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大塩平八郎
大塩平八郎0722

もう民主党の売国腐敗ぶりに、堪忍袋の緒が切れたとお感じの方も多いかと思います。
いまこそ平成維新を、とお考えのことも多いことでしょう。
今日は、その維新の先駆けとなったお話です。


「維新」という言葉は、支 那の古典である詩経の大雅文王篇の一節にある言葉です。
 周雖旧邦
 其命維新
からきています。
読みは「周といえども旧邦。その命、これあらた」と読みます。
意味は「周王朝といえども、古い王朝にすぎず、その命運は尽き、新たな時代となる」です。
「維新」は、「これ、あらたなり」と読みます。
「維新」という語を日本で最初に使ったのは、水戸藩の藤田東湖といわれています。
彼は天保元(1830)年、藩政改革への決意文の中で、この「維新」の語を用いています。
天保元年といえば、維新の先駆けとなった大塩平八郎が、大坂町奉行の筆頭与力の職を辞した年でもあります。
大塩平八郎といえば、学校で「大塩平八郎の乱」として習う人なので、ご存知の方も多いかと思います。
天保8(1837)年、彼は大阪で飢饉にあえぐ民衆を救おうと蹶起(けっき)し、こと破れ、自決しています。
この蹶起の際に、彼は「檄文」をしたためています。
この檄文は、彼の人柄を示す実に見事な書で、また内容もたいへん立派であることから、彼の死後も書写の手本となって全国に広がりました。
そして、彼の思想と行動は、吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、河井継之助、佐久間象山らへと受け継がれ、黒船来航という外圧が起こった際に、いっきに全国運動となって幕末動乱から、明治維新へとつながります。
大塩平八郎の乱は、明治維新の30年前のできごとです。
檄文、乱、といえば、三島由紀夫の自決が昭和45(1970)年で、あれからもう42年が経過しています。
現代日本も、そろそろ変わるときがきているような気がします。
さて、大塩平八郎は寛政5(1793)年の生まれの人です。
家は、代々大坂町奉行の与力を勤める家柄で、平八郎はその八代目にあたります。
奉行所時代の平八郎は、ひどくカタブツで、常に白刃を振りかざして歩いているような、一種独特な生真面目人間だったようです。
同僚とえいる西町奉行所の同心、弓削新左衛門の汚職事件で、内部告発をしてこれを逮捕した他、数々の難事件を解決した辣腕家だったのですが、真面目すぎる男というのは、どうにも人間関係はよろしくない。
招かれて同僚の家に行った際も、幕府政治の腐敗の話になって激高し、普通ならまったく歯が立たない硬い魚(カナガシラ)の頭を噛み砕いてしまったとか、平素から「邪心ある相手とは付き合うな」と、自身の交友関係を厳しく制限するとか、とにかくお固すぎて、まじめすぎて、しかもたいへんな勉強家。
実績もあるし、仕事では誰にも負けない分、同僚からは妬まれ、そねまれ、人間関係という面では、たいへんなご苦労をされていたようです。
要するに真面目でカタブツで人付き合いも決して上手な方ではないから、同僚から妬まれ、そねまれ、つまり、イジメにあっていたわけです。
おかげで、悩み、10日くらい眠れない日をすごしたこともあったとか。
けれど、そんなカタブツでも、ちゃんとみる人はみているのです。
たとえ、人付き合いが悪くても、カタブツでも、真面目に働き、しっかりと勉強を重ねる。
そういう男を、得難い人物として高く評価し、重用したのが、平八郎の上司の大阪東町奉行、高井実徳でした。
高井実徳は、平八郎をよく抜擢し、そのおかげで平八郎は、大阪町奉行所の目付役筆頭、地方役筆頭、盗賊改役筆頭、唐物取締役筆頭、諸御用調役等と、出世階段を駆け上り、奉行所の要職を歴任したのです。
もっとも、出世すればしたで、同僚からは妬まれる。
いじめられる。
男の嫉妬というものも、古来、なかなか難儀なものです。
けれど、大塩平八郎の偉いのは、そんなイジメに悩むこともあったけれど、それでもお役目を一生懸命真面目に勤めあげて、しかも生涯にわたって武芸も勉強も欠かさなかったことです。
人の人生の勝敗は、その瞬間瞬間のことだけではないのです。
たとえ、いまは誰にも認められなかったとしても、精一杯の真っ直ぐな努力を日々重ね、それを5年、10年、20年と続けた時、ひとはちゃんと気付いてくれる。
ですから、大阪町奉行所与力としての大塩平八郎は、とにかく民からの評判は格段によかった。
なぜなら民は、平八郎が公正で清廉潔白な人物であることに、ちゃんと気付いてくれていたからです。
本来、奉行所の与力、同心は、民に力を与え、民とともに同苦し、同喜する、という存在です。
だから、与力、同心の語が与えられています。
平八郎は、まさに民に力を与える与力として、理想的な人物となっていったのです。
ところが、天保元(1830)年、なにかと平八郎の面倒をみてくれていたお奉行の高井実徳が転勤になります。
平八郎は、跡目を養子の大塩格之助に譲り、お役目を辞して隠居しました。
同僚との人間関係に苦しむ分、お奉行の信頼に応えることが、彼にとっての精一杯の生き甲斐だったのです。
そのお奉行が転勤でいなくなるなら、自分も、もはや奉行所に未練はない。
こうして彼は、37歳で隠居しています。
奉行所を退職した彼は、自宅で「洗心洞」という私塾を開きました。
ここでの生活は、これまた実に平八郎らしいものです。
毎日、日暮れとともに就寝する。
そして午前2時には起きる。
起きるとすぐに趣味の天体観測をし、その後、庭先で素振り千回。
たっぷりと汗を流した後には、真冬でも井戸水を頭からかぶって身を清め、午前5時には門弟を集めて早朝講義を実施しています。
その平八郎の講義は、とても厳しいもので、門弟たちは緊張のあまり、まともに平八郎の目さえも見れないほど。
同じく大阪で私塾「青山社」を開いていた頼山陽は、日頃から平八郎と仲良くしていたのですが、平八郎をして「小陽明」とその学識ぶりを称える一方で、「君はまるで一日24時間、つねに白刃を振りかざしているようだ。ときには心の白刃を鞘にしまい、普通の人間に戻りなさいな」などと、忠告をしています。
大塩平八郎という人物は、日頃から、白刀を振りかざして生きているような、他に近寄り難い雰囲気を与える人物であったということかもしれません。
さて、大塩平八郎が私塾を開いた天保年間といえば、天保4(1833)年から数年間続く大凶作によって、全国的に飢饉がひろがったときです。
大雨に洪水に冷夏に噴火。
次々と起こる天変地異に、米の収穫は激減し、全国的に餓死者があいついだのです。
時を同じくして、50年続いた11代将軍徳川家斉にかわり、徳川家慶が12代将軍になりました。
新将軍の誕生です。
たとえ、飢饉のさなかであっても、幕府の威信を保つために、将軍交代の儀式は派手に行わなくてはならない。
そこで時の老中水野忠邦が目を付けたのが、天下の台所の大坂です。
水野忠邦は、自分の実弟である跡部良弼を、町奉行として大坂に派遣しました。
天保七(1836)年、大阪東町奉行に就任した跡部は、大坂市中や近在の米の値段が暴騰するのをしり目に、「将軍交代の準備」という名目で、大商人からせっせと米を買付け、江戸に回送します。
ただでさえ、続く凶作で米が不足しているなかで、米を大量に買付けたのです。
市中の米は不足し、米の相場は高騰します。
おかげで大阪の市中では、食えなくなった町民が、毎日約150~200人飢え死にするという事態になる。
この惨状を見た大塩平八郎は、自分の考えた飢饉救済策を、何度も町奉行の跡部に訴えました。
けれど、奉行の跡部良弼は、兄貴が江戸の老中水野忠邦です。なにせ強力なバックがある。
元大阪町奉行所筆頭与力とはいえ、いまは隠居した平八郎の建白書など、まるで聞く耳持ちません。
それどころか、「与力の隠居ふぜいが、身分さえわきまえずしつこい。牢屋にぶち込むぞ」と逆に脅してくる始末です。
その間に、米価は6〜7倍にも跳ね上がる。
一部の裕福な商人を除き、市民はほとんどのその日暮らしの状態です。
けれど人間、食べなければ死んでしまう。
ですから市民たちは、必死にその日その日の食料を得、わずかな米をどこからともなくやっとの思いで調達する。
けれど「それは闇米だ、規則違反だ」と、奉行所役人に捕えられ、せっかく調達した米は役人に没収されてしまいます。
平八郎は、なんとかしなければならないと、豪商鴻池善右衛門に「貧困に苦しむ者たちに米を買い与えるため、自分と門人の禄米を担保に一万両を貸してほしい」と持ちかけます。
話を聞いた鴻池善右衛門は、平八郎の申込を、もっともなことだと受け止めます。
なんとか一肌脱ごうと思う。
けれど、それをするには、事前に町奉行の跡部に、事情を説明し、許可を得なければなりません。
しかし、跡部の出した結論は、「断れ」でした。
平八郎の善意も、鴻池善右衛門の善意も、跡部の出世欲の前に、すべてかき消されてしまったのです。
そうした中、甲斐の国(山梨県)や、三河(静岡県)で、現実に一揆や打ち壊し騒動が起きたというニュースが大阪の町にも飛び込んできます。
「このままでは、大坂でも一揆や打ち壊しが起こる。たいへんなことになる」
心配した平八郎は、重ねて跡部に、奉行所の所蔵米を民に放出するように、訴えます。
しかしこれも却下されてしまう。
平八郎は、自分の蔵書を処分するなどして、私財をなげうち、民の救済活動を行います。
けれど、米価は高騰し、私財も尽きてしまう。
「奸吏糾弾の事件後、また再び与力たちは不正に走り、四ヶ所の役人たちものさばり出し、しかも今回は町奉行までもが、飢饉の救済もせず江戸の水野のほうばかり向いている。もう、これ以上は無理だ。待っていられない」
平八郎は、ついに門弟たちと蹶起を決意します。
天保八年(1837年)の正月、平八郎は「檄文」を起草します。
できあがった檄文を、彼は大量に印刷し、大阪市中にばらまいた。
そして同年2月18日、彼はその檄文を木箱にいれ、直接幕府に届くよう江戸向けの飛脚に託すと、翌2月19日朝8時に、大阪の町でついに、門人や彼を支持する民衆とともに蹶起したのです。
しかし、彼の蹶起は、門人の密告によって、事前に奉行所に知られてしまっていました。
平八郎らの蹶起は、出撃しようとした矢先に奉行所の役人たちによって取り囲まれてしまいます。
腕のたつ門人によって血路を切り開いた平八郎は、息子の格之助とともに逃亡し、大阪四ツ橋あたりで刀を捨てて、とある商家の蔵に隠れるのだけれど、所在が発覚し、平八郎は息子とともに火薬を用いて自決します。
享年45歳でした。
けれど、平八郎の檄文は、生き残ります。
そして万民に力を与え、ついには幕府を倒し、明治の時代を迎えています。
〜〜〜〜〜〜〜〜
天下の民が生活に困窮するようでは、その国は滅びる。
政治をするに足る器でない小人どもが国を治めれば、天変地異や災害が起こるとは、昔の聖人が深く天下後世の人、君子や人臣に教戒されたところである。
ところが市民が苦しんでいるにも関わらず、政治家や諸役人共は万物一体の仁を忘れ、私利私欲のために得手勝手の政治を致し、そのうえ勝手我儘の法律を作っては、国内の遊民ばかりを大切にして、自分たちだけは何不足なく暮している。
このたびの天変地異による天災という天罰を眼前に見ながらも、これに対して謹み畏れようともせず、餓死の貧人乞食をみても救おうともせず、自分たちだけは山海の珍味など結構なものを食い、妾(めかけ)の家にはいりこみ、高価な酒を湯水のように振舞っている。
私たちは、もう堪忍ができない。
やむなく天下のためを思い、罪が一族・縁者におよぶ事もかえりみず、有志と相談し、庶民を苦しめている諸役人を攻め討ち、さらにおごりたかぶる悪徳町人・金持ちを成敗する。
〜〜〜〜〜〜〜〜
これは、大塩平八郎の檄文を、口語訳して要約したものです。
原文だと「四海困窮いたし候は、天禄永く終らん。小人に国家を治めしめば災害に至ると、昔の聖人深く天下後世、人の君人の臣たる者を御戒め被置候故」と、かなり難しい。
全文ですと、かなりの長編になるのですが、この檄文を平八郎が「誰に充てて書いた」のかというと、
「摂河泉播村々庄屋年寄百姓並貧民百姓たちへ」となっています。
思いあまって蹶起した平八郎の心根にあったもの。
それはなにより、民百姓が安心して食える世の中にしたい、ということだったのです。
平八郎死後、大坂市中の町民たちは、平八郎を「自分たちのために自身を犠牲にしてくれた大恩人」という気持ちでこの「檄文」をひそかに隠し持ち、永く手習いの手本にしました。
またこうして書写された檄文は、全国の有志へと広がりました。
そして平八郎の民を思う心は、ついには天をも動かし、民が政治に参加できる世の中が実現するに至ったのです。
大塩平八郎については、乱を起こしたという事実について、その行動には賛否両論あろうかと思います。
けれど、たいせつなことは、大塩平八郎は正か邪かといった批判ではなく、平八郎から、私達が何を学ぶかであろうと思います。
江戸時代というのは、大衆文化が花開き、有史以来、ある意味、日本がもっとも日本的になった時代であったかと、私は思っています。
けれど、そうした時代の中にあっても、世の間違いというものはあったし、それが甚だしいものとなると、八百万の神々は、天変地異を起こして、施政者に反省を迫っています。
しかし、時代を変える力というのは、あくまで国家大衆の力です。
私達はいま、戦後日本という歪みある社会を、建て直そうとしています。
その道は険しく遠い。
大誠実をもってしても、平八郎のように最後は咎人として首を晒されなければならないかもしれない。
けれど、それでも、民衆のため、正義のために立ち上がる。
私達の先人達は、そうやって、私達の国を守ってきてくださったのです。
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大塩平八郎の乱(4/4)

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