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原爆投下前の長崎市浦上地区
原爆投下前の長崎市浦上地区

いまからちょうど67年前のことです。
時は、昭和20(1945)年8月9日、午前11時2分。
長崎で原爆が炸裂しました。
このときの長崎市の人口は24万人。
そのうちの14万9千人が、一瞬のうちに死没しました。
米軍が、この原爆を投下するために出撃させたb−29は、6機でした。
あまり知られていないことですが、そのB−29が、原爆の投下目標としていたのは、福岡県小倉市(現:北九州市)でした。


B−29は、硫黄島を経由して、屋久島上空で合流する予定でしたが、トラブルから2機だけの編隊となり、午前9時44分、投下目標地点である小倉市に到達しました。
ところが、編隊を組んで飛来したB−29に対し、陸軍の小倉造兵廠の守備隊が果敢に高射砲で応戦。
激しい応射に、B−29は爆弾投下目標の目視に失敗し、45分かけて目標地点補足を3度やり直したのですが、3度とも目標補足に失敗してしまいます。
さらに陸軍芦屋飛行場から飛行第59戦隊の五式戦闘機、ならびに海軍築城基地から第203航空隊の零式艦上戦闘機10機が緊急発進してきたため、B−29は、小倉への原爆投下を断念。
目標地点を、第二目標の長崎市に切り替え、小倉市上空を離脱しています。
B−29が長崎上空に到達したのが、午前10時50分頃です。
ところが、この日の長崎は、積雲が厚く覆っていました。
B−29は、目標の視認ができなかったのだけれど、地上からの反撃がなかったことから、雲の切れ目を探し、眼下に街並が見えたところで、手動操作で原爆を落下させました。
放物線を描いて落下した原爆は、投下の約1分後の午前11時2分、長崎市街中心部から3kmそれたそれた長崎市松浦上地区中央のテニスコート上空、高度503mで炸裂しました。
長崎に投下された原爆は、プルトニウム型の「ファットマン」です。
威力はTNT火薬換算で22,000t(22kt)。
広島に投下されたウラン235型原爆の「リトルボーイ」の、1.5倍の威力を持つ原爆でした。
原爆は、長崎市の浦上地区を壊滅させ、14万9千人の死者を出しました。
広島(20万人)よりも死傷者が少なかったのは、爆心地が市街中心部から多少それたことと、長崎市の周囲をとりまく山々が遮蔽物となったことによります。
それでも約15万にもの死者が出たのは、高高度で飛来したB−29が積雲に阻まれて発見が遅れて、空襲警報が間に合わなかったこと、同じ理由で対空砲火による防御が間に合わなかったことによります。(詳細は後述します。)
もし、この原爆が、当初予定通りに北九州市で炸裂していたとしたら、北九州市は、土地が平坦であることから、熱線による被災は、北九州の戸畑、若松、八幡、門司全域に広がり、さらに本州と結ぶ関門海峡を越えて下関市までも被災地となったであろうことから、推定で30万人以上の死者がでていました。
前にも書きましたが、「歴史にIF(もし)は禁物」というのは、左翼のバラまいた妄言です。
歴史は、「もし〜だったら」と考えることによって、学ぶことができる。
もし、長崎市においても、北九州同様、猛烈な対空砲火によってB−29を追い払うことができたなら、長崎の14万9千人は、命を長らえたかもしれない。
もし、北九州の陸軍基地が、飛来したB−29に対して猛烈な対空砲火を浴びせていなかったならば、被災者は北九州から下関までの広範囲となり、もっと悲惨な事態が待っていたかもしれない。
そのことは、現実に原爆の被害にあった経験を持つ、私達日本人が、断じて記憶し、確認しておかなければならないことだと思います。
いま、中共政府が沖縄や尖閣へ露骨な軍事介入を匂わせていますが、「いざというとき反撃しない者には、より大きな悲惨が待っている」というのが、悲しいけれど現実だ、ということです。
このことは、北九州と長崎の対比の中で、私達日本人は、骨身に沁み込ませておかなければならない、もっというなら、日本人の常識にまでしておかなければならない、歴史の反省点であろうと思います。
8月9日に長崎に原爆が投下されたあと、8月15日に終戦、そして8月29日には、米軍の兵士たちが日本への上陸を開始しはじめました。
そのうちの一部は、広島、長崎の被災地にも入り、実体調査を行っています。
8月の末頃、まだ、長崎では、被災して死亡した人たちの片付けが行われていました。
そこで、米軍の従軍カメラマンの、ジョー・オダネルが撮った一枚の写真があります。
それが下の写真です。

一枚の写真0809

この写真について、オダネルは、次のようにコメントしています。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。
10歳くらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。
おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中にしょっています。
少年の様子はあきらかに違っていました。
重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという、強い意志が感じられました。
足は裸足です。
少年は焼き場のふちまでくると、硬い表情で、目を凝らして立ち尽くしました。
少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。
白いマスクをした男たちがおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。
私は、背中の幼子が、すでに死んでいることに気づきました。
男たちは幼子の手と足を持つと、ゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。
幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。
それからまばゆいほどの炎がさっと舞い上がりました。
真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。
その時です。
炎を食い入るように見つめる少年の唇に、血がにじんでいるのに気づきました。
少年があまりにきつく噛みしめているため、唇の血は流れることなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。
夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました。
背筋が凍るような光景でした。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
このとき、少年の心に何があったのか。
私達は、いまあらためて、自国を守ることに大切さについて、しっかりとした認識を持たなければならないときにきているのではないでしょうか。
67年前の今日、長崎に原爆が投下されました。
当時の長崎市の人口は24万人。そのうちの14万9千人が一瞬のうちに死没しました。
けれどこの原爆、当初の投下目標地点は北九州市だったのです。
しかし、北九州市にあった陸軍基地が、猛烈な対空砲火で迎え撃ったため、原爆を搭載したB−29は、投下を断念。
第二目標地点の長崎に原爆を投下しました。
長崎では、折からの積雲に敵機襲来の発見が遅れ、対空砲火が間に合わないうちに、原爆を投下されてしまったのです。
けれどこのとき、長崎に飛来したB29は、すでに残念量もそこをついている状態でした。
もし、長崎で反撃が間に合っていれば、もしかすると長崎への原爆投下は防げたかもしれない。
この事実から、私達は何を学ぶことができるのでしょうか。
(追加)
せっかくの機会なので、長崎の原爆投下について、巷間、言われているデタラメ2つについて、少し述べておきます。
ひとつは、長崎への原爆投下は、空襲警報が鳴ったけれど、なぜか解除された。そこに原爆が落ちた、というもの。
もうひとつは、大本営は、B29の無線をキャッチしていたけれど、これを放置していたというもの。
この2点です。
どちらも、日本軍が無能、もしくは大本営の無能ぶりのように形容されて、宣伝されている事柄です。
こういう、非常に悪意に満ちた、事実と事実の都合のいい(悪い?)ところだけを繋ぎあわせて、人をバカにするような言説というのは、まさに戦後左翼や在日朝鮮人の得意芸といえます。
事実は全然違うのです。
まず長崎で、空襲警報が鳴ったのは、午前9時すぎのことです。
原爆が炸裂したのは11時2分のことです。
時点がまるで異なります。
硫黄島を出たB29は、午前9時すぎに大分県姫島方面から日本領空に飛来しました。
わずか3日前には、広島に原爆が落されたばかりですから、当然のことながら、日本軍も大警戒をしています。
だからこそ、大本営はB29が大分で捕捉された時点で、長崎でも空襲警報を鳴らし、市民に避難を呼びかけているのです。
ところが、この時点でB29が目標としていたのは、小倉市(現:北九州市)でした。
そして9時44分に、B29が小倉上空に飛来したのです。
そこで起こったことは、上の本文で書いた通りです。
陸軍は、猛烈な対空砲火でB29に反撃し、このためB29は45分間で3度にわたり原爆を投下しようとしたけれど果たせず、しかも日本陸海軍が迎撃戦闘機を飛ばしてきたことから、小倉への原爆投下をあきらめて、その場を離脱し、帰投したのです。
大分にあらわれたB29が飛来した先が、小倉市であったことから、長崎は午前10時過ぎに、空襲警報を解除しました。
当然のことながら、時は平日の日中でもあり、警報が解除されれば、市民は職場に戻ります。
そしてその1時間後に、原爆は投下されました。
当日、北九州から長崎までの空は、厚い積雲が覆っていました。
ご存知の通り、積雲は真夏の雲です。たいへん厚みがある雲です。
高高度を飛行するB29は、この積雲の上を飛んだ。
つまり、地上から目視できなかったのです。
このことはB29の側も同じで、いまどのあたりを飛んでいるのか、地上の目視ができない。
なので乗員のひとりが航法士に、「現在地はどの辺りか」と尋ねます。
このとき、答えようとした航法士が、誤って内線用のインタホンのスイッチと無線スイッチを取り違えて返事をします。
無線通信が外に洩れたのです。
北九州に飛来し、長崎に向かったB29は2機ですが、無線の漏洩で慌てたためか、この二機は空中で操縦を誤り、危うくニアミスをしかけてしまいます。
しかし、なんとか機体をもちなおす。
一方、この無線をキャッチしたのが、この時点で鹿児島沖にいた別なB29(作戦からはぐれてしまっていた)です。
そのB29は「チャック、いまどこにいる?」という音声無線を、返します。
これが、午前10時50分頃の出来事です。
当然、日本軍もこの無線を傍受しました。
すぐに通信地点の特定を急ぎます。
そして、ひとつは、鹿児島沖と判明。
もうひとつは、長崎方面と判明。
そこですぐに長崎市に連絡をとり、空襲警報が間に合わないからと、臨時ニュースで市民への避難を呼びかけた。
ニュースを聞いた長崎市は、慌てて空襲警報を出そうとした。
その矢先に、原爆が投下されたのです。
要するに、日本軍は、その時点でできる最大限の努力をしていたのです。
にもかかわらず、あたかも軍部が無能であったかのごとく、事実の切れ端だけを繋ぎあわせて、陥れようとする。
こうした戦後の風潮は、今後、絶対に改めていかなければならないことだと思います。
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