
二つのお話をご紹介したいと思います。
ひとつは、明治の中ごろのお話、もうひとつは平成15(2003)年に起きた、どちらも実話です。
まずは、明治のお話から。
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ある日のことです。
強盗で逮捕された犯人が、裁判のために、列車で護送されることになりました。
事件は四年前のことです。
熊本のある家に、深夜、強盗が押し入りました。
家人らを脅して縛り上げ、金品を盗みました。
警察が追跡して、強盗犯は二四時間の内に逮捕されました。
そのとき、犯人は盗品をまだ処分できていないままでした。
ところが逮捕されたはずの犯人が、警察官に連行される途中で、護送する警察官を殺害して逃亡したのです。
当初、犯人の行方はまったくつかめませんでした。
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やまと新聞の動画コラム「ねずさんのひとりごと」です。
今週から週二本の配信となりました。
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http://www.yamatopress.com/column/pg40.html
「世界に誇る縄文文化のおはなし」
■第6回 日本が誇る「戦艦大和のおなはし」
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けれど、たまたま福岡の刑務所を訪れた熊本の刑事が、四年もの間、写真のように脳裏に焼き付けていた犯人の顔を、囚人たちの中に見つけたのです。
「あの男は?」と刑事は、看守に尋ねました。
「窃盗犯でありますが、ここでは草部と記録されております。」
刑事は囚人のところに歩み寄ると、言いました。
「お前の名前は草部ではないな。熊本の殺人容疑でお尋ね者の、野村禎一だ」
犯人の野村は、すっかり白状しました。
そしてその場で、再逮捕となりました。
さて、その犯人が護送され、駅に到着するのを見届けようと、ある外国人ジャーナリストが出かけました。
駅には、かなりの人が詰めかけていました。
ジャーナリストは思いました。
人々が怒り、騒動があるかもしれない。
報道によれば、殺害された巡査は周囲からとても好かれていたとのことです。
巡査の身内の者も、見物人の中にいる。
熊本の群集たちだって、とてもおとなしい人たちではありません。
戦地にあっては、その勇猛果敢さは日本一の勇名を馳せている人たちなのです。
それだけに、警備の警官も、多数配置されているはずでした。
彼の母国なら、それがあたりまえのことだったからです。
ところが、その外国人ジャーナリストの予想は、最初から外れてしまいました。
駅のホームにいたのは、普段と変わらぬ乗降客たちだけです。
警官隊の配備もありません。
まるっきり、日常のままだったのです。
列車がやってきました。
外国人ジャーナリストは、改札の外で、五分くらい待っていました。
はじめに警部が改札から出てきました。
続けて犯人が現れました。
その二人だけです。
犯人は、大柄で、粗野な感じの男でした。
顔はうつむき加減でした。
後ろ手に縛られていました。
その異様な姿に気付いた、乗降客達が、周囲に野次馬となって群がりました。
犯人と警部の二人が、改札口の前で、立ち止まりました。
そして、警部が叫びました。
「杉原さん!杉原おきびさん、いませんか?」
見ている外国人ジャーナリストのすぐ近くで、「はい!」という小さな声がしました。
声の主は、子どもを背負った細身で小柄な婦人でした。
この人は殺された巡査の妻でした。
背負っているのは、まだ幼い息子です。
警部が手を前後に振るしぐさをすると、群衆は、静かに後ろに下がりました。
犯人と護衛の警官のためのスペースが出来ました。
その小さな空間で、子どもを背負った未亡人と殺人者とが向き合って立つことになりました。
あたりは静まり返っています。
警部が、未亡人にではなく、子どもに話しかけました。
低い声で、はっきりと。
その一言ひとことがは、明瞭に聞き取れました。
「坊や、この男が四年前にあんたのおとうちゃんを殺したんだよ。
あんたはまだ生まれてなくて、お母ちゃんのお腹の中にいたんだなぁ。
あんたを可愛がってくれるはずのおとうちゃんがいないのは、この男の仕業だよ。
見てご覧らん」
警部は犯人の顎に手をやり、しっかりと彼の目を向けるようにしました。
「坊や、よく見てごらん、こいつを!
怖がらなくていいから。
辛いだろうが、そうしなくちゃいけない。
この男を見るんだ。」
母親の肩越しに、坊やは怖がってでもいるかのように、眼を見開いていました。
しゃくり泣き始めました。
涙があふれてくるのが見えました。
でも坊やは、しっかりと、言われたように男をじっと見つめていました。
まっすぐに。
卑劣な犯人の顔を、ずっと覗き込んでいました。
周りの人たちも息を呑んだようになっています。
そのとき、犯人の表情がゆがむのが見えました。
後ろ手に縛られているにもかかわらず、彼は膝の上に崩れ落ちました。
顔を地面に打ちつけて、人の心を震わせるような、しゃがれた声でしばらく泣いていました。
「済まない! 許してくれ!
坊や、堪忍しておくれ!
憎んでいたからじゃねぇんだ。
怖かったばかりに、ただ逃げようと思ってやっちまったんだ。
俺がなにもかも悪いんだ。
あんたに、まったく取り返しの付かない、悪いことをしちまった!
罪を償わなくちゃならねぇ。
死にてぇだ。
そう喜んで死にます!
だから、坊や、お情けと思って、俺を許してくだせえ!」
男の子は、静かにまだしゃくり泣いていました。
警部は肩を震わせている犯人の男を引き起こしました。
黙りこくったままだった人々は、左右に分かれて道をあけました。
そのとき、群衆が、すすり泣きを始めました。
様子を見ていた外国人ジャーナリストは、銅像のような表情をした護送の警官がそばを通りすぎるとき、それまで見たことのない、おそらく世界中のほとんどの人がかつて見たことのない、そして再び見ることはないであろう、日本の警官の涙を目撃したのです。
人だかりが、潮が引くように少なくなりました。
ジャーナリストは、そこに取り残されました。
彼は、この場の不思議な教訓について考えました。
犯人は、ここで、犯罪のために遺児となり、未亡人となったという明白な結末を目の当たりにしました。
そして心情的に犯罪の意味について悟りました。
ここで犯人は、死を前にして自責の念にかられ、ひたすら許しを乞いました。
そこには、一途な後悔の念がありました。
そしてここには、怒りだせば、この国の中では最も危険といえる熊本の人々がいました。
ところがこの人たちは、激しい怒りではなく、罪についての大きな悲しみに、胸を塞がれました。
まわりにいた人々は、後悔の念と恥を知る、人生の困難さや人間の弱さを純朴に、また身にしみて経験したことで満足しました。
そしてその場であった出来事に感動し、何もかも理解し、赦しました。
このエピソードのもっとも重要な事実は、それがきわめて日本的であることにつきます。
そして、犯人が悔い改めたのは、彼自身も持っている、子に対する父親の心情に訴えたからです。
子どもたちへの深い愛情こそが、あらゆる日本人の心の大きな部分を占めている。
日本で最もよく知られた盗賊の石川五右衛門に、つぎの話があります。
ある夜、殺して、盗みを働こうと人家に忍び込んだときに、自分に両手を差し伸べている赤ん坊の微笑みに、五右衛門はすっかり気を奪われてしまいました。
そして、この無邪気な幼子と遊んでいるうちに、自分の所期の目的を達成する機会を失ったというのです。
これは、日本では「信じられない話」ではありません。
警察の記録には、毎年、プロの犯罪人たちが子どもたちに示した同情の報告があります。
地方新聞に載った、数ヶ月前の凄惨な大量殺人事件は、強盗が睡眠中の一家七人を文字通りに切り刻んだものでしたが、警察は、一面の血の海の中でひとり泣いている小さな男の子を発見しました。男の子は、まったくの無傷だったといいます。
警察によれば、犯人らが子どもを傷つけまいとしてかなり用心した確かな証拠があるという。
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このお話は、ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn、小泉八雲)の、「AT A RAILWAY STATION」というお話です。日本では「停車場にて」という題名で紹介されているので、お読みになったことがあるかもしれません。
舞台となった駅は、いまでも「上熊本駅」の名称で存在しているそうで、当時は「池田駅」という名称で九州鉄道の終点駅として建てられた駅でした。
小泉八雲は、この駅で実際にあった出来事をもとに、上記の「停車場にて」を書いたと言われています。
ちなみにこの駅、明治29年には夏目漱石が、五高に赴任するためにこの駅に降り立ち、それを記念して、いま駅の前には漱石のブロンズ像が建てられています。
平塚八兵衛(ひらつかはちべえ)さんとおっしゃる方がいます。
大正2(1913)年にお生まれ、茨城県土浦市ご出身の警視庁の敏腕刑事だった方です。
この方は、「落しの八兵衛さん」と異名を持ち、戦後の数々の重大事件(吉信ちゃん誘拐事件、帝銀事件、下山事件)などの捜査にあたり、事件を解決に導いた辣腕刑事として有名な方です。
吉展ちゃん誘拐殺人事件では、犯人の小原保に対し、粘り強い取り調べによってアリバイを崩して、自供に至らせました。
犯人の小原は、死刑執行の直前に、
「私は今度生まれるときは真人間になって生まれてきます。どうか、そのことを平塚さんにお伝えください」と言い残した事も有名な話です。
八兵衛さんは、「落しの八兵衛」という異名だけでなく、「鬼の八兵衛」「捜査の神様」などという異名でも知られています。
ただいえるのは、かつての日本では、条理を尽くし、人情に訴え、鬼にもなれば仏にもなる、そういう人情家の刑事さんが、犯人の心に訴えることで、犯人の氷のように固まった心を解きほぐし、犯人逮捕に至った、そういう事件が多々あったし、いわゆる犯罪者であっても、そうした日本的心を、心のどこかにちゃんと持っていた、ということです。
現代日本に目を移します。
同じく福岡です。
平成15(2003)年6月20日、Chineseによる福岡一家四人殺害事件が起こりました。
Chinese留学生3人が家宅に侵入し、
工事現場から盗んできた鉄パイプで家にいた奥さんの後頭部をいきなり殴りつけたあと、
顔を前に向けて横から額を殴り、
さらに左目周辺や頬を殴り、
全身をめった蹴りし、
二階で失神していた子供(女の子)を担ぎ下ろして、
父親の目の前でいたぶったり殴打しながら、リンチを加え続け、
最後は「用がなくなった」として絞殺。
夫は土下座して、「娘だけは助けてくれ」と言ったけれど、彼らはこれを嘲笑し、
夫の首に白いビニール紐を巻き付けて絞めたあげく、
気を失った夫を浴槽に浸けて溺死させた、という凄惨な事件です。
ところがこの事件に関しての逮捕されたChineseの犯人らは、
日本でのChineseの犯罪率は日本人や中国よりずっと低い(嘘です)
なんでChineseがたった一回殺人しただけでChineseに偏見持つのか(事件の凄惨さは尋常ではない)
日本にいるChineseだって日本人に殺されてる(そのような事実はありません)
日本人はこんなちっぽけなことを拡大してChinese全体を差別してる(ちっぽけではありません)
量刑が不当(正当です)であるのと称して、
なんと事件を最高裁まで持ち込んで争いました。
さしもの最高裁も、昨年(2011年)10月20日に、上告を棄却して、死刑判決を言い渡していますが、まさに盗人猛々しいとはこういうことをいいます。
さらに、この事件が起こった当初、週刊誌等が、むしろ被害者家族や親族の私生活を中傷する報道を行い、まるであたかも被害者の方に問題あり、という報道を行いました。
これに対しては、怒った被害者側親族が、メディア数社に対して名誉毀損の民事訴訟を起こし、
「フライデー」(講談社)は、880万円の損害賠償を、
「週刊新潮」(新潮社)には、770万円の損害賠償を、
「週刊文春」(文藝春秋)には、1100万円の損害賠償額の支払いを命じています。
日本の正義はどこへ行ったのだ!と問いたいし、それ以上に、Chinese(同様のことは南北朝鮮人や在日朝鮮人にもいえるのだけれど)という連中が、まるで日本人とは異なる価値観、異なる思考をする民族であるということを如実に物語っているといえると思うのです。
彼ら特ア人に共通して見受けられる特徴は、相手の立場に立った「反省」を持たず、常に自分の立場でみた目先の「損得感情」しかない、という点です。
日本人とは、基本的なアイデンティティが異なるのです。
目が二つあり、鼻の穴が2個あって、人の顔に似ているといっても、猿は猿であって人間ではない。
それと同じだけの「違い」が、彼らと日本人の間にあります。
ところが、戦後67年、特ア人たちが日本国内に住み着き、日本の常識をさえも歪めています。
もちろん、中には、謙虚に日本に学び、日本を愛し、彼らの祖国の本当の意味での発展を願う誠実な人たちがいることも事実です。
同様に、日本人でも、特に戦後の左翼的価値観に染まった人たちの中には、いまどきの民主党議員同様、まるで自己中に特化したような情けない連中も多くいます。
ただ、それでも多くの日本人の心の中には、やはりいまでも日本人としてのまっとうな意識、精神が残っていると信じたい。
特アの人々には、おもしろい特徴があります。
犯罪を犯すとき、必ず複数で行動するのです。
それは盗っ人としての信義があるからではありません。
裏切りに対する報復があるからです。
報復が怖いから、いっそのこと、連れ立って行動する、となります。
仲間の誰かが裏切り、どこかに消えれば、彼らはその家族に報復する。
法や道徳はそこにはありません。
日本ではヤクザでさえ、対立する組織構成員の家族にまで危害を加えることはないのに、です。
この傾向は、ビジネスの場でも同じです。
彼らは常に徒党を組み、そのグループに所属する者は、常に「報復が怖い」から上に言われた通り仕事をします。
「より大きな利益が得られると思うから言うことを聞く」のです。
飴とムチが、極端な形で行使される。
日本人のように、
「信義があるから、相手に恥じないように仕事をする」
「弱きを助け、強きをくじく」
「率先して良い行いをし、悪はこらしめるべきだと思う」
などという概念はまるでありません。
先般、落としの八兵衛さんが自供させた犯人が、冤罪判決を勝ち取った事件がありました。
八兵衛さんの前では、八兵衛さんの持つ正しい心に打たれて涙を流した犯人も、八兵衛さん死後は、「やっぱりやってなかった」などと供述を翻す。
服役期間が長い重大犯が冤罪となれば、国から法外なカネをふんだくれるからで、単なる損得の論理でしかないです。
日本人と特ア人では、いざというときの行動のパラダイムがまるで異なる。
このことは、私達は、国家として、はっきりと肝に命じるべきです。
国際親善は、もちろん大切なことです。
互いの民族の違いを相互に理解し、交流を深め、未来の発展に向けて、互いに協力しあう。
そのことは、とても大切なことです。
けれど、100年付き合って、ありとあらゆる恩恵を施し、それでも尚、歯向かい、反日こそ正義とする国や民族と、我々は付き合う必要はありません。
私は、特定国について、日本は「第二の鎖国」をすべきと考えます。
江戸時代のように、オランダだけとの通商を行うという鎖国ではありません。
特定国を除いた、他の親日的な国とは、胸襟を開いて真剣かつ真面目におつきあいする。
けれど、反日に凝り固まったような国家国民については、一切鎖国して門戸を閉ざす。
私は、それが何より「日本のため」であり、「世界のため」です。
実は私は、秀吉の朝鮮出兵のあと、徳川幕府が鎖国した理由も、巷間言われているキリシタン対策などではなく、特ア対策だったのではないかと思っています。
むしろ、その方が、時期的にも内容的にもしっくりくる。
もちろん、ChinaやKoreaとの間に、ごくわずかな交流を認めていたという点はあるのですが、逆にいえば、なぜ西欧だけでなく、ChinaやKoreaに対してもきわめてわずかな国交を残すのみにしたのかと考えてみると、むしろ鎖国の主眼は特アとの交流拒否を図ったと考えた方が、正解に思えます。
そして平安時代、江戸時代と我が国が日本文化の花を咲かせた時期は、いずれも特アとの関係を絶っていた時期でもある。
日本が日本を取り戻すためには、もしかするとそれが一番良い方法といえるのかもしれません。

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