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ご来光富士山

昨今の東日本大震災、福島原発の事故を受けての半原発派の動きは、まことにかしましいものがありますが、不思議でならないのは、反原発は仮に良いとしても、では代替エネルギーをどうするのか、という議論が、彼ら反原発派にはまったくないことです。


節電を呼びかける。
これはいいことです。
けれど、消費者が少々の節電に協力したとしても、我が国産業に必要な電力はまったくもって補うことができません。
太陽光発電を普及させる。
現実問題として、身近な工場(食品であれ鉄鋼であれ印刷であれ)で使用している電力を、その工場の屋根に設置した太陽光パネルだけで補えるかと考えれば、余程の馬鹿でも「不可能」であることは容易にわかることです。
火力発電があるじゃないか。
その火力発電が、公害を引き起こす、CO2の排出量が多く、地球温暖化を招く、そもそも世界的な資源不足が懸念されている中で、重油を燃やす火力発電は非経済的であり、地球の自然を破壊すると反対していたのは、いま反原発を唱えている左翼です。
水力発電を充実すべし。
その水力発電のためのダム建設に反対していたのも、やはりいま原発に反対している左翼でした。
いったい、左翼・反原発派は、何をもとめているのでしょう。
ウクライナにあるチェルノブイリは、原発事故のあと、原発の稼働が全面的に停止しました。
ところがそのためにウクライナの経済はめちゃめちゃになりました。
ウクライナといえば、農業が中心の地域として有名ですが、農業そのものは土が相手の仕事でも、その加工には電力を使うのです。
で、結果どうなったかというと、ウクライナは原発を再稼働させた。
要するに、多大な危険を伴う原子力発電には様々な問題があるとしても、それを全部いきなり停止しろ、施設を破棄しろという議論自体が、無謀で非現実的なのです。
原子力に代わる代替エネルギーは、各種提唱されています。
しかし、それらはまだ実用化の段階まで至っていません。
ならば、出来る限り原発の安全性を確保して稼働を続けることで豊富で安価な電力を当面は安定的に供給し、これと平行して世界最先端の代替エネルギーの研究開発を促進、同時に日本近海に眠る豊富な天然ガス(メタンハイドレード)の開発に着手すること。
これがもっとも現実的な選択であり、他の選択は、冷静に考えるならばまったく「あり得ない」はずです。
さらにいえば、原発は危険だというけれど、今回破損した福島原発は、米国製で、40年も昔の施設です。
東日本大震災では、同じく東北にある国産原発の女川原発は、福島原発と同様に地震と津波による被害に遭っていますが、まったく異常を出していません。
日本の技術たるや、まさにおそるべし、なのです。
にもかかわらず、左翼は、どこから資金を得ているのかしらないけれど、反原発デモへの参加者には日当1万円を支払い(ひとり1万円です。1万人が集まったら、それだけで一回のデモに1億円がかかります。そんな資金が一体どこから出ているのか)、さらに日本の原発技術者達に対しては、韓国が年棒5千万円でヘッドハンティングしています。
しかも日本の左翼は、韓国に次々建設されている原発に関しては、まったく反対の声明を出していない。
そもそも、福島原発の破損事故で、あれだけの大騒ぎをしていながら、死者は1名も出ていません。
一名も、です。
また、千葉県や東京都、果ては静岡県にまで放射能が拡散して云々と大騒ぎをしていますが、では、それによる死者やけが人、あるいは病人が出たのかというと、これまた、誰ひとり出ていない。
もっというと、原発の中では、施設が古く、しかも米国製という福島原発に関しては、原発事故の前からテロによる爆破行為がウワサされていました。
実際、爆破事故発生の際の映像を丹念に見ると、爆風が中から外へではなく、外から中に起こった形跡さえも指摘されています。
実際のところはよくわかりませんが、もしかするとテロであった可能性すら、否定できないのです。
であるとしたら、これは恐ろしいことです。
ならば、現実的選択としては、当面の原発再稼働にあたっては、本来なら日本は軍隊を派遣して施設の完全警備を行なわなければならない。
いずれにせよ、もういい加減、どこかの国の火病のようなヒステリックな原発反対には、いい加減終止符を打ってもらいたいものです。
さて、こうした資源エネルギーの問題というものは、いつの時代においても、たいへんな時間とコストのかかるものです。
しかも将来の利権や、立場立場の思いなどが重なりあって、なかなか簡単にはコトが運ばない。
いまの時代は、原発を含めて、資源と言えば電力であり、石油などがすぐにイメージされますが、一昔前までは、資源問題といえば、主として石炭がこれにあたるものでした。
さらに時代をさかのぼって江戸時代にまで行くと、治水事業そのものが、農本主義であった日本における最大の資源エネルギー問題でした。
洪水等の災害から人々を守り、かつ、用水をひくことで人々の生活を豊かにする。
けれど治水事業というものは、莫大な時間とコスト、多くの作業員の確保、人間関係など、さまざまな困難を乗り越えて、はじめて成功が約束される事業です。
いま、全国に流れる河川は、ほぼすべて、江戸時代に水路や堤防が築かれ、また用水が引かれてできたものです。
大きな河川には、立派な堤防が何キロも続いて構築されています。
小さな河川でも、そこにはちゃんと堤防が築かれ、水害を防ぎ、用水による取水ができるように工夫されています。
それらのほぼすべてが、まだ大型重機などがなかった江戸の昔に、ほぼすべて人力によって構築された。
そのことに思いを寄せるとき、日本人の凄味というか、偉大さをあらためて思い知らされる気がします。
けれど、こうした事業は、決して成功ばかりではなかったし、成功させた人でも、必ずしも恵まれた生涯を送れたわけではなかったのです。
たとえば、水戸藩に、松波勘十郎(まつなみかんじゅうろう)という人物がいます。
生まれた年は不明です。
もともとは美濃国厚見郡鶉村(現在の岐阜県岐阜市鶉)の出身の浪人者で、経済の才能に優れ、大美濃国や、高岡藩、大多喜藩、郡山藩、三次藩などの財政改革を成功させた来歴持つ人です。
勘十郎は、黄門様で有名な水戸光圀公が隠居したあと、水戸藩主となった徳川綱條(とくがわつなえだ)に乞われて、水戸藩の財政再建に招かれます。
彼は、倹約令や経費節減、人員削減、不必要な組織の改廃などを行ない、さらには商業の活性化を図り、さらに物流の活性化のために、涸沼側茨城町海老沢から巴川側鉾田までの約7キロの大運河の建造工事を手がけまたのです。
運河が完成すれば、水戸藩は物資輸送を大幅に短縮化することができ、新鮮な野菜等を、当時日本最大(もしかすると世界最大)の消費都市であった江戸に運び入れることができるようになり、水戸藩の財政は一気に潤うことになります。
運河の建造工事は、宝永4(1707)年に開始されました。
ところが、財政の専門家といえ、土木工事や、そのための測量は、専門外です。
彼の行なった運河の掘削工事は、必ずしも合理的に工事が進んだとはいえず、そのために大量の農民に無理な使役の負担をかけ、さらには、そのために藩費を大量に注ぎ込むことになってしまいます。
結果、何が起こったかというと、水戸の農民3,000人が江戸に出て一揆を起こすという事件が起こるのです。
農民一揆というと、何やら農民たちが暴動を起こし、商店や武家屋敷を襲い、打ち壊しや強盗を働いた、というイメージが、最近の学校教育やテレビなどでさかんに垂れ流されています。
はっきり申し上げて、それらは全部、ウソです。
なるほど、打ち壊しまで発生した一揆は、ごく一部にかなり小規模なものとしてあるにはあったけれど、江戸時代を通じて幾度となく繰り返された農民一揆というものは、いまで言ったら、街宣デモと同じものです。
昨今では、保守の皆様も日の丸の旗を手にして「民主党はゆるさないぞー!」「フジテレビは反日をやめろー!」などと抗議活動のデモを頻繁に行なっていますが、江戸時代でいうと、まさにこれこそが、一揆なのです。
江戸時代の農民一揆というものは、いまの街宣デモの日の丸を「ムシロ旗」に置き換えて、人数が終結して行進した。
これとまったくおなじものです。
ただ、水戸藩というのは、徳川幕府にとっては、徳川家の親戚筋にあたる藩です。
幕府の威信=徳川家の威信であった時代において、水戸の農民たちが、江戸表まで出てきて一揆(街宣デモ)を行なったということは、このことは水戸徳川家の家名に泥を塗る、水戸徳川家の権威に水をさす振る舞いでもあります。
当然、水戸家として何らかの処分をしなければならない。
このとき農民たちが行なった街宣デモ(一揆)の要求事項は、運河工事の総責任者である勘十郎の罷免と、年貢の減税です。
そして水戸藩が下した処分は、
(1) 勘十郎の罷免と投獄
(2) 年貢の減税実施
(3) 運河工事の停止
というものでした。
水戸藩としては、治安と秩序の維持のため、農民たちの要求がエスカレートする前に、彼らの要求を丸呑みする、という措置を行なったのです。
これにより、松波勘十郎は投獄され、正徳元(1711)年に、彼は二人の子とともに獄死しています。
ただ、藩主の徳川綱條(つなえだ)は、勘十郎の死を多いに悼み、彼が工事し、工事途中で放棄された運河(堀)は、そのままに残しています。
いま、茨城県茨城町から鉾田市にかけて、涸沼と巴川を結んでいる運河がそれで、この運河はいまも「勘十郎堀」と呼ばれています。
松波勘十郎が江戸初期から中期にかけての人なら、もうひとり、船橋随庵(ふなばしずいあん)は、江戸後期の人です。
随庵は、寛政7(1795)年の生まれで、明治5(1872)年に逝去した人です。
彼は、関宿藩(いまの千葉県野田市関宿町)で150石取りの武家で、藩の家老職にまで至った人です。
関宿というところは、利根川と江戸川が分岐するところにある藩です。
もともと関東平野では利根川が、大雨の度に反乱し(あまりにも暴れるので、坂東太郎とまで呼ばれた)ていました。
徳川幕府は、東京湾に流れ込む利根川の水を、新たな堤防を築いて千葉県銚子沖に新たな水路を設けて(これが現在の利根川になっています)そちらに放流させ、新たに利根川から人工河川である江戸川を分岐させて、これを江戸市中にまで引き込んで江戸の水を確保するという大事業を行なっていたのです。
この大事業によって生まれたのが、利根川と江戸川の分岐河川で(どちらもいま一級河川です)、その分岐しているところで河川の管理を行なったのが、関宿藩だったのです。
(関宿藩出身の有名人としては、大東亜戦争を終結に導いた鈴木貫太郎がいます)
ところが、もともと、どこまで川で、どこから陸地かわからない沼地だったところを、無理矢理開墾して利根川と江戸川にした土地です。
藩内は、大雨が降る度に、川があふれ、水害は農作物を腐敗させ、さらに藩の経済を常に脅かし続けていたのです。
いまでもこの関宿町には、「水塚」というものが数多く残されています。
これは縦横15メートルほどの地所に高さ4メートルくらの土を盛り、その上に小さな小屋を建ててるもので、要するに大水が出たときに、そこに避難する。貴重品類は日頃からそこに保管しておくための小屋です。
こんな水塚が、関宿町内だけでもいまでも数百カ所残されている。
つまり、大水が出る度に、3〜4メートルが水没したということなのです。

水塚
水塚

ちなみに狭いエリア内に数百カ所残されているということは、江戸の昔はほぼ一家にひとつの割合でこの見ず塚があったということです。
もうひとつ言うと、江戸川の河川地帯である埼玉県越谷市には下間久里、上間久里という町名が今でも残っているけれど、これは大水が出たとき、着物の裾をひざまでまくったので「しもまくり」、モモまでまくったあたりが「かみまくり」という町名になったものです。
関宿になると、膝やモモどころか、家そのものが水没する惨状が繰り返されていたわけです。
こうした悪水をなくすため、船橋随庵が考案したのが、水をどでかい堤防を造って水害が発生するのを防ぐのではなく(この方法だとものすごく費用がかかる)、むしろ堤防を超えて浸水した水を、新たな水路を構築して、そちらに流す、つまり、水の通り道を確保することで、冠水による被害を軽減する、という方法でした。
彼は、藩の事業としてこの「悪水落堀」の大水路工事の実施に取り組み、藩内の農民たちとも繰り返し語り合って、この堀割の実現への協力を求めます。
そうして嘉永3(1850)年に完成したのが、「関宿落」、別名を「随庵堀」と呼ばれる用水路で、この堀は、関宿城下から筵打新田(現在の茨城県坂東市)にかけての大用水路となって、いまも、完成当時の姿のままで、この辺り一帯を水害から守っています。
随庵堀の完成は、それまでただの水腐地だった土地を、美しい田に変えました。
さらに随庵は、水害の心配から解放された長須沼、境町蓮沼、浅間沼、鵠戸沼などの沼地を干拓して、これを新田とし、新たに生まれた新田を、付近の農民たちに「平等に」分配しています。
ところが、です。
この「平等な分配」が、藩内の重臣からの不興を買います。
藩の努力によって開墾したのだから、その権利は藩にあり、農民たちにくれてやる必要はない、というのです。
そして船橋随庵は、受託収賄による農民たちへの不正な新田分配の咎で、老中職を解かれ、さらに牢屋に入れられてしまいます。
けれど、いくら取り調べをしても、不正などどこにもない。
証拠のカケラさえもでてこない。
あたりまえです。
随庵は、貧しい農民から、ビタ一文もらっていない。
結局彼は、無罪であるとして、出獄し、職に復帰します。
そしてこのときに起こったのが、ペリーによる黒船来航でした。
随庵は、ペリーの来航を受けて世の乱れを予測し、関宿藩に農兵による義勇兵を結成します。
義勇兵たちは、浪士などによる武力による威嚇や収奪を防ぐために、藩内の施設や田畑、民家等の警備にあたります。
これは高杉晋作が奇兵隊を発足するより、何年も前のことです。
こうした努力によって、関宿藩は戊辰戦争による被害にもほとんど遭わずに、幕末から明治維新を迎えるのですが、もともとが代々徳川家の旗本が知行する藩です。
明治新政府により、関宿藩は解体となり、随庵は職を失います。
さらに愛する妻は、過労のために先立ち、跡継ぎの息子は徳川幕府派として戊辰の戦争で行方知れずとなってしまう。
武門の家に生まれながら、藩が解体となると、俸禄もなくなり、彼は、極貧生活の中で、明治5年、78歳の生涯を閉じています。
水戸藩の松波勘十郎にしても、関宿藩の船橋随庵にしても、生涯を民衆のために、また藩のために捧げながら、必ずしも晩年は「恵まれた人生」とはなっていません。
いやむしろ、勘十郎は咎人となり、随庵は何もかも失い、食べるにもことかく極貧生活の中でお亡くなりになっています。
しかし彼らは、ほんとうに「恵まれない晩年」を過ごしたといえるのでしょうか。
なるほど人の一生を、「社会的経済的に恵まれた晩年を過ごすこと」に価値を置くなら、両名の生涯は失敗の人生ということができます。
けれど、人の一生を「何かのために尽くすこと」、あるいは「自らの魂を民衆の幸福のために捧げること」に価値を見いだすなら、そのために捧げきった人生というものは、このうえもなく幸福で価値ある人生であったといえるのではないでしょうか。
日本には「死して名を残す」という概念があります。
人の生涯が、生きている今生だけのものでなく、輪廻転生して永遠の魂の浄化を求める人生、つまり(こういうことはあまり詳しくないのですが)、生死を超えた魂の連続性の中で価値ある人生を生きようとするならば、そのために奉仕し抜いた人生にこそ価値があるのであり、社会的経済的成功など、その価値の前にはなんら意味をなさないという概念です。
今日は、靖国のみたままつりですが、死して英霊となられたみなさまんは、まさにそのために若い人生を散らせました。
そこに人としての最も大きな価値を見出したからなのだろうと思います。
そして彼らのおかげで、私達日本人は、戦後70年近くも戦争のない先進国という平和で豊かな時代を過ごすことができました。
松波勘十郎も、船橋随庵も、二人とも、人生の最後がどうあれ、民衆のために、そして藩のために誠意をもって人生を捧げ抜いた、という意味において、まさに「我が人生に悔いなし」という誇りを胸にお亡くなりになったといえます。
なぜ誇りを胸に抱けれたかといえば、彼らは日本人であり、日本人としての価値観を濃厚に持った方々であったからだということができます。
戦時中、私達日本人は、世界から人種差別をなくし、有色人種(カラード)であっても豊かな繁栄を築くことができる世界を築くという大義のために戦いました。
自分自身や個人には、なんの見返りがないどころか、苦しい戦いの連続でありながら、見事、その生涯を全うされました。
戦後の復興を担った私達日本人は、まったくの焼け野原という貧窮のどん底から、わずかな期間で衣食住に困らない日本を築き上げ、私達に豊かな日本を残してくれました。
では、いまを生きる私達日本人には何が求められているのかと言えば、おそらくはその答えは、昭和天皇の終戦の詔勅にみてとることができようかと思います。
昭和天皇は、次のように述べられました。
昭和20年8月15日のことです。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
国をあげて、各家庭でも子孫に語り伝え、神国日本の不滅を信じ、任務は重く道は遠いということを思い、
持てる力のすべてを未来への建設に傾け、
道義を重んじて、志操を堅固に保ち、
誓って国体の精髄と美質を発揮し、
世界の進む道におくれを取らぬよう心がけよ。
汝ら臣民、以上のことを朕が意志として体せよ。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ハード面の戦後復興は終わりました。
明治以降の日本がずっと悩まされ続けてきた資源の問題も、日本近海に世界最大級の豊富な資源が見つかることで、どうやら問題が解決しそうなところまできました。
そして私達が次に行なわなければならないのは、「道義を重んじて、志操を堅固に保ち、誓って国体の精髄と美質を発揮」することです。
これはつまり、ひとことでいうならば、「日本の精神文化を取り戻し、発揮せよ」ということです。
そのことを、私達は、もういちど未来の日本のために考えてみる必要があるのではないかと思います。
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