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小園安名司令
少佐時代の小園安名司令

昨日の記事で小園司令の晩年のお話をさせていただきました。
誰からも慕われ、偉大な実績を遺した者が、偉大であるがゆえに逆に放逐され、酷い目にあわされる。
そういうことが我が国の国史には、度々出てきます。
小園司令も、そのなかのお一人です。
けれど、古来日本人は、人生においてもっとも大切なことは、今生における名聞名利ではなく、より多くの人の役に立つこと、自己の確かな成長にある、としてきました。
仮に世の中の価値観がひっくり返り、自分が放逐されたり殺されたりすることがあっても、それでも「やり抜いた」、「信念を遂げた」ということを、大事にする民族であった、ということです。
伊藤博文が初代内閣総理大臣になったとき、彼は「俺もようやく殺される身になった」と喜んだそうです。


そしてその通りに暗殺されてこの世を去りました。
内閣総理大臣になるということは、何かを変える人になる、ということ。
変えれば、恨まれることだってある。
恨まれれば、殺されることだってある。
つまり、暗殺されるということは、一面においては世に貢献した証でもあるわけです。
博文の維新の先輩たちは、みんな殺されました。
だから自分も殺されるに値する人間になろう。
我が身大事ではなく、世のため人のために生きるということは、そういうことなのではないか。
それが日本人古来の価値観なのではないか。
もうひとついうならば、日本人は人を殺すことを忌み嫌います。
人を殺すくらいなら、自分の命を絶つ。それが日本人です。
従って、自らが日本人として生き抜こうとするならば、それを暗殺しに来る者は、日本民族ではない。
そうした思いも、伊藤博文にはあったのかもしれません。
たとえ殺されようと、信念に生きる。
たとえ、晩年苦しい状況に追い込まれようと、それでも戦う。使命をまっとうする。
小園司令にも、そうした日本人の日本人らしい面を、みてとることができると思うのです。
そしてそのことが、昨日の記事のテーマでした。
今日は、その小園司令の前半生について書いてみたいと思います。
そこから私達は、何を学ぶことができるでしょうか。
小園司令は、明治35(1902)年のお生まれになりました。
旧制川辺中学校を経て、海軍兵学校卒業し、空母龍驤の飛行隊長や、第十二航空隊(以下、十二空)の飛行隊長を歴任されています。
昭和13(1938)年4月29日のことです。
漢口で蒋介石軍の戦闘機と大規模な空中戦が行われました。
友軍は九六式艦上戦闘機30機です。
対する敵の戦闘機は90機。三倍の敵です。
当時は、ドッグ・ファイトの時代です。
この戦闘で、自ら出撃し、陣頭指揮を執った小園司令は、敵戦闘機の半数以上を撃墜し、しかも自軍は、ほぼ無傷(被撃墜2機)という大戦果を挙げています。
圧倒的戦果という以上に、もはや伝説とまでいえるすさまじい戦果です。
昭和16(1941)年10月、つまり大東亜戦争開戦の2か月前には、小園司令は、台湾に新設された台南航空隊副長(飛行長兼任)に任命されました。
ここで小園司令は、本来なら士官と下士官、兵を厳密に区別する日本海軍としては異例の体制をひきます。
なにをしたかというと、「完全な実力本位の教育体制」をひいたのです。
台南空は、第一一航空艦隊に所属しています。
いま思えば、まさにツワモノ揃いです。
司令長官 塚原四二三中将
参謀長  大西瀧次郎少将
司令   斉藤正久大佐
飛行長  新郷英城大尉
零戦の搭乗員には、坂井三郎、笹井醇一、宮崎儀太郎、西澤広義、太田俊夫らの精鋭がそろっています。
当時、国内最強どころか、まさに世界最強の航空隊搭乗員を擁する航空隊だったのです。
小園司令は、そのなかにあって、これをさらに強化したのです。
そして12月8日、大東亜戦争が開戦となります。
大東亜戦争開戦といえば、真珠湾攻撃ばかりが強調されますが、実は同時にフィリピン攻略戦も、同時に行われました。
フィリピンは、当時日本だった台湾(本当はいまも日本です。そのことについては、また稿をあらためます)の目と鼻の先にあります。
そしてそこは米国の極東における根拠地であり軍・政・経の中枢だったところです。
そのフィリピン駐屯の米軍の最大の脅威は、米空軍でした。
とくに、B17爆撃機は、我が軍にとって最大の脅威だったのです。
逆にいえば、これを叩けば我が軍は制空権を得ることができ、これにより制海権も生まれ、上陸作戦の実施も可能となるわけです。
つまり、すべては初動段階で、どれだけのB17を叩けるか。
ところが、日本軍の航空母艦はハワイ作戦に充当しています。
ならば、基地航空部隊による航空撃滅戦を実施し、制空権を獲得するしかない。
当時、小園司令は、第11航空隊長でした。
彼は戦爆連合90機の大編隊で、フィリピンのクラークフィールドとイバの両基地上空に殺到したのです。
敵も必死です。
いまでいうスクランブルで、次々と迎撃の戦闘機が舞いあがるけれど、猛訓練を積んだ我が軍は、このときの第一波攻撃で、敵機撃墜炎上100機の大戦果をあげています。
そして以降約1週間、第11航空艦隊と第五飛行集団で米空軍の掃討作戦を実施し、米空軍を、せん滅してしまっています。
これによって、日本軍は、悠々とフィリピン上陸を果たしたのです。
ちなみに、戦場画家として有名な藤田画伯は、この戦闘のあと、クラークフィールドの基地を視察に行き、手記をのこしています。
そこには、たいへんな驚きが書いてあります。
なにかというと、クラーク基地では、格納庫にしまってある米軍機まで、機銃を浴びせて破壊しているというのです。
格納庫にしまってある飛行機は、上空からの攻撃はできません。
ではどうやって機銃を浴びせたかというと、日本の戦闘機が地上すれすれに飛び、格納庫内の米軍機を銃撃破壊して、再び空に舞い上がったということなのです。
地上すれすれの降下と飛行は、ほんの一瞬の誤操作で地上に激突してしまう、たいへん危険な飛行です。
しかも場所は、敵の地上兵がうようよいて、物量にものをいわせて対空砲火をメチャクチャに撃ってきている米軍基地上の戦場なのです。
その戦場で、ご丁寧に格納してある敵機まで、ひとつひとつ破壊している。
そのときの日本軍のパイロットの技量たるや、はかりしれないものがあります。
まさに、この頃の台南空の強さといったら、まさに破格であり世界最強であったわけです。
ちなみにこの戦闘で、味方の将兵をほったからして、さっさと国外逃亡してしまったのが、マッカーサーです。
米国は、このクラークフィールド攻撃にあたって、終戦のあとまで、日本軍が空母でフィリピンに接近したと信じていたそうです。
けれど実は、この作戦の成功は、日本の零戦の航続距離の産物でした。
さて、台南空は、昭和17年4月に、ラバウルに転進しました。
小園司令は、ここで大型爆撃機B17による空襲の威力を 痛感させられます。
とにかく飛行高度が高いのです。
しかも夜間に上空に飛来し、そのままの高度で爆弾を投下して去ってゆく。
戦闘機でB17を撃墜しようとすれば、敵の前方から垂直ダイヴで何度も反復攻撃をくり返すという 離れ業が必要です。
敵の前方上空に出て、垂直降下しながら銃撃するのです。
当然攻撃は垂直運動でしかないし、敵からみたら、まさにネタです。
その垂直運動に工夫をこらし、敵弾を避けてなおかつ攻撃を成功させるには、相当の練度が要求されます。
しかも、攻撃が夜間となれば、要求される練度の高さは、飛躍的に高まります。
ひとことでいえば、夜間襲来するB17に、零戦でまともに迎撃することは不可能だということです。
そのB17が、日本のラバウル航空基地に毎日飛来するのです。
一方、日本のラバウル基地はというと、戦闘機搭乗員のほとんどがニューギニア戦線に進出している。
おかげで戦闘機はあっても、操縦する戦闘機搭乗員が足らない。
それでもB17が飛来すれば、残された少数の搭乗員で立ち向かう。
絶対的な戦力不足です。
そんな状況にあったのです。
そこへ台南空から到着したのが、小園司令らでした。
状況からすれば、ふつうなら、上層部にパイロットの増員を督促するのだけれど、小園小園副長は、まったく逆の発想をします。
まず、自隊の偵察機のパイロットに、現地で戦闘機の操縦訓練を施したのです。
同時に、偵察機に空対空爆弾として知られる三号爆弾(当時の最新兵器)を搭載します。
どういうことかというと、偵察機は、高高度への飛行が可能なのです。
B17に航空高度でひけをとらないのです。
その偵察機に、空対空爆弾を搭載し、B17の高度まで飛翔させて、これを倒す。
結果は、というと、まさに効果てきめんでした。
たった三機の偵察機が「3号爆弾」を搭載しただけで、一ヶ月のうちにB17をなんと15機も撃墜してしまったのです。
恐れをなした敵は、その後しばらくラバウルに来なくなってしまった。
さらに小園は、高度が足らない戦闘機にも「斜め銃」を搭載することを建言しました。
戦闘機の機首近くに、斜め前方を向いた機銃を取りつけるのです。
そして地上から急上し、B17の腹部にもぐり込んで、敵を下から叩く。
この斜め銃も、とくに夜間の敵機来襲にてきめんな効果を発揮しました。
敵爆撃機は、地上から探照灯に照射されています。
こちらからは腹が見えているのです。
一方で敵からは、探照灯の光がまぶしくて、こちらの戦闘機が見えない。
ちなみにこの「斜め銃」は、中央(本土)でほとんど相手にされないものでした。
案が採用されたのは、サイパンが陥落して、B29による本土空襲が本格化し、小園が本土防衛のために厚木基地に赴任となってからです。
しかも搭載したのは、わずか三機です。
陸上偵察機として使用され、戰闘機としては、もう見捨てられたような状態にあった飛行機に、ようやく斜め銃取り付けの許可がでたのです。
これが、のちに夜間戰闘機・月光と呼ばれるようになる一三試双発陸上戦闘機、後の二式陸上偵察機です。
この「斜め銃」は、まさに大当たりでした。
本土上空に侵入した超大型爆撃機B29を下から、次々と撃墜。
なんと、たった三機で、B29を80機撃墜するという、これまた大戦果をあげています。
あの最強の空の要塞のB29が、あまりに簡単に撃墜されるので、この斜め銃は、陸軍の屠龍の一部や、零戦、雷電にも装着され、果敢な成果をあげています。
ただ、この時点ではすでに石油の輸入もなく、物資が不足し、飛行機の生産そのものさえ停滞していた日本は、集団で密集し、まるでイナゴの大軍のように飛来するB29に対し、圧倒的に飛行機の数が足らなかったのです。
しかし、高高度で、飛来するB29が、その高度に達することさえできないほんのわずかの斜め銃搭載機に、80機以上も撃墜されたという事実は、小園司令の存在と、司令を心から信頼する熟練パイロットの腕前と会わせて、歴史の事実として記憶すべきことです。
この斜め銃について、パイロットたちの評判がすこぶる悪かった、と書いている本などがあります。
だから斜め銃は、無能な企画だったと結論づけているようです。
私は思わず笑ってしまいました。
なぜなら、あたりまえのことだからです。
銃口が、まっすぐに正面を向いていれば、敵は狙いやすいです。
銃口が、斜め上を向いていたら、どうでしょう。
狙いにくいです。あたりまえです。
しかも日本の飛行機に搭載している機銃は、弾が少ないのです。
ですから、シューティングゲームよろしく、乱射することができません。
あくまでも狙い澄まして、ドドンと放ち、敵を落さなければ、先に弾がなくなってしまうのです。
「当てにくい弾を、少数しか持てない」という状況の中で「当てにくく狙いにくい斜め銃」での対戦を命じられたら、それは、パイロットにとっては大変です。大きな負担でもあります。
ですから、パイロットに評判が悪かったのは当然です。
けれどその斜め銃によって、高高度で飛来するB29を撃ち落とすという戦果をあげたのも事実です。
同時に、その狙いにくくてパイロットに負担をかける斜め銃を、猛烈な訓練で「使える銃」にしたてあげた小園司令の上官としての能力と、「当てにくいのに当てるように、使えるように」してしまった当時のパイロットたちの凄味というものを、私達は学ばなければならないと思うのです。
ラバウルに話を戻します。
昭和の撃墜王坂井三郎氏の著作に、次のようなお話が書かれています。
当時、ラバウルは最前線基地です。
最前線であるということは、それだけ危険が多いということです。
しかも徐々に制海権を失いつつある日本は、ラバウルに十分な補給物資届けることが困難になっています。
当然ながら、将官はともかく、一般の兵士たちの食生活は最悪なものになります。
そこで「これでは気力・体力を消耗してしまい、空戦に差し障りが出る」と考えた坂井一等飛行兵曹(当時)が、悪いことと知りつつ時々士官用の食材を盗み出して部下に分け与えていました。
これを海軍用語で「銀バイ」と言ったそうです。
ある日、坂井氏は、補給物資を管理する士官に「銀バイ」を見つけられてしまいます。
その士官は、兵士たちの事情を無視して怒りまくりました。
坂井一飛曹(当時)は、ついに腹を据えかねて、銃を発砲してしまったのです。
もちろん威嚇射撃です。
しかし、上官への発砲は反乱罪です。即銃殺に相当します。
その日の夜、坂井一飛曹は完全武装した衛兵によって副長室に連行されました。
坂井氏は、小園副長の前で、下士官兵の劣悪な生活環境を怒鳴るようにして訴えました。
小園副長は、坂井の話をずっと黙って聞いていました。
最後に坂井氏は、「私は銃殺でしょうか」と息巻いたのだそうです。
黙っていた小園副長は、その瞬間、裂ぱくの気迫で、坂井氏を怒鳴りつけたそうです。
「何で最初から俺に言いに来ないかっ!」
胆がふるえるとはこのことです。
烈火の如き小園副長の気合いに、歴戦の勇者の坂井氏は、このとき魂の底から震え上がったそうです。
そして小園副長は、ひとこと、
「宿舎に戻れっ!」といいました。
坂井氏は、悄然と小園の部屋をあとにしました。
翌日のことです。
いきなり、下士官兵の食事が改善されました。
食事の内容が、貧しく物資がない中でも、最大限配慮されたものに変わったのです。
しかも小園副長は、すべてを腹に収め、坂井氏への責任追及は一切ありませんでした。
昭和17(1942)年10月、小園ら台南空は人材と機材の消耗が激しく、再編成のために、いったん内地に引き上げる事になりました。
ガダルカナル島をめぐる攻防で、笹井醇一中尉 、宮崎飛曹長、本田二飛曹ら主だった面々が戦死し、坂井一飛曹も重症を負って内地に送られていたのです。
ラバウルを去った台南空は、同年11月には、内地の第二五一航空隊と改名されました。
12月になると、斉藤大佐にかわって、小園副長がが司令に任命されました。
小園新司令のもと二五一空は、昭和18(1943)年4月、ふたたびラバウルに進出します。
そして4ヶ月後、日本に帰還した小園司令は、首都周辺に存在する海軍施設の防空を任務とする第三〇二航空隊司令に任命されたのです。
すでに本土空襲がはじまる中での首都圏防空隊です。
皇居をお守りする最重要任務を持つ三〇二空です。
並の司令ではつとまりません。
日本海軍が首都圏防空のために、最後に選んだのが、小園司令だったのです。
ソロモンや中部太平洋を巡る激戦によって、この頃の海軍は、戦闘機搭乗員を多数失っていました。
三〇二空も、一般大学生を採用した予備士官や爆撃機等の他機種から転科した戦闘機搭乗員が大勢を占めています。
もちろん、三〇二空に選ばれるくらいですから、腕はいい。
けれど一般に、海軍兵学校を卒業し、戦闘機搭乗員出身の将官は、やはり同じ海軍兵学校卒業生を可愛がる。
同門の後輩にあたるからです。
ところが小園司令は、パイロット、整備員、その他職員について、一切の差別というものをしませんでした。
完全に実力本位の統率を行ったのです。
おかげで、部隊の士気は猛烈に高まりました。
ここでひとこと付け加えます。
「完全実力本位の統率」というのは、文字にしたら、たった9文字の簡単な文字でしかありません。
けれど、これほど難しいものはないのです。
このことは、会社における社員の統率を考えていただいても、よくわかります。
入社年月や、役職に関わらず、完全実力本位とする。
しかもそのことで社員の士気を著しく高める。
それが、クチでいうほど簡単なことでないことは、すぐにおわかりいただけようかと思います。
ましてや、航空隊は、常時、死と隣り合わせの部隊です。
いつ死ぬかわからない。
そういう過酷な状況の中で、誰からも不満の声ひとつなく、全隊員たちの心を見事なまでに掌握し、実力本位で無理無駄のない完全合理主義の体制をひく。
それがいかに難しいことかは、およそ人を使う立場にたったことのある方なら、容易に想像できることだと思います。
小園司令について、ひとついえることは、彼が歴戦の勇者であり、数々の武勲を立てた戦績を持ち、しかも隊長としても豊富な実績を積んでいたということが、まずあります。
けれど、小園隊長のもと、全員の気持ちがひとつにまとまった背景には、もうひとつの大切なファクターを見落としてはならないと思います。
それは、彼が、常に「公平」であった、ということです。
隊員たちを「平等」に扱ったのではありません。
学歴や門籍、あるいは入隊年月や成績順位といったものをもとに、格差をつけるのは、そうした基準をもとに、ある意味「平等」な考課をするということです。
何も考えなくて良い。考課者にとって、これほど楽な考課方法はありません。
けれど、実力本位で公平に考課するということは、考課する側、される側の両方に、互いのしっかりとした信頼関係がなければ成り立ちません。
いいかえれば、小園司令は、それだけ部下から絶対の信頼を得れる希有な司令であったということです。
おそらく「こんな人を上司にしたいランキング」で、歴史上の人物で、小園司令に関する正しい評価がなされていれば、司令は、だんとつNO.1をとれる人であったのではないかと、私は思います。
さて、厚木の司令となった頃の小園司令は、なんと東條英機総理暗殺計画に参加しています。
これまたおもしろい史実ですが、実はこの計画は、高木惣吉海軍少将や神重徳海軍大佐が首謀したものです。
小園隊長の役割は、東条英機首相暗殺後、実行犯の台湾逃亡を担当することでした。
しかし直前にサイパンが陥落し、この責任をとって東条内閣が総辞職したため、この計画は実行に移されなかったのです。
もし、この事件が実現していたら、日本の歴史は、また異なる展開となっていたかもしれません。
戦争も後期となり、マリアナ諸島が米軍に占領され、そこを基地としてB29が関東・東海地方を中心に日本本土への空爆を行うようになりました。
小園司令の指揮下で首都方面防空隊として、海軍最大の戦力を持つ三〇二空は、B29と激戦を繰り広げています。
航空高度の性能が、2割以上も格上のB29に対して、戦いを挑むのです。
前にも書きましたが、方法はただひとつ。
全速力で(敵の弾を避けながら)垂直上昇を行い、その勢いで機銃を発射して、ようやく弾を上空のB29に届かせる。
一直線に上昇して来る敵機というのは、非常に狙い撃ちしやすい標的です。
その狙い撃ちしやすい標的となって、みずからの機体を敵前にさらし、そのうえで攻撃を行う。
悲しいほどに危険な作戦です。
そういう死闘を繰り返す最前線の兵を抱える小園司令にとって、お偉いさんたちのノホホンぶりは、日ごろから腹に据えかねるものだったであろうことは、容易に推測できることです。
小園司令が「斜め銃」装備の有用性を必死になって説いてまわったときも、あまりに上層部の反応が鈍かったといいます。
小園司令にしてみれば、
「こいつらは戰争を始めておいて、一体勝つもりがあるのか」という憤りすらある。
後日、厚木基地で叛乱を起こした小園司令の憤激の根底にあったのは、「キンタマぶらさげた男が、正しいと思う喧嘩を始めておいて、簡単に降参できるもんか」という意地であったともいいます。
けれど同時に、小園司令の心の中に、ふぬけたお偉いさんに対する不満が鬱積したとしても、これは不思議なことではありません。
小園司令は、思っていることを腹にためておくことができない性格の人です。
二度目の司令としてラバウルに赴任したときも、歯に衣着せない意見具申を艦隊司令部に何度も出し、ついにはお偉いさんをおちょくったような短歌をつくって 部下に配布して、上官のミコを悪くし、わずか四カ月でとばされた、という経歴ももっています。
しかし、戦いというものは、常に現場が第一であるべきものです。
戦争は会議室で行われているのではない。
戦場の最前線で行われているのです。
私がかつてサラリーマンをしていた頃にも、部下に小園司令と顔つきも気性もそっくりな男がいました。
頑固一徹です。たとえ相手が本社のお偉いさんであっても、歯に衣をきせず、真正面から大声を張り上げた。
彼は、上からはずいぶん嫌われていました。
けれど、責任感が強く、やり抜くまで絶対にあとにひかない。
単に口舌の徒ではなく、そういう生一本で純粋で責任感のかたまりのような男こそ、いざというときにほんとうに役に立つ。
小園安名大佐は、おそらく我が国航空戦史に燦然と輝く隊長というだけでなく、世界の航空戦史上に名を輝かせる事績を持った昭和の勇士です。
いま、日本は腰抜けになったといわれています。
けれど、かつてこの日本に、小園大佐のような、勇猛果敢かつ実直一筋の男がいたという事実を、私はとってもとっても誇りに思うのです。
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