
「読書三到(どくしょさんとう)」という言葉があります。
読書に大切な三つの心得をいった四字熟語で、
眼至=目で読む
口到=口で読む
心到=心で読む
の3つを言った言葉です。
もともとは宋の朱熹(しゅき)が「訓學齋規(くんがくさいき)」という書物で唱えた言葉です。
原文では、
讀書有三到
謂心到、眼到、口到
三到之中、心到最急
とあり、意訳すると、
「読書には三つの到る道がある。それは心到、眼到、口到である。このなかで心到が最も重要なものだ」となります。
要するに、文というものは「心」で理解することが最も大切だということです。
私が今日申上げたいのは、我が国の国史を学ぶときは、実はこの「心読」が、大切だということです。
史料に、こう書いてあるということではなくて、その裏側にある事実や事情に目を向け、そこに書かれている以上のことを読み取る。
それがないと、我が国の国史は理解できない、ということです。
昔、「〜と日記には書いておこう」という言葉が流行したことがあります。
今日は雨だった。
だけど、日記には「晴れで楽しい一日だった」と書いておこう、というような具合です。
ちなみに、私は「日本の歴史」という言葉があまり好きではありません。
「日本の歴史」は、インドの歴史、マレーシアの歴史、アフリカの歴史、南米の歴史、イギリスの歴史などという言葉と同列に日本の歴史を語り、学ぼうとするものだからです。
たとえば「国語の授業」を、「日本語の授業」とは呼びますまい。
歴史も、自国の歴史は、他国の歴史を学ぶのと異なり、自国の歴史を通じて民族としてのアイデンティティを学ぶためのものという側面があります。
ですから「日本の歴史」ではなく、正しくは「国史」です。
さらに、我が国の近世以前の歴史に関しては、公的記録が必ずしも真実を伝えないという傾向があります。
つまり、「行間を読む」という態度がなければ、ほんとうのことが見えて来ない。
読み手が、行間にある事実を「心読」しなければ、事実は見えてこないし、見えなければ日本の「国史」は理解できない、唯物史観では、国史の真実はまったく見えて来ないのです。
つまり、建前上の公式記録に書いてあることを、文面通り解するというのではなくて、読み手がその背景をしっかりと理解しないと、ほんとうのことがみえてこない。
たとえば、たてまえ上は相手を「殺害した」ことにしておいて、実は逃がしておく。
多くの場合、出家して坊さんになるのですが、「出家して坊主になる」ということは、家を捨てるということです。
日本は、家族国家ですから、江戸以前の日本において、自分の家を捨てるということは、この世を捨てること、すなわち、この世の人としては死亡することで、坊主になるということは、生まれ変わることを意味します。
つまり、たとえば、戦国大名が出家して坊さんになることは、名も家も地位も名誉もこれまでの実績も全部捨てて、この世とあの世をつなぐ半分生きてて半分死んだ人になること、すなわちこの世の人としては、死んで生まれ変わることを意味します。
なかでも、建前上「死んだ」ことにされた場合は、二度と元の名前で歴史の表舞台に登場してはいけない。
それが日本の昔の考え方だったわけです。
有名なところでは、明智光秀がそのケースといわれています。
光秀は山崎の戦いで秀吉に破れ、坂本を目指して落ち延びる途中の本経寺付近の竹薮で、落ち武者狩りの百姓、中村長兵衛に竹槍で刺し殺されたと伝えられています。
そして公式記録上は、光秀の首は、京都の粟田口にさらされたことになっています。
けれど、別の多くの記録では、そもそも光秀のものとして首実検に出された首は3つあり、しかもそのいずれの首も、顔面の皮がなぜかきれいに剥がされていたと書かれています。
さらに光秀のものとして実検された首は、著しく腐敗していた。
これはどうにも辻褄があわない不思議なことです。
百姓、中村長兵衛にしてみれば、竹槍で刺し殺した相手が、その身なりから、相当の大物であったことは、簡単に察しがついたはずです。
つまり、大金星をあげた。
大金星ということは、それなりの大きな報酬が期待できたはずです。
ならば何故、顔面の皮を剥がす必要があったのでしょうか。
顔の皮を剥がすということは、意図的に「誰だかわからなく」した、ということです。
なぜ、そうする必要があったのでしょうか。
別な説もあります。
百姓、中村長兵衛の竹槍で深手を負った光秀は、股肱の家臣である溝尾茂朝に首を打たせ、茂朝はその首を近くの竹薮に埋めたとも、丹波亀山の谷性寺まで持ち帰ったとも、あるいは坂本城まで持ち帰ったともいわれています。
もしそうならば、秀吉が首実検した光秀の首は、いったい誰のものだったのでしょうか。
光秀のものとして実検された首級が暑さで著しく腐敗していたことは他の多くの史料にも記されています。
坂本城まで持ち帰ったなら、それなりに日数も経ち、腐敗したことはありえることかとも思いますが、ところが谷性寺と光秀の墓がある西教寺の記録によると、光秀のものとして首実検に出された首級は3体あったけれど、そのいずれも顔面の皮がすべて剥がされていたと書かれています。
なぜ、顔面の顔が剥がされたのでしょうか。
さらに不思議なことがあります。
家康の治世になると、天海僧正なる人物がいきなり家康の顧問として登場します。
その天海僧正が、実は光秀だったという説があります。
これにはいろいろな傍証があって、
1 日光東照宮陽明門にある随身像の袴や多くの建物に光秀の家紋である桔梗紋がかたどられている
2 東照宮の装飾に桔梗紋の彫り細工が多数ある。
3 日光に明智平と呼ばれる区域があり、天海がそう名付けたという伝承がある。
(天海が「ここを明智平と名付けよう」と言うと「どうしてですか?」と問われ、「明智の名前を残すのさ」と呟いたと日光の諸寺神社に伝承がある)
4 徳川秀忠の「秀」と、徳川家光の「光」は光秀、徳川家綱の「綱」は光秀の父の明智光綱、徳川家継の「継」は光秀の祖父の明智光継の名に由来してつけたのではないか。
5 光秀が亡くなったはずの天正10年(1582年)以後に、比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っている。
6 学僧であるはずの南光坊天海が、関が原戦屏風に家康本陣に軍師として描かれて、その時着たとされる鎧が残っている。
7 光秀の家老斎藤利三の娘於福が天海に会った時に「お久しぶりです」と声をかけ、3代将軍徳川家光の乳母(春日局)になっている。
8 光秀の孫(娘の子)にあたる織田昌澄が大坂の役で豊臣方として参戦したものの、戦後助命されている。
9 テレビ東京が特別番組で行った天海と光秀の筆跡を鑑定した結果、「極めて本人か、それに近い人物」との結果が出た。
10 童謡かごめかごめの歌詞に隠された天海の暗号が光秀=天海を示すという説がある。
(以上、Wikipediaより)
ただ、私は、天海=光秀とは考えていません。
そうではなく、天海は光秀の子だったのではないかと推測しています。
なぜなら、でなければ年齢が合わないからです。
で、光秀自身も、出家して長命を保ったとみています。
光秀は、自分のもっているすべての知識を愛息子に伝授した。
見た目も光秀そっくりに育った息子は、春日局からみても、光秀に生き写しだったのではないかと思うのです。
光秀が生きていたとすれば、秀吉もその事実は知っていたはずです。
知っていて、主君信長の仇である光秀を生かしておく。これまた不思議なことです。
そうなると、もしかすると、光秀と秀吉の戦い(山崎の戦い)そのもの、そして信長が殺されたとされる本能寺の変まで、壮大な茶番だったかもしれないと思えてきます。
つまり、比叡山や本願寺といった仏教勢力を信長は叩き潰しているのですが、実は、当時の世の中にあって、奈良時代以降、我が国の最大の武闘的政治勢力が仏教勢力でした。
彼らは、僧兵軍団を持ち、豊富な経済力と、その武装軍事力をもって、朝廷にも多大な影響力を及ぼし続けていました。
天下布武、国の政治権力を、ひとつに統合する必要を感じていた信長は、同時に、海外との交流も盛んに行った人物でもあります。
つまり、当時の世界において、スペイン、ポルトガルが、世界の諸国を植民地化し、奴隷化しているという現状を、当時の日本の主立った大名達は知悉しています。
ならばこそ、日本を一日も早く統一しなければ、海外勢力に日本も蹂躙されてしまう可能性を否定できない。
けれど、武門の力によって国内を統一しようとするとき、最大の障害となったのが、武装仏教勢力です。
けれど、これを打ち破るのは、長い伝統と歴史、そして人々の信仰を破壊することになる。
これを行う者は、報復を未来永劫受け続けることにもなる。
ならば、信長は、仏教勢力の武装解除を実現した時点で、光秀に殺されたことにし、「俺はシャムにでも行って、余生を気楽にすごすよ」となった可能性も否定できません。
なぜなら、日本人の一般的傾向として、権力に安閑としない、それを潔しとしない、という傾向があるからです。
公式に「死んだ」ことにすれば、余生はのんびりと過ごせます。
で、信頼する光秀に自分を討たせ、国を出る。
光秀は、当然、その時点で逆臣となります。
ならば、その光秀を誰かが討たなきゃならない。
一切を承知で大芝居の白羽の矢を立てれるのは、信長家臣団を見回しても、糟糠の家臣である秀吉しかいません。
しかも秀吉は百姓の出であり、その百姓が天下人になることで、百姓達が安心して暮らせる平和な日本を築く足がかり、イメージを演出することができる。
もしかすると、そういう大芝居が、信長、光秀、秀吉、家康の中でうたれたのかもしれません。
まあ、あくまでも、これは異説なのですが、ただ、私は、歴史を学ぶということは、そういう「もしかすると」という疑問を常に抱き続けることで、面白さがより増すものなのではないかと、常々思っています。
ですから、正史に書いてないから「なかった」と決めつけるのではなく、もしかするとこうだったのではないかと、あれこれ想像してみる。
自分だったらどうするかを、あれこれ考える。
そこに、歴史を学ぶ楽しさがあるのではないかと思うのです。
もうひとつ例を出します。
赤穂浪士です。
赤穂の四十七士は、もちろん江戸の市中で討入りを行いました。
これは、江戸市中で御法度の刃傷沙汰です。
御法度の刃傷沙汰を犯したのですから、当然切腹となります。
公式記録に残るのは、四十七士という浪人者が、狼藉を働いて切腹となったという事実だけです。
けれど、討入りを果たしたには、当然、それを為した背景があるというのは、みなさまご存知の通りです。
その背景とは何かといえば、主君である浅野内匠頭の遺恨晴らしです。
では、その遺恨とは、いったいどのような遺恨なのかが問題となります。
単に、年寄りの吉良上野介に、浅野のお殿様がイジメられた、というだけでは、あまりにも曖昧です。
殿様がそのようなひ弱な人物なら、家臣が切腹覚悟で遺恨を晴らす必要などありません。
むしろ、その程度のツマラナイ殿様だったというのなら、それ自体が赤穂浅野家のいい恥さらしであり、恥のために討入りなどすれば、それは「恥の上塗り」にしかなりません。
では、なぜ、討入りまでして遺恨を晴らしたのか。
その理由を説明するものは、公式記録には何もありません。
けれど、大石内蔵助以下の赤穂浪士たちは、その理由を、後世の人にちゃんと伝わるよう、明確な証拠を残しています。
その証拠というのが、討入りの際の山鹿流陣太鼓です。
山鹿流の始祖は、山鹿素行です。
山鹿素行は、皇室こそ我が国の国体であり中心であるという皇室尊崇論を説いた江戸初期の学者です。
徳川絶対の治世をはじめたところに、たとえそれが事実であったとしても、屋根の上に屋根を架すがごとき学説を将軍家のお膝元である江戸で説くというのは、乱世の世を終わらせることを至上課題としていた徳川一門にとって、決して好ましいものではありません。
といって、山鹿素行の論は、正しいものです。
なぜなら徳川将軍家の権威は、陛下から授かった征夷大将軍の称号に由来するからです。
つまり、山鹿素行の論は、正しい論です。
正しいことを主張している者を、江戸所払いにはできません。
けれど、当時の世は、徳川家が日本を平定して、まだ間もない時代です。
なにより徳川の権威を確立しなければならない。
そのためには、頭はひとつでなければならない。
江戸と京都と、頭が二つあるかのごときイメージを、民に与えることは、乱世を招く遠因になりかねません。
だからこそ徳川幕府は、山鹿素行を「江戸所払い」にしています。
そして赤穂浅野家に山鹿素行を「お預け」しました。
なぜ赤穂浅野家なのでしょう。
これも理由があります。
浅野家の始祖である浅野長政は、秀吉の妻の兄の家柄です。
もともとは雑兵の身分です。
その長政が大名にまで出世したのは、もちろん長政自身の粉骨砕身の努力の賜物でもあったけれど、それ以上に、秀吉の出世が大きく影響しています。
けれどその秀吉も、家柄は「どこの馬の骨とも知れない」下賎の身分です。
下賎の者だから、源氏の棟梁でなければなれない征夷大将軍にはなれません。
つまり、秀吉には、豊臣幕府を作る権利がありません。
そのため、秀吉が国内を統治する権威は、貴族の最高位である関白太政大臣という律令役職に基づく位によってもたらされるという形をとりました。
そして浅野家も同様に、武門の長であると同時に関白太政大臣の家系に連なる貴族としての地位が、その名誉と身分を保障したのです。
このことは、もっとわかりやすく言うと、浅野家は、そもそも武門の棟梁の家ではなく、ご皇室を尊崇することで、はじめて大名としての権威を得ることができる家柄である、ということです。
だからこそ皇室尊崇論者である山鹿素行は、ご皇室尊崇の家門である浅野家にお預けとなったわけです。
ただし素行は、江戸所払いというある種の受刑者です。
そうなると、浅野の本家(広島)というわけにはいきません。
なので、分家の赤穂浅野家にお預けとなった、というわけです。
そして浅野の殿様は、山鹿素行を家老待遇に処したうえで、孫の内匠頭、親戚の子の大石内蔵助、その他か新一同に、幼いころから山鹿流を、山鹿素行本人から徹底的に叩き込みました。
つまり、浅野内匠頭や、大石内蔵助らは、山鹿素行直伝の尊王主義者として育ったわけです。
これに対して吉良上野介は、足利幕府以来の「高家」です。
禄高は少ないけれど、足利幕府以来の名門の武家であり、あくまで武門の礼法の長としての高家です。
つまり、武門第一の吉良家と、ご皇室第一の浅野家では、その基本的国家意識がまるで異なったわけです。
そしてこの二人の思想信条の違いが、結果として勅使下向の接待役としての意見の衝突を産み、殿中松の廊下での刃傷事件に発展しました。
結果、浅野内匠頭はその日のうちに切腹のお沙汰となっています。
けれど、吉良上野介には、なんら処分は下っていません。
なぜでしょう。
本来なら、喧嘩両成敗のはずです。
それが片方だけの処分となった理由は、簡単です。
松の廊下での刃傷は、浅野内匠頭の一方的な暴力行為とみなされた、ということです。
交通事故でいったら、停まっている車に、一方的に衝突したみたいなものです。
被害割合は10:0となり、吉良上野介には処分はありませんでした。
つまり、上野介は、なんら抵抗していなかったからです。
そして赤穂藩はお取り潰しになる。
けれどこのことは、山鹿流第一、ご皇室第一とする浅野の家門として、はたまた山鹿流を学んだ者として、到底容認できないことです。
尊崇の意思だけは、武士の魂にかけて護り抜かなきゃならない。
とりわけ内匠頭と一緒に、幼いころから山鹿流を学んだ大石内蔵助にしてみれば、立場上、これを放置するわけにいかない。
放置しないということは、吉良上野介を斬らきゃきゃならない。
けれど、それをしたら、自分は死罪です。
考えてみれば面倒なことです。
だからこそ、一時は内蔵助は芸者をあげて遊び呆けます。
そして、ついに内蔵助は、討入りを行いました。
その討入りの際、公式記録上も、歌舞伎や文楽などの芸能上も、吉良上野介は屋敷内で討たれ、首を挙げられた、ということになっています。
けれど、一説によれば、内蔵助らは討入りはしたけれど、上野介に会うと、首を刎ねたのではなく、隠居を願い出たという説があります。
四十七士は、討入りをしたのではなく、「隠居しないなら、首を刎ねる」として押し入っただけだ、というのです。
そして上野介は、隠居を承諾し、吉良に帰って静かに晩年を過ごしたという説です。
討入りはした。けれど上野介の命は奪わなかった。
多少のけが人はあったけれど、死者は出ていない。
実際、「討入り」といいながら、四十七士にけが人は出ていません。
これまた不思議なことです。
つまり、四十七士は、押し入って吉良高家に、隠居を迫った。
吉良上野介は、これを承諾した。
そのため幕府は四十七士の処分にとまどい、結果として切腹の沙汰までに長い日数を要したというのです。
志士達の目的も、山鹿流陣太鼓を打ち鳴らして討入りを果たすというところにあり、それによって彼らの討入りの理由、つまり「山鹿流の正当性の主張」が実現するわけだから、それ以上の無駄な殺生を好むものではない。
結果、討入りの際に、多少のけが人はあったものの、死者は出ず、だからこそ四十七士の側にもたいしたけが人や死者も出なかった。
盛大な斬り合いは、単にドラマの上での創作でしかない、というのが真相だというのです。
実際、殿中松の廊下で浅野内匠頭から一度斬りつけられて額を割られ、また、四十七士に討ち入られて刃傷沙汰を起こしたと、二度にわたる不祥事があれば、吉良家は本来なら、当然、お取り潰し処分となるはずです。
なぜなら、繰り返しになりますが、喧嘩両成敗は武門の伝統的処分方法だからです。
けれど事実は、吉良上野介は、殿中松の廊下では、ただいきなり一方的に斬りつけられただけ。
同様に、四十七士の討入りも、これが「討入り」であり「斬り合い」であるなら、吉良家の処分は免れないのだけれど、斬り合いがなかったのなら、被害割合は10:0、すなわち吉良家に処分はありません。
なぜなら、討ち入られておいて、刀も抜かずに斬られたとあっては、家門の恥、武家の恥だからです。
討ち入られたなら、たとえ敵わぬといえども、正々堂々と切り結んで死ぬのが武家というものです。
それさえもしなかったというなら、武家の恥であり、仮に幕府が処分をしなかったとしても、吉良家は自ら廃家を申し出なければなりません。
それが武家社会というものです。
けれど、そうはなっていない。
ところが、実際には、内蔵助らは、山鹿流陣太鼓を叩きながら、四十七士で吉良家に「押し入り」、吉良上野介に隠居の要求を突きつけ、上野介がこれを承諾した、という事件なら、吉良家には、処分のしようがありません。
被害割合は10:0で、四十七士だけが処分を受けることになります。
要するに、吉良家と赤穂浅野家の確執というのは、あくまで皇室尊崇か、武門第一かという、いわば保守思想上の争いであり(実はこういう思想上の争いというのが、いちばん感情的になりやすく、過激行動にも走りやすい)、一方的に被害者となった吉良家は、一切のお咎めなし、四十七士は江戸の市中で騒動を起こした罪で一同切腹となった、そして上野介は、隠居し晩年を吉良で過ごした、というのが真相だというのです。
実は私は、この説を支持しています。
基本的に、日本人は、人が人を殺すことを極端に嫌う性格を持っているからです。
殺さずに、できるだけ生かすようにする。
そして、一定のコトを起こすときは、相手の命を奪うよりも先に、自らの意思を通したうえで、正々堂々と自分の腹を斬る、というのが、日本人の日本的思考だからです。
公式記録にも、物語にも、上述のような記録は一切でていないけれど、彼らの行動をよくよくみていくと、なるほど、そういう解釈も成り立ちうるし、もしかしたら、それが真実かもしれないと思えるのです。
もうひとつ例をあげます。
平安時代は、日本が鎖国をすることで、江戸時代同様、日本文化がたいへんな興隆を見せた時代でした。
そしてその平安時代の最後になって登場したのが、平清盛です。
ではなぜ清盛が、あれだけの「平氏にあらずんば人にあらず」とまでいわせるだけの絶対的な地位と名誉と権力を手中にすることができたのか。
それは、単に源義朝を倒しただけで、あれだけの政治権力を得ることができるというのなら、たとえば私が野田◯◯氏や、小◯一◯氏を殺したら、政治権力を得れるのか、と問えば、答えは自ずと明らかです。
単に敵対勢力を倒しただけでは、絶対的な権力など手にはいらない。
そこには、もうひとつの別なファクターが必要です。
実は、清盛は、水軍を擁してChinaやKoreaとの交易を盛んに行い、その利権を独占することで巨額の財を成した人物です。
彼はそうして得た輸入物品や、金力を使って、公家社会に深く入り込み、政治権力を得ました。
そうすると、当然、起こることがあります。
それは、ChineseやKoreanが、大量に日本に入り込む、ということです。
民族の性格というのは、5百年や千年くらいでは、そうそう変わるものではありません。
つまり、彼らChineseやKoreanの残虐性というのは、彼の国では、千年前も、まるで変わらぬものであったということです。
(注:当時、日本に帰化した人たちの子孫が、現代日本にたくさんいますが、そうした人々は何代もの間、日本ですごすことによって、完全に日本人としてのDNAを持つ日本民族の一員となっています)
要するに、ChinaやKoreaの本国にいる以上、彼らのもつ残虐性は、いまも昔も変わらないということです。
そうしたChineseやKoreanが大量に日本国内に入り込むことによって、何が起こるか。
まさに、いまの民主党政権下の日本と同じです。
全国あちこちで、不当な用地買収が行われ、女性が強姦被害に遭い、一家が残虐な方法で殺害されるといった事件が、日本国内で多発する。
当然、こうした治安の悪化は、そうした政治を行っていながら、一門の繁栄だけを満喫する平家に向けられます。
そうした市中の怨嗟の封印するために、清盛は赤禿などといったスパイ工作員を市中に放ち、国内にいて敵対する勢力者を逮捕投獄した。
そうした逮捕投獄によって、国内の治安が良くなり、国内景気が上向きになるなら、民はよろこびます。
けれど、事実は、正反対だった。
だからこそ、平家一門に名を連ねる北条氏までが、源氏側につき、源頼朝を押し立てて、平家政権を倒しにかかったというのが、実際のところだといいます。
ところが、平家追討に際して、その理由が、不逞Chinese、不逞Koreanの悪質な犯行によるもの、という記録は、どこを探しても出てきません。
ただいえるのは、鎌倉幕府になってから、日本は事実上の鎖国をしたということと、もし、平家の天下に対して源氏がお家再興を夢見て戦いを挑んだとするならば、同じことが鎌倉政権下の日本においても、平家のお家再興を夢見た大きな戦いが行われていなければ、辻褄が合わないということです。
なるほど平家の落人狩りによって、平家一門が追討を受けた、そのために平家一門は隠れ里に住んだというけれど、でも21世紀の現代社会においても、平姓を名乗る平家の家系は、いまだに健在です。
では、平家の落人というのは、いったいどういう人たちだったのかといえば、実は、帰化人達だった、という説があります。
清盛全盛の時代に、日本にやってきて、そこここで悪さを働いていた帰化人たちが、全国的に追討の対象となった、という説です。
もちろん、一定の技術職や、日本社会に明確に溶け込んだ帰化人達には、そうした追討の刃は向けられていません。
向けられたのは、あくまでも、悪さをしでかした帰化人たち、です。
つまり、犯罪者である外国人狩りを、「平家の(時代に日本にやってきて悪さをした帰化人たちの)落人狩り」と呼んだ、というわけです。
具体的にそういう事実を記した文書がどこかにあるからなのかもしれません。
私も、当時の時代に生きていたわけではないですから、正確な事実はわかりません。
けれど、そういわれてみれば、「ああ、なるほどな」と納得できる。
話の辻褄が合うからです。
ただ、こうしたことを公的記録に残すに際しては、後々の国交のことも考え、あえて「何々人の追討」などとは書かない。
公式には、あくまで「平家の落人狩り」とした。
だからこそ、平家の本流の人々は、いまも平姓を名乗り、家系も今に続いている。
こういった習慣の片鱗は、実は、いまでものこっています。
たとえば結婚式で新郎を紹介する際に、誰でも入れるいわゆるバカチョン大学をやっとのことでカスカス卒業しただけなのに、
「◯◯君は、中央の大学を優秀な成績で卒業し・・・」などと紹介したり、などということはよくあることです。
戦後の歴史学者に共通しているのは、唯物史観(ゆいぶつしかん)と呼ばれるものです。
唯物史観は、「唯物論的歴史観」の略で、史的唯物論(ドイツ語: Historischer Materialismus)と同義です。
そしてこれを提唱したのが、マルクスです。
基本的には、マルクスの唯物史観は、階級闘争史観ですから、常にそこには「闘争」すなわち、殺人や暴行があったという前提に、歴史の文書等を解そうとします。
そこがそもそも間違いです。
人の和、民の安寧、ご皇室の弥栄を最大の使命とする我が国の歴史は、そうした階級闘争史観や、唯物史観では、けっして解釈できない。
今日、ここでご紹介した様々な見解は、私自身、それをそのように信じているということではありません。
ただ、そういう説があり、それなりになるほどと思わせるものがある。
ひとつの事件に関して、そうした様々な解釈を、自由に進めることができる日本、日本がそういう国でいれることを大事にしたいと思うのです。
これが中共や韓国のような国ならたいへんです。
逮捕投獄されたうえ、拷問をうけた挙げ句、最後は殺される。
自由に意見を戦わせることができ、そして互いにそこから学び合う。
なぜなら、大事なことは、何が「正しいか」ではなくて、そこから私達自身が、今を生きるために、また未来を築くために何を「学びとるか」だからです。
赤穂の説も、光秀の説も、「人が人を殺すことを嫌う文化」という日本人や、日本文化の特徴を見事にあらわしていると思います。
実際にどうだったかというよりも、殺さない、命を奪わないことを大切にするという観点からは、私はむしろ、それが事実であってほしいとさえ思う。
そして、そういう日本人および日本の文化を、いまも、みらいも、ずっと大切にしていかなければならないと思う。
その一方で、平家の落人狩りに関しては、そうした平和を求める民族を維持するためには、非道を行う外国人に対して、断固としてこれを追いつめ、逮捕投獄し、死罪を与える。
施政者が、そういう意思をなくしたら、それこそ人々の平穏な暮らしが維持できない。
そういうことが学べれば、誰が誰を殺したということよりも、もっと多くのことを、私達は気付き、学べると思うのです。
もちろん、Chinaによる南京虐殺とか、慰安婦問題などの捏造には、断固戦わなければならない。
なぜならそれは、まるっきり嘘、偽りであって、解釈の問題以前の、デタラメでしかないからです。
ただ、学べる点もある。
それは、ChinaやKoreaでは、我々日本人が、彼らにいかに善政をひいたとしても、彼らは常にそれを逆手にとって、日本を貶めることにしか利用しないということです。
学べるものは学ぶ。
そのうえで、しっかりとした未来を築く、
日本主義に求められているのは、そういう点ではないかと思います。

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