哲学、服装、生活態度、礼儀、趣味など、あらゆる分野について、モンツから学びました。
モンツはドイツの貴族出身で、高い教養と高潔な人格の持ち主です。
しかも温情あふれる人柄、そしていかにもドイツ人らしい“鉄骨のような合理性”を持つ人物です。
後年権兵衛は語っています。
「私の今日あるのは、まったくモンツ艦長の感化による」
後年、数々の海軍改革を実施し、日本を日清・日露戦争の勝利に導いた権兵衛の合理主義の精神は、このドイツ人、モンツ艦長との出会いがあったからだといわれています。
権兵衛がモンツから学んだことに、もうひとつ、とても大切なことがあります。
それは妻に対する姿勢です。
ドイツの練習船「ヴィネタ」に乗る直前のことです。
権兵衛は、海軍士官合宿所の向かい側にあった女郎屋で、17歳の少女トキと出会います。
トキは、新潟の漁師の娘で、家が貧しくて売られてきたばかりの娘でした。
権兵衛はトキの身の上を聞き、心からいとおしく思うのです。
なんとしてでもこの娘を苦境からすくってやろう。こいつこそ私の妻だ。
そう思い定めた権兵衛は、同僚に協力してもらい、女郎屋の二階からひそかにトキを綱で降ろして、足抜けさせます。
そして、知り合いの下宿にかくまい、結婚してしまう。
結婚してしばらくしたときのことです。
トキが差し入れを持って、権兵衛の乗る軍艦を見学に来たのです。
その帰り。
軍艦から戻るボートが桟橋に着くと、権兵衛はトキの履き物を持って先に桟橋に渡り、彼女の足元にそれをそろえて置いた。
これを見ていた他の将兵たちは、権兵衛を冷笑したそうです。
当時の日本でこんなことをする者はいなかったからです。
そもそも、妻を軍艦に案内することがまずあり得ないことです。
まして妻の履き物を夫がそろえて置くなど、当時の習慣ではありえない。
男として恥ずべき行為、というわけです。
しかし権兵衛は、まったく意に介しません。
「妻を敬うことは一家に秩序と平和をもたらすのだ」
彼はこう言ってはばからなかったそうです。
この時代、国内では、旧士族による反政府運動や、農民による反乱が続けて起こっています。
佐賀の乱
萩の乱
神風連の乱・・・
こうした戦いでは、いきおい陸軍が主役になります。
そして西南戦争の翌年(明治11年)には、参謀本部条例が改正され、海軍は陸軍に従属するとされました。
いわゆる「陸主海従」です。
これに対して当時海軍大佐だった権兵衛は、異議を唱えます。
「島国の国防は海上権を先にすべきである。
我が国は陸を主としているが、
せめて陸海対等にすべきである」
しかし当時の軍中枢は、参謀総長が有栖川熾仁親王、次長川上操六、陸軍大臣大山巌、陸軍次官児玉源太郎、しかも彼らのバックには山県有朋がいます。
簡単にいったら、政府中枢は全部長州閥で占められていたわけだし、「陸主海従」の中で、海軍大佐あたりが何を言おうが、蟷螂の斧でしかありません。
それでも権兵衛は主張をあきらめない。
そして10年。
ついに海軍大臣となった権兵衛は、宮中に参内し「陸海平等」を天皇に上奏します。
そして陸軍の譲歩をも引き出し、海軍軍令部の独立を勝ち取っています。
権兵衛の執念が実ったのです。
権兵衛は、「陸主海従」から「陸海平等」へと大改革を実現したのです。
権兵衛の大改革は、もうひとつあります。
彼が海軍大臣官房主事のときのことです。
時の海軍大臣は、西郷従道。西郷隆盛の弟です。
権兵衛は、海軍諸制度の改革と不要な人員整理の改革を大臣に奏上しました。
これをみた西郷従道は、度肝を抜かれたそうです。
なんと将官(局長、部長級)以下、97名の海軍士官をクビにすると書いてある。
「こんなに整理したら、有事の際に支障はないか」という西郷従道に、権兵衛はいいます。
「新教育を受けた士官が増えています。
心配はありません。戦争になったら、整理した予備役を召集します」
この大改革で、権兵衛は維新の論功行賞による人事を排します。
海軍近代化に不可欠の、年功序列でない、実力本位の合理的新体制を実現したのです。
明治31(1898)年、権兵衛は海軍大臣に就任しました。
日露戦争を前に、風雲急を告げた時代です。
ここで権兵衛は、常備艦隊(後の連合艦隊)司令長官に、東郷平八郎を大抜擢しました。
当時の東郷平八郎は、舞鶴鎮守府長官です。これは窓際ポストです。
いわば、地方支店の営業所長を、いきなり本社の副社長に任命したようなものです。
しかし、危急存亡のときというのは、ときにこうした思い切った人事の作新が不可欠です。
さて、海軍省の本庁では、東郷平八郎のことなど誰も知りません。
いったいどんなスゴイ人物がやってくるのだろうと思っていると、「風采のあがらん小さな男が、ヨボヨボ下を向いて」着任してきました。
これには海軍内部だけでなく、他の大臣からも物議がかもしだされます。
「なにも窓際で予備役編入寸前の東郷を起用することもなかろう」
「凡才ではとても大任など果たせやせんよ」
「それにしても風采があがらなさすぎる」等々
しかも東郷平八郎と権兵衛は同郷です。
平素は合理主義といいながら、内実は、ただの同郷人事かよという声が、ついに明治天皇の耳にまで届きます。
明治天皇は、権兵衛を呼びだしました。
このとき権兵衛が言ったのが、あの有名な言葉です。
「東郷は運の強い男です」
後にこの人事は、陸軍の児玉源太郎の参謀次長就任と並ぶ二大傑作人事と評されました。
けれど実は、この人事は、権兵衛にとっては、とても辛い選択だったのです。
東郷平八郎の起用には、前任者の日高壮之丞を解任しなければならい。
日高は権兵衛とは、幼いころからずっと一緒にやってきた竹馬の友です。
海軍兵学寮時代も一緒だった。
遊ぶときも、いつも一緒、なんでも腹蔵なく話し合い、幾度も議論して世を明かし、一緒に酒を飲んだ大の親友です。
しかし権兵衛は私情を捨てた。
日高は有能な海軍士官です。
しかし、自分の才気に溺れ、独断専行の弊がある。
日露戦は、我が国にとって、国運を賭けた戦いです。
その司令長官は、上の方針に反する者であってはならない。
なるほど東郷は風采はあがらない。
けれど合理的かつ冷静沈着な判断と行動ができる男です。
それにきわめて運が強い。
権兵衛は東郷以外に、この国難を委ねる人物はいないと心に決めたのです。
権兵衛は、自ら日高に、解任を通告しました。
日高は腰の軍刀を抜きました。
「権兵衛、何も言わん。これで俺を刺し殺せ」
日高は、誇り高き海軍軍人です。
それだけに怒りと失望は、察してあまります。
権兵衛にも、日高の心は痛いほどわかります。
けれど権兵衛は、眼に涙を浮かべながら日高に言います。
「そのおはんの性格が、国家の大事に際して不向きなのだ。だから東郷を選ばざるを得なかったのだ。
俺たちは竹馬の友だ。
私はおはんに少しも変わらぬ友情を今も抱いている。
しかし、国家の大事の前には、私情は切り捨てなければならんのだ」
日高も国を思う気持ちは同じです。
彼も涙を浮かべた。
そして、うなずきました。
「権兵衛、よくわかった。よく言ってくれた」
権兵衛も泣いた。
日高も泣いた。
二人は互いの手を両手でしっかりと握りあったといいます。
実際にあった話です。こういう話を、浪花節と笑っちゃいけません。
お互いに真剣だったのです。
真剣だから刀を抜いたのです。
命をかけた男の会話なのです。
こうして、日本の誇る大英雄、東郷平八郎連合艦隊司令長官が誕生しました。
そしてその後の経緯は、みなさまご存知の通りです。
さてみなさん、文明国と、非文明国の違いは何でしょうか。
文明国では、手形や小切手、あるいはクレジットカードなど信用を媒介にした取引が普通に行われます。
非文明国では、これができません。
なぜなら、文明国は、信用を軸にすべてがまわっているのに対し、非文明国では、互いに信用するということができないからです。つまり、野蛮人です。
民主党は、民主党創設の立役者が50人を引き連れて早々に離党し、いざ選挙を前にしたら、なんと民主党総理経験者さえも離党を表明しています。
この三年間の政治を振り返っても、政策もマニフェストも、嘘ばかりです。
世間を騙し、民衆を騙し、党内の信頼関係さえも、まったくない。
要するに、民主党は、野蛮人の政党だ、ということです。
どんなに立派な背広を着、どんなに高所得を得ていようとも、蛮族は蛮族でしかない。
日本は、相互信頼と相互信用を軸とした高度信用国家です。
そして高度信用国家が文明国だとするならば、日本は18世紀に、世界ではじめての文明国家となった国です。
なぜそれが実現できたのかといえば、それは古来から日本は、天皇を宗家とした家族国家を建国の理念としてきたからです。
そしてその核となっているのが、家族です。
私達が目指そうとしているのは、その家族としての紐帯を持った日本を取り戻そうということです。
そのことを、私達は、日本主義と名付けています。
昭和8(1933)年12月8日、山本権兵衛は81歳でその生涯を閉じました。
その8か月前には、73歳になる妻登喜子(トキを改名)がお亡くなりになっています。
登喜子がいよいよ最期というとき、権兵衛も病床に臥していたのだけれど、彼は家の者に言って、自分を登喜子のいる2階に運んでもらっています。
そして妻の手を握って言葉をかけたそうです。
「お互い苦労してきたなぁ。
だがな、わたしはこれまで何一つ曲がったことをした覚えはない。
安心して行ってくれ。
いずれ遠からず、後を追っていくからな」
登喜子は、目からポロポロと涙をながして夫の手を握り返したそうです。
その日、登喜子は夫の愛を胸に抱きながら旅立ちました。
高齢となったご夫婦で、夫に先立たれても、いがいと女性は長生きします。
ところが、妻に先立たれると、不思議なことに夫も後を追うことが多い。
権兵衛さんも、そうでした。
まるで後を追うかのように、権兵衛も旅立ちました。
夫婦って、なんだか不思議です。
二度の総理を勤めた山本権兵衛については、政治家として、何かと批判的な評論も多いです。
けれど、思い切った人材登用で日本海海戦を勝利に導いたこと、そして何より、ひとりの女性を生涯にわたって愛し続けた山本権兵衛という人の生涯には、やはり私達に学ぶべきものが多々あるように、思います。
愛と献身、思いやりの心。そういうものが国の柱、日本人の柱ではないかと、思います。
国も家族、会社も組織も家族です。
日本は、天皇家を宗家とする家中心の安定した社会構造を軸にしてきました。
戦国時代や武家社会といっても、やはり、そうした国の原点は変わらず続いていたのが、我が国の歴史です。
私達には、父祖の育んだ、そういう美や、崇高への献身、慈愛や思いやりといった心を大切にしてきた美しい国日本があります。
その日本を取り戻すのか、壊すのか。
次の選挙は、その二者択一の選挙でもあるように、思います。
※この記事は平成21年11月6日に一度アップしたものを、新たに加筆修正したものです。

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