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タイム誌が報じた事件

今日のテーマは、戦後の日本が「常識」としてきたことは、実はとんでもない錯覚でしかない、ということです。
私達はその錯覚をあたかも「常識」であるかのように刷り込まれてきた。
東野圭吾の小説に、「さまよう刃」というものがあります。
映画化もされた小説なので、お読みになられた方も多いかと思います。
この小説は、娘を強姦のうえ殺害された父親が、犯人に対して復讐するのは是か非かということをテーマとした小説でした。


小説の中で、父親は、グループの少年の家で、嫌がる娘さんがありとあらゆる恥ずかしめを受け、暴行されたときの模様を撮影したビデオを観てしまう。
これは死にまさる屈辱であり、怒りです。
そして父親は、犯人グループの少年たちへの復讐を誓う。
けれど、復讐をし、加害者を殺害すれば殺人罪です。未遂でも殺人未遂です。
復讐阻止のために、刑事たちは父親を探しまわる。
父親の復讐は成就せず、犯人の少年たちは、軽い罪に終わる、というあらすじです。
この小説がテーマとしたのは、法と正義というものと、子を愛する父親の情念と、この世でいったい何が大切なのだろうかというテーマです。
基本にあるのは、どんな理由があれ、復讐はいけないことだという戦後日本の常識と、それだけでは決して納得できない親として、あるいは人としての怒り、あるいは情の問題です。
私達戦後教育を受けて育った現代日本人は、こうしたケースにおいても、やはり多くの人が、「報復や復讐は、たとえそれが道義的に理解に足るものであったとしても、いけないことである」、「殺人は殺人であり、暴力は暴力である。それはいかなる理由があれ、してはならない、やってはならないことである」ということが一般的社会通念になっています。
復讐や暴力は「野蛮な行為」であり、法治国家では、それは決して許されない。
それが戦後日本人の常識となっています。
けれど、本当にそうなのでしょうか。
それでいいのでしょうか。
加害者は警察によってその人権が守られ、被害者は、ただただ泣き寝入りしなければならない。
実の娘に乱暴をされ、しかも殺害までされて、それでもなお「暴力はいけない」「復讐はイケナイ」ということは、本当に社会の正義といえるものなのか。
いったい何が正義で、何が正しいことなのか。
戦後教育を受けた私達現代日本人にとっては、これは「たいへんに難しい問題」となっているのではないかと思います。
おそらく、この問題について議論を始めたら、賛否両論せめぎあって答えを出すことができない。
それが戦後日本なのであろうと思います。
けれど本当にそうなのでしょうか。
それは、悩むべき問題なのでしょうか。
娘を陵辱され、殺害までされて、それでも泣き寝入りをすることが社会正義なのでしょうか。
そもそも、これは、そんなに「むつかしい」問題なのでしょうか。
実は、先般、米国のTIME誌が、実際に米国内で起きた事件を題材として、極めて単純明快に、この問題について答えを出しています。
http://healthland.time.com/2012/06/20/why-a-texas-dad-who-killed-his-daughters-alleged-rapist-wont-face-charges/
紹介されている事件は、テキサス州の牧場の馬小屋で、性的暴行を受けそうになった娘をたすけるために、父親が素手で加害者の男性を撲殺した、というものです。
この事件について、米国の大陪審は、父親を完全無罪としました。
さらに父親は、一切の罪に問われない、と判決しています。
TIME誌は、「子どもは自分を守れない。もしこの事件において父親が犯罪を犯したとするならば、多くの父親が子どもを守るために刑務所に行く」と、判決内容を全面的に支持している。
さらに読者の声として、
「ディズニーランドの生涯パスポートをお父さんに与えるべき」
「完全に賛成、当然だ」などを紹介しています。
さらに経済専門誌フォーブスさえも、
「自分の5歳の娘が襲われてたら、犯人を殺すほどの力はないかもしれないですけど、飛びかかって犯人の目玉を頭からえぐりとろうとするのは間違いない」という記事を掲載しています。
日本でこの手の話題に必ず出てくる「犯人の人権が」などという声はどこにもないし、加害者の「そんなつもりじゃなかった」などという言い訳もありません。
徹頭徹尾、一貫して「加害者が悪い」です。
ですから、父親の行為は正当です。
けだし、当然のことと思います。
加害者の「事情」など関係ないのです。
問題は、「被害者がどう感じたか」なのです。
この事件で、加害者の男性は、その娘さんを「殺害」さえしていないし、性的暴行も、未遂に終わっています。
それでも加害者の男性を、父親は爆殺しているのです。
昨今、日本でも、主として在日朝鮮人、在日韓国人による、冷酷無残な連続強姦や女性への性的虐待が、数多く行なわれています。
先日には、フィリピンに留学していた日本人女性が、韓国人男性に酒をのまされた挙げ句、強姦され、処女を奪われた挙げ句、肛門まで犯され患部に裂傷を負わされたという事件もありました。
さらには韓流ドラマに触発されて韓国に旅行した女性が、現地の韓国人男性に強姦されるなどという事件も、数限りなく起こっています。
ある事件では、宿泊ホテルのオーナーが、日本人女性を毎回強姦していて、100種類を超える性具まで用意していた常習犯だったという報道もありました。
いずれも日本のメディアでは一切報道されず、現地の新聞から日本語訳したものが、ネット上で拡散されたものです。
こうした事件が頻繁に起こってさえ、あいも変わらず、日本では、常に被害者が泣き寝入り。
日本国内で起こった事件なら、加害者は手厚く保護され、刑務所で三食昼寝付きの生活を味わい、無料で完璧な医療を施されて身体の健康を回復し、刑期の半分以下の年月で仮出所した挙げ句、今度は通名を取り替えて、再び強姦が繰り返されているありさまです。
それでも、被害に遭っていない多くの日本人は、被害者のことは他人事であり、自分がとりあえず無事ならばそれでいい、といった軽い気持ちでいるし、警察も裁判所も、行政も、教育も、「殺人犯を殺害すれば殺人犯」であり、身内や友人等による報復や復讐は、罪悪であるという思考から抜け出ていません。
それは日本の文化からきているものなのでしょうか。
いいえ、違います。
戦前までの日本社会の思考は、現代の米国と同じです。
「加害者がどう思っていたか」ではなく、常に「被害者がどう感じているのか」を優先し、「正義のために復讐や仇討ちをすることは正義」であるという概念が、一般的社会通念だったのです。
たとえば、日本三大仇討ち物語というものがあります。
(1) 赤穂浪士物語
(2) 曽我兄弟物語
(3) 伊賀越え物語
の3つです。
いずれも、主君や親の敵討ちをする物語です。
なかでも「曽我兄弟の物語」は、江戸時代から人形浄瑠璃や歌舞伎、神楽、義太夫、村芝居の定番だったもので、子供でも知っている日本の常識の物語です。
◇曽我物語
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-601.html
さらに、もっとわかりやすいものとしては、猿蟹合戦、桃太郎の鬼退治、金太郎、一寸法師、スサノオのミコトの八岐大蛇退治など、悪いことをする者に対して報復し復讐するのが、あたりまえの常識だったし、身内や近親者にそれができないなら、身近な者が、当事者に代わって成敗を行なうというのは、まさに世の常識でもあったわけです。
こうした概念が根底にあるから、たとえば学校でイジメっ子がいれば、クラスの正義感の強い子が、立ち上がり、そうしたいじめっ子と大げんかしたし、そもそも弱い者イジメをすることは良くないというのが常識だったのです。
そうした意識が日本人の根底に社会的共通認識としてああったからこそ、たとえば南方の島々においても、何千人もの日本人の若い独身男性が軍人として赴任していながら、ひとりも日本人との混血児が産まれていない。
こんなことは、世界史的にみれば、まさに驚愕の歴史、驚異の奇跡とさえいえることです。
ところが、昨今の日本では、猿蟹合戦や桃太郎はおろか、曽我兄弟の物語など、誰も知らない。
伊賀越え物語となると、知っている人の方がむしろ少ない。
ここまで日本人が、きわめて特殊な考え・・つまり、加害者の人権が優先され、被害者や被害者の遺族がどのように感じるかは関係ないとする考え方・・・にとりつかれるようになった背景としては、ひとつには、戦後のGHQによる徹底したウォーギルドインフォメーションプログラムによる、日本人への洗脳工作があるでしょう。
米国は、日本人が米国に対して報復や復讐をしないよう、それこそ「復讐の意図をもって」日本人を徹底的に骨抜きにする体制をひきました。
また、こうしたGHQの下請け機関として設立された日教組や、まともな思考をする社員や管理職を全員公職追放し、左翼やGHQへの追従者ばかりにされた大手メディアなどが、復讐=悪であるという概念を、日本人に戦後67年間、ずっと毎日刷り込み続けたという背景もあるでしょう。
先日、大津市の13歳の男の子が、いじめによって命を奪われるという事件がありました。
もしこの事件が、日本以外の国、たとえば、米国やフランス、英国などで起こったのなら、いじめの加害者や、それを放置した教師、学校、市教委らは、全員、巨額の賠償金を支払わせられることになったでしょうし、いじめた子供達は、もしかしたら、自殺した児童の親族によって撲殺されたかもしれない。
私達戦後世代は、若い頃、「常識は疑ってかかれ」と教わりました。
古くからのしきたりや、伝統や文化は、人間に不条理を押し付けるものであり、その多くは自由を束縛するものでしなかない。
我々は自由になったのだから、古い着物は脱ぎ捨てて、あたらしい着物を着よう、というのが、いわば常識だった。
けれど、いま思うに、それらはすべて日本解体のためのトラップにすぎず、当時の日本人の若者たちは、まんまとそれに騙され、踊らされていただけだったのではないか、と思うのです。
伝統というものは、人が人として生きるために、さまざまな制約や制限を人に課します。
ひとりひとりが、その制限を守るから、住み良い社会ができあがる。
そして、人道に反した振る舞いをする者に対しては、敢然と立ち向かい、非道をただす。
それが、あたりまえの人としての生き方なのではないかと思うのです。
オウム事件のとき、マインドコントロールという言葉が流行りましたが、あのオウムに破防法さえも適用できなかった日本という国家自体が、戦後シンドロームというマインドコントロールに埋没している。
そのマインドコントロールから、一日も早く目を覚ますこと。
それが、新たな日本を築く土台となると、私は確信しています。
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