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七福神と宝船

「鎖国」と聞くと、多くの人が江戸時代の「鎖国」を思い浮かべるようです。
けれど日本の歴史を振り返ると、実は「鎖国」と「開国」が交互に起こっています。
古いところでは、推古天皇の頃(推古8(西暦600)年)から、推古26(618)年(推古26年)まで行われた遣隋使があります。
有名なところでは、小野妹子が有名な「日出処の天子」の国書を持参したのが第2回の遣隋使です。


遣隋使は、推古26年に随が滅んだことによりなくなり、次いでChinaに建った王朝である唐への遣唐使がはじまりました。
遣唐使は、寛平6(894)年までの264年間続きます。
廃止したのは菅原道真で、理由はいくつかありますが、一般には唐が末期となり、Chinaの国が荒れ、交易をする意味がなくなったこと(唐は907年に滅亡し、Chinaは五代十国に分裂した)が理由とされています。
遣唐使を取りやめた日本は、以後、日本人が国の許可なく異国に渡ることを禁じた「渡海制」をひき、さらに唐や宋などの商船に対しても、前回の来日から次回の来日まで、最低10年の間を空けることとする「年紀制」を定めています。
要するに日本は「鎖国」したわけです。
これを再開したのが平清盛の父、平忠盛で、彼は民間貿易としての日宋貿易を本格化させています。
平忠盛の時代は、12世紀初頭ですから、日本は約100年「鎖国」していたことになります。
一般に平家は水軍を中心とする武力をもって朝廷に大きな権力を築いたとされていますが、実際に忠盛が朝廷内で出世し、清盛の時代に源氏を倒して「平氏にあらずんば人でなし」という時代を築いた背景には、この日宋貿易によって得られた巨額の資金がものをいったとされています。
その日宋貿易も、1185年の平家滅亡により、事実上停止となります。
鎌倉幕府は、南宋末期までChinaとの交易を行っているものの、あくまで幕府管理下で、細々とこれを行っただけであり、宗が滅び、元が起こると、日元貿易は、あるにはあったけれど、その規模は極めて小さなものにまで縮小しています。
そして次に日本が国としてChinaとの国交を開くのは、応永8(1401)年の室町幕府三代将軍足利義満による「日明貿易」の時代となります。
つまり、日本は216年間、再び「鎖国」していたわけです。
もっとも、国交のない「鎖国」状態の中でも、いわゆる密貿易はあったし、また村上水軍や五島列島などの島民を中心とした倭冦は、1300年代から度々ChinaやKoreaに押し掛けてもいます。
ただしこれは、国としての公式な交易ではないので、ことについては後述します。
日明貿易が開始された背景には、この私的交易団である倭冦が、度々明を荒したので、国家として公式かつ安定的な交易を開始しようとしたことが背景にあったとされています。
実は、これは不十分な説明と思うのだけれど、そのことも、後述します。
日明貿易は、フランシスコ・ザビエルが来日した天文18(1549)年まで19回行われましたが、このとき、割り符を利用して互いの国の正式な派遣船であることを証明したことから、この交易を「勘合貿易」とも呼んでいます。
当時の交易の様子については、たとえば宝徳年間に明に渡った商人の楠葉西忍の記録によれば、明で250文で買った絹糸が、日本に持って来ると5貫文(5000文)の値で売れ、
反対に日本で10貫文で仕入れた銅が、明で40〜50貫文で売れたそうです。
さらに、刀剣類や漆器などは、やはり2〜30倍の値段で売れた。
貿易は、それだけボロ儲けできる商売だったわけです。
ところがこの日明貿易は、開始からわずか10年で一時中断しています。
なぜかというと、この日明貿易を行うにあたり、足利義満が「朝貢」形式を採ったからです。
これを不服とする人々が、交易の継続を拒否した。
交易が再開されるのは、天文5(1536)年ですが、これ以降の交易は、国家としてのものというよりも、周防国(山口県南東部)の大内義隆による個人貿易の色彩が強いものでした。
その大内氏も、弘治3(1557)年に毛利元就に討たれて滅び、以降、明との交易は公式なものは停止となり、倭冦による民間交易だけが続くことになります。
つまり日本は、156年間の開国の時代を終わり、ここで三たびChinaに対して「鎖国」したわけです。
ところが一方で、この時期になると、今度はスペイン、ポルトガル、そして東南アジア諸国が、新たな交易相手として登場します。
信長を筆頭に、各藩はこぞってこれらとの交易を盛んに行ない、ヨーロッパにまで使節団が派遣された(天正少年使節団)ことはみなさまご存知の通りで、さらに家康の代になる慶長6(1601)年以降になると、ベトナム、マニラ(フィリピン)、カンボジア、シャム、パタニ(タイ)などと正式な国交関係を樹立し、盛んに貿易が営まれるようになりました。
東南アジアの各町には、日本人町が作られ、なかでも有名なのがタイのアユタヤで勇名をとどろかした山田長政です。
おもしろいのは、この時期(慶長11(1607)年)には、家康がガレオン船まで建造していることです。
ガレオン船というのは、よく西欧の海賊ものの映画などに出て来る大型帆船で、4〜5本の帆柱を備え、舷側に大砲を揃えた、あの外洋航海用の大帆船です。
おもしろいのは、日本はこの直前である文禄元(1592)年から慶長3(1598)年まで、朝鮮征伐で明、朝鮮の連合軍と戦っていたことです。
秀吉の死後、日本は朝鮮から撤兵(慶長3)していますが、その一方で、東南アジア諸国やスペイン、ポルトガル、オランダ等と、盛んに貿易をしていたわけです。
ところが、寛永16(1639)年になると、日本は南蛮(ポルトガル)船入港禁止令をひき、鎖国します。
つまり、1401年にはじまる日明貿易から、東亜、西欧との交易にいたる開国解放政策は、238年で幕を閉じ、以降、嘉永7(1854)年の日米和親条約締結までの215年、日本は四度の「鎖国」に踏み切るわけです。
ここまでの流れをすこし整理すると、次のようになります。
600〜894/開国294年間 遣隋使、遣唐使
894〜1100/鎖国206年間
1100〜1185/ 開国85年間 平家全盛期
1185〜1401/ 鎖国216年間
1401〜1557/開国156年間 足利幕府
1557〜1639/鎖国82年間 Chinaに対して
1639~1868/鎖国229年間 江戸幕府 
1868〜2012/144年間⇒開国
これ以前にも、開国解放と鎖国は、度々繰り返しているようなのですが、要するに民間部門での私的交易や、細々と行われたであろう大陸との交流は別として、公式に行われた交易は、時代とともに鎖国政策と開国解放政策が時代とともに交互に行われてきた歴史が、日本にあるわけです。
ではなぜ、こうした開国解放と、鎖国政策が時代とともに大きく揺れ動いたのでしょうか。
海外との交易が、交易をする者に巨額の富をもたらしたことは、上にご紹介した楠葉西忍の記録がこれを証明しています。
またよく見かける七福神は、冒頭の絵にあるように、みなさん宝船に乗っておいでです。
これなども大陸から帰還する船が、都度、巨額の富を日本にもたらしたことをモチーフにしたものとされています。
ひとつはっきりといえるのは、なるほど開国解放政策の時代には、大陸からの多宝物がたくさん日本にやってくるというプラスの面がある一方で、おそらくは、人的交流もさかんであったであろうということです。
実際、それぞれの時代、随や唐、宗や明などから、多数の人格高潔とされる高僧なども来日し、帰化しています。
しかも、交易は、巨万の富をもたらしました。
けれどものごとというものは、作用があれば必ずあるのが反作用です。
プラスの面があれば、同時に必ずマイナスの面が起こる。
おそらくは、交易が盛んになるにつれ、多数の帰化人、渡来人の中には、ろくでもない連中も多数来日したであろうことは、容易に想像がつきます。
実際、遣隋使、遣唐使が盛んだった時代には、世が荒れ、国内治安が乱れ、白村江の戦いも起こり、遷都が繰り返されています。
治安が良く、政治的混乱もなく、世が安定していれば、遷都の必要などないのです。
にも関わらず、住み慣れた都を捨て、改めて都を遷さなければならない。
それには、それを「せざるを得ない」何かがあったであろうことは、誰にでもわかることであろうかと思います。
菅原道真が遣唐使を廃止したあとも、国内の混乱は続きました。
そしてこの頃から、民間部門で力を持ちはじめたのが、武士団でした。
なぜ、民間に武力が必要だったのでしょう。
必要があるから、武士が生まれたのです。
必要がないなら、武士は生まれません。
武士の始まりを、平安貴族の荘園(農園)の警備員たちに求める説があります。
果たしてそうでしょうか。
日本人の感性として、たとえば日本人の日本の銀行の本店にいるガードマンが、頭取を殺害してその銀行を乗っ取るという発想をするでしょうか。
むしろ、日本人が、あえて民間武装止む無しという行動に走るのは、関東大震災のあとの治安の悪化の中で自然と武装した自警団が生まれたこと、あるいは、終戦直後の混乱の中で、在日朝鮮人達の横暴に対してヤクザが武装して立ち上がり、警察署などを守ったことなどがあげられます。
もともと日本人というのは、縄文時代の1万7000年間にわたって、「人が人を殺すことをしない」、むしろみんなで力を合わせて何かを作る、築くことを是とした民族です。
1万7000年というのは、ものすごい年月です。
なにせ、関ヶ原の戦いからでさえ、まだ412年しか経っていません。
一世代がだいたい25年、百年で4世代が交替するとすると、関ヶ原からで16世代です。
計算上は、700年前の鎌倉時代の一組のカップルから、日本のいまの人口(1億2700万人)が誕生する。これが28世代です。
それが1万7000年というと、680世代というとほうもない期間です。
その長い期間にわたって、全国津々浦々、なんとか貝塚とか、なんとか遺跡とか、縄文時代の古い遺跡が日本中に数万カ所あるけれど、そのどの遺跡からも、野うさぎなどの小動物を狩る矢じりや、道具としての石斧、あるいは土器や土偶などは数限りなく見つかっているけれど、対人用の武器が出土していないのです。
つまり、日本人は、縄文の昔から、人を殺すことを良しとしなかった。
さらに有名な三代丸山遺跡にある六本柱の巨大建造物や、縄文時代の木造の住居跡も沢山みつかっているけれど、そこで使われた木材を、いったい縄文人達がどうやって伐り倒し、どうやって枝を払い、どうやって地面から立てたのかが、またおもしろい。
巨木を伐るといえば、いまの時代ならチェンソーを使いますし、一昔前なら、金太郎が担いでいる鉄製の大マサカリが使われたことでしょう。
けれど縄文時代には、チェンソーを動かす電気はなかったし、マサカリに使う鉄器も、青銅器さえも、まだないのです。
では、何をつかって巨木を伐り倒したかといえば、磨製石器を使った。
どうやったかというと、木の根元を火であぶって焦がし、そこを先の尖った磨製石器でガリガリ削って、木を伐り倒していたのです。
少し考えたらわかりますが、そうすると一本の木を伐るだけでも、膨大な時間がかかります。
つまり、誰かが木を伐っている間、その食は、別な誰かがみなきゃなりません。
さらに枝を払い、目的地まで運び、さらにその木を加工して、木造建築物を建造するとなると、これはもうひとりでは、絶対に無理です。
ならばどうするかと言えば、人々が互いに協力しあう。たすけあう。
そういうことは、人が人を殺し、奪う文化では、決して実現できないことです。
みんなが力を合わせることで、はじめて、実現できる。
それを、縄文の昔から、日本人はやり続けてきたのです。
もうすこし言うと、縄文時代の遺跡からは、足形付き土器というものも出土しています。
幼子の足形を粘土にとって、それを焼いて土器にし、あとあとまで残したのです。
どうしてそんなことをしたかというと、明治時代くらいまで、(これは日本だけでなく世界中どこでも)、子供というのはよく死んだのです。
ですから、何人も産んで、ようやく成人できるのは、そのうちの何人かでした。
そして、我が子が死ぬとつらいのは、現代人も縄文人も変わりません。
なので、亡くなった子供の足形を、永遠にとどめるために、土器に残したのだといわれています。
そういう和と協調、やさしさと思いやりの文化が、日本人のDNAに深く刻み込まれています。
ですから、日本人は、人と人とが助け合い、いたわり合い、みんなと共同し、協力して何かをなすことに自然な喜びを抱きます。
ところがこれに対し、大陸の文化は、大きく異なります。
常に人が人を殺す。
殺すだけじゃなくて、人が人を食べる。
食人があたりまえの文化です。
三国志で、魏の曹操が80万の大軍を赤壁に進軍させるけれど、その80万の軍勢の糧食はどうしたのか。
もちろん、地元民から略奪はあたりまえです。
けれどそれだけじゃない。
彼らは、80万の軍勢を食わせるために、村人や負けた国の奴隷たちを、バラして食べていたのです。
そういう食人文化を持った人たちがいる国と交易をする。
もちろん、すぐれた文物もあることでしょう。
倭冦などの記録をみると、日本からは、主に銅や金(GOLD)を大陸や朝鮮に運び、向こうで買って仕入れたのは、主に書物だったと書いてあります。
とりわけ仏教文化に関する文物は、たいへんに貴重なものとして、日本で高く評価されたことでしょう。
つまり、お金になった。
けれど、そうした交易には、当然のことながら、人的交流も含まれます。
そして交流「人」の中には、ろくでもない犯罪者や乱暴者も多数含まれていたことでしょう。
そして、武器を持たない日本人の一般庶民は、そうしたろくでもないChineseやKoreanにしてみれば、恰好の餌です。
奪い、犯し、殺す。
当然、日本国内の治安は悪化します。
つまり、一部の人が交易によって富む一方で、国内の庶民生活は、不逞外国人による泥棒や、強姦、殺人等の事件が、頻繁に起こり、平穏な生活がおびやかされるようになるのです。
さらに一部の不逞外国人たちは、交易によって得られる富を背景に、日本の政治にも深く関わるようになってきます。
そして日本文化にはまったく見受けられない、非常識、すなわち自己の利益のために庶民の生活を平気で踏みにじるという政治を行いはじめる。
実は、これは日本人には本能的にできないことです。
たとえば、パチンコ屋が儲かるからと、戦後多くの日本人がパチンコ店の開業に踏み切りました。
けれど、そのほぼ全てが、倒産の憂き目にあっています。
あれだけ儲かる(いまや全国の真の長者番付の上位はことごとくパチンコ店主です。税務署に頼んで、納税の日を納付期限日の翌日にしてもらうことで、番付に出ないようにしているだけです)商売であるはずなのに、日本人だと、なぜパチンコ店の経営ができないのか。
損して、丸裸になるような人を、放置できないからなのだそうです。
ついつい人情が出てしまう。
加えて、日本人経営のパチンコ店ができると、近隣の朝鮮系パチンコ店が、徒党を組んでその日本人パチンコ店を潰しにかかったのも、有名な話です。
日本人は、基本、自己責任で、あまり徒党を組むことをしませんが、ChineseやKoreanは、よるとさわるとすぐに徒党を組むという特徴があります。
これには理由があって、お互いに信用できないから、一緒に行動せざるを得ないのだそうです。
日本人は、そうではなく、信じて任せてしまう。
そして、建設的なことならば集団で力を合わせるけれど、マイナスのことに関しては、あまり組みたがらない、というのも日本人の古来変わらぬ特徴です。
要するに、不逞外国人達は、あちこちで暴力沙汰や強姦致傷、窃盗、強盗などの重大犯を繰り返す。
それがどうにも目に付くようになるから、結果として、鎖国に踏み切る。
鎖国といっても、江戸時代もそうですが、政府単位の公式な交流がないというだけで、民間レベルの密貿易に近い交易は、綿々と継続します。
ただし、これはあくまでも、民間レベルの小さな窓口だけでの交流ですから、不逞外国人が大挙して日本にやってくるというようなことは起こらないわけです。
そして鎖国をしている期間、日本文化は、毎回、花を咲かせています。
平安文化、鎌倉文化、江戸文化、いずれも、日本の日本らしさが満面に讃えられた文化が花開いています。
けれど鎖国して何十年か経つと、やっぱり交易が儲かるからと、またぞろ、触手を伸ばそうとする権力者があらわれる。
遣隋使初期の小野妹子や、平安末期の平清盛、室町幕府の足利義満などです。
結果、何が起こるかと言うと、その権力者が莫大な財力を手中にする。
ところが、清盛が赤禿(あかかむろ)というスパイまで使ったということにもあきらかなように、そうして我が世の春を満喫する施政者が出る一方で、庶民の生活は脅かされるどころか破壊され、結果、国が荒れる。
遣唐使を終わらせた頃の日本は、平将門の乱や、藤原純友の乱などが起こっています。
将門も、純友も、大金持ちだったという記録はありません。
どちらかといえば質素な生活をし、民からたいへんに慕われていた。
では、そういう人が、なぜ反乱を起こすまで追いつめられたのか。
そこには、なんらかの、我慢できない事情があったと考えるのが普通です。
とりわけ日本社会というのは古来、全ては家を単位として意思決定が行われます。
つまり、将門が、「俺は我慢ならんから、中央と争う!」と述べたとしても、将門の家人たちが、「いんやぁ、おらたち、農作物の収穫があるだに」と逆らえば、それまでなのです。
逆にいえば、将門や純友が立ち上がったというのは、将門や純友以上に、その家の家人たちが、やもたてもたまらないくらいの怒りに燃えていたということです。
それだけ世が荒れた。
荒れた理由が何なのか。
それを説明する文書はないけれど、帰化人達が日本国内に増え、徒党を組んであちこちで狼藉を働いていたとするなら、それを放置し、取り締まらない政府があれば、民の非難が集中するのは、無理からぬことです。
室町時代の開国では、もっと顕著な出来事が起こっています。
つまり、日本が戦国時代に突入してしまったのです。
戦国時代の始まりは、百年続いた応仁の乱からで、応仁の乱は、足利将軍が怠惰で怠け者だったことが原因とされているけれど、そういう解釈はいかがなものかと思う。
なぜなら、日本社会では、いわゆるキレ者が将軍でいることよりも、ちょっと抜けたような人が上にいることのほうをむしろよろこぶ気風があるからです。
加えて、戦国末期に来日したザビエルの書簡をみても、日本人は、「お上から諸民にいたるまで、貧乏であることを不名誉と思わない」と書いています。
貧乏はいやだけれど、みんなが貧乏、オレも貧乏なら、わははと笑っていこうじゃないかというのが、日本人の気質です。
ならばなぜ、大名同士の争いが激化したのか。
治安が極端に悪くなり、武装して戦わなければ、国を維持できないところまで追いつめられたからと考えれば、すべてが辻褄が合います。
では、どうして治安が悪くなったのかといえば、足利幕府の開国解放政策で、不逞渡来人が増え、国内のあちこちで、いまでいったらコンクリート詰め殺人事件や、強姦致傷事件が頻発したから、と考えれば、民の怒りの爆発も十分に納得できる。
そして、織豊時代にはいり、東南アジアやスペイン、ポルトガルとの交易が盛んになるけれど、この時期は、むしろ明国や朝鮮との付き合いは、ほとんど行われなくなっています。
ところが、スペインが明国を制圧し、その大軍をもって日本にやってきたら、日本はとんでもないことになる。
だから、秀吉は朝鮮出兵を決意しました。
そしてその結果、日本人は直接明国や朝鮮人と干戈を交え、彼らの残忍性や、人食いや強姦の実態をつぶさに見聞することになる。
で、どうしたかといえば、秀吉の死後、即時、日本は朝鮮半島から撤兵し、サッサと鎖国してしまった。
当時の日本は、世界の鉄砲保有数の約半数を保有すると言う、超軍事大国です。
ガレオン船を建造したくらいで、世界の海をまたにかけて海外渡航できるくらいの海運力、造船力さえもあった。
つまり、世界の海を制することさえも可能なくらいの海軍力さえもあったのです。
鉄砲保有数世界最大ということは、世界最強の陸軍国であるということです。
東南アジアや、ヨーロッパにまで人を派遣したということは、海軍力も強大だったわけです。
その強力な軍事力があったからこそ、日本は、あえて、国を閉ざした。
なぜでしょう。
巷間、よくいわれることは、人類の平等を説くキリスト教が施政者にとって都合が悪かったから、です。
それはおかしな理論です。
キリスト教が人類の平等を説くなら、なぜ欧米には人種差別があったのでしょうか。
欧米列強の植民地政策を畏れたから、という説もあります。
これまたおかしな理屈です。
当時、世界最強の勢力を保持していたのはスペインです。
そのスペインは、フィリピンのマカオに総督府を置いていました。
秀吉の時代に、これが一定の脅威となっていたのは事実だけれど、そのスペインは、当時英国と覇権をかけて80年戦争と呼ばれる英西戦争を戦っていた最中であり、秀吉が刀狩りを開始した頃、スペインの無敵艦隊は、グラヴリンヌ海戦で英国に完敗するという事件を起こしています。
つまりその頃のスペインは、英国と覇権をかけて争っていた最中であり、東亜に力を割くだけの余力がない。
一方で、スペインにかわって世界の覇者となる大英帝国も、この時点では、いまだスペインとの抗争中で、東亜に出るだけの力がない。
つまり、東亜地域は、西欧の植民地政策上の空白地帯にはいっていたわけです。
その時期に、たとえば家康なども、当初は大喜びで東南アジア諸国に家康の経営する日本人町などをつくり、各国の文物をさかんに採り入れ、ヨーロッパ事情にも精通していたにもかかわらず、その家康がまだ存命中に、いともあっさりと鎖国に踏み切っています。
東南アジア諸国の日本人町の経営が破綻した、という話もありません。
むしろ、日本人町は、当時大発展していたことが、さまざまな記録に書かれています。
では、なぜ、日本は世界最強の軍事力を抱いて鎖国したのでしょう。
これもちょっと考えたら、答えはすぐに見つかります。
開国解放政策というのは、簡単にいえば、城の塀を取り除いて、人々が自由に往来できるようにするという体制です。
これに対して鎖国政策というのは、城に高い塀を築いて、人々の出入りを厳しくチェックする体制です。
(鎖国しても、狭き門を通じてのごくわずかな人的交流はある)
塀を築いて人々の往来を制限するというのは、外敵を防ぐためです。
もっといえば、家の周りに塀をつくるのも、泥棒が侵入しないようにするためです。
いまの日本では、玄関に鍵をかけるのはあたりまえですが、ほんの数十年前までは、家に鍵をかけるなんていう習慣は、日本にはありません。
それが鍵をかけるようになったのは、泥棒や強盗、強姦魔が家に侵入するようになってきたからです。
これにはだいたい傾向があって、
強盗、傷害、残虐殺人などは、おおむねChinese。
強姦を伴う、若い女性や少女が犠牲になる事件は、おおむね朝鮮人による犯行です。
時代がかわっても、民族の行動は、そうそう変わるものではありません。
要するに、ChinaやKoreaとの交流が盛んになると、富と交換に、不逞のヤカラが多数日本にはいってくる。
そして日本中を荒し回る。
結果、人々がどうするかといえば、自警団を組んで防犯に努めるとともに、他国からの侵入者に対して警戒的になる。
そして軍事力を持つお上に、治安の維持を依頼する。
その肝心のお上が、交易からもたらされる富みに溺れて、ChineseやKoreanを多数国内に招けば、結果として、犯罪発生率は増大し、人々の警戒心は一層増す。
結果、役に立たないお上は、民衆の気持ちを理解する新たな勢力によって、ほろばされるわけです。
そういえば、開国開放路線だった平清盛は、福原(いまの神戸)に都を遷そうとしています。
その理由についても諸説ありますが、一般的なのは、福原という交易港に都を遷せば、一層の贅沢と富が手に入ると清盛が考えたからだといわれています。
そしてその当時の交易相手は、ChinaやKoreaです。
ということは、港には、多数のChineseやKorean達が上陸してくる。
中には、マトモな人もいたことでしょう。
けれど、どうにもならない不逞のヤカラも、中に多数混じっていたことは、想像にかたくありません。
そしてどういうわけか、鳴り物入りで福原宮に遷都したけれど、あっと言う間に福原は見捨てられ、都が京にもどってしまっています。
なぜでしょう。
Chinese、もしかすると不逞Koreanによる貴族女性への暴行事件があったのかもしれません。
記録はないけれど、もしあったとすれば、清盛が何をいおうが、多くの女官達を擁する公家たちが、荒れた福原を嫌がって京に戻ってしまったとしても、なんら不思議はありません。
要するに、我が国の歴史は、開国解放路線と、鎖国路線が常に交互に行われたという歴史を持ちます。
そして国が荒れるのは、決まって開国開放路線後のことです。
そして国を閉ざしたのも、決まって不逞Chinese、不逞Koreanによる国内治安の悪化が最大の要因となっている。
もちろん渡来人の全てがろくでもない人でなしというわけではありません。
立派な人も数多くいたし、日本に帰化して日本人との間に子を設け、何代にもわたって純粋な日本人としての心をもつようになった人も数多くいます。
けれど、その一方で、どうにも箸にも棒にもかからないとんでもない連中が多数日本に渡来してくるというのは、これまた事実として認めなければならないことだと思います。
実際、田中角栄さんが日中国交正常化を推進しました。
その結果何が起こったかというと、国交回復後10年を経て、クレジットカードの不正買い回り事件が多発するようになりました。
Chineseたちが大挙して日本にやってきて、日本人からクレジットカードを盗み、これを使って、利用限度額20〜30万円のカードで、多いものでは1億円くらいの買い物をしました。
当時は、いまのようなCAT端末による電子的照会がなく、インプリンタと呼ばれる圧力紙に刻印してサインをもらう形でしたから、利用限度額のチェックを受けることなく、やろうと思えばいくらでも不正買い回りができたのです。
当時、上海市の月間予算が3億円程度だった時代です。
その時代に、日本で、個人で数億円の買い回りをし、そこで得た物品を売りさばいて1億円程度の不正に取得したカネを持って、国外に逃亡し、China本国に帰る。
帰れば、それこそ大金持ちの資産家です。
ありとあらゆる贅沢ができる。
そして日本のクレジットカード会社が、電子取引化を推進し、盗難カードが使えなくなると、次に多く発生しはじめたのが、強盗に殺人です。
もうひとつ。
共同墓地で、墓石をひっくり返して遊んだり、あるいは外地において外国の戦没者の慰霊碑に落書きをする。
あるいは、小さなお地蔵さんやお稲荷さんの小さな祠に、選挙ポスターを貼る。
あるいは、神社に火をつけて、火災を起こす。
こうした行動は、よほどグレた日本人でも、日本人の感性では、まずできないことです。
けれど、不逞Chineseや不逞Koreanは、平気でこれをやります。
あくまでも全部とはいいません。
けれど、そういう連中が、次々と出てしまうというのが、彼らの民族のもつ傾向であることは、認めざるを得ない真実であろうと思います。
さて、今日、私が書いたことについて、いやいや江戸時代はなるほど鎖国していたけれど、朝鮮通信使という制度があり、朝鮮の使節団が来日して、たいそう歓迎されたという記録があるではないか、というご意見がありました。
ところが、この朝鮮通信使を調べてみると、なるほど日本が鎖国をした理由、そして、鎖国の理由をあえて隠した理由までもが、明確になってしまうのです。
そのことについては、明日の記事でまた詳しく書きたいと思います。
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