
7月25日は「廊坊事件」が起こった日です。
昭和12(1937)年のできごとです。
この日、北京の南東約50kmにある廊坊駅で、日本軍の軍用通信回線に故障が発生しました。
故障自体は、決して珍しいことではなかったけれど、当時は無政府状態にあったChina国内です。
日本の施設を意図的に狙った迷惑な事件も、そこかしこで起こっていました。
故障を知った日本軍は、回線の修理に向かうにあたり、念のため通信隊の一部に歩兵1中隊(第20師団歩兵第77連隊第11中隊)を付けることにしました。
そして「廊坊駅」にいる軍閥のChina国民党軍に、「これから修理に行くよ」と、あらかじめ、きちんと通知も行ないました。
警備の兵士を含め、総勢、約100名ほどになった日本の兵隊さんたちは、こうして北京から「廊坊駅」に向かいました。
駅には、China国民党の第三八師第一三二旅、第226団の約6000人が駐屯しています。
廊坊駅の入り口に到着した日本の修理隊は、まず、指揮官の五ノ井淀之助中隊長(中尉)が、駅の門外から国民党226団に折衝し、駅内立ち入りの許可を得ました。
その上で、日本の修理隊は、廊坊駅内にある「日本の」通信用電線の修理をはじめたのです。
ところが、その修理の真っ只中の午後11時10分のことです。
国民党軍が突然、日本の修理隊に発砲してきたのです。
一発二発の銃撃ではありません。
軽機関銃まで含めた、あきらかに意図的な猛攻撃です。
しかし、応戦すれば、戦闘になります。
双方に死者が出る。
日本の修理隊の五ノ井隊長は「こちらから一切の発砲はするな。弾が当たらないように身を隠せ」と部下たちに命じました。
すると、物陰に隠れてひたすら弾を避けている日本の兵隊さんたちに向け、こんどは廊坊駅の北方300mにある国民党の兵営から、迫撃砲が打ち込まれてきたのです。
しかも立て続けの猛攻です。
このままでは、日本の修理隊は、全員、死ぬしかありません。
意味もなく、ただ殺される。
これではまったくの犬死です。
午前0時、五ノ井隊長は、やむを得ず、部隊に応戦を命じました。
同時に、無線で本部に応援を依頼します。
無線を聞いて驚いたのは、通報を受けた日本軍(China駐屯軍)の本部です。
なにせ、わずか100名の修理隊に、China兵6000名が、軽機関銃や迫撃砲まで持ち出して、襲いかかっているというのです。
日本のChina駐屯軍本部は、慌てて第20師団に救援を命じました。
第20師団は即時、歩兵第77連隊(約3000人)を廊坊に急行させた。
さらに26日午前2時30分には、第20師団本体が、逐次廊坊に向かいました。
けれど、深夜のことです。鉄道が動いているわけでもない。
しかも距離は50kmです。
当時の兵員の輸送は、トラックなどの車両は、数がまるで不足しています。
ですから、全員、重たい荷物を背負い、歩きで50kmを行軍して、現場に向かうのです。
廊坊駅までは遠い。
時間もかかる。
廊坊駅では、夜11時10分に銃撃を受けてから、日本の兵隊さんたちは、なんと明け方まで奮戦します。
ちなみに、近代から現代にいたる多くの戦場、とりわけヨーロッパ戦線や、最近のイラクなどでの戦闘では、銃撃戦というのは、普通、だいたい1〜2分です。
10分も撃ち合えば、「今日の戦闘はひどく長時間だった」となる。
それくらい、銃を用いた戦闘というのは、集中力と疲労が激しいものです。
けれど、廊坊駅では、すでに明け方の時点で、まる6時間以上も、間断なく、銃撃と迫撃砲による爆撃が続きました。
どんな戦いか想像してみてください。
昼間、行軍して、やっと廊坊駅にたどり着き、汗水流して通信施設の修繕をしていたのです。
荷物の移動や作業での重たい荷物の上げ下ろしは、全部手作業です。
そうして体もくたくたとなり、いまで言ったら、残業して夜中の11時すぎになった頃に、銃撃やら砲撃が始まったのです。しかも、一晩中、敵は迫撃砲やら、機関銃をところかまわずブッ放してくるのです。
26日、夜明けとともに、日本軍の司令部は、廊坊にむけて航空隊を差し向けました。
航空隊が到着すると、ほんのわずかのトラックを横倒しした空間に、通信修理隊の面々が、まるくなって必死で応戦している。
眼下には、まるでゾンビの大軍のように、China兵が円状に群がっています。
「こんなすさまじい状況で、友軍は戦っていたのか」
爆撃機の操縦士の胸には、こみあげるものがあったといいます。
「ざけんじゃねえぞ、コノヤロー!」と操縦士が思ったかどうかまではわかりません。
けれど、日本の航空隊は、日頃の修練の業で、China軍の迫撃砲陣地をピンポイントで爆破すると、あたりにいるChina兵たちに、ギリギリの低空飛行で、猛射を浴びせています。
もっとも当時の日本の爆撃機というのは、所持している弾薬の量が少ないので、100発も撃ったら、それで終わりです。
それでも果敢に地上すれすれまで降下して、銃撃を行なった。
そのときの爆撃機のパイロットの気持ちは、察して余りあります。
26日の午前8時、やっと丘の向こうに、日本の増援隊の姿が見えます。
50キロの道のりを、重たい荷を背負って、強行軍で駆けてきてくれた友軍の登場です。
日本軍がわずか100名なのをいいことに、好き放題、弾を撃ち込んでいた重装備の6000のChina兵は、日本軍の救援隊の姿が見えたとたん、China兵たちは算を乱して逃げ出します。
これが26日の早朝の出来事でした。
このとき、廊坊から逃げ出したChina兵たちが、向かった先が、通州駅です。
そして7月29日に通州事件が起こる。
この廊坊駅で起こった事件について、当時のChina国民党は、次のように公式発表をしています。
~~~~~~~~~~
7月25日、日本兵約100名が廊坊駅に派遣され、「電話修理」と称して同駅を「占拠」した。
廊坊を守備していた第38師第13旅の旅長である劉振三は撤退を要求したが、日本軍はそれを拒否した。
26日午前0時に、日本軍が国民党軍に発砲を行なったため、両軍は戦端を開いた。
明け方になり、日本軍機が国民党軍に爆撃を加えた。
更に午前7時には天津から日本軍の増援が到着し、国民党軍兵舎は壊滅した。
午前10時、国民党軍は廊坊付近から撤退した。
~~~~~~~~~~
事実と事実を繋ぎあわせ、まったくデタラメな情報に仕立て上げる。
それが古来、Chinaでは、あたりまえの常識です。
事前に幾重にもちゃんと断りをいれていたのに「駅を占拠した」。
ちゃんと了解をとって通信施設修理を行ったのに「撤退を要求した」。
実際には午前11時10分にChina国民東軍側から一方的に発砲しているのに、「午前0時に日本軍がChinaに発砲した」。
これは迫撃砲まで撃ち込んできたので、やむなく防戦を開始した時間です。
そして最後は「撤退した」とはおそれいる。
6000対100の戦いですら壊滅させることができず、日本の援軍が到着したら、蜘蛛の子を散らすように、逃げ出したのです。
撤退など、よく言えたものです。
勇気をもって戦ったのは、果たしてどちらでしょうか。
そもそも、通信施設の故障自体、最初から意図して仕組んだChineseの罠だったのではないか。
そしてその「撤退した」China国民党兵が、その3日後に通州で何をしたのか。
事実と虚飾をまぜこぜにして、プロパガンタをまき散らすのは、Chinaや共産主義者、あるいは左翼の常套手段です。
客観的かつ冷静に、事態を把握すれば、どうにも言い逃れができないほど、彼らの振る舞いは不埒なものです。
それを、いかにも正当にみせかけてみせる。
状況のわからない者は、みんなそれに騙される。
なるほど日本人にとって公式発表というのは、基本的に「事実を述べるもの」であり、不実があとで判明すれば、当然に発表者はその責任を負うものという基本認識があります。
それもそのはずです。
江戸時代、施政者である武家は、公式発表に不実があれば、切腹して責任をとったのです。
ですから、お上の公式発表というのは、まさに「命をかけた発表」だった。
そういう伝統があるから、日本人は、お上の言うことを、頭ごなしに信じる性向があります。
ところがChinaでは、公式発表というのは、常に「プロパガンタ」です。
民衆を煽動し、騙し、情報を操作するためのまやかしです。
その目的のためにこそ、公式発表というものはある。
元や明、あるいは清王朝の昔から、Chineseにとって「事実」とは、実際にあった出来事を意味しません。
将軍が戦いに「負けた」と報告すれば、その将軍は、北京に残した妻や子、親族にいたるまで、見せしめのために極めて残酷な方法で殺されたのです。
ですからChinaでは、伝統的に、報告や公式発表では、絶対に「負け」は認めないし、勝ったら勝ったで、まさに白髭三千丈で、数十万の並みいる敵をわずかな軍勢で蹴散らし大勝利を得た、となる。
それがChinaという国の、国柄です。
ちなみにChinaの冊封国(属国)であった朝鮮半島でも、その傾向は顕著で、Koreanにとっては、報告や発表は、常にこうあってほしいという「ファンタジー」でしかない。
言い換えれば、China、南北朝鮮にとって、「歴史」は伝統的に「真実である必要はない」ものなのです。
「そうありたい、そうあってほしかった」という願望が「歴史」なのであって、勝ってしまえば、征服してしまえば、実際にあった真実など、いくらでもねつ造し、変造し、偽造できる。
それが彼らにとっての「歴史」なのだ、ということです。
要するに、客観的事実を重視する日本人とは、考え方が違う。
早い話が、China事変というのは、日本という世界で認められた国家と、当時、清王朝が倒れて無政府状態にあったChinaにおける国民党という軍閥との間で行なわれた戦闘です。
当時、同じくChinaで八路軍と呼ばれていた毛沢東率いるChina共産党軍は、ただChinaの辺境部を逃げ回っていただけで、正式な日本軍との戦闘など、一度も行なわれていない。
その日本軍は、当時あった国際連盟の盟約によって、そもそもが多国籍軍の一員として治安維持のためにChinaに駐屯していただけの存在です。
けれど、いまあるChina共産党政府は、「横暴な」日本軍と戦い、Chinese民を「解放」した「勇気ある」兵士たちによって建国された国家というデタラメが立国の基礎となっている。
韓国も同様で、そもそも大東亜戦争当時は、韓国一帯は、九州、四国と同様、日本の一部だったわけで、日本は終戦となり、国際条約に従って韓国から撤退したに他なりません。
日本は、韓国軍と一度たりとも干戈をを交えたことはない。
そもそも韓国という国自体、金日成率いる北朝鮮に攻められて、場当たり的に建国された国です。
にも関わらず、いまの韓国政府は、日本と戦い、Koreanを奴隷的支配から解放した政府ということになっている。
繰り返しになりますが、Chinaも朝鮮も韓国も、彼らにとって、真実は一切関係ないのです。
勝てば官軍、奪った者勝ち。
それが彼らにとっての正義であり、真実である、ということです。
その意味で、私達日本人は、これまで彼の国との付き合い方を、大きく間違えていた、といえようかと私は思います。
正しい歴史、真実の歴史がわかれば、きっと目を覚ますに違いない。
真実の前には、嘘は通用しない。
そう考えるのは、あくまでも日本人の常識であり、日本人にしか通用しない、日本人のものの考え方であるということです。
China、朝鮮は、力で屈服させ、何世代にもわたって、真実の大切さを教え込まなければ、彼らは永遠に真実など、理解しない。
なぜなら、彼らにとっては、歴史は建前とファンタジーでしかないからです。
そういうChina、朝鮮を隣に持ち、一方で、領海内に、今後1000年を賄う豊富な資源を有することが判明したという日本です。
私達は、守るべきものは、力づくでも護り抜く。
その決意と覚悟をもたなければ、私達自身が、嘘と虚構に支配されてしまうということです。

↑ ↑
応援クリックありがとうございます。
励みになります。
ねずさんのひとりごとメールマガジン有料版
最初の一ヶ月間無料でご購読いただけます。
↓クリックするとお申し込みページに飛びます↓

日心会メールマガジン(無料版)
↓クリックするとお申し込みページに飛びます↓


