
「日本主義」について書いてみようと思います。
実は、今日の記事の一番最後のところでご紹介しますが、チャンネル桜の水島さんが、番組の「直言極限」で、「さらばマスコミ、さらば戦後保守」というお話をされています。
H24/9/21の放送分です。
実は、このことは、従前より多くの保守の皆様が疑問に思っていた点であろうと思うのです。
以下の文は、その疑問に対する私なりの回答です。
=======
■■ねずさんのひとりごとメールマガジン配信中■■
お申し込みは↓コチラ↓
http://www.mag2.com/m/0001335031.html
やまと新聞の動画コラム「ねずさんのひとりごと」です。週一本の配信です。
↓ ↓
http://www.yamatopress.com/column/pg40.html
■プロローグ
http://youtu.be/hF2sLY1gDRw
■第1回 君が代のお話
http://youtu.be/7xzVE955VIQ
■第2回 日の丸のお話
http://youtu.be/tZGCTU--wOo
■第3回 3万年前の磨製石器が日本で発見されたということは
http://youtu.be/dcjfKdsHsN8
======
よく、「保守」の対義語は「革新」だといわれます。
「保守主義」の対義語は「進歩主義」という人もいます。
一方で「保守」は、過去に学び、そこから少しでもより良い未来を築こうとするはたらきだから、保守こそ革新であり、創造主義であり、進歩主義であるという人もいます。
どちらが正しいのでしょうか。
正直、よくわかりません。
一方、左翼を代表する共産主義者は、自分たちのことを「革新主義」であり、「進歩主義」といいます。
ほんとうなのでしょうか。
これまたよくわからないことです。
右翼というのは、反共、反米、反中、反韓等様々なものがありますが、反対するということは、その一方に「護りたいもの」があるから反対するのだということができます。
では、その「護りたいもの」とはいったい何でしょうか。
そして右翼と保守はどこがどう違うのでしょうか。
そもそも私達にとって、自分たちが産まれた国を愛するという感情は、ごくあたりまえの素朴な人間感情です。
なぜなら人は、木の股から産まれてくるわけじゃない。
親がいて、祖父母がいて、愛され育てられて大人になるのです。
ですから育ててくれた親を大事に思う、その親を産んでくれた祖父母をまた、大切に思う。
そこから先祖代々の血脈にいたる血筋を大切に思う。
これまた万国共通のあたりまえの人間感情です。
大人になった男女は、巡り会い愛し合って子が産まれます。
子を愛し、子のために良い未来をと考えるのも、人として、これまたあたりまえのことです。
そして人が生きているのは現在です。
現代を生きる知恵として、過去に学び、より良く生きることによって、未来を築く。
これまた人類普遍のあたりまえの人間感情です。
これを否定するのが共産主義だと言われています。
ではその共産主義思想とは何かといえば、これを唱えたマルクスによれば、それは「ユートピア」の建設を求める社会思想なのだそうです。
「ユートピア」というのは、人が造る「地上の楽園」です。
そこでは人々に貧富の差はなく、互いに手を携え、あらゆる制約から解放されて幸福な生を享受することができるのだそうです。
その「地上の楽園(=共産社会)」を築くために、富を独占している富者と闘争し、その富を取り上げ、貧者に再配分する。
これには、強制的な大きな力が必要なので、それを国家規模の強制力で実現するというのが社会主義思想です。
社会主義は、共産社会建設ための前段階であり、理想はあくまで「地上の楽園」にあります。
そして地上の楽園を目指して、すすんでいまある社会を破壊する。
だからそれは「社会の革新」であり、社会を進歩させる「進歩主義」だとされています。
ところが、共産主義において、その地上の楽園である「ユートピア」が、いったいどのような社会体制をもったところなのか、という点については、共産主義を信仰する個々人の夢想に委ねられています。
つまり、目指す先の具体的姿は、描かれていないのです。
その一方で、事前の策として、富者と闘争し、その富を奪い、貧者に再配分するということは、現実の出来事となります。
これは簡単に言ったら、お金持ちが財産や美しい女たちを独占しているのはけしからんから、奴らを殺してオレたちで富も女も再配分しようではないかというのですから、乱暴な話です。
そもそも富というのは、そこに「ある」ものではありません。
人々の努力と協力によって築かれるものです。
従って、金持ちを打ち倒してその富を配分しても、その富を新たに産み出す努力がなければ、再び貧しさに逆戻りとなります。
わかりきったくらい、単純な話です。
しかも中には、要領よく立ち回って、再配分し消費された富を巧妙に回収して富者となる者もあらわれるわけで、そうなると再び富者が富を独占しますから、社会主義はどこまでいっても地上の楽園としての共産主義には至りません。
子供でもわかる単純な理屈です。
ところが悪いことに、この思想は、「富者を倒し、富を奪う」という概念が正当化されています。
このことは、強盗や殺人鬼や権力のために自己肥大した政治家等にとっては、きわめて「都合の良い」思想です。
つまり最近の流行語でいえば「愛国無罪」で、したがってソ連を打ち立てたレーニンやスターリン、あるいは中共を建国した毛沢東などが共産主義者であったことは一度もなく、むしろ邪魔者は消せとばかりの大量殺戮と、肥大化した自己陶酔による他国への軍事侵略ばかり起こしていたことは、歴史が示す事実です。
要するに共産主義というのは、単なる「破壊主義」、「権力主義」しか招かないわけで、どこまでいっても夢想する「地上の楽園(=ユートピア)」は、やってこない。
このことも、20世紀という壮大な実験の結果が見事に証明してみせています。
にもかかわらず、共産主義が「革新」であり「進歩主義」というのは、寝言でしかない、ということです。
共産主義による「地上の楽園(=ユートピア)」は、どこまでいってもやって来ません。
では、保守主義はどうなのでしょうか。
欧米で保守主義といえば、「保守主義の父」と呼ばれるエドマンド・バークが有名です。
彼は、保守を「剣を抜く騎士道」と説きました。
そこから派生して、彼の説く保守は「戦闘的イデオロギー」と呼ばれています。
バークの有名な言葉があります。
〜〜〜〜〜〜〜
1789年にフランスで革命が起こった時、暴民に囲まれてヴェルサイユ宮殿からパリに連行されるマリーアントワネット王妃の恐怖と悲しみを思い、義に馳せて「剣を抜け!」と訴える、戦闘的な荒ぶる魂なくしては保守主義とは言えない。
〜〜〜〜〜〜〜
さらに彼は次のように続けます。
〜〜〜〜〜〜〜
他者のために自らの生命を捨てる覚悟で義を貫く勇者の倫理こそ、高貴な自由と美徳にあふれた社会の根幹をなすものである。
〜〜〜〜〜〜〜
これがバークの主張です。
つまり「高貴な自由と美徳にあふれた社会」の形成のために「戦う意思」を持ち、現に戦うのが保守だ、とバークは述べているわけです。
問題はその「高貴な自由と美徳にあふれた社会」で、これは何かというと、西洋ではそれは「神のもとに還る」ことを意味します。
どういうことかというと、西欧では、キリスト教であれ、ユダヤ教であれ、キリスト教であれ、ギリシャ教であれ、ロシア正教であれ、唯一絶対神です。
万物は、その唯一絶対神によって創造されたと考えます。
人間も神によって創造されたものです。
創造されたばかりの人間は、神によって庇護され、自由、平等、博愛に満ちた祝福された絶対幸福な生活を送っていました。
エデンの園です。
エデンは「神のもとの楽園」です。
ところが人間は、神に与えられた禁(タブー)を犯したことで、楽園を追放されます。
これが人類の「原罪」です。
「原罪」を負った人間は、神によって男には労働の苦しみ、女には出産の苦しみという罰が課せられています。
バークのいう「高貴な自由と美徳にあふれた社会」というのは、そうした信仰上、人間が放逐される前にいた「神のもとの楽園」を意味しています。
つまりそこに還るというのは、「神のもとへ回帰する」という意味です。
つまり共産主義と異なるのは、共産主義が神の手を離れて、人類の力で構築する「ユートピア」を目指そうというのに対し、バークの楽園は「エデンの園」という人類の原点に回帰しようとする思想であるということです。
ですから、人類がその勝手な考えで、社会制度を構築したり、自由だ平等だといって社会革命を行うこと自体が、バークにとっては神に背く不埒な行為であり、だからこそ、変えようという動きにたいしても、現状を維持しようという動きに対しても「剣を持って戦う!」とういう姿勢になります。
つまり西欧型保守思想というのは、常に「神学」と一体のもとにあるわけです。
ですから簡単に色分けすると、
保守主義は、神学に基づき、現在も過去も未来も否定し、剣をもって戦いながら神のもとに還ろうとする。
共産主義は、神学を否定し、人類の力で未来にユートピアを築こうとする、
という違いになります。
いいかえると、西欧における保守と革新の戦いは、「神学」と「科学」の戦いでもあるわけです。
バークが非難したフランス革命は、人々が中世的支配を脱し、「自由、平等、博愛」に基づく社会を人の手で築こうとした革命です。
これは、本来神のもとに回帰しなければならないとする神学の立場からすれば、人類の傲慢です。
だからこそバークは「剣を抜け!」「神のもとに還れ!」と主張したわけです。
このことを別な角度から整理すると、西欧型保守主義が理想として目指すのは、あくまでも神のもとにあるエデンだ、ということです。
従って原罪を受けた人類が築いてきた営みは、そのことごとくが間違いだ、となります。
間違っているから、剣を抜いて戦うのです。
正しければ戦う必要などありません。
一方共産主義は、ユートピアを目指します。
そのために現在の社会構造は、すべて破壊の対象となります。
なぜなら過去も現在も、そこはユートピアではないからです。
そして破壊は、人の命や近隣諸国にまで及びます。
破壊しなければ、ユートピアの建設ができないからです。
こうした西欧的概念は、明治以降の日本の洋風化の中で、日本に渡来してきました。
はじめに日本で強く影響を表したのは、共産主義です。
共産主義思想に染まった人たちは、日本にユートピアを建設するために、日本社会の破壊を目論みました。
一方、西欧的保守主義思想が我が国にはいってきて定着するのは、むしろ戦後になってからのできごとです。
保守思想は、明治、大正、昭和初期の日本では、ほとんど定着していません。
これは、ひとつには、共産主義という破壊主義思想に対して、特高などの治安維持警察が、厳しく取締り、社会の中での影響力をを押さえ込んだという理由があります。
そしてもうひとつ、定着しなかった理由として、我が国には「エデン」思想がそもそもない、ということが大きなファクターとなっています。
たとえてみれば、西欧における祝福の地であるエデンは、日本でいったら、蓬莱山か極楽浄土なのですが、
極楽浄土は死んでから行くところだし、蓬莱山はマルコポーロが唱えた理想国家だけれど、それは日本そのものを指していますから、日本の現状を打破しようとするのに、日本が理想国家では、話にならないからです。
思想というものは、その国の民族の歴史、伝統、文化に立脚したものでなければ、まず浸透しません。
ですからそもそもエデンという約束の地を持たない日本は、バークの「保守主義」は浸透のしようもなかったのです。
ところが戦後になってから、西欧的保守思想は急激に日本に浸透しました。
これはなぜかというと、戦後、急激に台頭した左翼勢力によって、日本解体、日本破壊が急激に進行したことの裏返しです。
とくに戦後左翼は、旧ソ連や北朝鮮や中共を「地上の楽園」、「人類が造った理想の国家」と規程し、これをさかんに宣伝しました。
いまにしてみれば、ソ連や北朝鮮、中共の、いったいどこが理想のユートピアなのかと問いたくなりますが、いまだに共産主義的破壊思想である家族や家庭からの解放、男女の性差からの解放、道徳的抑圧からの解放などというデタラメを真に受けて活動している日本人がいるというのは、実に悲しい現実です。
こうした、戦後、派手になった左翼の動きに対し、日本を守る、日本的価値観を護ろうとする人々が、新たな価値観として導入したのが、「剣を持って戦え!」と主張するバークの保守主義であったわけです。
ですから「戦後保守」の中心をなしていたのは、まさに「剣をもって戦う」という防共、反共思想であり、そのための行動原理として、西欧的保守主義が日本に取り入れたわけです。
ただし、防共、反共というには、何か「護りたいもの」があるから「反対」するのです。
その「護ろうとするもの」が、皇室を重んじ、日本の歴史、伝統、文化を重んじ、そこに学ぶことによって現在を生き、新しい未来を築こうという「日本主義」であったわけです。
つまり、防共、反共運動も、その根幹にあったのは、日本主義そのものであり、日本主義を護るために、防共、反共の戦いを挑んだ、そのための理論武装として選んだのが、バークの戦う姿勢であった、といういうことができます。
ところが、こうした抵抗運動は、左翼の活動が、全学連や革マルのような直接的な破壊活動から、家族や家庭からの解放、男女の性差からの解放、道徳的抑圧からの解放といった、やや文化的な活動に矛先を変え出すと、たいへんにやりにくい、動きづらいものとなっていきます。
ゲバ棒を持って破壊活動をする者たちに対しては、剣を抜いて「ならぬ!」と威嚇することは世間の賛同を得ることができたのですが、解放という自由を求める人たちに、剣を抜いて「自由はいかん!」という威嚇をすることは、逆に暴力的な存在とみなされるようになってしまうというマイナス面をもたらし、世間の賛同を得にくくしてしまったわけです。
とりわけ日本においては、保守思想にあるエデンも、左翼思想のユートピアもそもそもありません。
ですから、多くの日本人にとっては、それらは、よくわからない世界です。
西欧で生まれたエデンに還ろうという「保守主義」にしても、誰もみたこともないユートピアを目指そうという「共産主義」にしても、私達日本人からみれば、それらは地に足の着かない「空想主義、理想主義」でしかない。
大切なことは、いまを一生懸命に生き、未来を築くことだけ。
それが多くの日本人の普通の考え方となって行きます。
このため、政治における保守と革新、右派と左派の対立も、なるほど革新や左翼には首をかしげるが、さりとて保守というものもよくわからない。
なので、とりあえず政治のことは放置して、民間部門でお仕事に精を出そう、というのが、多くの日本人の普通の概念となっていったわけです。
そしてそのことが、ますます多くの日本人から政治離れを加速するという結果を招いています。
けれど、よく考えてみれば、西欧的保守主義も、西欧的共産主義も、強いて言えば、その本質にあるのは、架空の絵を描いて、そこに向かって進もうと言う思想です。
これに対し日本人が古来から持つ考え方は、過去に学び、現在に活かし、未来を築く、というものです。
日本人にとって、理想の未来などというものは存在しません。
ある程度社会経験をもった人なら、誰でもわかると思うけれど、会社でも、そりゃあ、儲かって儲かって、社員の全員が仕事をしなくても高給をもらえるような会社は理想かもしれないけれど、そんな夢想ばかりで日々の仕事をしなければ、会社なんて簡単に潰れてしまいます。
学び、努力すれば未来は拓けるし、学ばず努力を怠れば、未来は崩壊します。
あたりまえのことです。
同様に、日本人にとって、理想の過去などというものも存在しません。
浮き世は常に様々な問題を抱え、その問題の中で四苦八苦しながら、人の世を織りなすというのが、日本人の考え方です。
夏目漱石の草枕です。
〜〜〜〜〜〜
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。
やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。
ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。
あれば人でなしの国へ行くばかりだ。
人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
〜〜〜〜〜〜〜
これが古来からある日本人の一般的な思考です。
その意味では、日本的思考というのは、西欧的保守主義や共産主義などによる空想主義よりも、はるかに進んだ現実主義であるということができます。
そもそも日本の最高神といえば、アマテラスですが、アマテラスも登場したときには、天の岩戸にお隠れになるという、いまでいうならさながら登校拒否の引きこもりとなっています。
それが努力し、成長し、最後には立派な最高神となれらる。
スサノオも、登場したときには、ポセイドンのような海神ですが、亡くなったお母ちゃんが恋しいと、毎日泣いてばかりいて、ちっとも仕事をしない。
あげく、仕事をほっぽり出して、アマテラスのもとにドスンドスンと地鳴りを響かせてやってきて大暴れをしています。さながら暴走族です。
けれど、そうした神々が、さまざまな経験を経て、立派な大人となり、日本の神となられる。
そしてその神々の直系の子孫が、私達日本人だ、というのが、日本人の基礎にある考え方です。
つまり、私達日本人は、産まれてこの方、凡夫の身にあって様々な間違いをし、失敗を繰り返し、親や同僚や周囲の人たちにさんざん迷惑をかけてきているけれど、それでも常に心をあらため、日々ちょっとずつでも勉強し、成長し、進化し、人々のお役にたてる人間になろうと努力する。
そういう過去に謙虚に学び、いまを努力をする人々が、互いに協力し、たがいに助け合うことで、いまよりもっと良い世の中を造る。築くろうとします。
日本では、こうした地に足の着いた考え方が、日本建国以来ずっと日本人の意識の根底に流れ続けています。
では、なぜそういう思考が、意識の根底に流れるかと言えば、それが日本建国の理想であるからです。
どういうことかというと、いまから2700年前、神武天皇が即位された際に、日本は「家族国家」と宣言されました。
天の下、すべての国民が家族として、たがいに助け合い、協力しあい、たがいに成長してよりよい国(家)をつくる。
これが日本の建国の理念です。
そしてそれが日本人の理想でもあるわけです。
つまり「家族として、たがいに助け合い、協力しあい、たがいに成長してよりよい国をつくる」ことが日本人の根本思想であり、その中心にあるのが、本家の中の総本家としてのご皇室という姿となっています。
つまり、「日本主義」です。
日本主義には、その先にある未来像としてのユートピアもなければ、過去の理想郷としてのエデンもありません。
あるのは、過去に学び、いまを改善し、互いに協力しあって未来を創造するという具体的な地面に足のついた思考であり、すべての家が家族として、互いに結びつき、協力しあうという姿勢だけです。
ある程度社会経験をもった人なら、誰でもわかると思うけれど、単なる空想の世界にある理想社会を夢見たところで、それはただの見果てぬ夢でしかありません。
会社でも、そりゃあ、儲かって儲かって、社員の全員が仕事をしなくても高給取りになれるような会社は理想かもしれないけれど、そんな夢みたいなことばかり言って、日々の仕事をしなければ、会社なんて簡単に潰れてしまいます。
つまり、あえて誤解をおそれずに直言するならば、西欧で生まれたエデンに還ろうという「保守主義」にしても、誰もみたこともないユートピアを目指そうという「共産主義」にしても、私達日本人からみれば、それらは地に足の着かない空理空論でしかないということです。
さらにいえば、自由平等博愛主義、あるいは民主主義も、私達日本人には理解し難い面があります。
どういうことかというと、自由平等博愛主義というのは、自由は放縦を招き、平等は努力しないで分け前だけよこせという欲得を招き、博愛はときに心を鬼にして戦わなければならないことを否定して人々の弱さを招くということです。
努力しない仕事をしない社員が、俺は自由だ、社員なのだから一生懸命努力してがんばっている社員も、さぼっているオレも、同じだけの給料をよこせ、会社のカネを横領しても博愛主義で許せ、などと主張しても、それで会社がよくなるかといえば、絶対によくならない。
ということは、国家も、果は人類さえも、自由平等博愛主義の先には、放縦と我がままと不正の横行する社会が待っているということにしかならないのです。
欧米型民主主義も同じで、欧米型民主主義は、実は「民衆は神の意思のもとにある」という原点に立脚しています。
ですから米国における大統領選挙も、大統領を選ぶ国民は、神の意思に基づいて投票しているのだし、選ばれた大統領も就任に際して、神の祝福を得て、はじめて大統領となります。
けれど、こうした価値観は、そこに「神を敬う」意思をもたないもの達が多く入り込むと、まったく別なろくでもない社会を招きます。
典型が、昨今の民主党で菅◯人が選ばれた代表戦で、外国人にカネを渡し、組織的に指揮された外国人票を大量に入れることで、選挙に勝つという、とんでもない現実が起こる。
カネも神のうちだという考え方もあるかもしれませんが、そんなことが庶民のためにならないことは、歴史が証明しています。
嘘と偽りで地位を得た者は、結果として偽りの世界しか招かないのです。
しかし、振り返ってみると、日本という国は、古来、さまざまな政治体制をひき、都度、いろいろな矛盾を抱えながらも、つねに成長し、進化し、その矛盾をできるだけ極小にしながら、人々の暮らしを靖んじてきました。
けれど、みんなが家族となることによって、国法を保管している正倉院さえも、入り口にある鍵は、封印の紙一枚だけで済む。紙切れ一枚で、誰も泥棒にはいろうなどと思わない。
ザビエルが指摘したように、日本は最高に優れた民族であり、親しみやすく、善良で、悪意がなく、誰もが名誉を重んじる理想国家を築いています。
おそらく、いま日本の保守、とりわけ真正保守を自認する人々の中で、江戸幕藩体制に還りたいとか、明治の薩長政権国家に還りたいとか、あるいは律令国家に戻りたいとか考えている人は、まずいないし、理想のために人を殺したいとか、他国を侵略したいとか、そのための戦争をしたいと思う人も、誰もいません。
なんとかしてみんなで助け合い、仲良くして、ともに学び、ともに笑い、ともに助け合い、手を携えてより良い未来を築きたいというのが、多くの日本人の本音です。
つまり、大多数の日本人はいまでも「日本主義」なのです。
「戦後保守」は、その日本を壊そうとする勢力と、真剣勝負で剣を抜いて戦いました。
そしてその戦いは、反共、反米、反中、反韓等と、さまざまに進化してきています。
けれど、私達が戦い、護ろうとしているものは、その「戦い」そのものにあるのではありません。
「剣を持って戦い、エデンに回帰しよう」という思考でもない。
私達は、私達の国と歴史と、そこにある文化と伝統を「学び、活かす」という日本文化の奥底にあるものを大切にしたいと願っているだけです。
私達は、それを「保守」と呼んできましたが、どうしても保守主義というと、それがエデンの園の西洋的保守主義と混同されてしまいがちです。
そこで「保守主義」という言葉にかえて、「日本主義」という言葉を提唱したいと思います。
そしていまの日本に必要なのは、保守の大同団結です。
それは、日本の歴史、伝統、文化を大切に育み、日本文化の深みを学び、より良い未来を築く、日本をたいせつに思う日本人の「日本主義」の覚醒ということなのではないかと、私は思います。
日本主義というのは、
ご皇室を尊崇し、
祖国日本を愛し、
現代を生き、より良い未来を築くために
日本の歴史、伝統、文化に学び
和を大切にして、
日々成長し進化していこうとする主義です。
日本主義に「理想の楽園」は存在しません。
あるのは「過去、現在、未来」と続く「流れ」だけです。
現在は過去の結果であり、未来は現在の結果です。
一生懸命勉強し、仕事に励み、家族を大切にしてコツコツと努力を積み上げれば、きっと良い未来がやってくると考えます。
けれどそれは、「可能性が高まる」というだけで、現実に「良い未来」となるかどうかは、わからない。
わからないから過去に学び、みんなで協力して一層努力し、少しでもよい未来を「創造」しようとする。
つまり、日本主義は、
家族として過去に学び
現在を努力し改善し
未来を創造します。
この「家族として学び、改善し、創造する」のが、日本主義です。
いま、わたしたちは「日本主義」の旗を高らかに掲げ、新たな未来の建設のために大同団結して、一歩を踏み出すときがやってきた。
私はそう思います。

↑ ↑
応援クリックありがとうございます。
励みになります。
ねずさんのひとりごとメールマガジン有料版
最初の一ヶ月間無料でご購読いただけます。
クリックするとお申し込みページに飛びます
↓ ↓

日心会メールマガジン(無料版)
クリックするとお申し込みページに飛びます
↓ ↓


