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神田明神の大黒様
神田明神の大黒様

みなさん、「七福神」という言葉を聞いたことがあると思います。
恵比須(えびすさま)、大黒(だいこくさま)、毘沙門(びしゃもんさま)、弁才(べんざいてん)、布袋(ほていさま)、福禄寿(ふくろくじゅ)、寿老人(じゅろうじん)の七人の神様です。
七福神のそれぞれの神様については、長く民間信仰で語られてきた神様たちであるだけに、いろいろな説があります。
なので以下は、あくまでその中のひとつの説です。


七福神のなかで、お名前からいうといちばん景気良さそうなのが弁財天様です。
弁財様は女性の神様で、弁才天とも書き、「才(ざい)」が「財」に通じることから、銭洗い天などとして祀られたりもしています。
けれどもともとは水の神様で、だから弁天島は海にあるし、弁天池なんてのもあります。
商売繁盛の神様といえば、よく登場するのが恵比須(エビス)様です。
エビスは、蛭子、恵美須とも書かれ、恵比寿と書いたら、東京山手線の駅名です。
エビス様は、いつもにこやかで、だからニコニコした笑顔のことを「えびす顔」なんていいます。
耳たぶの長くて大きい人は福顔だと言われますが、どうやら長い耳たぶが縁起が良いというのは、エビス様のお顔からきているようです。
エビス様のお姿といえば、狩衣姿で、右手に釣り竿、左手に鯛を抱える姿が定番です。
なぜそのようなお姿かというと、実はエビス様が釣りの神様なせいで、そこから発展して、五穀豊穣の神様、商売繁盛の神様、家内安全の神様とされるようになったのだそうです。
では、そのものズバリの景気の神様は、どなたかというと、実は「大黒様」です。
大黒様は、米俵の上に乗っかっていて、背中には中味のいっぱい詰まった宝袋を背負い、手には振るだけで大判小判がざっくざくという打出の小槌を持っています。
大黒様は一説にはインド仏教のシバ神のなかのマハカラ神を指すというのですが、マハカラ神は、本来は三面六臂でたいへんに怒った顔(憤怒相)の神様とされていますから、どうも、日本の、ふくよかでのんびりしていて、打出の小槌でざっくざくのだいこくさんとはイメージが異なるようです。
では、大黒様は、誰なのかと言うと、実は大国主の命(おおくにぬしのみこと)です。
大国主といえば、イナバの白ウサギの物語が有名ですが、古事記の記述では、様々なイジメ被害に遭いながらも、ひたすらに誠実を貫き、最後は大いなる国の主になった神様です。
→参考「大国主は日本最初のイジメ被害者だった」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1158.html
大国主の命(みこと)は、様々な紆余曲折のあげく、地上の統治者となります。
だから、大いなる国の主(あるじ)です。
そのオオクニヌシに、高天原のアマテラスは、ある日、地上の統治権を譲り渡すよう、使いを送りました。
ところが一回目と二回目の使者は、大国主の人物に惹かれて、かえって大国主に仕えるようになってしまいます。
で、三回目にアマテラスが地上に遣わしたのが建御雷神(タケミカズチノカミ)です。
建御雷神は海に刀をつきたてて、その上におおあぐらをかいたものだから、その神通力に大国主の二人の息子はおそれをなしてしまいます。
で、ひとりは諏訪に、ひとりは鹿島に避難する。
で、父の大国主に、地上を献上するようにと伝えます。
ちなみに諏訪にのがれた方が諏訪大社の神様で、コチラは相撲(すもう=体術)の神様、鹿島にのがれた神様は、刀剣などの武器を使う武術の神様。
(これも諸説ありますが、お話が続かなくなるので、まあ大目にみてください)
ふたりの息子さんから話を聞いた大国主は、ついに地上を天照大神に譲ることを承諾します。
これが国譲り神話です。
このとき、大国主は、「息子達の言う通りこの国を献上いたしましょう。ただ、私の住処(すみか)として、大地の底まで宮柱が届き、高天原まで千木(ちぎ)が高くそびえ立つ、大きくて立派な神殿を造って、私を祀ってください。そうすれば私は引退して身を隠します」と述べます。
こうして建造されたのが、出雲大社で、いまの出雲大社は高さ24メートルなのだけれど、最近発見された宮柱の根元から、建造当時は高さ48メートルの巨大空中神殿として建造されていたことがわかりました。

巨大空中神殿としての出雲大社
出雲大社復元図(大林組)

実は、これだけの高さがある巨大神殿というのは、京都にある天皇の大極殿(だいごくでん)よりも、大きくて立派だということです。
これが何を意味するか。
実は、今日のお話のポイントがここにあります。
天皇が、自分の宮殿よりも、国を譲った大国主の神殿の方を立派にしたわけです。
ということは、
1 それだけ国譲りが重大なできごとだった。
2 国の統帥権を、いくさ(戦)ではなく、話し合いで決め、
3 しかも勝者が敗者に対して、その功績をたたえ、名誉を与え、魂を鎮めることがならわしとなった、
という、実に日本的な姿勢が、ここにあらわれていると思うからです。
これがどこぞの国なら、全員皆殺しになっている。
それが我が国では、殺すのではなく、話し合って解決する、相手を讃える。
そういう姿勢が、古代から綿々と続く私達日本人のDNAに刻まれたスタイルとなっているのだろうと思うのです。
平成15年、出雲大社を訪問された皇后陛下は、次のお歌を詠まれました。
 国譲り 祀られましし 大神の
 奇しき御業を偲びて止まず
(くにゆずり、まつられましし おおかみの
 くしきみわざを しのびてやまず)
国譲りが行われた時期がいつ頃のことかはわかりませんが、すくなくとも神武天皇の即位以前の昔とすれば、約三千年、いやもっと昔の出来事です。
つまり、皇后陛下は、三千年の時を越えて、奇しき御業と偲ばれているのです。
その歴史の古さ、伝統の長さ、そのおやさしい御心の深さ。
私達って、なんだかすごい国に生まれてきてしまった。
ちなみに、これは単なる私の想像なのだけれど、三代丸山遺跡の六本柱建物跡、これってなにやら、出雲大社の巨大空中神殿の柱と似ていませんか?
三代丸山遺跡は、今から約5500年~4000年の昔の遺跡です。
出雲大社よりも古い。
けれど、柱の形状が、なぜか良く似ています。
六本柱建物(三代丸山遺跡/復元)
六本柱建物(三代丸山遺跡/復元)

島根県の出雲大社と、青森県の三代丸山遺跡では、場所も時間もまったく異なるのだけれど、もしかすると、古事記の記述よりももっとずうっと昔、大国主の国譲りと似た、もうひとつの国譲り神話があったのかもしれない。
そんな風に考えると、なんだかとてつもなく、不思議な気持ちになってきます。
もちろん三代丸山遺跡については、私の単なる想像です。
けれど、そういう想像力を働かせて歴史を見る、歴史を学ぶということが、実はとっても大切なことです。
歴史にIFは禁物なんて、左翼の大嘘だからです。
歴史は、IFと考えることで、そこに楽しさがあるし、歴史を現代に未来に活かす力が生まれてくる。
私はそう思います。
まあ、そんなことで、
青く澄んだお月様を眺めながら、えびす様の釣った肴に、大黒様の打出の小槌を思い描き、太古の昔も、おんなじお月様が地上を照らしていたんだろうなあ、なんて思いながら、今宵も一献。。。
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まほろばへの道標~三内丸山遺跡からのメッセージ~

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